二話

恋の邪魔者たる森田は大学においての嫌われ者である。


うら若き青春にとって恋はつきもの。小中高を経て心も体も大人へと成長する過程において、誰かを好きになるという経験を少なからずの人数が経験しているものだろう。


そして大学生ともなると、心の成熟はさておき身体面においては大人と然程変わらない。とすれば、同年代の男女が集い交わる場の象徴たる大学では、あちらこちらに恋の華が咲いているものである。


しかし恋人がいる者もいれば、いない者もいるのが世の定め。とりわけ恋人を作りたくても作れない者——あるいは絶望的にモテない者——にとって、毎日通う定めにある場所が純真な学び舎ではなく肉欲爛れた出会いの場と化していれば、面白い訳がない。


そういった非モテ連中に目をつけたのが妖怪森田だ。


森田は学内の恋人達を疎ましく思っている人間に近づいては彼らの願いを聞き出す。やれ「あの二人が憎い」だの、やれ「リア充の爆破を遂行したい」だの、要するに愛し合う二人を別れさせろというものばかり。


願いを聞き出した森田はささやかな報酬——大抵の場合は学食一回分程度の現金——と引き換えに目標のを実行する。


皆様は何故森田がそんなことを請け負うのか疑問に思うだろうが、繰り返しお伝えすると奴は妖怪なのだ。恐らく奴は人の不幸を食べて生きる存在であり、何より人の不幸が好きなのだろう。そういう男なのだ。


別れさせを請け負った森田の手口は悪逆非道そのものであった。


単純に恋人を別れさせると言ってもやり方はいくつかある。世に存在する別れさせ屋の手法をとってみても、片割れの浮気の証拠を抑え二人の関係を悪化させるか、直接ターゲットに近づいて良い関係を構築し、新たな恋人となって片方との関係を終わらせるなど、大きな括りであれば、この二つ。


だが忘れてはならないが、森田は顔の作り以外は不気味という言葉そのものなのだ。


これは私の想像ではあるが、恐らく初期の森田は己の見た目をすっかり忘れ、直接目標の女性と仲良くなろうと近づこうとし、幾度も念仏を聞かされた挙句に左の頬ばかりを打たれてきたことだろう。


そこで奴は間接的に別れさせる方法を取る。


仲睦まじい二人を徹頭徹尾調査して、綻びを見つける。大抵の場合は自分の欲求に素直な男の弱みを見つけ証拠を掴み、何らかの手段を用いて女に証拠を見せるのだ。その逆も然りであるが、さすれば後は推して知るべしだ。


時には相思相愛、他者の介入の余地もなく、数年後には結婚式場にいること請け合いな場合もある。しかしそんな二人相手にこそ、妖怪森田の本領は発揮された。


奴は写真片手に目標をつけ狙う。そしてたまたま、偶然異性と二人きりになった途端にシャッターを切る。もちろん隠し撮りである。


そうしてなるべくなら恋人以外の中で、頻繁に顔を合わす人と一緒にいるところの写真を撮影する。それこそ何枚もだ。そうして事実でなくとも二人の間に疑念を生み出すに十分なを作り出す。早い話が捏造である。


浮気調査と証拠の捏造の手腕に関して森田の技量は学生離れをしていた。森田の歪んだビジネスはある一定層の需要を満たし、学内では悲しい結末を迎えたカップルが死屍累々と言った有様で増えていく。不幸が増えると森田は輝き、その妖怪ぷりを増していく。


だが、森田のビジネスが軌道に乗り、学内のカップルのおよそ半数を駆逐した辺りで問題が発生する。元恋人達が自らの別れの原因を疑い始めたからだ。


そもそも半数はありもしない浮気のでっち上げによって破局した者達ばかりだ。彼らは不可解かつ理不尽な別れの原因が、近頃校内で名を馳せる一年の妖怪森田であることを突き止めると、あっという間に妖怪を吊し上げた。


自らの破局が捏造と知った者達は次々と復縁。また、本当の浮気が原因で消滅したカップルでさえ、あれは森田の犯行であるとすることでよりを戻す者達さえもいた。


これにより学内のカップルの数は徐々にだが元に戻り、平和もついでに戻った。森田や森田を頼った陰気臭い連中は学内での立場(元からそんなものあったか疑わしいが)を失い、地下へと潜った。


私と森田が出会ったのもその頃だ。


私は当時、学生演劇サークルに所属し芝居を学んでいた。


別段芝居に興味があった訳ではないが、その演劇サークルが学内で一番飲み会の多いサークルだと聞いた私は入学早々迷わず入部したのだ。


と言うのも、高校を卒業したばかりの私は酒を飲み、講義をサボって友達の部屋で麻雀を打つ姿こそが大学生の正しい姿であると信じて疑わず、故に飲み会の多さこそが意義ある大学生活であると信じていたからだ。


それは憧れにも近いものであったが、新歓コンパで自らの肝臓の脆弱さを知るや否や、憧れの大学生活の夢は崩れ、飲み会の度にビール一杯で酔っ払った姿を揶揄われる屈辱の日々がやってきた。


何? 飲み会など行かなければいいと?


もちろんその通りであるが、そうもいかないのが学生である。とりわけサークルの付き合いというものは厄介以外の何者でもない。


ましてや私の入った演劇サークル「まろにえーる」においては、飲み会の誘いどころか退部すらも許されなかった。逃げ出そうとも考えたが、サークルの部長が私と同じ学部であったことからそれも叶わない。逃げ場のない中、飲み会も苦痛。サークル活動は熱心さを強要され、身も心もすり減っていった。演劇など興味もないのに!


だが唯一良かった事があるとするならば、それは二年の学園祭における公演で、私は物語の演出上、サークルの部長の頬をビンタする機会を得た。


当時サークルの部長はしょうもない男である。彼は部長の座に居続けるために一年留年し五年生になっていた。留年してまでその座に座る彼はまさに暴君で、一年生の時分であった私は何度も「かの邪智暴虐の王を除かなければならぬ」と決意したものだが、卒業と共に去りぬ身ならば耐えて見せようぞと、女神のような慈悲の心で唇を噛み締めていた。


ところがどっこい、二年になっても彼が消えぬものだから、私は堪忍袋の緒に切り込みをいれておき、復讐の機会を伺った。


そして時が来た。長い時間をかけ、入念と怨念込めた根回しにより、私はついに彼をビンタする機会を得たのだ。


無論演技だ。本当にビンタする必要はない。私が手を振り下ろせば、彼のヘタクソな演技と共に安っぽいSEが鳴る予定だ。稽古ではそうだった。


だが本番こそが復讐の時。私は事前に音響係にSEは要らぬと告げた。それを告げた時の音響係の顔と来たらそれは嬉しそうな顔をしたのを見るに、部長は多方面に恨みを買っているらしい。


私はメロスだ。彼を討つ。


役こそ違えど心境は同じ。私にセリヌンティウスはいないが、奴にも衛兵はいない。


大勢の観客が見守る中、スポットライトの下で私は演じた。舞台は恙無く進行し、件のシーンになると私は実行した。


手を大きく振り上げて、彼の頬に向かって振り下ろす。


手のひらから伝わる肉の感触は、私に目標を確実に捉えたことを教えてくれた。勢い任せにぶつけた彼は顔を横に向けながら衝撃によろめく。SEなんか目ではない生々しい音が講堂一杯に響き渡ると、私は遂にやったと感動した。


感動したが、やはり相手は憎き男。一度殴っただけでは収まりがつかない気持ちがある。


だから私は何度もビンタをかました。右に左に頬を打ち、気が済むまで何度も殴った。


私が落ち着く頃には部長の顔は天狗の如く腫れ上がり、それは目も当てられぬ程になっていた。


一応言っておくが、私は暴力を好まない。ラブアンドピースが私のモットーである。これはあくまで演技であり、演技の上に私の感情が重なってこうなっただけだ。


彼には反撃する資格がある。少々過剰なアドリブをしたのは他ならぬ私であるのだから。元より退部は覚悟の上——と言うか願ったり叶ったり——、彼が過剰なアドリブで仕返しをしてもどうせ力では敵わない。後は野となれ山となれ。だから私はパンパンの顔をじっと見続け反応を待った。


だが部長はと言うと、腫れた顔の奥深くに潜む細長い目を恍惚に輝かせていた。


「もっとくれ! もっとだ! 俺は目覚めた!」


何に目覚めたのかは知らないし、知ってもどうせ気持ち悪い思いをするに違いないので知らないふりをする。


だが彼は、心血注ぎ熱を以て接してきた舞台を放棄し、自らの性癖を満たすことへの協力を私に要請してきたのだ。


殴っていいなら殴らせて頂く。私自身も吐き出し足りない気持ちもあったし、何より憎い男本人からお許しが出たのならば、遠慮する道理もない。


よって私は彼を叩くことを続行し、舞台は中断。公開SMプレイに早変わりした講堂に響き渡るのは部長の「あひん、あひん」と言った声ばかり。実行委員が止めに入るまでのおよそ10分間、客席はざわめき続けた。


この一件以降、舞台を台無しにした部長は求心力を失い遂に卒業か? と思われたが、いやはや長らく続いた強権政治は一度の失態では崩れることもなく、むしろ狂犬政治へと変貌する。


彼は加虐と被虐の応酬の内に新たなる前衛芸術としての可能性を見出したらしく、サークルの方向性をも歪めていった。


それまではごく一般的な演劇を披露するに留まっていたまろにえーるであるが、学園祭公演以降のサークルは怪奇路線を突き進む。


舞台の演出に必ず誰か(主に部長)を殴る蹴ると言った場面が登場するようになり、稽古場では部長の悲鳴と絶頂ばかりがこだまする異様な現場と成り果てた。


一年留年の最年長がただ喘ぐばかりのサークルと落ちぶれれば、退部不可という鉄の掟も見事に破られまた一人、また一人と去っていく。これは私にとって良い流れだった。乗るしかない、このビッグウェーブに。


だが乗り遅れた。と言うより逃げ遅れた。色々な意味で世話になった部長に対し私は、三行半みくだりはんを突きつけて部室を後にしようとしたのだが、「お前がいなくなったらこのサークルは終わってしまう!」と部長に足にしがみつかれ泣き叫ばれては堪らない。サークルはもう死んでいることに気がついていないのだろうか。


しまいには鬱陶しく足蹴にしても喜ぶ始末。最早何をしても快楽を得てしまう変態部長の前になす術もなく、私はサークルへ残留する運びとなった。


部長と私、二人きりの演劇サークルが出来ることは何か考えて欲しい。


普通であれば二人芝居が妥当であるが、相手は被虐趣味の変態である。部長はサークル活動と称しては私を呼び出し、ただひたすらに己を殴らせ続けた。世も末である。私にとっては今まで以上の地獄とも言える。


こうして私は日々部長を痛めつける生活が始まったのだが、無論こうした変態の噂というものは徐々に広まっていくものだ。


ある日を境に、どうにもパッとしないような男達とたまに女がまろにえーるの部室を訪ねるようになった。


彼らは皆一様に疲れたような、絶望したような暗い表情をしており、私が部長を痛めつける姿を見るなり、自分も同じようにしてくれと懇願した。懇願された以上は望みを叶えてやるのが慈悲というものだし、私は彼らの希望通りにしてやった。


するとどうだろう。彼らは私によって痛い思いをした。人間に痛覚が備わっているのは体の危険を察知するためである。ならばもう二度と同じ経験をしないと学習し、生存確率を高めてきたからこそ、人類は今日まで種の存続を成し遂げてきた。


にも関わらず、彼らは部室で得た痛覚を、どういう原理か快楽物質に変換する能力を獲得していた。私に痛みを覚えさせられた者の大半が、またこの部室に通うようになる。痛みに蕩けた被虐ジャンキーと化して。


こうして演劇サークル「まろにえーる」は、SMサークル「まろにえーる」として新たに活動を再開することになる。


噂は噂を呼び、学内に潜む被虐趣味者達は次々とサークルに入部した。その数はおびただしいとも表現できるほどで、私はそのほとんどをしばき続けた。


結果としてまろにえーるは学内随一の規模を誇るサークルにまで成長したが、私は人間としての尊厳を失っていた。


ただ人を殴るマシーンとなった私はただ事務的に頬にビンタをお見舞いした。そうして時間が過ぎるのを待つのみであったが、少しでもいい加減に手を振るうものなら「愛が足りない」といちゃもんをつけられる。


そもそも愛など込めていないのだから足りないもないもないだろうから、私は代わりに憎しみを込めて引っ叩いてやると、彼らは悶絶し喜んだ。何故だか私の愛を感じるらしい。


そうして日々我が身をすり減らし、心身共に限界を迎えつつあった私の元に、ある日突然一人の男、もとい一匹の妖怪が現れた。


そう、森田である。


森田は一人学食で昼ごはんを食べている私の向かい側の席に勝手に座ると、「へっへっへ」と不気味な笑みを浮かべて私をジロジロと眺め始めた。


その様子があまりに気持ち悪く、そしてまた彼が羽織るカビの生えたようなダークブラウンのコートの死体に恐れをなし、私は天を仰いだ。


そうして念仏を三回唱えてから彼の頬に一撃叩き込んだのは、条件反射だ。身の危険を感じた生存本能であると言ってもいい。悪霊退散、妖怪退治!


だが妖怪は、殴られた頬を摩りながらそれでも笑っていた。此奴も被虐趣味者かと恐れ慄いた私に、妖怪はこう話しかけた。


「噂通りの良い一撃ですね先輩。こりゃ大勢が道を踏み外すのもよく分かる。先輩みたいな綺麗なお顔の持ち主に叩かれれば、男は勿論、女だってあなたの虜になってしまう。これは才能だ」


「いらん才能だ。欲しけりゃくれてやる。そのコートを捨てて新しいものを紳士服屋で買ってこい。さすれば君にも出来るだろう」


「そうしたいのは山々なんですがねぇ。こいつは僕のトレードマークみたいなもんなんです。シャーロックホームズには鹿撃ち帽、ポアロには口髭、そして僕にはこのロングコート。大衆に迎合するために自分を変えるのはポリシーに反します。それに、その才能はあなただけのものだ」


そう一息に言い終えると、妖怪は私が食べている食事が並ぶトレーから飲みかけの水を持ち上げると、一気にそれを飲み干した。


「何をする。私のお冷だ。今すぐ返せ」


「あいや失敬。返したいのは山々ですが、これから先輩に話す内容が内容だけに、些か緊張しておりまして、喉がカラカラ乾くのです。へっへっへ」


ならば先に自分の水を持ってくればいいではないかと言いたいが、言えぬのだ。件の「へっへっへ」は皆様の想像する10倍は気持ちが悪いのだ。


故に私は妖怪が空になったグラスをトレーの元の位置に戻す暴挙を黙って見届けることしか出来ず、細やかな抵抗として、そのグラスをトレーの外に置き直した。


「それで私に何かようかい?」


「ええ勿論ですとも」


私の渾身のジョークは華麗に流された。恐らく妖怪には人間の笑いが理解出来ぬのであろう。私の気持ちをさておいて、妖怪は話を続ける。


「あなたには頬を打った相手を惚れさせることが出来る素晴らしい才能がある。それはまさに宿命の女ファムファタルと呼ぶにふさわしい」


「そんなけったいな名前はやめてくれ。それに惚れさせるというよりはドMに目覚めさせるだけにしか思えぬ」


「それに大した違いはないではありませんか。ともかく相手はあなた無しでは生きられぬ体になるのです。まろにえーるが良い例だ」


何故この妖怪は私を依存性の強い薬物のように言うのだろうか。


「ともかく先輩には人を狂わせる才能がある。そんな才能をあんなSMクラブで腐らせておくのは勿体ない。先輩もあのサークルにはうんざりしているんでしょう? 辞めたくても辞められないと。僕ならあなたをあそこから助け出すことが出来ます。それも立つ鳥の如く跡を濁さずに」


「それは本当だろうな」私は即座に聞き返す。


「造作もありません。ただし、今後しばらくは僕に協力して頂けるならば……ですが」


もしもだ。もし本当に今の地獄から抜け出せるならば悪魔にだって魂を取られてもいい。だが妖怪は御免だ。悪魔ならせいぜい地獄に落ちるだけで済むが、妖怪は魂をどう扱うか全く見当がつかない。しかしいずれにしても、話を聞いてみる価値はありそうだ。


「して、私は何をすればいい」


私の問いに妖怪は、それは嬉しそうな——私からすれば最低な——笑みを浮かべ、口から音を紡いだ。


「僕と一緒に、恋の邪魔者となって頂きたい」

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恋路天狗にご用心 江藤公房 @masakigochi

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