いじめはない、という考え方。

赤キトーカ

序文 いじめなんか、ない


 いじめなど、ないのだ。


 言ってしまえば、それだけのことになってしまう。

 いじめで苦しんでいる、そう思っている人がいるなら、それは何かの間違いだ。いじめはないのだから。


 挑発的な言葉だと思う。けれど事実なのだから、仕方がない。

 「問題」を解決するためには、まずそこから立ち返るしかない。


 ただし、すべてのことにそれが当てはまるかと言われればそんなこともない。小学校低学年や、幼稚園、保育園で起きている事象にそれを当てはめることは、難しいだろう。


 問題は解決したかといえば、それは全く別の話である。全国に何百万人の生徒が「それ」に苦しんでいるかと思うと、苦しい。「それ」により、年間何人が、何十人が、何百人が自殺に追い込まれ、殺害されているかと思うと。

 ただ、私は「それ」を、「いじめ」という言葉で呼ぶことはしたくはない。「いじめ」などないということは、そういう意味なのである。「いじめ」などという実態のない、生ぬるい、甘く優しい言葉で包むことなどしたくはない。「それ」は継続的で、重い刑事罰を受けるべき行為が多い。もちろんそうでないこともあるだろう。例えば、クラス全体で「無視」などは、法律で裁くことの難しい状況の典型だ。とはいえ、刑事事件にはできずとも、民事上の責任を問うことはできるだろう。

 いじめなど、ない。

 いじめという言葉を使ってはいけない。

 そこから初めていこうではないか。



 いじめという言葉は、実に恐ろしい言葉だ。

 かつて、学校に通っていたある少年が自殺したことがあった。葬式ごっこという言葉を聞いたことがある人も多いだろう。はなむけの言葉が書かれた色紙がつくられ、少年の机には 花瓶が常に置かれていたという。そして「生前」の言葉が綴られた色紙には、教師からの言葉も寄せられていたという。

 そんなものを贈られるような空間が存在すること自体、ぞっとする、という言葉さえ生ぬるい。戦慄である。そしてそこに「毎日」足を運ばなければいけない「義務」を背負わなければならないことは、絶望でしかなく、自殺することはまったく自然なことだと私は思う。逃げられない学校という日常。空間。完全に狂いきった空間。

 

 ここでひとつの疑問を呈したい。

 当該ケースは典型だが、このような自殺が起こると、どこからともなく舞い降りてくるのが「いじめだよ」「いじめはなかったよ」という争いである。

 自殺が発覚するとまず、即座に学校は「いじめはなかった」という発表が行われるのが「パターン」である。ここではこの流れをパターンと呼ぶ。「いじめはなかった」という発表。続いて「学年」ないし「学校全体」を対象としたアンケートが行われる。アンケートである。これはどうやら、学校が生徒に対し、「いじめ」があったかどうかを調査するという体で行われることが 慣例となっているようである。


それで結局「いじめの有無」が最大の争点として争われるわけである。


ここに最大の問題がある。

学校内で暴力や、金銭を奪い取るような事件が起きた場合、どこからともなく舞い降りてくるこの「いじめ」「いじめかそうでないか」という議論が、全く意味がないということだ。


学校内で生徒が、暴力を受ける。それは、それだけの話なのだ。暴行事件というだけの話なのだ。


例を挙げる。バス停でバスを待っていたとする。すると後ろに並んでいた男が、突如持っていたバッグで自分の頭を殴ったとする。この場合、犯罪だ。殴った男は、暴行罪、あるいは傷害罪として、すぐに逮捕されることになるだろう。


当たり前の話だ。


ところが、これは「バス停」だからの話で、この犯行現場が「学校」という場で行われると、なぜか「それがいじめかどうか」という段階が発生する。暴行をした者が罪に問われることも、相当の致命傷を負う者でない限り、ない。


つまり学校では、人を殴ろうが、暴力をもって金銭を巻き上げようが、犯罪にならない。学校とは、基本的に日本の法律が及ばない場所だ。日本の法律が適用されない場所なのである。


言い過ぎだろうか?言い過ぎであるならば、なぜ、年間何人、何十人の生徒たちが自殺するのか。犯罪が行われていたとしても、その行為は咎められることなく、周囲や学校もその事実を公にしようとしない。「死ぬまで」。


これは被害者生徒も同じことで、自分が暴力やいじめ行為を受けていたとしても、積極的に被害を訴えることは、少ない。


助けを求めることをはばかられる犯罪は、あるものだ。

強姦、今で言う強制性行罪などはその典型だ。自分から屈辱的な行為を受けたと公にすることは、はばかられるものだ。それは被害を訴えたとしても、加害者が確実に罰せられるとはいえないということや、基本的に密室や、人の目につかない場所で行われるため立証が困難であること。年齢にもよるが、親や親権者に心配を掛けたくないことなどがあるけれど、これらはどれも、いじめ行為のどれもに当てはまることだ。


よく、漫画、ドラマなどでこんな台詞を見かける。「ぼく、いじめられっ子なんだ・・・・・・」こんな台詞をはく生徒は、存在しない。こんな屈辱的な台詞を口にする生徒はいない。いたら教えていただきたい。「いじめを受けている」ということは、本人にとってこれ以上ない屈辱だ。



つくづく、学校とは恐ろしい場所である。

先も言ったように、基本的に、法律は通用しない。

通常、暴力が発生すれば、それは警察の管轄であって、加害者は容疑者となり(検察送致云々の問題はあるけれど)、捜査が行われることとなる。学校で、そんなことがあるだろうか。学校で殴られたと言って、蹴られたといって、お金を取られたといって、警察に通報することがあるだろうか。


ない。繰り返すが、なぜか、学校で起きたいじめ行為は、警察が関わらないからだ。警察が出てこないということは、極論すれば日本の法律が、一部だとしても適用されないということだ。


これは実体験だが、私自身、ひどい暴行、傷害や侮辱行為といった犯罪を受けているのに、 警察がどうして助けてくれないのか、ひどく絶望したものである。



さて、なぜ警察が介入しないかといえば、それは学校においては、実際上捜査権が、学校にあるからといえるだろう。

もちろん、実際の法律でそう定められているわけではない。しかし事件が起きた時、「いじめであるか、そうでないか」を判断するのは、警察ではない。学校であり、教育委員会ではないか。



さてここで改めて、不思議な慣例について考えてみたい。

学校内で暴力や侮辱行為が発生した時、捜査を行うのは、学校であり教師である。そしてそれは、「いじめかそうでないか」だ。


本当に考えなければいけないことは、この「いじめ」という言葉が、犯罪行為を吸収してしまい、「いじめ」という「何か」でくるんでしまい、最終的に、事件が起きた起きないをうやむやにして、なかったことにしてしまうことの危険かつ絶望的な現実だ。


学校という場所にはこの「いじめ」という魔物が、妖怪が棲んでいる。いや、現実的な話をしよう。誰かが発明した「いじめ」という謎の概念が、「いじめ」という言葉をクッションにして、普通であれば補導や逮捕されるべき事件を、消滅させているのである。


そしてその影で、何十人、何百人という生徒たちが闇に葬られている。 死んでいる。殺害されている。


これまでも、そして、これからも。


ただ、生徒と教師間においては、近年、少しずつ状況はよくなっているように思える。教師に暴力を振るった生徒が、警察に逮捕されたというニュースも、珍しくはなくなった。これは10年、20年前にはなかったことだ。


改めて主張しよう。


いじめなんかない。

あるのは、一つ一つの、一件一件の、事件なのだ。


それを「いじめ」という実態のない言葉でうやむやにするから解決できなくなったり、「いじめをなくす」だの、「カッコ悪い」だの、おかしな方向に話が向かってしまう。


俺は行政書士という法律家である。

学校だから、なんだ。

学校で殴られたら、加害者を警察に告訴していこうではないか。


そうしてひとつひとつを、坦々と、潰していくこと。

それこそが、彼らのいう「いじめ」をなくすことにつながるのではないか。


次回は、この事実をもとに、実際にいじめ被害に遭った時、法的にどう対処していけば良いのか、 あきらかにしていきたい。


なお、ここでは便宜上一部で「いじめ」という言葉を使うこともあったし、あるかもしれないが、便宜上の話である。



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