今は、まだ

 吹奏楽部の定期演奏会の日。休日に着る制服は、なんだか特別な気がして、ちょっとワクワクする。

 収容人数一〇〇〇人ほどのホールは満席。ほとんどは生徒か部員の家族だけれど、ちらほらと一般の人もいる。人が大勢集ると、形容しがたい音のうねりが生まれて、ホールを満たす。少し声を張らないと隣に座ったユータにも聞こえないくらい。


「すごい人だね。なんかこっちまで緊張しちゃう」


 ああ、と答えるユータは、どこか退屈そうにスマホをいじっている。その隣のコーヘイは薄いパンフレットをぺらぺらとめくって眺めていた。

 ブザーが鳴って会場の照明が落とされた。ざわめきが小さくなって、それでもこそこそと暗闇の中に残っている。ぱっとスポットライトがステージに落ちた。そこに照らし出されたのはマユの姿。光の中、すくっと立ち上がってフルートを構える。わずかに息を吸う仕草。そして、音が生まれる。

 その音は会場を駆け回った。暗闇にこびりついていたざわめきを打ち砕き、みんなの視線と心をぐるぐるとまとめ上げてステージへと導いていく。そしてステージ全体が照らし出され、音楽がわっと客席に押し寄せてきた。

 マユのソロパートなんてほんの数秒だったけれど、隣に座るユータの体が強ばったのが分かった。コーヘイの息を飲む音が微かに聞こえた。

 スポットライトの中で演奏するマユと、薄暗い夜道で街灯に照らされる私は全然違った。羨ましくて、憎たらしくて、苦しくなる。それなのに、どこか誇らしい気持ちもあった。マユの友達でよかったって泣きたくなるくらい嬉しい気持ち。

 ――好き、嫌い、好き。

 演奏会は大成功だった。盛大な拍手が会場を埋め尽くす。

 私もコーヘイも精一杯拍手した。でも、ユータの拍手が会場中で一番大きかった。私がどんなに力いっぱい手を叩いても、絶対に打ち消せないくらい。


****


「はーっ、疲れた!」


 私たちは、お疲れ様と口々に言ってマユを迎えた。緊張から解放されたマユは、満面の笑みを浮かべている。演奏会を成功させた自信も加わって、夕陽に照らされたその笑顔はとてもきらきらしていた。


「次の部長、任されちゃった。だから、今までより忙しくなっちゃうかも」


 ごめんね、とマユが顔の前で手を合わせる。ユータはその頭をくしゃりと撫でて、


「別にいいけどさ、連絡くらいよこせよ。約束な」


 髪の色も明るくなったのに、背も伸びたのに、今日のユータの笑顔は昔と同じだ。


「了解! じゃあ、打ち上げはあのクレープ屋さんで!」

「だめ。今日はハンバーガー。俺、甘いもんよりがっつり食いたいし」


 ユータがそう言うと、主役なのに、とこぼしながらも、マユは嬉しそうだった。そんな二人を見て、コーヘイがユータの肩を叩く。


「久し振りなんだから、二人で行ってこいよ」

「えー、みんなで行こうよ」


 マユが口を尖らせた。その後ろでユータは「悪いな」って言うみたいに笑っている。

 二人の背中を見送る私の手を、コーヘイが握った。伝わってくる熱に、鈍っていた感覚がゆっくりと戻ってくる。見上げると、また叱られた犬みたいな顔をして私を見ている。


「俺、お前が好きだ」


 ――好き。

 その言葉にふっと胸が温かくなる。繋いだ手の温度が少しずつ混ざり合って同じになっていく。誰の目も気にしなくていいこの手は、触れることをためらわなくていいこの手は、とても心地よかった。波立っていた心が穏やかになっていく。

 コーヘイの隣なら、ずっとこんな気持ちでいられるんだ。好きっていう気持ちは、もしかしたら本当はこんなに穏やかなのかもしれない。

 ぎゅうっとコーヘイの手を握りしめる。

 ――好き。


「アカリ、行こうぜ」


 ふっと力が抜けた。私を引くコーヘイの手から私の手が滑り落ちる。


「ごめん」


 伏せていた顔を上げて、私は真っ直ぐコーヘイの顔を見た。ちゃんと私の顔をして、もう一度、ごめんと言った。

 振り返って、小さくなった背中に向かって走り出す。コーヘイが私の名前を呼んだ気がしたけれど、もう私の目に映るのはユータの背中だけ。

 私がもっともっと大人になったら、優しくて温かくて穏やかで、世界の全てが美しくいられる気持ちを愛しく思うのかもしれない。

 だけど、私はまだ子どもで、どうしようもなく馬鹿で、欲張りだった。

 触れることさえためらってしまう手だからこそ、触れたいって願ってしまう。

全身が張り裂けそうで、苦しくてたまらなくて、叫び出したいくらい不安で。世界の全てを失っても、世界中のみんなが不幸になっても構わないから、それでもそばにいたいって思うこの気持ちにしか、好きっていう言葉を使いたくないんだ。

 走った。キツくなったローファーが足を締め付ける。痛い。だけど、これより私にしっくりくる靴が見つけられない。だから私は履き続ける。どうしようもなく痛くて、ときどき立ち止まっても。いつか脱ぐ日が来るんだとしても。


「待って。やっぱ一緒に行く!」


 呼び掛けると、二人が振り返った。マユは笑って、ユータは少し困った顔をする。私はそれに気付かない振りをして、笑顔を浮かべた。友達の顔。親友の顔。


「そっか。じゃあ行こ行こ。コーヘイは?」

「一緒に行くよ。やっぱり四人揃わないと、なーんか調子出ないし。お邪魔だろうけど我慢してよ」


 くるりと振り返って、コーヘイに向かって手招きをする。コーヘイは頭を掻いて、小さく息をつくと、私たちの方へ走ってくる。

 コーヘイも私と同じ、友達の顔、親友の顔。


「さぁ、揃ったところで行こう!」


 マユ、ユータ、私、コーヘイの順で並んで歩く。夕陽で赤く染まる道に、四人の影が長く伸びて、縞模様を描き出す。どこまでいっても交じり合うことのない、絶望的な模様。

 ユータと私のキスが二回目を数えることは、きっとない。胸の奥にツンとしみるような傷み。それでも、今はまだ私はユータの隣にいたい。


「お前、馬鹿だな」


 コーヘイが、私にだけ聞こえるように小さく呟いた。


「そうだね。みーんな馬鹿。馬鹿ばっかり。それでいいじゃん」


 私たちは仲良し四人組。

 いつか大人になってバラバラになるその日まで、この縞模様を描き続けていこう。


「じゃんけんしようよ、負けた人がみんなにおごるの」

「お、アカリ、ナイスアイディア」

「えー、あたしは今日の主役なんだけどなぁ。じゃあ、あたしの場合はユータが負担ってことで」

「おいマジかよ。俺、いま金欠なんですけど」


 みんなで笑う。その笑顔の裏にはいろんな感情があるって、もう知っている。だけど、それでいいんだって思う。私は、少し大人になったのかもしれない。


「じゃあいくよー」

「せーの」

「じゃんけん……」

「ぽんっ!」


 四つの手が思い思いの形を作った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

履きやすい靴は、まだいらない ロジィ @rozy-novel

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ