祇園祭のコンチキチ 番外編 草鞋を履いた地蔵と一つだけの願い

森出雲

祇園祭のコンチキチ 番外編 草鞋を履いた地蔵と一つだけの願い

 京都嵐山の南松尾大社のさらに南に華厳寺がある。江戸時代の中期、華厳宗の再興のために鳳潭上人(ほうたんしょうにん)によって開かれた禅寺である。一年を通して鈴虫の音色を聴くことができるため、別名「鈴虫寺」とも呼ばれている。


 翔子と祐二は、結婚した翌年からこの寺を訪れ、今年で五年目になる。ある年は、雪が降る冬であり、またある年は、紅葉の輝く秋であった。

 日傘を差した翔子は、大島の薄手の紬(つむぎ)に結い上げた髪で、祐二に寄り添いながら山門につながる石段を登る。


「翔子、もうちょっとゆっくり歩こか?」

「ううん、大丈夫。けど、祐ちゃん手を引いてくれはる?」


 祐二は立ち止まり、一段下の翔子に手を差し出した。日傘に隠れた陰から、翔子はふふっと笑い、白く細い指の手を祐二の手に合わせる。

 石段を登りきると、山門脇に「わらじを履いた地蔵」がある。

 右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持っている。普通、地蔵や仏はみな裸足であり、履物を履いた地蔵は恐らくこの地蔵しかいない。


 翔子は、地蔵の前で屈むと持って来た墓前花を祐二から受け取り、それを供える。そして、両手を合わせしばらくの間、祈る。

 初夏の緑の香りがそよ風に乗って翔子を包む。祐二は、翔子の後ろで一面に広がる京都の町並みを見ていた。

 翔子はゆっくりと立ち上がると振り向いて祐二に微笑む。


「おおきに、祐ちゃん」

「うん、けど何でこのお地蔵さんやないとあかんねん?」

「ないしょどす?」


 翔子は、またふふっと微笑んだ。

 傾き始めた初夏の太陽に、翔子は日傘を畳んだまま石段を降りる。祐二に手を引かれ、一段一段石段を降りる。華厳寺を出た時には、もう辺りは薄暗くなっていた。


 華厳寺から南へまっすぐに道を進むと苔寺として有名な西芳寺がある。その脇に松尾山麗から流れ桂川に注ぐ西芳寺川がある。自然のままに残されたこの川の水は澄み、沢ガニやアマゴなどの生き物が住む。


「祐ちゃん? あのお地蔵様、何て呼ばれているか知ってはる?」

「地蔵に名前があるんか?」

「うん、幸福地蔵菩薩って言うんやて」

「そうか、翔子は幸せになるためにお祈りしてるんやな」

「違うえ?」

「幸せになるためと違うんか?」

「うん」

「ほな、何でや?」

「そやから、ないしょやて言うてます?」

「ケチやな翔子は」

「祐ちゃんこそ、あほや」

「俺があほてか?」


 二人は微笑みながら、西芳寺の横を歩く。バスターミナルの近くにある駐車場のそばで、翔子は突然立ち止まった。


「祐ちゃん、あれ!」

 翔子が指さす方は、松尾山麗の山中につながる西芳寺川添いの道。

「どうしたんや?」

 翔子は祐二の手を引いて、小股で走り出した。

「どうしたんや、翔子!」

「ええから、ないしょ教えてあげるし」


 暗くなった静かな細い道が続く。西芳寺の南門を過ぎると翔子は西芳寺川沿いで立ち止まった。


「祐ちゃん、あのお地蔵様は、一つだけ願いを聞いてくれはるん」

「一つだけ?」

「ほら、あそこ見て!」


 祐二は、翔子の指さす川の中を見た。僅かな灯りも差し込まない川面を、ゆらゆらと小さな明かりが動く。


「翔子?」


 祐二と翔子は再び手を繋いだまま走りだす。

 民家がとぎれ人工の明かりが届かなくなった所、二人は小さな橋の上で立ち止まった。木々に覆われ、静かにそのせせらぎを奏でる西芳寺川。そして、一面を埋め尽くすように飛ぶ『蛍』。


「祐ちゃん、うち、志乃さんの分も幸せにならなあかんの。けど、お地蔵様にお願いしてるんは、幸せにしてくださいやないんえ? わざわざ霊になって、祐ちゃんとうちを巡り合わせてくれた志乃さんにお礼が言いたいだけ。出来るなら、今、幸せでいる翔子を志乃さんにお伝えくださいって、お願いしてるん」


「そうか、翔子は優しいな」


 西芳寺川の川面を、埋め尽くすほどに舞い飛ぶ蛍。

 翔子と祐二は寄り添いながら見つめていた。



「祇園祭のコンチキチ」

番外編 草鞋を履いた地蔵と一つだけの願い


                          終わり


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

祇園祭のコンチキチ 番外編 草鞋を履いた地蔵と一つだけの願い 森出雲 @yuzuki_kurage

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ