灰色の猫、灰色の壁

錨 凪

灰色の猫、灰色の壁

去年の夏の終わり頃から職場のビルの大規模な外壁工事が始まって、ビルの敷地内の駐車場は工事車両と資材が専有することになり、そこで働く何人かの社員は少し離れた駐車場からビルまで歩くことになった。


私もそのうちの一人で、いつもより15分速く起きて準備をしなければならないことに辟易しながら歩いていくにはやや遠く、かといって敷地内の駐車場をねだるにはやや近い中途半端な道のりを通っていた。


だんだん日が短くなってきて、秋の気配が強くなってきた頃に、通勤路の途中にある、よく日の当たる軽自動車用なのか妙に短いガレージからはみ出た、朝日で温まった黒いSUVのボンネットの上に灰色の野良猫を見かけるようになった。


痩せた毛並みの悪い、目つきも悪く薄汚い小さな猫は、誰のかも知らない車のボンネットの上で、毎日丸くなっていた。野良にも関わらず、人が近寄っても逃げようとしないその猫は、いつしか生活の一分になっていた。


だが、季節は秋も半ば、冬が刻一刻と近づいてくる。この小さな猫は、今年の冬を越せるのだろうかと思っていた。3年前の大雪で司会の全てが白くなった光景を思い出し、その代の中にシミのように横たわる灰色を無意識に思い浮かべていた。しかし、私が命の責任を持つなどという大それた事ができるはずもなく、猫に見られながら通り過ぎていくだけだった。


時間が残酷に過ぎてゆく中、世界はそれほど猫にとって残酷ではなかった。いつもは雪が振り始める12月が過ぎ、元号変わって初めての年を超えても、ついぞ雪が積もることはなかった。


例年よりも薄い上着で通勤する中、猫は決まってそこにいた。名前も知らない誰かの車のボンネットの上は猫の特等席になっているようだった。私の前を歩く壮年の男がその背中を撫でていくのを見た。猫は街の一部になっているのだと思った。


しかし、ある日を境に猫は姿を消した。野良の猫だ、不思議なことはないと思っていたが。不思議なことにそれを機に霙が振るようになった。傘を指しながら通勤路を歩く私は、それが偶然であってほしいと願うばかりだった。


私の生活の一部が欠落しているわけではない、ただいつも見かけていた猫がいなくなっていただけだ。私の生活には何も変化はないはずだったが、妙な喪失感が私の心を支配していた。


すっかり寒くなり、上着の厚さが例年通りになった1月の終わり頃、ビルの外壁の工事が終わった。薄く汚れモルタルが剥がれ落ちていた外壁は、作業用の足場が取り外されると誇らしそうに真新しい灰色をしていた。


足場を組むために逃されていた植え込みが元の場所に植え直され、順番に開放された駐車場に順番に車が戻っていく。ビルの外壁工事という異常に押し出されていた者たちが、少しずつ 少しずつ本来収まるべき場所に収まっていくようだった。


明日には私の駐車場も空いて、私の車も収まるべきところに収まる時が来たという日の朝。不思議と暖かい陽気だった。久しぶりに少し薄い上着を羽織って、もはや通い慣れた通勤路を歩く。


冬場の妙な暖かさにあの猫を思い出し、もう気にすることもなくなっていた黒いSUVのボンネットの上には、白味が強くなって首輪を巻いた小さな猫が、丸くなって眠っていた。


なんてことはない、この猫も、収まるところに収まったんだろう。


そして、次はきっと、私の番だ。

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