サンゲツ記

総真海

サンゲツ記

 6ー2の××××(自重)は博覧強記、平成のある年、難関の私立中高一貫男子校受験合格者名簿に名を連ね、ついで有名私立大学に進学したが、性、内弁慶外地蔵、家で母親には威張り散らすが大学においては学友たちにまともに挨拶すらできない彼は次第にぼっちとなり、大学からも足が遠のいた。

 ときは就職氷河期、多くの学生が手堅く公務員試験を受ける中、卒業に必要最小限の単位だけは取りつつ、彼はひとり就職活動そっちのけで小説を書くことにいそしんだ。地味な地方公務員となったり、就きたくもない仕事に就きバブル期に就職して苦労を知らない上司に頭を下げたりするよりは、作家としての名を死後数百年に遺そうとしたのである。

 しかし、筆名は容易に文学賞の公募の一次通過者にもあがらず、父親が仕事を定年退職してからの年金と母親のパート収入に頼る生活は日を追って苦しくなる。彼はようやく焦燥を覚えた。

 この頃の彼の容貌といえば、めったに部屋から出ないためかぶくぶくと太り、もともと細い目は近眼が進んで度数の高い眼鏡をかけているせいでますます小さく見え、後退した生え際が膨満な顔をより大きなものと印象づけている有り様だった。自信満々の笑顔で小学校の卒業アルバムの写真に写っていたかつての紅顔の少年の面影は、もうどこにも求めようがない。

 数年の後、父親が脳梗塞で倒れ、介護のため母親はパートの仕事を辞めなければならなくなった。

 母親に懇願され、××××は母親が親戚中に頼み込んでやっと見つけてきた地元企業の事務職についた。かつて彼が下級国民として歯牙にもかけなかった小学校の同級生たちが、彼の上司となった。このことがいかに××××の自尊心を傷つけたかは、想像にかたくない。彼は悶々として社会人生活を楽しまず、母親だけに居丈高だった性格はますます峻厳となって老い始めた母を苦しめた。一年の後、無断欠勤をすると、そのままずるずると会社を辞めてしまった。その後彼がどうなったかを知る者はいなかった。

 翌年、IT会社社長として成功し、北米で暮らしていたAさんというひとが、久し振りに帰国し故郷の地へと帰ってきた。Aさんは地元の駅前の居酒屋で懐かしい小学校時代の友たちと酒を酌み交わしたが、酒は飲んでも飲まれるな、ほどよく酔ったところで切り上げ、旧友たちに別れを告げてタクシーに乗った。

 家へと向かう途中、用を足したくなったAさんはコンビニエンスストアの前でタクシーを降りた。手洗いを借りたあと、Aさんは水を買おうと店内を歩いた。飲料の棚の前に立っていたマスクをつけた男がAさんの顔をちらと見た。かと思うと、マスクの男はまるで逃げるようにして隣の菓子類の棚の方へ行ってしまった。「危なかったー。いや、マジ危なかったわ、リア充こえー」と棚の向こうから呟くのが聞こえた。

 Aさんは何が危なかったのか不思議に思ったが、ふと気づいて、

「その声は、もしかして、×××(自重)くん?」

 Aさんは××××と同じ小学校で同じ六年二組、友人の少ない××××にとっては、最も親しかった人物だった。母親同士の仲が良かったのもあるが、Aさんの明朗で柔和な性格が、陰鬱たる××××の言動をいちいち気にしなかったことが大きいだろう。中学からは二人は別々の学校に通ったが、Aさんは母親に言われてごくたまに××××の家に遊びに行ったりしていたのだった。

 棚の裏側からは、すぐには返事がなかった。Aさんがすみません、勘違いでしたと謝罪の言葉を口にしようとしたとき、覇気のない声が答えた。

「うん、そうだけど」

 Aさんはすぐさま棚の向こうへ行った。マスクの男は俯き加減で立っており、Aさんを見ると細い目を少し見開いたが、顔の下半分を覆い隠しているマスクのせいでその他に表情の変化があったかどうかは分からなかった。

 Aさんはそんな彼に伝えた。曰く、いま自分はアメリカで暮らしているが、今回日本に帰国することが決まってからいつかまたきみに会えるんじゃないかと楽しみに思っていた、そうしたら本当に会えた、とても嬉しいと。××××の暗い瞳に光がともった。

 後で考えればAさんが××××に会いたがっていたなどというのは咄嗟の思いつきだったのだが、その時のAさんは、未だ醒めぬ酔いのためかこの自分の言動の中にある虚偽を少しも気に止めなかった。実際はAさんが××××のことを思い出したのはこのコンビニに入って彼の声を聞いたからである。そういえばさきほど居酒屋で談笑しあった旧友たちとの間でも、彼の名の一字すら誰の口にも上って来なかった。

 二人はコンビニを出て、並んで歩いて帰った。道中、Aさんのいまの仕事の内容、自身で立ち上げた会社の社長であること、それに対する××××の賛辞、Aさんの家族つまりは妻子について、ほかの同級生たちの消息などがやり取りされた。その後、Aさんは××××の今の様子をたずねた。白いマスクの内からのくぐもった声は次のように明かした。

 一年くらい前に地元の建設会社の事務の仕事を辞めた、今は小説を書いて細々と収入を得て暮らしている、と。

 Aさんは驚き、かつ喜んで××××を讃えた、「それじゃ念願の作家としてデビューしたんだ、おめでとう」。

 Aさんは思い出していた。Aさんがこれ以前で最後に××××と会ったのは、大学四年の夏休みのことだった。まったく就職活動をしない××××を心配した母親が、Aさんの母親に、××××の書いている小説が本当に飯を食っていけるほどの質のあるものなのかAさんに確かめてほしいとお願いしてきたのだ。

 Aさんが××××の家へ行き彼の部屋に入ると、まず正面の掃出はきだし窓にかかったカーテンが目に飛び込んできた。昼間なのに分厚いカーテンを閉めきっていたのである。なぜ開けないのかと訊ねると、××××は眩しかったり外の音がうるさいと執筆に集中できないからだ、このカーテンは遮光、遮音、防炎等に優れたもので執筆環境を整えるために自分が金を出して買ったと答えた。

 Aさんは興味本位でカーテンをめくった。ついていたタグから有名メーカーのものだと分かった。

 これだけ熱を入れているのだ、さぞかし力作に違いない。しかしそう思いつつもAさんは、まず自分が書いたものを××××に差し出し講評をもらうことにした。Aさんに作家になる気などなかったが、こうすることで××××の方も警戒せずに彼の作品を見せてくれると思ったのである。渡したのは当時交際していた彼女と二人で笑い合いながら作り上げた短編の恋愛小説だった。

 ××××はなかなかよく出来ている、だがとても世俗的でいまいち情感が伝わってこないなどと感想を述べた。

 次に××××の小説をAさんが読んだ。それは悩み多き青年の身上と心情を切々と綴った私小説のようなものであった。なるほど、少年時代に博識と呼ばれ、学校の勉強に関する本だけでなく歴史的文学作品、近現代作家の有名著書などたくさんの書物を読んでいた××××の著した小説は、確かに作者の教養の高さ、文学的素地の厚さを感じさせるものだった。いや、感じさせるに留まらない、はっきりいえば鼻につくものであった。おれはこんな言葉も知っているんだと見せつけるためだけの文字の羅列、読者の方を向いていない独りよがり。

 この作品の中には女性との恋愛のエピソードもあったが、そのような場面になると、描写は急に陳腐でありきたりなものになった。これは読者に、きっと作者に恋愛経験が無く、すべて借りてきた表現であるからだろうと推理させるに充分な証拠となった。

 要するに彼の小説は、全体的に背伸びして格好つけただけの内容の少ないもの、だった。

 Aさんはこれは手に負えないと思い、きみの作品は素人がどうこう言っていいものじゃない、是非プロの作家に見てもらうべきだ、作家が講師を務める文章教室や文学講座に行った方がいいと伝えた。××××の顔は得意満面となった。

 Aさんは家に帰ると母親に向かって首を横に振って見せた。母親は深い溜め息をついたのだった。

「いや、デビューはまだなんだけど」

 ××××の言葉がAさんを現在に引き戻した。どういうことかと訊ねると、××××はスマホを取り出し、ある画面を見せた。

 それはインターネット上の小説投稿サイトであった。サイトの会員たちは小説を投稿したり、他の会員の小説を読んだりする。小説ページに広告を表示させる設定にすると、ページの閲覧実績に応じて報酬がもらえる仕組みであり、××××の作品は結構な回数読まれているので、それなりの金銭を受けとることができるのだという。

 IT関連会社社長であるAさんは興味を持って、××××の作品を少し読んでみたいと言った。二人は立ち止まった。

 ××××のペンネームは「とらたんたんっ@コンテスト参加中!」だった。

 とらたんたんっ(以下とら)は彼の代表作を指し示したが、Aさんはすぐにはそれが作品のタイトルであると理解できなかった。タイトルは五行にもなる長文であり、まるで簡単なあらすじのようだった。それによるとこの小説は主人公が異世界と呼ばれるファンタジー世界に転生して数多あまたの冒険をするという内容であるらしかった。

 このタイトル文には若い女性の身体的特徴を揶揄し、存在を弄ぶかのような言葉が使われており、二人の娘を持つ父親であるAさんは少し不快に思った。

 Aさんは小説本文を読む気が起きず、代わりに「おすすめレビュー」に目を通すことにした。この小説投稿サイトでは、会員たちは投稿された作品に評価をつけることができる。評価は星の数で表され、一つの作品に対し会員一人がつけられる星は最大三つ。星を一つでもつけると「おすすめレビュー」という感想を書き込むことができるようになるとのことだった。

 とらの代表作に星三つをつけたいくつかのレビューは、「王道ファンタジーだが、格調高い文体で他作品とは一線を画す」、「引き込まれる作品世界と文体、書籍化していないのが不思議」などとやたら文体という言葉を使って絶賛していた。

 タイトルからそのような印象を全く受けなかったAさんは心中にある疑念を生じ、顔を上げ、続きは家に帰ってからゆっくり読むことにするととらに告げた。二人は再び歩き出した。家に着くまでのあいだにとらは語った。

 おれはこれまで何度となく小説賞の公募に原稿を送ったが、一度も二次通過すらしたことがなかった。しかし受賞した作品を読んでみるとなぜこんなものが評価されたのかと首をひねってしまうものばかりだった。明らかにおれの作品の方が良い。きっと一次や二次の選考を任された下読みの連中はみな見る目がないか、おれの才能に嫉妬しているんだろうと思った。

 おれはくじけそうになったが、おのれを奮い立たせおれの書きたいものを書き続けた。本当に才能がある者は、必ずいつか世に出るもの、世の中の方が放っておかないと信じていたから。

 そんなおれの才を理解しない母親は、世間体を気にしておれにどんな仕事でもいいからとにかく職に就いてくれなどと言った。おれは母の浅見を嘆いたが、こんな愚かな女でも我が母親である、安心させてやるために就職した。ちょうどその頃、この小説投稿サイトが誕生した。おれは今までに書いたものを投稿した。

 始めの数ヶ月間はほとんど読まれなかった。このサイトを利用しているのは主に中高生で、彼らにはまだおれの作品を理解する読解力がなかったのだ。そのことに気づいたおれは彼らに人気の異世界転生ファンタジーだのラブコメだのを片っ端から読み漁り、その特徴をすぐに把握し、自分でも同じようなのを書いて投稿してみた。するとどうだ、すぐに星がたくさんついた。

 おれはようやくにして理解した。世間一般に認知されるためには、まずその一般人たちのレベルに合わせたものを提供してやらなければならないのだと。おれは心ならずもやつらの喜びそうな頭の悪い文章を書き続けた。

 おれのそんな苦しい心境も知らずに、読者の中にはありきたりだとか他の作品のパクりだとか中傷してくるやつが出てきた。

 何を言う、おまえらに合わせてやってるんじゃないか! おれだってこんなもの書きたくて書いているんじゃない。おれが本当に書きたいのはもっと高尚な内容で密度の高い文体の純文学だ。

 おれはやつらに決まってこう言い返してやった。「文句言うんだったらパクりでもありきたりでもないやつ書いてみてください。 それでおれよりも人気になってみてください。ま、ムリでしょうけど」。

 Aさんは黙り込んでいた。文体という言葉がとらの口から出たとき、Aさんの胸中に巣くっていた疑念が確信に変わった。おすすめレビューでとらの作品の文体が素晴らしいと絶賛していた読者は、とら自身なのだ、と。とらは複数のアカウントを作り、自分で自分の作品に高評価をつけていたのだ。

 それにしても自分が書いた小説を、なぜ「こんなもの」呼ばわりするのか。作者自身が愛情を持っていない作品など、いったい他の誰が愛せようか。また自身も創作者なのに、なぜ他の創作者たちや創作物に敬意を払えないのか。ファンタジーでも純文学でも、どんなジャンルでも、作品はそれぞれ一つの結晶である。同じ創作者として生み出し、磨き、形作り上げる大変さを知っているはずである。

 それから読者に対する考え。レベルを合わせてやるとは何だ。だいいち感想をくれているのは恐らく十代、二十代の若者たちだ。自分より一回り以上も年下の人々に対して侮蔑的な態度を取り、あまつさえ挑発するなど、而立じりつ三十を超えやがて不惑の四十を迎えんとする大人のすることではない。

 そう、小説を書く、読む。そこにあるのは作品世界を通しての作者と読者の繋がり、人と人とのやり取りだ。顔が見えない分、互いにより敬意を持って接するべきなのだ。それができないのなら、このようなサイトに投稿せず、日記のように一人で楽しめばよい。

 Aさんの様子を気にすることもなく、とらは続けた。

 いま見せた代表作はこのサイトの小説賞に応募している。受賞すれば書籍化される。近いうちにおれの本が本屋に並ぶと思うよ、そのときは買ってくれるよな? きみはおれの才能にいち早く気づいた人物だから。そうして名が売れたら、次は本当に書きたいものを世に出すつもりだ。ここまで実に長かったよ、だが自分の才能を信じ続けてよかった。我が孤高なる自己肯定感と豊潤なる創作力の勝利である!

 とらはマスクの下で笑ったようだった。

 書籍化はない、とAさんは心中で断言した。一流経営者であるAさんは、自分がサイトの担当者なら、顧客(読者)とトラブルを起こしかねない業者(作者)と契約(書籍化)しない、と思った。

 とらはとら自身の心もあの防音性、遮光性の高いカーテンの内に閉じ込めてしまっているのではないか。自分に都合の悪い意見に耳を塞ぎ、小説を通じての人との関わりから目を反らし。「孤高なる自己肯定感と豊潤なる創作力の勝利」? いいや、独善なる自己肯定感と狭隘きょうあいなる想像力による敗北だ。しかし本人がそれに気づくことはないのだろう。

 とらの家に着いた。別れ際、とらはAさんに次のことを頼んだ。曰く、投稿サイトに会員登録をして自分の小説に星とレビューをつけてくれないかと。Aさんは承諾し、最後に訊ねた。昔きみに文章教室に行くよう勧めたが、行ったのかと。

 とらは行こうとは思っていたがなかなか都合がつかなかった、だがおれはいまこうして作家として認められ始めている、だから別に行かなくてもよかったのだ、と言った。

 とらが玄関の扉の向こうに消えると、Aさんはさっそく自分のスマホを取り出して小説投稿サイトの会員登録をし、とらの作品に星を一つつけた。それが済むとさっさとスマホをしまい、深いため息とともにとらの家の二階を見上げた。ベランダのあるとらの部屋を見たのだった。

 ベランダの向こう、窓のカーテンがのそり揺れ動いた。その重ったるさから、かつてAさんがとらの部屋を訪れたときにかかっていたあの有名メーカーのカーテンと思われた。

 カーテンの隙間からとらがそっと顔を出した。とらはこちらに向かって二言三言呟いたが、Aさんはもう前に向き直って家路を行き出していて、二度とその姿を見なかった。

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サンゲツ記 総真海 @Ziming22

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