妄想現実化チケット

高梨 千加

妄想現実化チケット

 高校の帰り道、とある電気屋さんの店頭に設置されたテレビから、ニュースが流れてきた。その内容に、井上いのうえ 永実えみは思わず足を止めた。


――続いてのニュースです。東京都足立区のコンビニに強盗が押し入りました。犯人は店の売上金を持って、現在も逃走中です。


「えっ、足立区ってすぐそこじゃん。こわっ」

 まあ、まさか強盗と出くわすことはないと思うけど。


 ニュースは別の話題に切り替わり、永実はその場を離れることにした。数歩も歩くと、少し先に小さな紙が落ちていることに気づく。

 なんだろう? と拾ってみた。


「妄想現実化チケット……?」


 その紙には太く大きな字で『妄想現実化チケット』と書かれていて、その下には『あなたの妄想を叶えます』と書かれている。


「何、これ」


 手書きであれば子供が作ったものだろうと思うところだが、その文字は綺麗に印刷されている。まるで売りもののチケットのようだ。

 だけど、妄想が現実になるなんて、あるわけがない。


 これを警察に届けても笑われるだけじゃないだろうか。かと言って、チケットを作った人にとっては大切なものかもしれず、捨てる勇気はない。

 永実は道にチケットを戻した。

 見なかったことにしよう。


 駅に向かって歩き出し、永実の頭の中は妄想現実化チケットのことでいっぱいになっていた。強盗のことなど別世界のことのようで、すっかり忘れ去ってしまったのだ。


 妄想現実化かあ。

 もしも妄想が現実になるなら、何を妄想するだろう。


 永実の脳裏にはある男子の笑顔が浮かんだ。同じクラスの曽田そだくんだ。永実の片思いの相手である。

 残念ながら、永実は男子と話すのが苦手で、曽田くんと話したことはほとんどない。いつも見ているだけだ。もしも、今、曽田くんが現れて話しかけてくれたら……。


 そう思ったところで、「井上さん」と誰かに話しかけられた。

「はい?」と言いながら振り返り、永実の顔が固まった。

 曽田くんが立っていた。


「井上さん、ハンカチ落としたよ」

「え」


 曽田くんの持つ赤いギンガムチェックのハンカチは、確かに永実のものと一緒だ。

 ハンカチを入れていたはずのスカートのポケットに手を入れて、確認する。カサリと音を立てて、何かに指が触れた。それはハンカチではなく、もっと薄く、紙のようなもの。

 取り出して見てみると、妄想現実化チケットだった。もう一度ポケットに手を突っ込むが、今度は何も触れず、ハンカチはポケットになかった。


 学校でトイレに行ったときに使ったきり、ハンカチには触れてもいないのに、どうして道に落ちているんだろう。

 永実は首を傾げた。


「どうかした?」

「あっ、ううん。いつ落としたのかなって思って」

「さっき、ポケットに手を入れたときに落としたよ」


 曽田くんは永実がハンカチを落とすところを見ていたのだ。しかし、永実としてはポケットに手を入れた記憶もなく、不思議で仕方なかった。

 何はともあれ、お気に入りのハンカチなので失くさないで良かった。


「そっか、ありがとう」

 永実はお礼を言って受け取った。心臓がドキドキしていて、顔が赤くなっていないか心配だ。

 曽田くんは「それじゃ」と笑顔を永実に向けると、道を先に行った。


 曽田くんに話しかけられちゃった。しかも、笑顔つきで。

 笑顔つき、そこは何度も強調したいところだ。彼の笑顔はクラスで何度も見ているけど、永実に向けられたものは初めてのはず。あまり話したこともないのだから当たり前だ。


 初めての笑顔ゲット!

 心の中でガッツポーズを決め、遠ざかる曽田くんの背中を見つめながら、天にものぼる心地だった。


 幸せすぎる。今なら死んでも後悔はない。……と思ったところで、いや、そうしたらもう曽田くんに会えないと気づく。やっぱり後悔はする。死にたくない。


「はー、やっぱり曽田くんって優しいな」


 目の前で誰かが何かを落としても、それを相手に言わずに放置する人もいると思う。でも、曽田くんは届けてくれた。


 曽田くんを好きになったのも、おばあさんに親切にしているところを見かけたからだ。学校の帰りに、重い荷物で立ち往生しているおばあさんに話しかけようか永実が迷っていたところ、曽田くんが手伝いに行ったのだ。

 最近は親切にしたって不審者と間違えられることもある。誰でもできそうで、意外とできない人が多いんじゃないかな。


 曽田くんが道を曲がって見えなくなったところで、永実はチケットを見た。


「妄想……現実化」


 やっぱりさっきのチケットだ。道に戻したはずなのに、どうしてポケットに入っていたんだろう。

 ハンカチを落としたときも、ポケットを触ったなんて覚えてなかった。わたし、無意識に行動しすぎなのかな?


 それにしても、まさか。

 偶然……だよね?


 たまたま、曽田くんに話しかけられたらなんて考えているときに、曽田くんが通りかかっただけのはず。

 これが偶然ではなく、チケットの不思議な力だなんて、そんなことあるわけない。


 それでも、永実は穴が開きそうなほどチケットを見つめた。

 もし万が一でもチケットの力だったら。

 魔法のチケットだったら。

 永実の喉がゴクリと鳴った。


 偶然なのかどうか、もう一度試してみたらいいのよ。

 永実はチケットを見つめながら歩いた。

 

 今度はどんな妄想を願う?

 永実は頭を悩ました。

 妄想が現実になるかもしれないと思うと、簡単には浮かばない。


 曽田くんが曲がった道を永実も曲がり、前を見た。ここからは駅まで長い一本道なので、再び曽田くんの後ろ姿を見れるかと思ったのに、もう曽田くんの姿はなかった。


「歩くの早い……」


 いや、わたしがチケットのことを考えすぎて足が遅すぎたのか?

 そんなこと考えている暇があれば、曽田くんの後ろをついて歩くべきだったかもしれない。

 それはストーカーだ、ということにも気づかず、永実は真剣に考えていた。


 ううん、本音を言えば、後ろ姿なんかじゃなく、できればもっと長く曽田くんと話したかった。さっきのは短すぎたんだ。

 駅に着き、改札を通りながら、永実は頭に浮かべた。

 曽田くんとホームでまた会って、今度はもっと長く話せたら幸せだろうな。


「あれ、井上」

「曽田くん」


 心臓がドキリと跳ねる。

 エスカレーターを上ってホームに立つと、目の前に曽田くんが立っていた。


「なんだ、井上も同じ方向だったんだ。知らなかったよ」

「わたしも。びっくりした」


 ははは、と笑いながら内心、ドキドキしていた。

 今の返事は嘘だからだ。


 曽田くんが同じ方向の電車に乗っていることは知っている。今までは声をかけるなんてできなかったのだ。それどころか、いつも同じ車両に乗っていたら気持ち悪く思われないか不安で、わざと違う車両に乗るようにしていた。

 曽田くんはいつも反対側のエスカレーターの近くから電車に乗るので、永実は曽田くんの視界から逃れるように、離れたエスカレーター側から乗っているのだ。


 そんなことを本人には言えないので、永実も知らない振りをした。

 どうして今日に限ってここにいるんだ。

 嬉しいけれども、戸惑いも大きかった。


 チケットを持っていなかったら、偶然と思って一日が幸せで終わる。そんなちょっとしたことではある。でも、チケットを持っている今、手放しでは喜べなかった。

 妄想が現実になるというのは、どんな未来でも思いのままになりそうで、嬉しいのと同時にすごく不気味で怖い。


 現実的に考えて、妄想が現実になるわけない。ドラマの世界ではないのだから。これはチケットの力なんてものではなく、単なる偶然が重なっただけだ。

 永実は心の中で自分に言い聞かせたところで、ふと気づいた。


 ここで曽田くんと別れて違う車両に乗るべきなのか、クラスメイトなのにそういう対応をしたらおかしいのか。答えが出る前に、電車が到着した。

 自然な流れで曽田くんと一緒に乗り込み、降りる駅に着くまで二人で話し込んだ。



「本当に、長く話せちゃった」


 自宅の最寄り駅に着き、家まで歩く道で、永実はチケットを眺めながらつぶやいた。


 電車に乗っていた15分間、曽田くんを好きになってから今までで一番長く会話をした。

 これが本当にチケットの効果なのか。考えれば考えるほど不気味だけど、曽田くんと長く話しているうちに嬉しい気持ちが勝ってしまった。

 今まで知らなかった曽田くんの一面を知れたし、15分間は彼の笑顔を独占できたのだ。


 やばい、やばすぎる。

 次はどんな妄想をしようか、と顔がにやけてくる。

 と、そこで、家の近所のコンビニが目に入った。


「そうだ、今日発売の雑誌が欲しいんだった」


 永実はチケットをポケットに入れると、コンビニに寄っていくことにした。


「いっらしゃいませー」という声に迎えられて店に入る。どうやらお客さんは他にいないようで、ガランとしていた。

 まっすぐ雑誌売り場に向かうと、永実は買う雑誌とは違う雑誌の立ち読みを始めた。

 なんだか平和だ。


 永実は少し前に見たニュースを思い出した。足立区のコンビニに強盗が押し入ったとか。

 そんなことが起こりそうにない。本当にそんなことがどこかであるものなんだろうか?


 永実には悪いことを想像してしまう、嫌な癖があった。

 だから、つい考えたのだ。

 もしもここでコンビニ強盗が入ってきたら……なーんてね。

 雑誌を戻そうと手を伸ばしかけたところで、全身黒づくめで目だし帽を被った男が入ってきて、「金を出せ!」と店員にナイフを突きつけた。


 永実は目を見開いて、男の姿を見た。本能的に、体の動きを止めて、息をひそめる。


 まさか、妄想が現実になってしまった!?

 今のはキャンセル! キャンセル! キャンセル! 妄想じゃないわ!


 と心の中で慌てたが、すでに起こったことはどうしようもない。

 コンビニ強盗はレジの前に立ったままだ。

 永実は音を立てないようにそうっと雑誌を戻した。

 このまま見つからずにコンビニを出ることはできないだろうか。

 幸いなことに、コンビニ強盗は出入り口に背を向けている。永実がいることに気づいていないかもしれない。


 すり足で、音を立てないように気をつけて、出入り口に近づく。ガラスの自動ドアはもう目の前。強盗はこちらを見ない。出れそう、と思ったところで『ピンポーン』とチャイム音が鳴り響いた。

 永実はすっかり失念していたが、コンビニの自動ドアには、お客の入退店を知らせるベルが付いているのだ。


 自動ドアは開いた。しかし、永実は動けなかった。そのまま走って逃げたら良かったのかもしれないけれど、永実はついコンビニ強盗の方を見てしまった。同じように振り返ったコンビニ強盗と目が合う。


「おまえ、何してる!」


 コンビニ強盗がナイフを振りかざしてすごむ。永実は「ひっ」と小さな声をあげて、息をのんだ。

 心臓がバクバクと早鐘のように動いている。

 男は永実に近づくと、永実の腕を痛いほど掴んで、引き寄せた。

 あっという間だった。

 永実は男の前に立たされ、首には男の左腕が回り、目の前にはナイフの鈍い銀色が光っていた。


「早く金を出せ! でないとコイツを殺すぞ!」


 男は永実にナイフを向けながら、店員に向かって叫んだ。

 永実は頭が真っ白になっていた。

 あまりに非日常的なことだというのに、ナイフは確かに目の前にある。1ミリでも動いたら、顔や首が切れるかもしれない。

 未だかつて経験したことがないほどの恐怖に体が震える。動かすつもりもないのに、手が動いてしまう。


 その拍子に、手がスカートのポケット部分に当たり、カサッと音がした。

 そうだ、チケットがある。永実はチケットのことを思い出した。

 今こそチケットの力を使うのよ。

 永実の喉は緊張でカラカラに渇いていた。言葉を発することもできない。でも、頭で考えることなら、なんとかできそうだ。


 もしも、今、曽田くんが飛び込んできて、強盗から救ってくれたら……と必死になってイメージを浮かべた。

 しかし、残念ながら、何も起こらなかった。


 ど、どうして……?

 男は店員に金庫まで案内させ、永実を引きずるようにして歩いた。

 一歩進むたびにナイフが揺れて、永実に当たるのではないかとヒヤヒヤする。


 永実はもう一度妄想した。

 もしも警官がやってきて、助けてくれたら……。

 しかし、やはり何も起こらない。

 どうして、どうして!?


 永実は焦っていた。

 お金は盗られるかもしれないけど、わたしと店員さんは無事に助かるはずだ。助かると信じたい。


 それでも、妄想を現実にしようと想像を繰り返した。もう一度、曽田くんが助けてくれるパターン。見知らぬ人がお客として来て、助けてくれるパターン。店員さんが実は格闘技選手で、強盗をやっつけてくれるパターン。そのどれもが現実にはならなかった。


 店員は金庫を開けた。

 男は「へへ、ありがとよ」と笑ったような声を出すと、永実を突き放した。


「きゃっ」


 床に体を打ち付けながら、助かったのだろうか……と永実は思った。

 そのとき、「うわっ」と店員が声を上げ、永実は顔を上げた。男と店員がもみ合い、男は店員のお腹にナイフをつき刺した。


 夢を見ているようだった。

 そのくらい現実味がなかった。

 しかし、男は店員からナイフを抜くと、真っ赤に濡れたナイフを持って永実を見た。目だし帽で表情はわからないというのに、男が笑っている気がする。

 男のそばで、店員が崩れ落ちる。


 時間が止まったかのように長く感じた。

 男が一歩、永実に近づく。


 わたしも殺されて終わるのだろうか。

 ナイフを見ているだけで、気が遠のきそうだ。

 そんなことをぼんやり考えていると、何やらバタバタと打ち鳴らす足音を耳が拾った。男も気づいたようで、バックヤードの出入り口を向く。


「ナイフを離せ!」


 警官が2人、銃を構えて駆け込んできた。



 強盗が捕まり一段落したが、永実の恐怖は抜けきらず、足が震えて歩くこともままならなかった。ありがたいことに警官が家まで送ってくれるそうで、永実はパトカーの座席に座り込んで息をついた。


 助かったのだ。もう大丈夫。

 自分に何度も言い聞かせ、ようやく肩のこわばりが少しほぐれてくる。


 永実は例のチケットをポケットから取り出した。

 妄想現実化チケット。


 警官が助けてくれたし、店員さんも命には別状なかったようだけど、曽田くんは助けに来てくれなかった。

 妄想は現実にならなかったのだと思う。


 では、曽田くんに話しかけられたのも、そのあと、長く話せたのも、コンビニ強盗が襲ってきたのも、すべてチケットのせいではなく偶然だったということなのか。

 前二つはともかく、コンビニ強盗までもが?

 そんな偶然があるのだろうか。


 チケットを睨みつけていた永実は、そういえばチケットの表しか見てなかったことに気づいた。裏返してみる。

 そこには『有効回数3回まで』と書かれていた。

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