誰より笑顔が似合う人

佐藤ぶそあ

誰より笑顔が似合う人

 島井のことを、今でもたまに思い出す。

 中学に入ったら背が伸びるからと、ワンサイズ大きい制服を買ったのだろう。結局、卒業まで背が伸びないままだった島井は、だぼだぼの学ランに着られた新入生みたいな雰囲気がいつまでも抜けなかった。

 あれはクラス対抗合唱コンクールの練習中だったはずだから、中学三年の秋口くらいの話だ。

「真面目にやってよ、男子」

 まるで青春ドラマから切り抜いたような台詞を、アルトのパートリーダーだった私は言ったのだ。歌うのが恥ずかしいのか、茶化してばかりいる男子に業を煮やしてのことだった。

「えー、だってよう」

 おどけた調子で応えたのが誰だったのかは思い出せない。けれど、なんと言ったのかは覚えている。

「女子が混じってて音が合わねえもんよ」

 数人の男子が、声を立てて笑った。その視線の先には島井がいる。

 私が何かを言い返そうとするより先に、よく通る声が教室に響いた。

「じゃあ」

 まだ声変わりの来ていない高い声。笑顔すら浮かべて、島井は言った。

「女声パートに行くよ。アルトでいい?」

 一瞬、教室が静かになる。はっ、と笑い飛ばそうとして失敗した男子が、いっそ滑稽だった。

「新坂さん?」

 島井に名前を呼ばれて、私は頷いた。

「あ、うん。私らは大丈夫……だよね?」

 パートリーダーと言っても全権を持っている訳ではない。ぱらぱらと頷きや、島井くんなら歓迎、なんて声が返ってくる。

「それじゃ、よろしく」

 島井は満足そうに頷くと、アルトパートと男声パートの間まで歩いてきて自分のスペースを確保した。

「大丈夫。音痴なやつが、一曲の間まるごと他のパートに引っ張られているだけだもの。ルール違反にはならないよ」

 今度は、クラスのあちこちから笑いが起こる。ソプラノにつられて音を外すなんて、私だって身に覚えのある話だった。

 そこからの練習は、案外とまとまりのあるものになった。

 音痴だなんて自称していても、島井の声はしっかりとアルトのパートへ溶け込んだ。男声パートは低すぎて難しかったのかもしれない。むしろパートの移動前よりも声が出ているくらいだった。

 あるいは、真面目に歌うくらい島井に比べれば恥ずかしくない、音を外して女子のパートを歌ってしまえば島井と同じになる、などという考えが、男子たちの結束を固めさせたのかもしれなかった。


   ◆


 順調だったはずの練習が崩れたのは、コンクールの半月ほど前だっただろうか。

 朝からケホケホと咳をしていた島井が、練習の途中でも咳き込みだして、何度か歌が止まってしまったのだ。

「風邪? 無理せず休みなよ」

 放課後の練習が終わったあとで、確かそんな風に声をかけた。

「そうかも。湯冷めしたかな」

 長さの余った袖に半分くらい隠れた手で、島井は喉をさすった。

「宿題を終わらせたらさっさと寝るよ」

「明日はマスクもしてきてよね」

「了解、リーダー」

 なんて冗談めかしたやりとりをして、私たちは教室を出た。

 けれど、状況は変わらなかった。

 次の日も、その次の日も島井の声からいがらっぽさは取れず、私たちはそれが何なのか理解せざるを得なかった。

 昼休みにひっそりと、パートリーダー会議が招集された。指揮者、伴奏者、ソプラノパートと男声パートの各リーダー、それに私。

 島井がアルトパートへ移ってきたときのようなやり方は、したくなかった。

「男子の方は大丈夫だと思う。普通に、歌うのが楽しくなってきたみたいだし」

 男声パートリーダーの大川は苦く笑う。彼の場合はリーダーと言いつつも、押しつけられたと言った方が実情に近い。

 そして私に視線が集まる。

 男子の方で受け入れが問題ないのなら、アルトからのは、私の役目ということだ。

「分かった。今日の練習が終わったら、言う」

 私がそう答えたことで、クラスの方針は固まって、リーダー会議は解散となった。

 放課後。練習中の島井はやはり歌いづらそうで、そしてアルトパート全体がそうなりつつあった。

『女子が混じってて音が合わねえもんよ』

 随分前に聞いたようにも思える台詞。誰が言ったのかは思い出せない。けれど、私の心に浮かんでしまった言葉は覚えている。

 男子が混じっていると、音が合わない。


   ◆


「島井、この後ちょっといい?」

 練習が終わったあとで声をかけると、島井は盛大に眉をひそめた。

 仮にも女子からの呼び出しだというのに、失礼な話だった。もちろん私は、きっと島井も、この呼び出しがそんな色めいたものでないことを、十分に理解していた。

「風邪だよ」

 人の来ない場所ということで、屋上へ続く踊り場までわざわざ歩いて行って、さあ本題を切り出そうとした瞬間に、機先を制された。

「……風邪だ」

 かすれた声で、島井はもう一度そう言った。

「戻り辛いなら大丈夫だから。大川が取り持ってくれるって」

 あんなに堂々とアルトパートへ入ってきた島井が、子供みたいに首を振った。

「いやだ」

 実際、私も子供だった。それがトドメだと知らなかった。

「ようやく声変わりが来たんでしょ?」

「いやだ、男になんてなりたくない……!」

 絞り出された言葉。喉を両手で掴むようにして島井は体を折り曲げた。ぽたぽたと水滴が床に落ちる。

 この期に及んでも私は、男の子も泣くんだなんて、絶望的にずれたことを考えていた。

「だ、大丈夫? 痛いの?」

 慌てて背中をさする。

 男子の声変わりを経験したことのない私は、何日も咳が出るくらい、喉風邪みたいに痛いのだろうと、そう思ったのだ。

「私も背が急に伸びたときは膝とか肘とか痛かったけど、一週間くらいで治まったし。大丈夫だよ、すぐだよ」

 ふっ、と島井が吐息を漏らした。それは連続して、笑いになり、喉につかえたのか咳き込んで、咳き込みながらも島井は笑った。

「新坂さんはいつも格好いいのに、たまにアホだよね」

 ひとしきり笑ってから、島井はようやく顔を上げた。笑いながら目許も拭っていたのか、涙のあとはない。

 私はムッとして言い返した。

「島井はかわいい顔して、たまに失礼だよね」

 今度こそ、島井は呼吸困難になるほど笑い出した。


   ◆


 あのあと、どうなったのだったか。

 島井が翌日から男声パートへ戻ったことは覚えている。男子連中は、声変わりして男になった島井を、寛大にも受け入れた。当時の自分のことを棚に上げて言うけれど、ひどい話だ。

 いや、よりひどいのはやはり、私の方なのだ。きっとクラスで私だけが、もしかしたら家族すら知らなかった島井の願いを知っていた。

 知っていたくせに、理解もしていなかった。

 島井は今日、来るのだろうか。

 成人式のあとにと企画された中学のクラス会。高校の同窓会も同じ日にあるやつが多いとのことで、幹事から送られてきた開催時間はかなり早い。

 レンタルしていた晴れ着を返却して、一度着替えてから到着したカラオケの宴会ルームは、もうすでに出来上がっていた。着替えてきて本当に良かったと思う。こういう雰囲気はコンパで何度か見たことがある。いつ誰が羽目の外しすぎで粗相してもおかしくない。

「あっ…………新坂さん? 新坂さんだ! わー、なつかしー!」

 コートを脱ぐ暇すらなく、扉の側にいた誰かに声をかけられる。向こうがこっちの名前を思い出してくれたというのに、私はなかなか名前が出てこない。

「私、分かる? 井本。コンタクトにしたから」

「井本? うわ、なつかしい! えー、元気だった?」

 名前を言われて思い出せた。確かに鼻の形に面影がある。

「元気だよう。新坂さんは何か飲む? ビール? チューハイ?」

「や、誕生日来月だから。烏龍茶かな」

「あー! 新坂さん変わってない! そういうとこ変わってない!」

 バンバンと背中を叩かれる。井本も完全に出来上がっていた。

 私はどうにかコートをハンガーにかけて、空いている席へと腰を下ろした。

「新坂さんって聞こえたけど……わ、本当に新坂さんだ」

 名前を呼ばれて振り向く。

「島井」

 すっと名前が出てきた。

「そうだよ、島井。卒業以来だね」

 座っていても肩の高さが違う。島井は随分と背が伸びていた。

 私は大きく息を吸って、吐いた。

「でっかくなったね」

「でっかくなっちゃったよ」

 島井は寂しそうに笑った。いや、私の錯覚かもしれない。

「新坂さん、何か歌う?」

「あー、飲めないから歌うわ。会費分歌わなきゃもったいないし」

「了解。あ、大川、リモコン貸して」

「ありがと」

 何人かの手を経由して私の手にリモコンが回ってきた。とりあえず予約されている曲を確認する。何曲か持ち歌を潰されているけれど、そこだけ避ければ問題ないだろう。誰かは分からないが懐かしのアニソンまで入っている。

 そんなことを考えながら曲を探していると、私の持ち歌のイントロが流れてきた。この曲は好きなだけに歌えないのは悔しい。

「あ、僕だ。マイク貸して」

「島井!?」

 隣から聞こえた言葉に、私は驚いて顔をあげた。

 島井はマイクを持つと小さく息を吸って、歌った。良く通る高音。何度も練習したに違いない裏声だった。

 視線が集まる。

「うっま」

 誰かが呟いた。

 間奏に入るとそこら中から拍手と歓声が上がった。

「えっ、島井ってば歌うまいじゃん。すごくない」

「練習したよー。そんで練習したら割と誰でもできるよー」

「本当かよ」

 短いやりとりの間に間奏が終わり、島井はまた楽しそうに歌い始める。

 酔っ払いたちはノリがいい。曲が終わると惜しみない賛辞が島井に送られた。

 鼻の奥がツンと痛くなる。少しだけあごを上げて、何度か瞬きをした。

「新坂さん?」

 私の奇行に気づいたのか、島井が声をかけてきた。ちょっと待ってと身振りで示して、私は深呼吸した。この賛辞は島井のものだ。私が勝手に感動していいはずがない。

 時間をかけて落ち着きを取り戻すと、ようやく私は島井の顔を見た。

「島井の声、すっごいかわいかった」

「でしょ?」

 嬉しそうに笑った島井の顔は、もう寂しそうには見えなかった。


〈誰より笑顔が似合う人・了〉



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