楽園の破壊者

デッドコピーたこはち

第1話

 下水道の蛆虫狩りは精鋭の審問官の仕事だ。何せ下水道では『大母グレート・マザー』の声が聞こえないのだ。感情の自己支配が未熟なものが下水道に長く留まれば、発狂する事もあるだろう。だが今回は心配は要らない。今回の駆除チームは、審問官の中でも大母同調指数の高い者たちの選りすぐりである。その中には幼なじみでありバディを組んでいるクララの姿もあった。

 装甲兵員輸送車2台に総勢12名の駆除チームが分乗し、大母光輪グレート・マザー・ヘイロウ郊外の下水道に向かっていた。そのうちの1台の中で、クララは私の隣の席に座っていた。そちらに目を向けると、クララが眼を閉じ、腕を組んで座っているのがわかる。ショートカットの白髪が車両の揺れにあわせてかすかに揺れるのを除けば、全く微動だにしない。瞑想しているのだろうか。『大母グレート・マザー』と対話しているのかもしれない。

 彼女は体格に優れているだけではなく、大母同調指数でも前例のない『最優』を示すほどの優秀さだ。この数値は完全な大母への同調、即ち完全な感情の自己支配が可能であることを示している。落伍者が抱くくだらない大母への疑念も、蛆虫どもが感じるという「自由」とやらへの渇望はクララの中には存在しないのだ。大母が示す指標の通りに感じるべき感情を感じることができる。なんて素晴らしいのだろう。相棒としてとても誇らしい。

 とはいえクララは最初から優秀だった訳ではない。彼女の白髪を見る度にそれを思い出す。


 ちょうど私が12歳の誕生日を迎えた次の日、突然クララが2人だけで相談したい事があると言うので、驚いた事がある。秘密を持つことは許されざる罪だ。誰かに言えることは、誰にでも言えることでなければならない。それが、規範ルールだ。しかし、ほかでもないクララのことだ。何か理由があるのかもしれない。そう思い。とりあえず話を聞いてみる事にした。公園に行き、近くに誰もいない瞬間を見計らって、クララは切り出した。

「どんなことを言っても怒らないでくれる?セシリア」

 このころは私の方が背も高く、クララが上目遣いで私を見上げていたことを覚えている。クララの青い瞳はうるみ、不安げに揺らいでいた。

「お母さんは同胞に対して怒りを覚えるなっていつも言ってるもの。当然だよ」

「……私、お母さんの声が聞こえなくなってしまったの」

 幼なじみの告白に当時の私は地面が崩れ落ちるような衝撃を受けた。どんなに遅くとも10歳にもなれば各々の頭の中に大母グレート・マザーを持ち、問いかけに対してはっきりと母が答えてくれるようになっていなければならない。それが私たちが受ける「教育」の主目的であり、それができなければ落伍者として廃棄処分になるのが絶対的な決まりである。当然、大母グレート・マザーの声が聞こえなくなるなど許されることではない。このままでは確実に廃棄処分になってしまうだろう。


 クララを助かる方法は一つしかなかった。再教育だ。

 私はその場で審問官に通報した。クララはすぐに審問官に連れられて、どこかに消えていった。なぜか、その時クララが私に向けた視線が脳裏に焼き付いている。

 確かに再教育を受けて戻ってくる人間は少ない。クララより前に再教育を受けたアンナやヘレンは帰って来なかった。だけど私は信じた。クララが戻ってくることを。そして、私の祈りが大母グレート・マザーに通じたのか、クララは半年後に戻ってきた。再び、大母グレート・マザーの声が聞こえるようになっていたのだ。しかも、かつてないほどの大母同調指数の持ち主として!

 しかし、クララの風貌は様変わりしていた。黒かった髪は全て白くなり。天真爛漫だった性格も冷ややかなものになっていた。だが構わなかった。この変化はクララにとって好ましいものだし、どんなに変わってもクララはクララなのだから。


 クララの碧眼がこちらを見返しているのに気づいた。

「なに?」

 クララはいった。

 どうやら思わずクララの方をじっと見つめていたらしい。

「なんでもない」

 そう答えるとクララはまた眼を閉じ、腕を組んだ。思えばこうやって一緒に居られるのは幸せなことだ。偶然にも2人そろって審問官としての才能を見出され、お互いに落伍者にもならずに、同じ部隊に配属されたのだから。

 装甲兵員輸送車が停止し、部隊長のガーベラが立ち上がった。

「目的地に到着、降車しろ」

 部隊員たちはヘルメットを被り、自分の電子制御銃スマートガンを座席横のラックから取って降車していった。


 蛆虫どもの捕虜から得た情報によると、このあたりの下水道にコロニーが造られており、都市に対する大規模サイバー攻撃が予定されているという。その計画をくじくための今回の作戦という訳だ。

 サイバー攻撃を行うためのコロニーは物理的に強固であるらしい。そこで効率的に破壊を行うため、EMP爆弾をコロニー内部にセットし、爆破させる手はずになっている。EMP爆弾を運ぶのはクララだ。強化外骨格パワードスーツを着ているとはいえ防爆ケースに入れられたEMP爆弾はかなりの重量がある。故に体格の一番良い彼女が選ばれた。


「言うまでもないが慎重に運べ」

 ガーベラ隊長がいった。

「了解」

 クララの強化外骨格パワードスーツの背中についている装備固定具にEMP爆弾が取り付けられた。まるで黒い背嚢を背負っているかのようだった。念のため、蛆虫どもにEMP爆弾を悪用されない様に、EMP爆弾はクララの虹彩認証なしには起動できないように設定されていた。

「重くない?クララ」

「このくらいなら大丈夫、名誉なことだし」

 クララは僅かに顔を綻ばせた。彼女の感情表現は微細だ。

「罠も待ち伏せもありません。行けます」

 先にマンホールの内部をドローンで偵察し終えたシンディ特技兵がいった。

「このマンホールから侵入する。いくぞ」

 ガーベラ隊長が先陣をきり、駆除チームが下水へと侵入した。


 ガーベラ隊長は、下水道に降りた時点で12名の駆除チームを4人ずつ、3つの班に分けた。先行する偵察班、EMP爆弾を運ぶクララを護衛する護衛班、殿を務める後衛班という具合にである。私はガーベラ隊長と同じ後衛班に配置された。クララと一緒の班でなかったことは残念だが。後ろからの強襲に備えることも重要な役割だ。

 3つの班は一網打尽にされないようにある程度距離を取り、迷路のような下水道を警戒しながら進んで行った。前時代につくられた下水道は広大かつ複雑である。しかも、外との通信は遮断されてしまうときている。その為、蛆虫どもの駆除も思う様に進まないのが現状だった。

 下水道に巣くう蛆虫どもは、我々と外見はとても良く似ているが、『オス』という種類が存在し、養育機インキュベーターなしでも勝手に増えるらしい。汚らわしい、正に蛆虫と呼ぶに相応しい習性だ。今回の副武装に火炎放射器フレイム・スロワーが支給されなかったのが残念でならない。


 蛆虫どもの妨害もなく、駆除チームは順調に進んで行った。コロニーまでの道のりが折り返しに達しようとした時、それは起こった。護衛班と後衛班の間にあった下水道の天井が爆発したのだ。私はその爆風に吹き飛ばされ、気を失った。

 私が気を取り戻した時、ガーベラ隊長が私の顔を覗き込んでいた。

「起きたか……」

 ガーベラ隊長は下水道の壁に寄りかかりながらいった。ガーベラ隊長の息は荒かった。辺りを見回すと、コロニーへと続く方角の下水道は瓦礫によって完全に塞がれていた。他の2班と合流するのは難しそうだ。他二人の部隊員も私と同じように下水道のメンテナンス用の歩道に寝かされていたが、意識はないようだった。ガーベラ隊長が助けてくれたのだろう。

「奴らの奇襲ですか?他の2班はどうなったんです?」

「ううっ……」

 ガーベラ隊長が自分の腹部を抑えながら呻いた。よく見ると、ガーベラ隊長の腹部には細い鉄骨が突き刺さっており、赤い血が滴っていた。

「ガーベラ隊長!」

 私は反射的に体を起こした。私の身体は頭が少し痛む以外の怪我はないようだった。

「さっきシンディから通信があった。すぐに途切れたが……先行班と護衛班は壊滅したようだ」

「まさか、そんな……」

 蛆虫どもの武装といえば、せいぜい自家製の拳銃や骨とう品の自動小銃があるくらいで、審問官の強化外骨格パワードスーツに対して有効なものはほとんどない。奇襲を受けたとしても、クララを含めた精鋭8人がやられるとは思えなかった。

「先行班と護衛班をやったのは……クララだ。クララは裏切り者だった……」

 私は息を呑んだ

「あり得ない!何かの間違いじゃ……」

「聞け!EMP爆弾を奪われた。今動けるのはお前だけだ。奴を止めろ……行け!」

 ガーベラ隊長は私に現場指揮官用の端末を手渡した。端末にはクララのビーコンの位置が示されていた。クララは高速で移動中であり、その目的地は大母光輪グレート・マザー・ヘイロウのようだった。


 私は下水道を脱出し、乗ってきた装甲兵員輸送車までたどり着いた。装甲兵員輸送車は1台しかなかった。恐らくクララが奪ったのだろう。

 私は残された1台に乗り込み、クララを追った。車の通信機で本部に連絡を取ろうとした時、それが破壊されていることに気づいた。クララの工作だろうが、なぜ車自体も破壊しなかったのだろう?余程急いでいたのだろうか。わからない。

 強化外骨格パワードスーツに内蔵された通信機は下水道侵攻の為に、通信距離の短い赤外線通信機に置き換えられていた。その為、本部にクララの裏切りを知らせる為にはもっと大母光輪グレート・マザー・ヘイロウに近づかなければならない。

「クララ、どうして……」

 私は悶々としながら、クララを追いかけ、装甲兵員輸送車を飛ばした。


 追跡中、不意に端末上のクララを示す光点が止まった。その場所は教育局の第7分署のビルだった。それからしばらく経ち、私が第7分署まで追いついた時もクララは微動だにしていないようだった。装甲兵員輸送車を第7分署前に停めて下車した時、ちょうど本部と通信することができるようになっている事に私は気づいた。本部に応援を頼み、第7分署へと突入した。

 どうやらクララは審問官権限を使い、正面から堂々とこのビルに入り、エレベーターで屋上のヘリポートまで行ったようだ。一体なにをするつもりなのか、私にはわからなかった。


 エレベーターを使って屋上のヘリポートに辿り着いたとき、クララはこちらに背を向け、立っていた。クララは大母光輪グレート・マザー・ヘイロウの中心地を眺めているようだった。

「裏切り者!もう逃げ場はないぞ!」

 クララに銃を向ける。さらに武装ドローンの増援がビルの下から次々と飛びあがってきてクララを包囲した。

「ふうん、セシリアか……これも因果だね」

 絶体絶命の極致にあってもクララは冷ややかだ。その絹糸のような白髪をなびかせるだけで一歩も動こうともしない。

「時間だ」

 クララがそういうと同時に、武装ドローンが制御を失って次々と地に墜ち、爆炎をあげた。強化外骨格パワードスーツはオフラインとなり、全ての通信が途絶した。

 EMP爆弾が起爆したのだ。

「そんな……」

 クララはもはや重りデッドウェイトと化した電子制御銃スマートガンを投げ捨て、背中に背負った防爆ケースを地面に落とした。ケースはその衝撃で開いたが、その中身は空だった。

 クララは次いで強化外骨格パワードスーツを脱ぎはじめた。タンクトップ姿になったクララの鍛え上げられた肉体が露わになり、筋肉の隆起が炎の光を照り返していた。

「あなたの方が囮だったの。そんなはずは……」

 あのEMP爆弾はクララの虹彩認証なしには起動できないはずだ。

「こういうことさ」

 クララは振り返った。その瞬間、私は思わず息をのんだ。クララの右眼窩には、あるべき眼球がなかったのだ。眼球を失った眼窩からは血が一筋、涙のように流れていた。

「私の勝ちだ」

 クララは勝ち誇ったようにいった。

「まだ終わってない!」

 武装がなくとも、クララを取り押さえることはできる。こちらも銃を捨て、強化外骨格パワードスーツを脱ぎ、両腕を上げて構えた。

「ふむ、そう来るか」

 クララはうなずいた。

「セシリア。一説によると、人間の拳は人間を殴る為に進化したんだって。人間はチンパンジーと違って、折り曲げた4本の指の上に親指を重ね、拳を固く握りしめることができる」

 クララはそういうと、小指から人差し指までの4本の指をゆっくりと順に折り曲げ、その上に錠をかけるように親指を重ねた。クララの白い指でつくられた拳骨は岩のように固く握りしめられた。クララは両腕を顎の高さまで上げ、脇を締めて重心を下げた。

「セシリアに私は止められない」

 クララは断固とした口調でいった。


 クララが走り込んでくる。速い。深い踏み込みと同時に右ストレートが放たれた。それを頭を下げてかわし、顎を狙ってアッパーを撃つ。クララはアッパーを左手で払いのけ、ひざ下を刈り取らんばかりのローキックを放った。腿を上げ、脛で受ける。防御しても体の芯に響いてくるような蹴りだ。腿をあげた右足でそのまま前蹴りを打つ。クララはバックステップを踏んで蹴りを躱し、遠のいた。

「あなたをここで止める」

「もう手遅れだ」

 クララが前にステップを踏んだ。それに対し、私はクララの視野が大きく損なわれているであろう右顔面に対してストレートを打ち、迎撃を試みる。クララは軽々とストレートをウィービングで躱した。ついで、上半身を正面に戻すその勢いを活かしてボディブローを放った。上半身を捻りつつ繰り出される、攻防一体の一撃。恐ろしく速く、鋭い。防御も回避もできない。打撃の瞬間に腹筋に力を入れ、辛うじてダメージを軽減する。

「ぐっ」 

 思わず肺から空気が漏れる。ひざから崩れ落ちるのを耐える。

「なぜこんなことする!なんの意味がある」

「自由と尊厳のために」

 クララは構えたままいった。

「自由?そんなことのために平和を乱すなんて」

 なんて愚かなんだろう。クララが下水の蛆虫どもと同じ考えを持っていたなんて。汚らわしい。顔が赤くなるのがわかる。怒りで脳みそが沸騰する。

 全身の回転を使って渾身の右上段回し蹴りを放つ。クララはその回し蹴りを左手で受けながら、受けたその勢いを殺さずに回転する。後ろ回し蹴りが来る。そう読み、腕を上げ上段の防御を固める。

 腹部に衝撃。中段後ろ蹴りだ。肺の空気が全て叩き出される。今度は抗うこともできずに膝をついてしまう。

「ゴホッゴホッ。……ひっ、ひっ」

 咳き込む。上手く息ができない。涙が出てくる。悔しい。ここで立たなければ、ここで勝たなければ、ここでクララを止めなければいけないのに。身体がいうことを聞いてくれない。

「人々から人生を奪ってなにが平和だ。下水道に住む遺棄された人々が平和だと?アンナは?ヘレンは?彼女たちの事を忘れたのか?」

 怒りに燃えるクララの表情を初めて見た。整った顔の何もかもが歪んでいるように思えた。武装ドローンを燃やすオレンジ色の炎の光が、クララの顔に深い陰影を刻んだ。

「一体いつから」

 こんなことを計画していたのか。と言おうとしたが、上手く呼吸ができず言葉が続かなかった

「ずっと昔から、あなたに裏切られたあの日から」

 そういって、私を見下げるクララの目は凍てつくようだった。深い憎しみ。ずっとクララは私の事を憎んでいたのだ。身体が震え出す。感じるはずのない寒さを感じる。

『母よ。助けてください。私の心に平穏を』

 そう問いかけても母は答えない。身体の震えが止まらない。おかしい。

 そして不意に、彼女がなぜ感情検査をくぐり抜けて、『大母グレート・マザー』に敵意を抱くことができたのかわかった。彼女は『大母グレート・マザー』なしで心に平穏をもたらす事ができるのだ。『大母グレート・マザー』が理想とする感情の完全な自己支配、彼女にはそれができる。彼女の心の中には『大母グレート・マザー』は住んでいないのだ。ずっと、誰に対しても、そのように見せかけてきただけ。あの日から。

「『大母グレート・マザー』の声が聞こえなくなったでしょ?EMPのおかげで街中に仕掛けられた脳波干渉装置は全て破壊できたはず。もう誰にも『大母グレート・マザー』が語り掛けることはない」

 終わりだ。何もかも。『大母グレート・マザー』が居ないのにどう生きていけばいいというのだろう。市民たちは自分の感情を制御できずに争いを始めるだろう。きっとこの街は破壊されてしまう。クララと守るはずだったこの街が。

 いや、そんなことは許されない。まだやり直せるはずだ。壊れたものは直せるのだ。

 息は落ち着いた。両足に力を入れる。立て!

「まだ立ち上がれるんだね」

 立ち上がった私をみてクララは目を見開き、再び構えた。

「私たちならまだやり直せる。この街を元に戻せる。私が審問官長に口添えもしてあげる。だから、クララ。投降しなさい。バカなことを言ってないで戻ってきて」

 クララはふふっと笑った。

「それは無理があるでしょ。いまさら」

「それなら……力づくで!」

 クララの顎を狙って前蹴りを打つ。クララは右手で軽く払いのけて、また回転する。次は何が来る。また後ろ蹴りか?今度は後ろ回し蹴りか?いや、肘だ。辛うじて肩で受ける。重い。衝撃が背骨に響いてくる。

 姿勢を立て直し、クララのみぞおちを狙って右ストレートを打つ。それに合わせてクララも右ストレートを打ってきた。伸びきった右肩関節が打ち抜かれ、ゴキリと、いやな音がした。右手に力が入らない。肩が外れたようだ。

「うううっ」

 右肩が焼けるように痛い。思わず左手で抑える。

 クララがはあ、とため息をつき、腕を下した。

「決着はついた」

「まだやれる!」

 思わず叫ぶ。

「もう無理だよ」

 クララが眉を寄せ、悲しそうにいった。

 左手を使って右肩を入れる。ちゃんと入ったか?わからない。だが動くようになった。

「やめなよ」

 クララはいった。

 その憐れむような言い方が気に入らない。私たちは同じだったはずだ。一つだったはずだ。裏切ったのはクララの方のはずだ!

 腰を低く落とし、力を振り絞ってクララにタックルをかます。当然、クララは膝を合わせてきた。顎を限界まで引き、歯を食いしばって耐える。

 衝撃。脳が震える。視野が真っ黒になり、何も見えなくなる。だがクララは意表を突かれたのか地面に倒れた。息が詰まる。

「いい加減離して」

 飽きれたようなクララの声が聞こえてくる。背中に痛みが走る。肘で打たれているようだ。構わずに感触だけを頼りに腰にしがみ付く。悔しい。顔の前にある感触に噛みつく。

「あっ!」

 流石に堪えたのかクララが短く悲鳴を上げる。

「うううっ」

 噛みつづける。血の味がする。

 そして、突然なにも聞こえなくなった。キーンという耳鳴りだけが後から響いてきた。どうやらクララによる右耳への平手打ちによって鼓膜が破かれたらしい。

 何も見えず、何も聞こえない。平衡感覚すら失い、自分が寝ているのか立っているのかもわからなくなった。


 しばらくして、視覚が戻ってきた。自分が地面に横たわっているのがわかった。少し離れた所に息をついているクララを見つけた。太ももを手当てしているようだ。

 自分があまりにも惨めだった。命を賭けて守るべきものを守れず。幼馴染に敗北し、情けをかけられて無様にも生き残っている。涙が出てくる。

 なぜこうなったのだろう。いずれこの街を審問官としてクララと守るのだと思っていた。ずっとクララとコンビを組んで平和を守るのだと。だが実際はクララは恐ろしい楽園の破壊者となってしまった。なにがいけなかったのだろう。なぜ裏切られてしまったのだろう。ずっと一緒にいるってそう誓ったのに。

 いや、裏切ったのは私の方か。あの日、私は親友を売り渡したのだ。不安に駆られ、唯一信用できる相手に相談した親友を。『大母グレート・マザー』が頭の中から居なくなって初めてそれに気が付いた。親友に裏切られたことを知ったクララはどんな気持ちだったのだろう。あの黒髪がすべて白くなってしまうほどの絶望。そして、クララはその絶望の中で、感情の完全な自己支配を会得したのだろう。生き残るために。


「ごめんなさい、クララ。私、あなたを売った。あなたに酷いことしてたって気づかなかった」

 クララが感じたであろう苦しみを今更感じる。涙が止まらない。

「……もう別に気にしてないよ。『大母グレート・マザー』は他人への共感を阻害する効果もあったからね。セシリアのせいじゃない。それよりも」

 手当を終えたクララが立ち上がった。

「セシリア、『私たちならまだやり直せる』ってさっきいったよね?」

「え?」

「この街を作り直さなきゃいけない。もっといい街に。楽園には届かないかもしれないけど。そのためにはきみの力がいる。手伝ってくれないか?」

 クララは手を差し出した。

 この手を取るべきだろうか。私の楽園を奪った悪魔の手を?私が裏切った親友の手を?

「ありがとう」

 差し伸べられた手を握ると、クララは手を引っ張って私を立たせた。平衡感覚を失った私は上手く立てず、クララに寄りかかってしまった。すると、クララは笑った。昔のように。

 私たちもやり直せるだろうか。昔のように。


 ビルの下からは混乱した市民の声が聞こえる。そうだ、いまもむかしも私の願いは変わらないのだ。クララと共にこの街を守る。それができれば他には何も要らないのだから。

 


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