兵器

 原子力発電棟の鰻の寝床のような細長い通路を、彼はアタッシュケースを持ってひたすら出口を目指していた。


「そこまでだエティエンヌ」


 声を掛けられたのは、角を曲がり、やや開けた出口への道へ着いた途端だった。

 非常口の手前に、防寒用の戦闘服を着用し、自動小銃を構えた各国の兵隊が集結し、行く手を阻んでいた。声は、隊列を率いるプランケット提督のものだ。

 エティエンヌは肩をすくめた。

「アメリカは隅々まで腐っているのかね」


「カルビン・ベルト大佐から報告を受けてな」プランケットは眉を顰めた。「外に出るにはここを通らねばならん。カルビンの勝手な行動の理由も、そちらの事情もわからんよ。真相を教えてもらうことを条件に、おまえを止める役目を受諾しただけだ」


「ならばこちらに味方したほうがいい。わたしはあなたの国がやろうとしたことを真似て、派遣されたに過ぎないのですから」

「信用できるか!」

「基地を爆発させるいかれた計略は、アメリカのものですよ」


 兵たちは戸惑ったが、プランケットは動揺を外面には出さず、あくまで冷静に言った。


「……大佐が来たらはっきりさせよう。それで、そいつの中身は?」

 顎をしゃくって提督がアタッシュケースを示すと、エティエンヌは不敵な笑みで所持品を掲げた。

「あなたの国が良からぬことに利用しようと企んでいたものです。運んできてくれたので頂戴しただけのこと」


「今はフランスの手中にあるがな」

 新たな声は、エティエンヌの背後からのものだ。走って追いついたベルト大佐が、肩で息をしながら角を曲がって現れたのである。そのままそこに立ち、顧みたエティエンヌと睨み合う。

 フランス人の暴露に愕然とする兵士たちをよそに、大佐はプランケットへ不平を述べた。

「提督、我が軍だけでいらっしゃるように頼んだはずです」


「立場をわきまえろカルビン」厳しい顔付きでプランケット提督が反論した。「避難誘導で人員も不足している、これ以上、国家間の溝を広げたくもない。それより、上官のわたしも把握していないこの行動はどういうわけだ」

「……人類のためです」大佐は厳かに返答した。「わたしは、米特殊作戦陸軍USASOCの極秘任務を帯びて参りました。人類にとって脅威となりえるものがボストーク湖にあれば、核爆発で意図的に湖水を汚染し、崩落させた氷床で埋めなければなりません」

「百万年前の遺産だぞ! しかも核とは、条約に違反するばかりじゃない。湖どころか南極自体が汚染されるではないか!」

 同胞の愚考に、プランケットは激怒した。人類のみならず地球にとってもかけがえのない貴重な歴史を蔑ろにしようという所業が、理解できなかったのだ。

 ベルト大佐は動じなかった。

「通常の爆弾は、監視員に阻まれて持ち込めなかったのです。それに知的生命体がいなくなってしまえば、歴史など益もない。南極の氷床に特定のかたちで圧力が掛かると、氷の下から湖水が溢れ、海に流れ込む公算が大きい。もし世界中にB-46が蔓延すれば、地球は死の星になりかねません。温暖化によって、そのときは迫りつつあるのです。我々はこれを阻止せねばならない」


 排気ガスや排煙による環境汚染で二酸化炭素やメタンガスが増加し、熱を吸収する働きを担うこれらが、宇宙に逃げていた熱気までをも地球上に留めてしまうことなどにより発生するとされた地球温暖化。人類社会の地球環境への配慮も虚しく、それは現在も悪化していた。

 ボストーク湖の氾濫もまた、危惧されている。それは、かつて南極表面の一部が低下し、連動するように離れた地点での隆起が観測されてから、推測されている現象。多数の湖が河で繋がる南極の氷床下において、そこに加わる圧力が一定の限界を超えると、水が一気に噴き出すことが予想されるのだ。それが南極最大の湖であるボストーク湖で起きれば、洪水は海にまで達するとされている。ここに地球温暖化が重なれば、極地の氷を融かし、そうした傾向を助長する懸念もあった。


「変異体は偶然の産物だ」プランケット提督は嘆いた。「治療薬を開発する時間もあろう。百万年前の地球の遺産を、犠牲にせねばならないことか?」

 ベルト大佐は諦めたように言った。

「確かに、母なる大地への反逆者を自滅させるための抗体が、地球の免疫システムとして機能するのも畏怖すべきです……」

 大佐らの真の目当てを熟知するエティエンヌはせせら笑った。そんな彼に苛立ち、ベルトはやや躊躇するように言葉を区切ってから白状した。

「ですがもっとも警戒すべきは、人為的な凶器にされることだ」


 出口を塞ぐ隊員たちは困惑した。


「共同研究でそんな秘密を発見すればどうなります」ベルトは続けた。「どこかの国だけがそいつを収得して、隠蔽しておくなどということはできなくなる。いくつもの国が善人面をして採取することでしょう。そうして健全な研究を演出しつつ、裏では生物兵器開発に勤しむはずだ。往事の核武装競争のような事態になりかねないのです。研究目的ならば、一国でも入手していればいい」

 兵士たちは戦慄し、プランケット提督は失望したように言った。

「人類を絶滅させかねないバクテリアだと恐怖しながら、自分たちだけは回収するか。進歩のない過ちだ」

 無言の大佐を横目に、エティエンヌが皮肉な笑みで言う。

「第二次湾岸戦争のときも、自分たちが大量破壊兵器を持ちながら、イラクが大量破壊兵器を保持しているとして攻めましたからね。結局そんなものは、アメリカ側にしかありませんでしたが」

「すると、そいつが……」

 プランケットがエティエンヌのアタッシュケースを見据えると、ベルト大佐は警告した。

「見当はつくでしょうが、明言はできません。公言しない限りは疑惑の域を出ませんから。これにはパリジャンも同意見なはずです」

 エティエンヌは応じた。

「ええ、他国に感知されないよう回収するのが任務です。機密を関知した部外者は、〝不慮の事故〟で遺体となって帰国するはめになるかもしれません」

 基地の兵士たちは震え上がり、アメリカの司令官は慎重に言った。

「……持ち出すのか」

 フランスのスパイとアメリカの大佐が鋭い視線を交差させ、ベルトのほうが宣言する。

「どちらかが、そうするでしょう。わたしを援護すべきです」


 ベルトとエティエンヌは体勢を整え、真正面から対当した。

 三カ国の兵士たちはどちらに味方していいのかわからずにいたが、米兵と仏兵だけは、隣接しながらも特に緊張していた。

 壁越しの風雪の音色が一際高く唸った。

 次の瞬間。二人は隠し持っていた拳銃を抜き、発砲した。


 大佐の帽子は弾き飛び、スパイは肩に弾丸をくらって仰け反り、ベルトの弾のひとつがアタッシュケースに直撃。エティエンヌはもんどり打って倒れ、大佐は予想外の結末に銃口を下げて呆然とした。

 破損したケースから、容器と中身が散らばったのだ。凍ったB-46は無数の破片となっていた。

 大佐は悲鳴を上げてこぼれたそれらを拾おうとし、エティエンヌも傷口を押さえながらバクテリアのもとに這った。だが二人とも、入れ物が失われたために飛沫感染するそれを、どう収拾すべきか迷っていた。


 兵隊たちはあまりの出来事に棒立ちになっていたが、そこに加わったもうひとつの影が流れを変えた。

「こんなことをしてる場合じゃないでしょう!」

 外界と結ばれる扉から飛び込み、一喝したのは防寒着姿のセルゲイだった。全員が彼を注視する。

「もうすぐ基地は爆発します、大方の避難は完了しました。乗り物が待ってます、そこには患者も乗せた。どういうことかおわかりですね!?」

 セルゲイの訴えに、誰もが言説の背後に潜む真意を認識できた。B-46のサンプルは、患者の体内にもあるのだ。

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