私とさよなら
なかいでけい
前編
ある朝、私はもう一人の私が見えるようになった。
その日、普段通り目を覚ました私は、朝食を終え鞄を取るために2階の自室へ上がった。そして、まだ起きたばかりで頭がぼんやりとしていた頭をたたき起こすために、階段を1段飛ばししてみようと思い立った。その思い付きは今日に限ったことではなく、普段も特に理由がなくてもしている、癖のようなものだった。
しかし、今日の1段飛ばしは、足を中途半端に持ち上げた段階で1段飛ばしを思いついたという、動作的準備不足によって、不完全な着地となった。それによって、私は体のバランスを崩し、階段から転げ落ちてしまった。――まあ、2段ほどの高さからの落下だったので、体へのダメージは全くといってなかった。足をくじくようなこともなく、ただ酷く騒々しい音が家中に響いただけだった。
しかしその時、不思議な事が起こった。
1段飛ばしに失敗し、落下する私の目に、1段飛ばしに成功し、軽やかに2階へ上がっていくもう一人の半透明の私の姿が、はっきりと見えたのだ。
なんだろう、今のは幻覚だろうか。
そんな風に、無様な恰好で廊下に寝転がりながら考えてみたが、しかし私の目に映った光景はとてもリアルなものだった。とても幻覚や夢の続きだったとは思えない。
私は立ち上がると、慌てて2階へかけ上がった。すると丁度、もう一人の私が鞄を手に部屋から出てくるところだった。もう一人の私は、私の存在などまったく意に介さない様子で、私の体をすり抜けて階段を降りていく。途中、私を心配して階下から上がってきた母とすれ違った――というか、ほとんど重なりあう状態になったが、母はもう一人の私の存在に全く気が付いていない様子だった。
怪訝な顔で私に大丈夫かと問う母を押しのけ、階下を覗き込むと、もう一人の私が外へと出ていくのが見えた。
私は急いで鞄を取ると、もう一人の私を追いかけた。
バス停までの道のり、私はテクテクと呑気に平和な顔をして歩いていくもう一人の私を360度くまなく観察してみた。途中、歩きながらぐるぐる回転している私をみて、不審な顔をしている近所の人とすれ違ったが、気が付かないフリをした。
まず分かったことは、このもう一人の私は、間違いなく私であるということだ。
これはもう疑いようがなく、わざわざ一つ一つ確認するまでもない、外見的な要因すべてが、私と同じだった。ただしその姿は幽霊じみた半透明――画像加工アプリでいうところの、透明度30%~50%程度の半透明具合である。
また、当然と言えば当然か、写真を撮っても、その姿を撮影することは出来なかった。
撮影できなかった時に、私は思わず「だよね」などと呟いてしまった。
往々にして、こうした不可思議で超常的なものは撮影できないと相場が決まっているので、私は別にそれが残念だとも思わなかった。逆に映ってしまったほうが、他の人の撮った写真にまで半透明の私が幽霊のように映し出されることになるので、厄介である。世の中の心霊写真すべてが私の顔になりかねないのだ。
さらに観察を続け、このもう一人の私は、今日の、今の私に、限りなく近い外見をしているということも分かった。
私の左手の甲には、長い引っ掻き傷がついている。それは昨日、校庭の植え込みに落としたスマホを取るときにつけてしまった傷だった。その同じ傷が、このもう一人の私の左手の甲にもついていた。また、今日おろしたばかりの新しい靴下を、私と同様に履いているのだ。まず間違いなく、今の、この私とほとんど同じような存在なのだろう。
まあ、もう一人の私が今日の私と同じ姿かたちをしていることが分かったところで、この半透明ではあるものの私のような見た目をした、まるで私みたいなモノが何であるのかはさっぱり分からないのだが。
バス停でバスを待つ間、もう一人の私はポケットからスマホを取り出し、SNSを見始めた。私は、そんなもう一人の私をじっと見つめていた。本当はもう少し距離を取って観察したかったのだが、生憎バス停には既に並んでいる人がおり、また私の後ろにも列を作ろうとしている人がいたため、私はもう一人の私とほとんど重なり合った状態でバス停に並ばざるを得なかった。
私は、体が例え一部であろうとも、もう一人の私と重なり合った状態であることに一抹の薄気味悪さを感じた。もしかしたら、このもう一人の私は、私になり損ねた、異次元世界の幽霊的私で、こうして私と重なることで、生命エネルギーを奪う的な、そういう敵対存在であるかもしれないのだ。その場合、こうして重なり合い続けているうちに、私は私ではなくなってしまったのでした……。ということになり兼ねない。
などと考えているうちに、バスがやって来た。
もう一人の私はバスに乗り込むと、迷うことなく前方に向かって進んでいき、一番前の座横の吊り革に捕まった。そこは、空いていれば必ず私が立つ場所だった。今日だって、こんなことになっていなければ、私は間違いなくそこに立っただろう。
私はもう一人の私を観察するために、わざとワンテンポずらしてバスに乗り込んだ。背後のサラリーマンが舌打ちしていたが、聞こえないフリをして、もう一人の私の隣に立った。
ここならばもう一人の私が良く見える。
そう思っていると、背後で舌打ちしていたサラリーマンが、もう一人の私に完全に重なる形で、そこに立ってしまった。
動き出したバスによって、もう一人の私とサラリーマンは、ゆらゆらとゆれながら、重なったり、多少ズレたりを繰り返す。
それはなんとも薄気味の悪い光景だった。
半透明の私の顔が、サラリーマンの首のあたりから現れたり消えたりしているのを見せられて、私は一体、何を思えばいいのだろうか。
結局、もう一人の私とサラリーマンは終点まで同じ場所で重なり続けていた。
朝から異様な疲労感を覚えつつ終点でバスを降りると、背後から、同じクラスのメガネの友人が声をかけてきた。ふと前をみると、半透明の私も、誰かに話しかけているらしく、数メートルほど前方で立ち止まって振り返っている。
メガネの友人は、もう一人の私を――何もない空間を眺めている私を見て、不思議そうな顔をした。
私は、いま自分に起こっているこの奇妙な事態についてこの友人に説明をしようかと考えた。しかし、この状況を誰かに口外することによって、突然これまで平和な顔をしてテクテク歩いていたもう一人の私の顔が般若の様な形相になり、「喋ったならば死ぬしかないのだ」などと言い出さないとも限らないので、止めておいた。
学校前に停まる始発バスに乗り込むべく、同じ高校の生徒たちがずらりと並ぶ列の最後尾についた。おそらく、1台は見送らねば乗れないだろう。もう一人の私は、10人ほど前方で、女子生徒と重なりあっている。あの位置だと、ぎりぎり1台目のバスに乗れてしまうかもしれない。一時的に私の目の届かないところにもう一人の私が行ってしまうのは、問題ないのだろうか。
たとえば、もう一人の私が目の届かないところにいってしまった場合、何がおこるのだろうか。私は考えた。
まず、このあとずっと、もう一人の私を見つけることが出来なかったとしても、それが『もう一人の自分が見えなくなった』のか、『もう一人の私がどこかに行ってしまったのか』の区別がつかない。別に区別なんか必要ないのだが、永遠にはっきりしない状態になりつづけるのは、多少気持ちが悪い。
また、少し悪い方向に考えるのならば、私がもう一人の私を見失ったことによって、私の監視を外れたもう一人の私が本性を露わにし、誰彼構わず憑りついて、そこら中でゾンビみたいなのを量産するとも限らない。
――まあ、それはないような気がするが。
ただ、なんであれ私はもう一人の私を見失うということに一抹の気持ち悪さを感じていることは確かであり、ここでもう一人の私と離れ離れになりたくなかった。
と、思った時にはもう一人の私は1台目のバスの乗降口のところで自分の体をおしつけて、頬を膨らませて一生懸命に踏ん張って、強引にバスに乗り込んでしまっていた。私は慌てて1台目のバスに乗り込もうと、列を無視して駆け出したものの、しかしどう頑張っても私が乗り込むことの出来そうな隙間は無かった。
結局、私を置いてバスは行ってしまった。
どうにも落ち着かないまま、教室へ入ると、もう一人の私は何食わぬ顔をして自分の席に座っていた。驚かせやがって、とひとこと文句を言いたいところだが、私はただ自分の席を睨みつけるにとどめた。どうせ文句を言ったところで向こうには伝わらないし、クラスメートから変な目で見られるのがオチである。
結局、もう一人の私を数十分にわたって見失い、離れ離れになっても、何事もなかった。もう一人の私とは、離れてしまっても問題はない、ということなのだろう。
そうして、席に座って何者かと談笑しているらしいもう一人の私をぼんやり眺めていると、メガネの友人から、何をしているのか、と訝し気な視線を投げかけられた。
私は慌てて、なんでもない風を装って、自分の席に腰をおろした。
すでにもう一人の私が腰かけている椅子に自分から腰をおろす、というのは非常に気持ちが悪かったが、しかし腰かけてしまうと、もう一人の私の姿はまったく見えなくなった。試しに体を捻ってみても、すぐ真横にもう一人の私の顔がある、という事もないし、両脚をど派手に開いてみても、その間にもう一人の私の脚は見えなかった。色々と試していくうちに、体の同じ個所が一定の割合以上重なっていると、一時的に見えなくなる、ということが判明した。
いつのまにか、私が自分の席で腰を浮かしたり、立ち上がったり座ったりを繰り返したりと、奇妙な行動をとっていた様をメガネの友人に動画撮影されており、私のスマホに無言でそれが送られてきていた。
――そういうわけで、授業を受けている間は、もう一人の私の存在が、私を邪魔するということはなかった。休み時間などになると、席に留まらなくなるため、私の視界のどこかしらで、もう一人の私が好き勝手に動きまわっているのがちらつき、ときおり鬱陶しく思うこともあったが、それも下校の頃には早々慣れてしまっていた。
おそらく、この半透明の私は、今朝、階段で1段飛ばしに失敗したときに分裂した、1段飛ばしに成功した世界の私、なのだろう。
つまり私は、『階段の1段飛ばしに失敗しなければ、こうなっていたはずだったのに……』というしょうもないifを延々と見ているのだ。
そう考えると、何か神様じみた存在から、1段飛ばしに失敗した愚鈍さをひたすら馬鹿にされているようで、非常に気分が悪い。しかしこの憤りをぶつける先はない。
いま、風呂でいつも私が寄りかかっていた側面に寄りかかって、間抜け面で恍惚の表情を浮かべているもう一人の私は、まさか向かい側の風呂の湯沸かし口に背をつけて、自分の顔を睨みつけている別の世界の自分がいるとは思っても居まい。そういう意味で私はもう一人の私よりも優位に立っているともいえる。
しかし自分に自分でマウントを取っても得られるものなど何もなく、ただただ虚しいだけである。
――後編につづく
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