エピローグ ウールスソープ1665
9月の空に鰯雲が見える。庭先で寝転がるアイザック・ニュートンはぼんやりと空を眺めていた。8月に学士号を取得したばかりの彼は、ペスト禍による大学閉鎖のあおりを受けて、ウールスソープにある実家に戻っていたのだ。
彼は宇宙を動かす大いなる力について考えていた。神は如何に宇宙を創られたのか? それを解き明かす使命は自分にあると。
そのような大それた考えに至ったのは、前年に出会った、エイレナエウス・フィラレテスの書物に由るところが大きい。
エイレナエウス・フィラレテス、又の名をジョージ・スターキー。彼がイギリス科学界に残した功績、それは錬金術の知識を用いた優れた技術とその実践にあった。未だアリストテレス的世界観に依拠した大学教育の中心だった時代に於いて、全てのモノに神が宿るという錬金術の考え方、その大いなる力を解明し、神の御業のように物質を変化させよう、即ち神に自らが近付こうという危険を孕んだ思想は、忽ちのうちに当代の自然哲学者たちを魅了したのも無理はない。
錬金術に出会うまで、ニュートンは不安の中に生きていた。未熟児だったことや、3歳で母親が出て行った事、ペスト禍の時代に生き、死と隣り合わせだった事など、彼にとっての世界とは不安と恐怖に満ち溢れたものだった。
そんな中、万物の有様を解き明かし、神のように自在に操る事を目的とした錬金術、その思想に出会った事で彼の中で変化が起きた。
万物を数学的メカニズムに於いて証明できるなら、天と地全ての事象が説明可能になる。この世に不確かなものなど何もなくなるのだ。スターキーの書物に出会った彼は、そのために神に選ばれし賢者は自分だと思うようになったのだ。
そして、この束の間の休息で、彼は後世に残る数々の発見をするだろう。それによって、歴史に名を遺す偉大な科学者として知られるようになるだろう。だがしかし、彼の不安は消えることは無いだろう。
何故なら、錬金術の栄華は短かった。錬金術の勃興に恐れをなしたキリスト教会は、メルセンヌを中心とした科学的スコラ学を持って対抗したのだ。
霊的存在や物に神が宿るといった錬金術の思想と、神は天界に存在する崇高な存在だというスコラ学との対立の中、教会側はモノの中にある神は見ることが出来ない、物事は目で見て確認できる事象のみが事実だという科学実証主義を打ち立てたのだ。
1654年、イギリスにこの思想が紹介され、それまで錬金術に心酔していたボイルを中心としたハートリップ・サークルの面々も錬金術から距離を置くようになった。投獄中のスターキーが救いの手が無かったのはこのためだろう。
また、失意の中、スターキーはペストで死ぬ。ニュートンが実家に戻っていたちょうど1665年に。
ゆえに、ニュートンは、数々の発見が錬金術を基にしている事を隠さなければいけなくなった。背教者の誹りを受ける恐れが、彼の新たな不安の種になるのだ。
しかし、世界の謎を解き明かそうという欲望は、決して彼の中で無くならないだろう。死ぬまで全精力を注ぎ込むことだろう。
だが、1665年。彼は束の間の幸福の中で思索を続ける。いつの間にか眠りについた彼の頭に固いものが当り目を覚ます。
「りんご……」
手に取るニュートンが、この時、万有引力を閃いたのか? 本当のところは誰もわからない。
最後の錬金術師 めがねびより @meganebiyori
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