お姉さん、少年ジャンプは1000円もしません

桜田一門

本編

 俺の一週間は友情、努力、勝利から始まる。

 資格関連の講義を受けるために後期の毎週月曜日を友人のいない中野のキャンパスで過ごさなければいない俺にとって、唯一無二の戦友は少年ジャンプだった。

 電車に乗る前に駅前のコンビニで購入し、いつもぎりぎり一つだけ空いている席に腰を落ち着けて紙面を開く。大学の最寄りまでの二〇分間、友情と努力と勝利の世界に没頭する。

 そんな俺の熱血ルーティーンに突如としてその女性が現れたのは、十一月の末のことだった。

「ちょっといい?」

 突然頭上から声が降ってきた。誌面から顔をあげると、見知らぬ女性が俺が座るシートの前に立っていた。意志の強そうな鋭い眼差しをした、二十代後半くらいの茶髪のお姉さん。

「キミだよ、キミ。漫画雑誌の」

 そう言われてようやく俺は、彼女が自分に話しかけているのだと理解した。見上げた先、薄くて細い眉の下にで二つの眼が力強く俺を見つめ返してきた。

「な、なんすか」

 通勤電車の中で他人に声を掛けられるという状況に不慣れで、俺は思わず読んでいたジャンプを閉じて身構える。イチャモンでもつけられたらどうしようと不安になった。こちらとしては最低限の車内マナーは守っていたつもりだ。何か言われたら毅然と言い返そうと決意する。

 お姉さんは言った。

「それ、私に譲ってくれない?」

「それ?」

「それよ、それ。そのキミが今胸に抱えているモノ」

「胸に抱えているモノ?」

 胸に抱えているものなど一つしかない。俺の友人、少年ジャンプだ。

「もちろんタダでじゃなくて、お金は払うよ」

 お姉さんはそう言ってトートバッグの中から分厚い財布を出し、千円札を一枚抜き取った。

「千円出す」

「千円?」

 俺は危うく大声を上げそうになるのをどうにか自制する。

「足りないならもう千円」

「いや、いいっす。俺が読んだやつでよければ、どうぞ」

 通読はしていないが、毎週チェックしている作品だけはもう読んだ。あとは適当に流し読みするだけだったから、千円で売れるというならこれほどボロい商売もない。

 俺はジャンプを渡し、千円札を受け取った。

 お姉さんは礼を言ってジャンプを鞄の中にしまうとそのまま俺の正面で二駅ほど揺られ続け、ほかの乗客に呑み込まれつつ電車を降りていった。



「悪いけどまた譲ってくれない?」

 次の月曜日である。俺の前にまたしてもあの千円ジャンプお姉さんが現れた。パリッとしたオフィスカジュアルコーデに身を包み、焦茶色のセミロングの中にはクールでビューティーな表情を浮かべた頭が収まっている。

「はあ。千円ですか?」

「千円で」

 俺は約ネバ印のジャンプを渡し、お姉さんは英世印の千円札をくれた。

 そして二駅先で無言のお別れとなった。

 翌週もお姉さんは現れ、俺からジャンプを定価の約三倍で買っていった。

 その翌週も、そのまた翌週もお姉さんは現れた。

 最初は割のいいバイト程度に思っていたが、回数を重ねる事にだんだんと不安がこみ上げてくる。少年ジャンプはそこら辺のコンビニ行けば三百円で簡単に手に入るのだ。それをわざわざ千円で買い取っていくなど正気の沙汰とは思えない。何か裏があるのではないだろうか。しかし少年ジャンプを千円で買っていく裏がまるで想像出来ない。

 心配ならば交換を断ればいいじゃないかという向きもあろうが、今さらになって断れば、それはそれで何かまずいのではないかと思ってしまうのだ。

 だから俺はその次の週もジャンプを持って電車に乗り、千円札を持って電車を降りた。

 気付けばお姉さんと出会って一カ月が過ぎていた。



 その日は年内最後の授業日で、俺は半期を通じて仲良くなった中野のキャンパスの友人たちと授業終わりに小さな忘年会をした。

 会は思いのほか盛り上がり、解散したのは終電に間に合うかどうかという時間帯だった。JRの改札に引き取られていく友人たちを見送り、俺は一人メトロから帰路に着く。

 あまりに混雑していたので一本見送り、結局終電となった。金曜の夜だった。車内は熱気と酒臭さが充満し、十二月も終わりだというのに扇風機が回っていた。

 さすがに座ることは諦めてつり革に捕まる。席が空くのをうつらうつらしながら待っていると、俺は人口密度の下がった車内に彼女を見た。

 千円ジャンプのお姉さんがシートの端の席に座っていた。いつのまにか乗り込んできたのだろう。通勤用のトートバッグを大事そうに抱え、小さく船を漕いでいる。

 ついさっきまであった眠気が遠のいていき、俺は気がつけば乗客を掻き分けてお姉さんへと近付いていった。

 ぐっすり眠りにつく彼女は、いつもの雰囲気とは違っていた。ジャケットには皺がつき、焦茶色の前髪は疲れ切ったように額へ垂れ下がり、手に握られたスマートフォンはニュースサイトを開いたまま待ちぼうけを食らっている。

 なんとなくそのままお姉さんの前の吊革に掴まり続けた。

 思えば通勤時間以外でお姉さんに会うのはこれが初めてだった。俺は彼女がどんな仕事をしているのかを知らない。名前も知らないし、どんな家に住んでいてどんな家族がいてどんな生活をしているのかも知らない。そしてなぜ俺から少年ジャンプを買っていくのかも。一体彼女は何故、俺から少年ジャンプを買っていくのか。起こして問いただしてみたかった。

 やがて電車はお姉さんがいつも乗り込んでくる駅に到着した。しかし彼女は起きる気配をまったく見せず、髪を顔の前に垂らして船を漕ぎ続けていた。

「あの、起きた方がいいと思います、よ」

 俺はささやく。お姉さんは唇の隙間から「んぅ?」とだけ漏らしてまた夢の世界に戻っていく。この駅での客はあらかた降りきった。もう間もなく発車する。

「起きた方がいいですよ、最寄り駅ですよね?」

 俺はしかたなくお姉さんの肩を揺すった。

「んぁ!?……あ、キミ」

 お姉さんは落とし掛けたスマホを握り直しながら俺を見つめ、半覚醒状態の頭でここが自分の降りる駅だと悟ったらしい。慌ただしく立ち上がって扉の方へと走っていった。ばさりと俺の足下で音がする。発車ベル。足下に目を向ける。空気が抜ける音。ジャンプが落ちていた。俺が今週の月曜に渡した号。扉に目を向ける。ドァシァリェアス。お姉さんはジャンプを落としたことに気がついていない。ドアが閉まり始める。俺は一瞬の迷いの後、ジャンプを拾って電車を降りた。

 背後でドアが閉まる。

 終電は俺をホームに置いて去っていく。

 改札を出てお姉さんに追いつくと、俺は拾ったジャンプを手渡した。彼女はちょうど鞄の中を漁っているところだった。

「ああ、やっぱり落としてたんだ……ごめんなさい」

 お姉さんはジャンプを鞄にしまいつつ首を傾げる。

「キミ、私に雑誌を譲ってくれる少年だよね」

「ええ」

「いつも私より先に電車に乗っているけど、降りる駅はここでいいの?」

「あ、いえ。俺の最寄りは隣です」

「じゃあこれを届けるためにわざわざ?」

 正直に「そうです」と答えるのはなんとなく憚られたので、曖昧な頷きでお茶を濁した。

「そっか。申し訳ないことしちゃったね。わかった、タクシー代を払うから乗って帰りなよ」

「タクシーってそれはさすがに」

「遠慮はしなくていいから。いつも漫画雑誌を譲ってくれるお礼」

 言うが早しと駅前の道で手を挙げるお姉さんに、半ばしがみつくようにして俺は言った。

「歩きますから大丈夫ですって。一駅なんで、余裕です」

 三百円のモノを千円で売りつけているうえにタクシー代まで出してもらうのは気が退けた。

「ふうん。まあそう言うなら無理強いはしないよ。とにかく雑誌を届けてくれてありがと。また来週もお願いね」

 そう言ってくるりとこちらに向けられた背に、俺は反射的に問いかけた。

「なんで俺からジャンプを買うんですか?」

 なんとなくここが一番の聞き時だったのだと思う。先週でもなく、来週でもない。約一カ月に亘る疑問を解消するための最高のタイミングは今だった。根拠もなくそう思った。

 お姉さんは足を止め、夜空を見上げて息を吐く。白い息が済んだ空気の中を立ち上っていく。そして彼女はこちらに背を向けたまま質問を返してきた。

「キミは明日学校休み?」

「はい、土曜日なので」

「そしたら今から私の家で一杯付き合わない?」


 

「未成年、じゃないわよね?」

「はい。二一です」

「若いわあ。はい、じゃあこれどうぞ」

 俺の目の前に缶ビールとグラスを置くと、お姉さんのお母さんはスリッパをぺたぺた鳴らしながら台所に戻っていく。そしてすぐに冷凍唐揚げを載せた皿を持って引き返してきた。

「もういいから、寝ててよ」

「はいはい」

 お母さんはむっとした様子のお姉さんを適当に受け流し、

「こんなものしか用意出来なくてごめんなさいね」

「いえ、お気遣いありがとうございます」

「それじゃくつろいでいってね。ほんとに、もう娘がご迷惑をおかけして」

「おかーさんっ!」

「あはは」

 ぺたぺたという足音が階段を上がっていく。ダイニングのテーブルには俺とお姉さんと酒とおつまみが残された。

 なぜだろう。沈黙にもの凄く緊張する。

「まあ飲もっか」

「あ、はい。いただきます」

 ぷしっと缶ビールのタブが引かれ、お姉さんがグラスにビールを注いでくれる。白い泡がもこもこと膨らんでいくのを見つめながら、なぜ俺はこんなところにいるのだろうかと思う。お姉さんに家で飲まないかと誘われて、二つ返事で頷いたら本当に家まで連れて来られた。駅から徒歩五分ほどの住宅街にあるモダンな雰囲気の一軒家で、表札には『梨本』とあった。

 乾杯し、しばらくは他愛もない話をした。というより、お姉さんからの一方的な質問に俺が答えていくだけだった。何を勉強しているのか、お酒は飲むのか、将来の夢は何か。質問の合間に俺は二本目の缶ビールをあけ、唐揚げを三個ほど食べた。

 そろそろ質問が尽きかけてきたという頃合いでお姉さんはおもむろに言った。

「ちょっと来てくれる?」

 案内されたのは二階の角にある部屋だった。扉のところには木製のプレートが掛かっていて『ひろたか』と記してある。弟さんの部屋だという。

 お姉さんはノックもなく扉を開け、真っ暗な部屋に入って行く。

 こんな夜中にいいのだろうかと思いつつ俺はあとに続いた。照明がつけられて六畳ほどの部屋がぱっと明るくなると、ノックの必要性などなかったのだと分かった。

 ひんやりとした部屋の中には誰もいなかった。

 入って右手には丁寧にメーキングされたベッドがあり、ベッドの上の壁には『ONEPIECE』のポスターが貼ってあった。左手側を見ると壁に向かって置かれた学習机の上にはジャンプが積まれ、そして残りの壁を全部埋め尽くすような大きな本棚が設えられていた。並んでいるのは漫画がほとんどだった。『バキ』『幽々白書』『うしおととら』『北斗の拳』『鋼の錬金術師』『るろうに剣心』。著名な少年漫画は大体並んでいる。弟さんとは趣味が合いそうだなと思った。

「すごいですね」

「漫画ばっか」

 お姉さんは呆れたような声で言う。

「弟さんは今日は帰ってこないんですか?」

「出て行ったの」

「出て行った?」

「一年ほど前にね。高校を卒業してすぐ、家を出て行った」

 俺は漫画を棚から抜き出そうとする手を止め、お姉さんを振り返る。お姉さんはベッドに腰を下ろし、天井を見上げて脚を組んでいた。

 聞いていいのかと思いつつ、しかし聞かなきゃ話にならないだろうと判断して俺は言った。

「なんでですか?」

 お姉さんはしばらくの間、ベッドの上にそういう形の木が生えたみたいに無言だった。俺は棚から『ONEPIECE』の一巻を取りだして開いてみる。

 コマの内外にビッシリと書き込みがしてあった。

「漫画家になるんだって」

 お姉さんはコミックスを開いたまま驚いている俺に向かって言う。

「私は反対だった。そんな博打みたいな仕事をやるなんてバカげていると思ってた。いや、今でもそう思ってるのよ。漫画家なんてギャンブラーと同じでしょ? 実力だけじゃ食っていけないもの。運が大きく左右する商売じゃない」

 俺は『ONEPIECE』の一巻を棚に戻し、今度は『金色のガッシュ!!』の適当な巻を取る。これにもやはりみっちりと書き込みがされている。

「小さい頃に父親の借金が原因で両親が離婚して、私たちはお母さんに引き取られたの」

 お姉さんは脚を組み替える。

「離婚しても貧乏なのはあまり変わらなかった。むしろお母さんは父親の稼ぎが減った分パートを増やして朝から夜まで働くようになって、家のことは専ら私の仕事。家事もそうだし、弟の面倒をみるのもそう。歳が結構離れてるのよ、私たち。弟が今十九で、私はその一〇個上」

「にじゅうきゅ」

「そういうのは口にしない方がいいよ?」

 突っ込まれて俺は慌てて口を噤んだ。しかし年齢を知ってしまったからにはお姉さんをまじまじと見てしまう。見た目は二十九歳と言われて納得だが、落ち着き具合はもっと年上のようにも見えた。

「自慢じゃないけど私、結構弟の面倒見るの頑張ったんだよね。勉強も教えたし、高校生になってバイト始めたら自分のお給料の一部をお小遣いとして上げてたし」

「姉の鑑ですね」

「ほんとにね」

 お姉さんは謙遜しない。

「弟は塾にも行かず、高校は公立トップクラスの進学校に入学したの。本人よりも私が喜んだくらい。父親を見返してやったような気がして誇らしかった。お前が捨てた子どもはこんなに立派になったんだぞって。私は大学受験をしなかったから高校入学を機に弟の家庭教師を卒業したけど、このまま行けば東大も目じゃないっていう成績だったし特に心配はしてなかった。もう面倒をみなくても立派に生きていけるって思ったしね。弟にはぜひ東大に行ってもらって、父親のような借金まみれの生活でも、私とお母さんみたいな忙しない生活でもないゆとりある生活を送って欲しかった。だけど高一の終わり頃から雲行きが怪しくなって、進路希望調査で漫画家になるって書きやがったときは愕然としたね。恩を仇で返すのかあんたはって。弟を呼び出して漫画家なんて職業がいかに綱渡りかってことを説教したこともあった。高三になるともう私と弟は一切口を聞かなくなってね、それで今年の三月に卒業と同時にあいつは出ていったの」

 お姉さんはベッドに倒れ込む。スプリングが軋む音をしんとした部屋に響かせ、彼女は天井に向かってため息をつく。

 俺は漫画を棚に戻して尋ねた。

「弟さんは今どこに?」

「さあね。行き先も言わずに出ていったから知らない。何してるのかも知らない。だいたい漫画家ってどうやってなるもんなの?」

「賞に応募したり、アシスタントしたりじゃないですかね?」

「ふうん」

 お姉さんは寝転がったまま呟いた。

「あいつほんとアホ」

 ひんやりとした沈黙が部屋の中に漂う。主を失った壁時計が前に進んでいく音だけが聞こえた。手持ち無沙汰を感じて学習机の上に積まれたジャンプに手を伸ばす。それらは全て俺が千円でお姉さんに売りつけたものだった。

「──って思ってたんだけどね」

 お姉さんはゆっくりと身を起こし、本棚の前に立った。適当な漫画を一冊取り出してパラパラやりながら言う。

「このメモ書きを見たときはびっくりした。全部の漫画にあるんだよね、これ。本自体もどんだけ読み込んだんだろうってくらいボロボロになってるし」

 弟さんが残したメモはすべて漫画の技術に関するものだった。絵の構図からコマ割り、ストーリーの組み立て方、演出、台詞やナレーションの文章表現まで内容は多岐にわたる。最終巻まで読んでから得た気付きを遡って記したものも少なくない。破れたページをテープで補強している箇所もあった。彼がどれだけ漫画に本気で取り組み、深く作品を読み倒したのかがよく分かる。それは漫画好きの俺だけでなく、漫画に否定的なお姉さんの心にも強い衝撃を与えたはずだ。

「これを見て思ったんだよね。ひょっとして私は弟のことを何も知らないんじゃないかって」

 お姉さんは漫画を棚に戻す。紙と紙とが擦れ合うと小さな音が聞こえた。

「私は両親が離婚してからずっと弟の面倒を見てきたじゃない? 弟が保育園児だったころからずっと。十年以上。だから誰よりも弟のことを分かっていると思ってたの。父親はもちろん、母さんよりもね。私が弟の世界で一番の理解者だという自負があった。だからあいつが私の忠告を無視して家を出て行た時は本当に頭に来た。あいつはもう私の弟じゃないって思って、あいつの持ち物を全部処分してやろうと思ってこの部屋に踏み入ったの」

 お姉さんはそこで一度言葉を止め、本棚にもたれかかる。

「そして本棚にずらりと並んだ漫画を手に取ってみて初めて、そこに私の知らない弟がいたことを知ったのよ」

「漫画が好きなことは知ってたんですか?」

「それは流石にね。この部屋で勉強を教えてたから。だけど趣味には特に口出ししてこなかったし、私は漫画には一切興味ないからまさか漫画家になりたいと思ってるなんて想像もしてなかった。まあそんなことを言ったら怒られると思って秘密にしてたんだろうけどさ」

 お姉さんは自虐的に笑った。目線の先には誰も座ることがなくなった学習机が置かれている。

「気持ち悪いくらいに書き込まれたそのメモを見て、私は思い知ったのよ。ああ、自分は弟のことなんて何も知らなかったんだなあって。母親気取りで全部わかった気になってただけなんだなあって。けどそのことに気がついたときにはもう弟はとっくに家を出ていってて、私はあいつがどこにいるのかも知らなければ連絡手段もない。電話は着拒されたしLINEもブロック。そしたら急に悲しくなったというか申し訳なくなったというか、かなり辛い気分になって三日くらい塞ぎ込んだの。それが一カ月くらい前」

 僕は頭の中にカレンダーを浮かべ、記憶の梯子をゆっくり降りていった。

「一カ月前というと、初めてお姉さんが声をかけてきた頃ですね」

「そう。実は私が立ち直ったきっかけはキミだったのよ」

「おれ?」

 思わぬ言葉に驚いくと、お姉さんは悪戯っぽくを微笑んだ。

「たまたま電車の中で漫画雑誌を読んでるキミを見かけて、私も漫画を読めばいいんじゃないの?って思ったの。博孝がいなくなったのは確かにダメージが大きかったけど、塞ぎ込んだってあいつが戻ってくるわけじゃないし。だったらあいつがいつか戻ってきたときのために、私自身であいつを理解してあげる努力をするべきじゃないかってね」

「それでジャンプを」

「うん、そういうこと」

「でも俺から買わなくたって本屋に行けばよかったんじゃ」

「私って思いついたらすぐ行動するタイプなのよ。それに漫画がどこに売ってるのか知らなかったしね、そのときは」

「そんな人います?」

「ここにいたの」

 お姉さんは自分の胸に手のひらを当てた。

「だってしょうがないでしょ。あいつが高校に入学するまでは仕事と家事と勉強とで時間が消えたし、お金もあんまり持ってなかったから本屋すらろくに行ったことないんだもの」

「そんなに、ですか」

「そんなによ」

 なんでもないことのように言ってのけるお姉さんの横顔に、俺は思わず見惚れてしまう。

 彼女には彼女の生活があったはずだ。自分の青春を全て投げ打ち、弟のために身を粉にすることが大変さは計り知れない。想像することさえおこがましい。

 お姉さんはそんな俺の視線に気がついてか、顔をしかめつつ手を払う。

「あー、凄いとかかわいそうとか思わないでよ? 私は私でそんな生活を楽しんでたし、仲のいい友達だっていたし、全部終わった今となってはもう笑い話なんだから」

「尊敬しますよ、お姉さんのこと」

 俺が言うとお姉さんは少し照れくさそうに髪の毛を触って、

「ありがと」

 と呟くように言った。

 そして今さらになってプライベートを明かしたことを恥ずかしく思ったのか、お姉さんは顔を赤らめて俺から顔を逸らした。本棚に並んだ色とりどりの背表紙を指先でなぞりながら、

「そうだ。折角だからいろいろ漫画のこと教えてよ」

「いいっすよ」

「とりあえずどれ読めばいい? キミから買ったやつだけ読んでも全然分からなくってさ」

「んー、必読なのはこの辺りですかね」

 俺は『ドラゴンボール』と『ONEPIECE』を取り出して渡した。

「おお、名前は聞いたことある。よし、今夜中に読み切るぞ」

「それは絶対に無理だと思います」

 俺はそう言ったがお姉さんは「私はやると言ったらやる女」と強気の姿勢を崩さず、午前三時頃、麦わらの一味が海上レストランに辿り着いた辺りで寝落ちした。


 俺もいつの間にか眠っていたらしい。目を覚ますと、弟さんのベッドの脇で『BLEACH』の四巻を読みかけた状態で転がっていた。

 ベッドではお姉さんが、漫画の山に埋もれるようにして眠っている。悪く言えばほとんど初対面の女性と期せずして一夜を明かしてしまったことになる。なんだか気まずくなってそそくさと部屋を出た。

 階段を一階に降りたところで、最初に通されたダイニングルームからお母さんが出てきた。さらに気まずい。

「お、おはようございます」

 せめて礼儀正しくあろうと先手必勝の挨拶を向けると、お母さんは驚いたように手で口を覆った。

「あら、おはようございます。これから帰るのかしら?」

「はい、帰ります。あの、すみません夜中に突然来てしまって」

「いいのよ。あの子は? まだ寝てるの?」

「あ、はい。寝てますね」

「まったく。見送りぐらいすればいいのに」

「いいんですいいんです」

 靴を履き、爪先をトントンと三和土に打ちつけた。

「ところで一晩中何の話をしてたの?」

「漫画の話です」

「ということは博孝のことも聞いたのかしら?」

「ええ、聞きました」

 俺が頷くと、お母さんは二階からお姉さんが降りてこないことを確認した後で、耳打ちするように言った。

「実はね、私は博孝とちゃんと連絡を取ってるのよ。お姉ちゃんには秘密でね」

「そうなんですか?」

 俺は声を潜めて驚く。

「弟さんがどこにいるのかもご存知なんですか?」

「もちろん。意外と近くに住んでて笑っちゃった」

 お母さんは寝巻きの上に羽織っていた半纏の襟を寄せて言う。

「あの子もあの子で頑固というか、意地っ張りでね。一度出て行った手前、漫画家として売れるまでは絶対にこの家に戻ってこないつもりなのよ。まあ私は連絡を取れてるし、家も知ってるから別に構わないんだけどね」

 と言ってお母さんはあっけらかんと笑う。俺は少しだけ弟思いの姉さんに同情する。

「博孝はいつも言ってるのよ。『売れたら姉ちゃんに参りましたって言わせる。それから服とか化粧品とか何でも買ってあげて、好きな物何でも食べさせてあげるんだ』って」

 お母さんは苦笑する。

「最後の一年は口も聞かずに過ごしたけど、なんだかんだあの子たちの間には私が二人を思う以上に深い絆があるのね。お姉ちゃんは私に代わってずーっと博孝の面倒を見てたし、博孝もそのときのことは忘れてない。私が言うのも何だけど、良い姉弟なのよ」

「……俺もそう思います」

 二階へと続く階段を見上げてみた。弟さんの部屋ではまだ、お姉さんが読み慣れない漫画の山に埋もれて眠っている。そして弟さんもまたどこかで、姉に恩を返すために原稿と向き合っていることだろう。仲違いした姉弟は見えないところで確かに繋がり、信頼しあってるのだ。

「ごめんなさい、引き留めちゃって」

「いえ、お話聞けてよかったです」

「気をつけて帰ってね」

 俺は頭を下げて礼を言い、お姉さんの家を後にした。

 外に出るとひんやりとした冬の朝が肌に刺さった。東から起き上がってくる太陽の光が、澄んだ空気を通り抜けて住宅街を目覚めさせていく。振り返った梨本家の二階のカーテンの向こう。一人分の影が動き、部屋の電気が音もなく灯る。



 新学期が来て中野での授業がなくなった俺は、もう月曜日の朝の電車でお姉さんと会うこともなくなった。一夜をともにしたというのに名前も連絡先も知らずじまいだった。家だけは知っているがまさか会いに行くわけにもいくまい。寂しいがお姉さんとはあの夜きりだ。

 それでも俺の一週間は相変わらず友情、努力、勝利から始まる。

 客でひしめき合う電車の中で、シートの端っこに腰を下ろして駅前のコンビニで買ったジャンプを膝の上に乗せる。

 今週号の表紙を飾っているのは新連載作品だった。主人公のビジュアルを見る限り、ホラーテイストの異能アクションもののようだ。作家名は小鳥遊モトヒロ。俺は背筋を伸ばし、期待に胸を膨らませて記念すべき第一話の扉絵を捲る。果たして将来この作品がジャンプを背負って立つのか、それとも数週間で打ち切られてしまうのか。その結末は作者さえ知らない。

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お姉さん、少年ジャンプは1000円もしません 桜田一門 @sakurada

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