後編

 週末、落とした拍子に壊れてしまったスマホケースを買い替えるために、私は電気屋へやってきていた。分裂した時点でもともとその予定にしていた、ということもあって、もう一人の私も、同じように店にやって来ていて、既に沢山並んだケースの前であれこれケースを物色していた。


 しばらく、あれやこれやと探すものの、なかなかピンとくる、コレといったものは見つからない。そうこうしていると、もう一人の私が何やら幸せそうなほくほく顔でレジへ歩いて行くではないか。その手には、スマホケースがひとつ。

 そんな幸せそうな顔をするほどイイものが、果たしてあっただろうか。訝しく思いながら、もう一人の私が手にしているケースを見ると、たしかになるほど、こんなにもピンとくるケースがあったのか、と驚くようなものを選んでいる。

 さっそく、私はもう一人の私が選んだケースが並ぶ棚の前にやってきた。目的のケースは、足元の非常に分かりづらいところにぶら下がっていた。私はそれを手に取った。

 これ以外には買うべきものはないだろう、というほどに完璧に私が欲しいと思えるような見た目をしている。

 これはすごい。『あなたの好みの商品をAIが探してくれます』などとうたっている最近のサービスよりも遥かに精度の高い、商品選びツールを、私は手に入れたということになるのではないか。なんといっても、選んでいるのが私なのだ。


 ――だが、選ぶ手間が省けた、などと言ってもう一人の私と同じものを買う、というのはつまり、私はただ、もう一人の自分の後ろをついて歩くだけの、もう一人の私よりも一歩遅れた存在になるのではないか、という思いも頭をよぎった。

 なんとなく、もう一人の私から、「どうせお前はコレ買うんだろ?」と馬鹿にされているような気もする。そんな状態で、盲目的に、何も考えずに、よだれを垂らしながら、もう一人の私のトレースを続ける私を想像すると、徐々に気分が悪くなってきた。

 薄暗い考えを巡らせているうちに、最初のころこそ、自分が選ぶならこれ以外にない完璧だ、などと思っていたケースが、ひどく色あせた、どうってことないそのへんにぶら下がっているその他大勢のケースと同じか、それ以下に思えてきた。


 しばらく悩んだ末、結局私は、もう一人の私が買ったケースを棚に戻し、とりあえずこれならば妥協できるだろう、という見た目のケースを買うことにした。

 ――しかし、こんな風にいちいち、もう一人の自分がやっていることを否定するみたいに生きていたら、そのうちに私は私じゃなくなってしまうのではないか。


 それから私は、もう一人の私をあまり意識しないで生活するよう心掛けるようになった。こんなよくわからない中途半端な怪奇現象ごときで、人生がどうにかなってしまうのは不本意だった。もう一人の私が、あの日に分裂した別の人生を歩む私自身であるとか、そういうことはもう考えないようにして、ただ半透明の自分の姿をした幻覚が、ただ見えているだけなのだ、と思うようにすることにした。

 とはいっても、どうしても日常生活のなかで、もう一人の私のことが意識に入ってきてしまうことがある。その度に、意識しないように努めていても、同じ場所で弁当を広げるのはやめておこう、とか、バスの同じ座席に座るのはやめておこう、といった些細な抵抗をしてしまうのは、どうしても避けられなかった。


 高校を卒業すると、私と、もう一人の私の生活パターンが異なるようになった。どうやら、私ともう一人の私では、進学した先が違うようだった。私自身は、元々志望していた大学に入れていたので、もう一人の私は落ちたのか、途中で志望先を変えたのだろう。

 果たしてもう一人の私が今何をしているのだろうか。あの日、私が1段飛ばしに成功していたなら、私もこの半透明のもう一人の私と、同じ生活をしていたかもしれないのだ。どうしたって気にせずにはいられなかった。


 長い事こうして、もう一人の私を見続けていて、ずっと気にかかっていることがあった。

 それは、あの日以来、私からもう一人の私が分裂して出てくる、という事が起こらない、ということである。

 そもそも、これまで18年以上の人生の中で、分裂を経験したのはあの1段飛ばしに失敗した時がはじめてだったのだ。つまり、私にはあの1段飛ばしを成功したか、しなかったかの、2つの人生しかなかった、ということなのだろうか。

 とてもそうは思えなかった。

 別に、自分が可能性の塊で、もっともっといろんな可能性の自分が分裂して、いろいろ様々な、楽し気な人生を歩んでいるはずなのだ、などと思っているわけではない。ただ、たった2つにしか分裂しない、というのが酷く中途半端で、わざわざこうして可能性宇宙の一端を見せられておきながら、そこに宇宙的な広がりを感じなかったのだ。

 無限の可能性が私から分裂していくのなら、こうして考えている間にも、ティッシュを取りにいく私や、足を組み替える私、お茶を飲む私や、スマホに視線を落とす私などが、無駄に次々に分裂してもよさそうなものなのだ。しかし、実際はそんなことは起こらなかった。

 こんなことを、いくら考えたところで答えなど出ないのだが、こうして進学先が違う、という大きな変化を見せつけられると、どうしても考えてしまう。どうして私には、この進学先が違う、もう一人の私しか、見えていないのだろうか、と。


 例えば、半透明のもう一人の私のほうが本当の私で、この私は本当の私になり損ねた存在である、とか。


 人生の分岐は、枝から枝、さらに枝へと細かく分岐していくのではなく、タマネギの皮みたいに剥がれていくだけなのだ。今も、もう一人の私からは次々にいろんな人生が分岐しているのだが、もう分岐し、剥がれおちてしまった私からは、それを見ることはできないのだ。

 いや、そうではなく、私はタマネギから剥がれおちたタマネギで、私からはまた多くのタマネギが剥がれおちていくけれど、剥がれおちてしまった側からしか元の私は観測できず、だから私は元の私しか見えず、剥がれおち分裂していく私は見えていないのだ、ということも考えられる。

 ただ、どちらにしても、もう一人の私からは私の姿は見えておらず、また私の人生において半透明の私が分裂したという事象が、私の主観においては一度しか見えていない以上、もう一人の私のほうが主流で、私の方が分裂した亜流である、ということに間違いはないように思えた。


 それからずいぶんと時間が経ったある日のこと、バイトを終えて帰宅し自室に入ると、もう一人の私がひどく憔悴した様子で、部屋の片隅で膝をかかえていた。かなり派手に泣いたらしく目を赤く腫らし、呆然と壁の一点を見つめている。

 一体どうしたのだろうかと眺めていると、やがて私はぽろぽろと大粒の涙を流し始めた。もう一人の私がいくら拭っても、涙は止めどなく出続ける。そのうちに、もう一人の私は、両手で顔を覆い、激しく泣きじゃくりだした。

 私は酷く狼狽した。

 これまで生きていて、こんな風に泣いたことなど、一度だって無かったのだ。

 たしかに、家族と喧嘩をして泣いたり、友達に心にもないことを言われて泣いたりしたことはあったが、しかし、かみ殺したようにひっそり泣くくらいで、すぐに平静を取り戻すのが常だった。あんな風に、心の奥底から、まるでドラマの主役みたいに泣いたことなんか一度もなかったし、どうすれば自分があんな風に泣くのかも、想像がつかなかった。

 もう一人の私に、あんな風に泣かなければならない、想像もつかないような、想像もしたくないような、重大な事態が起こっているのだとすれば、今の私のほうが平穏で平和な人生であり、ほっと胸を撫でおろすべきなのだろう。

 しかし、こんな大きな違いを見せつけられた私の胸をかすめるのは、あれは本当に私なのだろうか、という思いだった。

 ――いや、違う。


 あれが本当に私なのだとした、私は本当に私なのだろうか。


 私は、もう一人の私が泣き疲れて、膝を抱えたまま眠ってしまうまで、ずっと、もう一人の私のことを見続けていた。


 しばらくして、もう一人の私は、私の日常から姿を消した。

 おそらく引っ越しをしたのだろうということは、その直前の数日間、部屋の中で忙しく動きまわっていたことで想像がついていた。

 間違いなく、あのとき私に、重大な何かがあったのだ。

 最も嫌な考えが脳裏をかすめたけれど、私はそれを打ち消した。それは別に、今の私に影響を及ぼすような考えではないけれど、縁起でもないことは考えないに限る。


 それからというもの、もう一人の私の姿をどこかで見かける、ということは起こらなかった。

 もはや、もう一人の私が――例えば死んでしまったのだとしても、もう私にはそれを知る術はなかった。

 だから、少なくとももう一人の私が生きているのだということを知るために、いつの日かどこかで、ひょっこりと、半透明のもう一人の私を見かけるような事が起こらないかと、起こったらいいなと、ぼんやりと思う。

 いくらもう私ではない存在になってしまったとはいえ、あのとき涙を流していた、とても私だとは思えない弱々しい存在が、もうこの世のどこにも居ないのだと想像するのは、ひどく残酷なことに思えてならなかった。


 もう一人の私は、彼女は、いまも元気だろうか。


――私とさよなら 終

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私とさよなら なかいでけい @renetra

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ