ダイヤの指輪

 日曜日だった。



 寝坊してもいいんだと頭でわかっていても、どうしてもいつも通りに目覚めてしまう。七時のすこし前に起きる。朝食のおかゆを食べて、食器を洗って、七時半。もう、なにもすることがない。


 散歩にでも行けばいいのかもしれない。外を二本足で散歩したことなどない。駅前に本屋があるから、本を買って読んでみるのもいいのかも。未来さまの膝から見づらい角度で覗き込むだけが読書ではないのだ。ああ、携帯電話は契約しなくちゃ。前におばあさまの名義で使っていたやつは置いてきたから。でも面倒だなあ。だいたい、携帯を契約するのってどうすればいいんだろう。携帯会社とかどっかに電話するだけじゃ駄目なんだよね。というか、その電話がいまないのだし。



 結果としてわたしは、ベランダのそばに体育座りして、クローバーの群れをずっと眺めていた。


 空は青くて、ちゅんちゅんと雀が鳴いていて、ぽかぽかと温かい。……未来さまといっしょならはしゃげたほどの陽気だった。



 うつらうつらと、目を閉じる。



 ……間違えた、のかな、わたし。

 未来さまの命令なら、いくらでもまもれるって思った。待てっていうなら、一生涯でも待とうと思った。

 その気持ちが変わったなどと、そう認めるのは、あまりにも悔しいし、悲しい。


 けれども。

 たとえばそれは――この生活がずっと続くということ、なのだ。


 あの夜――未来さまとはじめてお出かけをした日から、日づけでいえばまだ一ヶ月も経っていない。


 でも、一ヶ月近い。……一ヶ月。そんなにも長くわたしがあのひとと離れていたことなど、いままで、ない、この二十年間いちどもなかったことなのだ。


 未来さまの命令なら、いくらでもまもれるって思った。待てっていうなら、一生涯でも待とうと思った。



 でも。待つということは。

 この生活がずっと続くと――そういうこと、なのだ。



 あした、あさって、しあさって。

 そう思ってずっとずっと希望を託して毎晩眠りにつくけれど。


 起きても、起きても、繰り返し起きても、朝は陽射しが馬鹿馬鹿しいだけで、希望はかたちになっていない。


 ……どこなの。ねえ。どこなのですか。

 わたしが変わってしまう前に、……なにもかもを忘れてしまう、前に。


 どうか、どうか、思い出してよ。

 わたしのことを。

 わたしはずっとあなたを忘れないと歯を食いしばって誓ったという事実を、どうか――。

 あなたがわたしを呼んでくれることだけがわたしにとって、この世界でいちばんでゆいいつの、絶対。




 ……だから、夢の続きだと思った。




「……コロ。コロ!」


 ドンドンドン、とすさまじい音がする。……覚えがない、音ってわけでもない。わたしだって、さんざんしつけられてきた身なのだ。そしてわたしのしつけというのは、言葉だけで終わるときもあれば、終わらないときも、あった。こうやってなにかを叩いたりねえ、うん、そうですねえ……。

 懐かしいなあ、と……。


「コロ! いないのか? いるだろ、コロ、俺だ――未来だよ!」


 はっ、と目を開けた。

 ――まさか。


 わたしは立ち上がり、駆けた。六畳とキッチンだけの部屋で駆けるもなにもない、とは、思ったけれど、じっさいに足がもつれて転んだ。すぐに立ち上がり、遠い、遠いよ、ひとりだったらすぐそこだった扉がいますごく――遠い!



「いる、いますよ、コロはここです、いま行きます、いますぐ!」



 扉に体当たりするかのようにして、崩れ落ちた。膝立ちになったまま、震える手で、鍵を――開ける。

 光が、なだれ込んでくる。

 未来さまが――光といっしょに、ここに、いる。



「……ご、しゅじん、さま」

「待たせたな、コロ」



 未来さまは、変わっていなかった、なんだかちょっと痩せたような気もするけれど、わたしを見下ろす目も身長差も、微笑んでいてもすこし得意げな表情も、わたしの頭に、乗せる――大きな手のひらも。



 夢じゃない、きっと、

 この感触だけは――現実だ。




 わたしは、膝から、崩れ落ちた。




「思ってたより大変だった。説得とか。……今後どうしていくかとか。ばあさんも……一族のひとたちもさ」


 わたしは未来さまを見上げる。

 未来さまはわたしの頭から手を離すと、玄関に入ってきて、後ろ手で扉を閉めた。

 ぼんやりと、薄暗くなる。


「……靴、これだけかよ。家を出てく前といっしょじゃんか。せっかくなんだからもっとお洒落して買ってみればいいのに」

「そんなの……いらないです」


 首を横に振ってみせると、ぶわっ、と涙が溢れた。


「わたしは……コロは、ご主人さまが、未来さまが、いてくれれば、それだけで……それだけで、いいっ……」



 未来さまは、膝立ちのわたしの目線に合わせて、しゃがみ込んだ。

 そして、撫でてくれた。



「……よく、待っててくれたな」

「あ、あ、当たり前、です、わたしは……ずっと、ずっと……!」

「もう遠くには行かないから」


 ぐずぐずと泣くわたしに、未来さまは、小さな包みを差し出した。


「な、んですか、これ……」

「いいから。開けてみ」


 涙を腕で拭いながら、包みを開ける。


「……ふえっ?」



 思わず、叫んでしまった。

 だって――ダイヤの、指輪があった。



「な、な、なんなのですかこれは……ご主人さま……」

「おまえのことに責任取れってさ。ばあさんが」



 未来さまは、困ったように笑う。……照れているようでもある。



「おまえと結婚できるくらいの覚悟があれば、まあ、俺のこと勘当まではしなくていいとか言ってたよ。コロを家に戻してもまあ、いいってさ。犬が嫁になるとは大出世ですねなんて、あのすまし顔で言ってたよ」

「それって……」


 飯野さんが言ってたけど、そういうさまを――犬が嫁になるとか、そういうのを見るのは単におばあさまの趣味なのでは、と言おうとして、やめた。……わたしが知っていても、未来さまがあえて知らなくもいいことっていうのは、あるのだろう。



「コロ」



 わたしの、頭を、撫でる。いつも通りに、でもすこしだけ強く。



「――俺と、結婚してくれるか」



 コロって――呼んでくれた。

 こんなときまで。

 わたしは人間としては間違いなく公子という名前があるのだけれど――このひとは、もう、わたしをコロと呼ぶことをためらってはいないのだ。



「……わたしが……いいんですか、わたしで……犬ですよ……犬と結婚……とか……」

「おまえとずっといっしょにいるにはそれしかない」




 未来さまは、いつにもまして真剣な顔で。




「やり直せる。……だろう」

「――直さなくっても、いいのです」



 だから、わたしも、いつにもましてぴっかりと笑って、みせた。



「わたしは……いまのままの毎日で人生がずっと続くなら、ぜったい、そうしたいです」



 そして、指輪の箱を手にしたまま、未来さまの胸に頭を当てて両手を当てた。



「……ありがとうございます」



 どうにか、それだけは、伝えなくちゃって。



「コロを、選んでくれて、ありがとう……」



 頭に、もういちど、手が乗せられた。

 ざらざら、と髪の毛ごと撫でられるこの強い感触が――きっと、すべて。




(おわり)

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ざらつく 飼い犬として育てられた少女と、飼い主として育てられた少年と。 柳なつき @natsuki0710

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