真相

 いくつもの建造物からなるメガラニア基地の一帯から、わりと統制の取れた動きで群集が逃げ去っていく。雪上車や飛行機、ヘリコプターなど様々な乗り物に分乗し、彼らを搭載した機械たちは直ちに基地から出立した。

 原子炉が爆弾になるとは想定されていなかったが、事故をシミュレーションした日頃の訓練のおかげで撤退は比較的スムーズに進行した。避難に際して実施された基地住人の診断の結果として、ハンス以外の感染者がいなかったことも幸いしていた。

 もはや残っているのは、原子力発電棟でのいざこざに関与した人員だけ。その彼らも棟から脱出し、今まさに雪上車に搭乗していた。


 ホーンが高らかに鳴らされた。クローラーは雪と氷を踏みしだき、自転車ほどの速度でありながら、最後の雪上車たちは着実に吹雪のただ中を走りだした。

 並んで走行する二台の雪上車のうちの後車には、最終会議に出席した十人ほどのメンバーと、IAEA要員にしてDGSEの工作員たるエティエンヌ、カプセル型担架アイソレータに眠るハンスが乗っていた。誰もが疲労しきって座り込んでいるなか、ベルト大佐だけが背面の窓にしがみつき、真剣な面持ちで遠ざかる基地を見送っている。

 ブリザードに霞む景観の奥底には原子力発電棟がある。


 ベルト大佐は、傍らに積んであった観測機器を殴って激昂した。

「くそっ! 君らも情報を持ち帰ることになる、生物兵器の争奪戦になるぞ!!」

 備え付けの二段ベッドの上から、撃たれた肩に包帯を巻いたエティエンヌが嘲笑った。

「我々を被爆させかけたあなたが、なにを言うんですか」

「あなたこそねエティエンヌ」フランスの女司令官が戒めた。「ずっと騙していたなんて!」

 陰謀に関与していなかった彼女は、同郷のスパイにここで初めて言及した。真実が明示されてからずっと怒りを堪えていたらしく、それでもエティエンヌのほうを見向きもしなかった。

 ベルト大佐はDGSEを下から睨んだ。

「予防措置は万全だった。アネリ女史も一枚噛んでいたからな」

 環視が、運転席の後ろに座るリサ・アネリ博士を包囲すると、彼女は恥じるように顔を伏せた。


 大佐は自棄になったようにぶちまけた。

「わたしの部下は、他国が発掘したアイスコアを研究される前に一時的に拝借していた。それを女史が分析し、危険なものがあれば滅菌作業と避難が履行され、基地の崩壊は臨界事故ということにされるはずだったんだ。本来ならばな」


「貴様というやつは!」

 気色ばんで立ち上がったプランケット提督を、そばにいたドイツの司令官が制止した。

「争ってもしょうがない。それよりこれからどうするかだ」そこまで言うと彼は、助手席にいる無線局主任に尋ねた。「ノザワ、避難は完了したのかね」

 車載無線機で仲間たちと連絡を取っていた野沢は、すぐさま答えた。

「逃げ遅れはないようです。ベルト大佐の話では原子力発電棟が妨害電波の発信源とのことですから、距離を置くなり棟が爆発するなりすれば、外部に救援も求められるでしょう」

「ひとまず安泰だな」ドイツ司令官は納得し、謎の病に感染した自国の隊員に目をやった。「それよりハンスだが、治療の当てはあるのか」

「は、はい……」セルゲイ博士は疲れたように言った。「B-46は、初期の種ほど毒性が弱いですから、おそらく……」

 なぜだか博士は、そこで口篭ってしまった。ベルト大佐が焦ったように会話に割り込む。

「病原菌を採取してからだ。検査のためにな」

「くだらないごまかしはたくさんだ」

 ハンスの傍らに寄り添っていたエッカートが、ベルトを見据えて皮肉った。

「そんなに殺人兵器がほしいか。アンリも浮かばれないぜ、みなに看取られながら逝ったのが救いか」

「アンリの死に立ち会った人がいたの?」

 頓狂な声を出したのは、フランスの女司令官だった。

 エッカートは不思議そうな顔をした。

「いないんですか? ハンスのような病状を示して、看病されているうちに亡くなったと伺っていたんですが」

「いいえ、アンリは雪に埋もれていたのよ。アンテナの修理中に転落死したものと推理されていたけど、B-46で身体機能に支障をきたして、バランスを崩したことが誘因らしいわね」

 日本の司令官が誰ともなしに尋ねた。

「わたしは犬が突然死したと耳にしましたが、あれは本当ですよね?」

「今朝ですな」ロシアの司令官が口答した。「しかし、突然死ではありませんでしたよ。老犬でしたからな。数日前から弱ってはいた。老衰だと誤解されていたが、セリョージャのおかげでバクテリアのせいだと判明したのです」

「では植物は?」

 訊いたのはプランケット提督だったが、これには長らく明答できるものがいなかった。

「こいつは傑作だ」二段ベッドの上でエティエンヌがはしゃいだ。「めちゃくちゃですね。いったい誰がこんな伝言ゲームを始めたんだか」


 乗員たちは口々に証言した。

「おれはノザワから聞いた」

「わたしも」

「ぼくもだ」


 瞬く間に、車内の全員の視線が野沢へと集束した。

「……す、すみません」無線局主任の野沢は、情けない声で謝罪した。「あなた方に、至急事態の概要を伝え招集するようとセルゲイ博士から頼まれたので、あまりの内容に前後を忘れてしまって……。実は、ポトスの世話は体調を崩したハンス氏に頼まれていたんですが、しばらく水やりを忘れていました……」

 みなは真相に呆れつつも、なにか釈然としないものを感じ始めていた。野沢の説明がいい加減だったこともあるが、セルゲイも委曲を尽くしてはいなかったのだ。博士が提示したものといえば、感染者から摘出されたB-46の変異体に関する、独自の見解と資料くらいである。


「ちょっと待て」エッカートが矛盾点に気が付いて言った。「世話をし忘れてたって……、セルゲイ博士の話では、感染した植物をもらってきたのは今朝だったはずじゃ……」

「わたそもそう聞いたわ」

 フランス司令官が同意すると、そこらじゅうから疑念の声が沸きだした。


 セルゲイ教授は、ただ頭を垂れていた。だがやがて、老人は魂の抜けたような声で言ったのだった。

「……正しいのは野沢だ。植物は世話をされていなかったために枯れただけです。そればかりか、アンリの死因は転落死で、犬の死も老衰によるものだ」


 あまりの発言に、誰もが唖然としてしまった。

 セルゲイだけが静かに告げる。

「ベルト大佐、だから湖を汚染する必要はなかったのです。爆発の防ぎかたはわかりませんでしたが……」

 仰天したベルト大佐は、やっとのことで口を開いた。

「……自分がなにを言っているのかわかっているのか?」

 セルゲイは項垂れたまま自白した。

「はい。……わたしは、わたしは幻覚に悩まされて精神科への通院歴がありましたが、……自分で言うのも難ですが、みなから期待され、自信に満ちて、研究を怪しまれないために病歴を偽造していました。それでもこの歳まで、人生で成功を勝ち得てきたつもりです。ですが、まだ若く女性であるアネリ博士に新発見の先を越され、……とても……」

 悔しそうに、彼は渾身の力を込めて自身の太股を拳で打った。

「――耐えられなかった!」

 そしてついに、とんでもないことを暴露したのだった。


「B-46には、病原性などありません」


 場は瞬時に凍りついた。

「馬鹿な!」ごく短い静寂を破ったのは、ベルト大佐だった。「感染者から分離されたというB-46の資料映像は、わたしも正視し――。……まさか!」

 絶句した大佐に向けて、セルゲイは核心を述べた。

「……そうです。変異した病原性のB-46というのは、過去の資料や映像を、継ぎ接ぎし編集加工した捏造です」

 たちまち車内は大混乱に陥った。数々の疑問が噴出する中で、あくまでゆっくりとセルゲイは語った。


「研究室で観察していたとき精神的に追い詰められていたわたしは、おそらく幻覚で病原性のあるB-46を見たのでしょう。そして状況的に、その報告が成立しうると気付いたのです。連絡を急いだあとは手遅れでした、二度と病原性のB-46など確認できなかった。ですがそこからはもう現実との区別も曖昧となって、今さら遅いしそんなはずはないと、辻褄合わせに過去の資料を捏造してしまいました……。ですが、原子力発電棟やベルト大佐の計画までは予期しておらず、変異体だけが滅菌されたことにすれば、それが実在しなかったとしてもばれないと考えたのですが……」


 ベルト大佐は愕然とした。

「そんな嘘が、……可能なのか」


「……不可能ではありませんね」答えたのはリサ・アネリ博士だった。「過去にも、ソウル大学の教授がクローン細胞による再生医療を樹立したと発表して、ノーベル賞候補と称えられたことがあったでしょう。これに伴い、世界中でヒトES細胞の製造が可能という前提で研究が進みましたが、のちにその研究結果は捏造だったことがわかりました。……あるいは日本での、実在しなかった刺激惹起性多能性獲得STAP細胞が実際に発見されたと信じて、医学会のみならずマスコミから一般市民までが、持ち上げては落とすの大騒ぎを演じた事例でも挙げましょうか?」


 彼女の発言を受けて、日本側の陣営は気まずそうに身を縮めた。そこに、セルゲイは弱々しい語調で補足する。


「自身の体内にいる細菌ですら、一般人には馴染みの薄いものですから。肩書きで飾られた人物にもっともらしい虚言を吐かれると、人は鵜呑みにしてしまいがちです。いくら情報を入手するのが簡易になっても、各人がそれらについて調べ、思案を巡らせることをしなければ意味はない。技術は高度になっても、人間は生物としてなんら進歩していませんから……」


 堰を切ったように、あちこちからセルゲイへの非難の声が上がった。

「何を他人事のように、冗談じゃない!」

「教授のホラ話で死にかけたのか!」


「――救いようがないな!」騒ぎを制したのはエティエンヌだった。

 彼は二段ベッドから飛び降り、低い天井にぶつからないよう中腰で立ったまま、己を仰ぐ数多の目線を見下ろした。

「教授一人のせいじゃないでしょう、彼は爆弾のことなど知らなかったし、我々もよく検証もせずB-46の毒性を盲信した。各員が不確かな連絡しか取り合ってこなかったが故に勘違いも生じ、挙げ句自爆装置を作動させた。全員に何らかの責任があったんじゃないのか?」


 それを聞いて、人々は自省の念を喚起させられて鎮まった。エティエンヌも胡坐をかいて座ると、恥ずかしそうに付け加えた。

「……もちろん、わたしも例外じゃないが」


 それぞれが自分たちの過ちや、できたこと、できなかったことを反省するなかで、エッカートは窓から、点となって背景に霞みつつあるメガラニア基地を傍観していた。ふと、もう秒読み段階に入っているであろう核爆発を思い出して、閃光を防ぐために窓を上着で覆うと、彼は開口した。

「まさかこの時代に、あんな狭い基地で、こんなことが起きるなんて……」

 ベルト大佐は脱力し、車体にもたれ掛かって言った。

「……どうやら我々は、慢心しすぎていたようだな」

「そういえばセルゲイ博士」

 いつの間にか目覚めていたハンスが、アイソレータの内部で僅かに上半身をもたげて、熱に浮かされながら訊いた。

「あのときおれがB-46の運搬を急いだのも、実はもう具合が悪かったからでした。すると、この病気はなんなのですか?」

 みながセルゲイ博士に注目すると、老人はそれらの顔を見渡してから、申し訳なさそうに回答したのだった。

「……南極にはないはずの病だよ。輸送機が来たときに外界から運ばれることはある。今回はたぶん、ベルト大佐が訪れたとき、C―130が連れてきたんだ」

 ついに涙を零しだしたセルゲイは、虚しげに解答したのだった。


「……風邪です」

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南極危機 碧美安紗奈 @aoasa

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