恋の邪魔者

一話

赤羽界隈の雑多な雰囲気を例えるならだろう。例えになってないという指摘はまったく無粋である。


赤羽を表す言葉は多くないが、何もない訳じゃない。


汚い、貧乏人の飲み屋街、マスコットキャラクターがコンドームに見える、そもそも赤羽って埼玉でしょ?


などがそうだ。最後の「埼玉でしょ?」というのは酷く心外であるが、それ以外については擁護しようもない事実であるし、そもそもどうだっていい。


東京の端っこにある飲み屋街……それこそ新小岩や北千住などもそうだが、赤羽を含めたこういう飲み屋街は街全体が場末の雰囲気を纏っている。


酒を嗜まない人にとっては小汚い街だが、酒飲みにとっても小汚い街である。


酒飲み連中だって、何も好き好んでその街で飲んでいるのではなく、家が近いとか職場が近いからそこで飲んでいるだけ。各地の飲み屋街なんてものは大方そんなものだろう。


私はあまり酒を好まない。まるで飲まない訳ではないが、大学入学早々に参加したサークルの新歓コンパで酷い目に遭わされて以来、酒は最低限付き合いに留めている。


しかし私は赤羽にいる。酒を飲みにいるのではない。家から大学へ通う時の最寄駅がたまたま赤羽であっただけで、そこにたむろするのがちょうど良いというだけである。


私は酒を飲まぬが珈琲が好きだ。ちょうどいいことに赤羽には多種多様な喫茶店が軒を連ねており、お気に入りのお店を見つけてからというもの、訳もなくその店に通い詰めている。私がちょうど大学三年生という絶妙に暇を持て余した学年にいるのも作用したと思われる。


さて、何故私がここまで赤羽について書いているかと言うと、この手記の主だった舞台が赤羽であるからだ。


飲み屋街には酔っ払いも多いが奇人変人の類いも多い。そしてそれは赤羽も例に漏れず、赤羽に一週間もいれば必ずそういう人に出会う。


私が知る変人を紹介するならば、まず真っ先に浮かぶのはリコーダーおじさんだ。


リコーダーおじさんは、不定期に赤羽に現れては主に駅東口にある大きめの噴水広場をリコーダーを吹きながら練り歩く変わったおじさんだ。


東口の広場には夜になると路上ミュージシャンが集って様々な楽曲を披露することが多く、笛を吹くくらいなら大して珍しくもないが、普通路上ライブといえばその場に留まり演奏するものだが、リコーダーおじさんは違う。から気になるのだ。


見た目は普通のおじさんであるが、リコーダーを吹きながら歩き回ってるのでやっぱり普通じゃない。


どこからともなく上手いのか下手なのか判別のつかないピーヒョロピーヒョロロという音が耳に入ってしまえば、むこう半日は耳にこびりついて離れないこと請け合いだ。


他にもハイセンス芸術家ホームレスや、テレビで見かける全身ピンクの二人組など変わった人達が多く出没する、それが赤羽であり、私が拠点にしている街である。


必要はないと思うが一応付け加えておくと、私はただのしがない大学生だ。変人ではない。美味しい珈琲とクマの置物をこよなく愛し、ただひたすらに勉学に励む学生だ。赤羽に頻繁に来ているからといって奇人変人扱いされるのは心外である。



「先輩は恋路天狗をご存知ですか?」


その名を聞いたのはその時が初めてであった。


その日私は大学の講義を全て消化すると、いつものように帰路に着いた。言わずもがな赤羽である。


かつては講義終わりといえば熱心にサークル活動に勤しんでいたものだが、いつの頃からか熱意が消え、胸に残るは空虚さのみとなった私は何をするでもなく赤羽を徘徊する毎日である。


赤羽は私の通う大学から少し離れているおかげか、大学の人間とあまり顔を合わせることがない。


かつての熱心なサークル活動の結果、学内では私に恨みを持つ者も少なくなく、そういった連中に出くわして嫌な思いをしなくて済むのが赤羽の利点だろうか。


しかしそれは私に会いたくない連中ならばいいが、逆にからしてみれば、都合の良いことこの上ない。私は大体赤羽にいるのだから。


赤羽には幾つか喫茶店があるが、私のお気に入りは駅から徒歩一分にある純喫茶、友路有トゥモローだ。


大して広くない店内に小さなテーブルとチェアを隙間なくぎゅうぎゅうに押し込んだ店内は狭く少し居心地が悪いが、珈琲の香り漂う空間に我が身をきゅっと窄めていると、やがて脳が我が家のリビングのような快適な空間だと錯覚するようになる。珈琲にはそういう作用があるに違いない。


私は珈琲が好きだが、味は大雑把にしか分からない。美味しいかまずいかくらいは判別出来るが、店主自慢のこだわりブレンドと言われても少し困る。友路有のコーヒーが美味しいことには変わりないのだが。


さても私は友路有の角の席、道路を挟んだ向かい側のパチスロ屋が窓から見える自分で決めた指定席で珈琲を嗜んでいたところ、そこに私を訪ねる者がやってきた。


その者は森田という名前の男で、私の通う学部の一年後輩に当たる。


森田は私から見ても整った顔立ちをしている。古風に言えばハンサムと呼べるのだが、顔以外の……更に詰めれば顔立ち以外の全ての点がどうしようもないのだ。


天然パーマか何かは知らないが常に寝起きのようなくしゃくしゃの頭、目はいつも赤く血走り、目の下にはマジックで落書きされたような隈を蓄えている。彼は好んでダークブラウンのロングコートを着ているが、コートの寿命は恐らく数年前に尽きている。「くたびれた」とか「ヨレヨレ」という表現を遥かに超えて、もはやコートの死体だ。コートの死体を夏でも冬でも構わず袖を通している彼は紛うことなき赤羽に相応しい男。変人である。


極め付けは、その天から与えられた唯一の顔を自傷するかの如き愚行。目を半開きにして口を片側だけ釣り上げ「へっへっへ」と怪しく笑みを零せば最後、顔が良ければ全て良しと豪語する肉食女子でさえ裸足で逃げ出す。


そんな男が自分を訪ねてやって来たら、普通は恐怖に怯えて天を仰ぎ、念仏を三回唱えてから男を殴り飛ばすだろう。無論初めて森田に出会った時は私もそうした。


しかし慣れとは恐ろしいもので、何がきっかけか(恐らくは初対面で殴り飛ばしたことが原因ではあるが)、彼と知り合い早一年、私達は互いを友と呼び合うまでに至っていた。


森田は優雅に珈琲を楽しむ私の座る席の向かい側、テーブルを挟んだ向こうに置かれた小さな丸椅子の上にちょこんと腰を下ろすと、私が一度口をつけたまま放置していたお冷を一気に飲み干した。


「何をする。私のお冷だ、今すぐに返せ」


私はすぐに抗議の声を上げるも、森田にお決まりの「へっへっへ」をお見舞いされてしまい、私の気力はそこで尽きた。


森田は妖怪である。勿論比喩表現ではあるが、私が彼を誰かに紹介する時に一言「此奴は妖怪である」と添えてやれば、十人中九人は真に受ける。残りの一人は間に受けた後に私もそうだと言い出す輩だ。


森田の妖怪ぶりを語るのには千の言葉を用いても足りないために割愛するが、私はこの男が苦手だ。


苦手であるが友であると語るのは、私と森田は一時の間共闘関係にあり、それは鬱屈とした学生生活をより暗く、より退屈にする劇薬のような日々であったが、今日こんにちに至るまでは悪くなかったと振り返ることも出来た。今日では悪かったとしか思えないが。


この男が私を訪ねてくる場合、必ず誰かと私が泣くはめになる。だから私は森田の来訪を喜んではいない。


「何用か。いや、用を聞くまい。店員さんが君に水を持って来る前にさっさと立ち去れ」


「へっへっへ。相変わらずの妙な喋り方ですね、先輩は。だからモテないんですよ」


嫌味な物言いにカチンと来た私は、水を携えてやって来た店員さんが森田の前に水を置く寸ででひったくり、一口一気に喉へ流し込んだ。


「何を言うのか。勘違いするな私はモテるのだ」


「そうでしょう、そうでしょう。いや、そうでなくちゃ困るのです」


話半分聞いているのかいないのか、森田はへえへえと私に相槌を打ちながら、図々しくもブレンドをオーダーしていた。


「君にここの珈琲の味が分かるものか。お子様は大人しくクリームソーダでも飲んでいろ」


「お子様なのにしくとは中々無茶をいいますね。それに、先輩こそ味なんて分からないでしょうに。砂糖を五杯も入れるのは、珈琲の神に対する冒涜に他なりません」


私はここぞとばかりに不敵に笑った。


「妖怪が神を語るとは! 言わせてもらえば外国では砂糖を沢山入れるのは常識なのだ。それにかのタレーランも言っている。珈琲とは"それは悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い"ものであると。つまり珈琲の甘さとは、恋の甘さなのだ」


私の演説の最中運ばれてきた森田の珈琲に、で砂糖を入れてやった。人の心を知らぬ妖怪に恋の味を教えてやらねばと。


「砂糖5杯分の恋は甘すぎですね。……うへぇ、やっぱりダメだ。飲めたものじゃない」


妖怪森田の嫌いなもの。それは人の恋路と甘いもの。砂糖五杯の恋の味は妖怪には効果的面だ。


「流石はショートケーキをツマミにビールを飲む人だ。あんたも十分妖怪じゃないか」


「妖怪で結構。砂糖が私を強くする。嫌いなビールだって飲めるのだ」


「あんたって人は……」


と言いながら森田はちびちびと珈琲を啜っている。自分で頼んだ手前勿体ないのかなんだかは知らないが、これは想定外である。私は速やかにご退場願いたいのだが、甘々珈琲一つでは嫌がらせになれど、お祓いにはならぬということか。


「さて本題に入りますが、僕が今日来たのは先輩に依頼があるからです」


「お断りだ」


間髪入れずに私は返事をした。いや、確かにすぐ返事をしたが、髪が入る隙間はあった。本当なら森田が「さ」と発した途端に遮ろうかとも考えたが、もしや今日は純粋に私との友情を深めに来たのではと期待し、言葉が一区切り着くまで待ってやったのだが、期待とは常々人を裏切るものである。


「まだ何も言っていないでしょう」森田は私を見据え抗議するも、別段腹を立てている様子でもない。そう言うとでも思ってたと言わんばかりの余裕の、そして大層不気味な笑みを浮かべていた。


「君はまだ何も言っていないだろうが、私は常々言っている。もう足を洗ったのだ。君の悪事を手伝うことは金輪際ないのだ」


人は時と共に成長する。それは老化とも呼ぶべき現象だろうが、未だ20代の歳とあってはやはり成長と呼べるだろう。


私は成長したのだ。今までの数えきれぬ悪事で得た経験は、私に遅すぎる目覚めを与えてくれた。


森田の依頼、森田と共に行動することが、私の輝かしい未来を奪うものであると。


何を隠そう森田こそ、恋の邪魔者であるのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る