後編 新しい命

 その翌日。


「あっ、いたよ」


 理真りまの声に、私も確認の意味で頷いた。

 道路を挟んだ向こう、下校の途に就くため校門から流れ出てくる大勢の小学生たちの中に、目的の人物を見つけた。言うまでもない、駒井こまい香菜かなだ。友人らしき女の子たちに手を振って、ひとり歩き出した彼女に理真は歩み寄り、


「香菜ちゃん」


 呼び止められた香菜は、きょとんとした顔を向けた。表情からして、先日自宅を訪れた(美人の)お姉さんだと憶えてくれていたらしい。理真の隣に立つ私とも目を合わせたが、やはり警戒されたような素振りはない。


「香菜ちゃん、あのね」理真は香菜の前に屈みこみ、視線の高さを同じくして、「実はね……会ってほしい人がいるんだ」

「えっ?」


 香菜は大きな目をぱちくりとさせた。理真は後方を振り向いて、待機していた人物に出てくるよう促す。その人物を見上げた香菜は、「あっ……」と小さく叫び、表情を若干曇らせた。


「こちら、福富ふくとみさん。香菜ちゃんは名前まで知らないか」理真は、私たちを挟んで香菜と正対した青年――福富を紹介して、「でも、この子はよく知ってるよね」


 福富が提げているバスケットへ視線を移動させた。香菜もそこへ目を向けたところに、


「にゃー」


 バスケットの中から鳴き声が聞こえた。すると、香菜の表情はみるみる沈んでいき、両目がじわりと潤む。福富のバスケット――正確には猫用キャリーバッグ――の中には、一匹の黒猫が鎮座している。名を「ラヴィッジ」という。


「香菜ちゃん」福富はキャリーバッグを地面に置き、理真と同じように香菜の前に屈みこむと、「ラヴィッジがお世話になったんだってね。ありがとう」


 それを聞いた香菜の両目から、涙が零れ落ちた。



 昨日、駒井の家からの帰路に動物病院に立ち寄った理真は、受付に向かうなり、こう訊いた。


「最近、黒猫の診察に来た飼い主さんはいませんか? もしくは、迷い猫として黒猫を探している人が訪れたとか」


 理真の推理は的中していた。今は情報管理に気を遣う世の中のため、患者(患動物?)やその飼い主の情報を教えてもらうわけにはいかなかったが(もしこれが、殺人や窃盗などの刑事事件に関する事柄であれば、警察捜査の一環として話は通りやすくなり、情報の入手もすんなりいっただろう。この辺りが「日常の謎」の難しいところだ)、確かについ最近まで、「迷い猫捜索」依頼の張り紙を院内の掲示板に張り出しており、その捜索対象となっていた猫は、紫という珍しい色の首輪を付けた黒猫だった。その張り紙が掲示されたのが約三週間前。「自力で猫をみつけたから」と依頼主が張り紙の撤去を申し出てきたことが約一週間前であることも理真の推理どおりだった。当然張り紙はすでに処分されていたが、獣医師のひとりが張り紙を携帯電話で撮影してくれていたため、その画像を見せてもらい、張り紙に記載されていた電話番号に理真は連絡を入れた。迷い猫捜索の依頼主――黒猫ラヴィッジの飼い主――福富は、理真から「事情」を聞かされ、また、福富からもラヴィッジにまつわる「事情」を聞いた理真は、彼にある申し出をした。福富は快く理真の頼みに応じ、こうして私たちと同行してくれたのだ。黒猫ラヴィッジと一緒に。



「三週間くらい前、ラヴィッジが外に出て、そのままいなくなっちゃってね」福富は頭をかいて、「部屋の換気をしようと窓を開けた、一瞬の隙を突かれたんだ。ラヴィッジは子猫の頃に拾って、それからずっと室内飼いをしてたんだ。つらかった野良時代の記憶があるから、まさかまた外に出ようとは思わないだろうって油断しちゃってたんだよ」


 久方ぶりに屋外に出たラヴィッジは、道に迷ったのか、野良猫に追い立てられでもしたのか、翌日になっても福富家に戻ってくることはなかった。福富は時間を見つけてラヴィッジを捜索するとともに、近くの動物病院に迷い猫の張り紙の掲示を依頼した。それから約二週間後――今から一週間前――福富はラヴィッジを発見し捕獲。体調を診てもらうために、張り紙を掲示してもらった動物病院を訪れたのだった。


「逃げたラヴィッジを見つけて」理真は再び香菜に向いて、「お世話してくれていたのが、香菜ちゃんだったんだよね」


 香菜は、ゆっくりと頷いた。

 理真の推理はこうだ。香菜は三週間ほど前の通学途中、さまよい歩く黒猫――ラヴィッジ――をみつけた。地理に迷って自宅へ帰れなくなっていた疲労に加えて、満足に食料にもありつけていなかったに違いない衰弱した猫を、香菜は放ってはおかれず、かといって、ペットを飼うことを禁じられている自宅に連れていくことも出来ず、やむなく香菜は、自宅近くの空き地にラヴィッジの簡易な寝床を用意してやり、給食の残りや、家から持ってきた食べ物を与えていた。三週間前から香菜に元気が出てきた理由というのがこれだ。動物を飼うこと、世話することの喜びを香菜は感じていたのだろう。

 しかし、そんな生活も長くは続かなかった。ラヴィッジは、福富が自分を探し回っている声を耳にしたのか、香菜がいない間に飼い主のもとへと帰っていった。それが約一週間前のこと。黒猫が突然姿を消してしまったことで大いに悲しんだ香菜は、以来、黒猫を見ると、その猫のことを思い出してしまうため、自宅リビングから黒猫のぬいぐるみや、黒猫が出てくるアニメのソフトを排除してしまったのだ(後日の香菜自身の告白で、これらは彼女の自室にしまい込まれていたことが分かった)。香菜の靴に黒い猫の毛が付着していたことも、理真の推理を補強する材料となったことは言うまでもない。

 そんな心境の折、香菜は父親から突然、「ペットを飼ってもよい」という達しを聞かされることになった。もう少しタイミングが早ければ、あの黒猫を堂々と家に連れてこられたのに……。香菜は内心歯がみしたに違いない。世話をし、一緒に遊ぶうちに、すっかり情の移ったあの黒猫。香菜はペットとする動物は、その黒猫以外には考えられなくなっていたのだ。諦めきれない香菜は僅かな可能性に望みを託していた。黒猫が再び自分のもとに帰ってきてくれる可能性に。しかし、その一縷いちるの望みも絶たれることとなった。

 自分の元からいなくなった黒猫が、見知らぬ青年――福富――の手によって通学路に位置する動物病院に連れられている現場を目撃したのだ。香菜がその黒猫のことを、自分が世話していた猫と同一個体であると判別できたのは、ひとえに猫がつけていた紫色の首輪によってだろうが、だが、そんなものがなくとも、もしかしたら香菜はその猫のことを感じ取っていたかもしれない。

 猫の首に首輪が巻かれていたため、そうではないかと覚悟をしてはいたが、やはり、あの猫はよその家の飼い猫だったのだ。まさか、その青年に対して「猫を譲ってくれ」などと頼みごとをするわけにはいかない。そんなことを口に出す勇気もない。

 それ以来、動物病院の前を通るたび、もう決して自分のもとは帰ってこない黒猫のことを思い出してしまう。香菜は多少遠回りになることを厭わず通学路を変えることにした。



 黒猫との久しぶりの再会ではあったが、香菜の表情は晴れない。かわいがっていた猫が他人の飼い猫であるという事実を改めて突きつけられただけだ。香菜は頬を伝う涙を手のひらで拭った。


「あのね」理真は、香菜の両肩に手を置くと、「今日は、香菜ちゃんに話すことっていうか、お願いがあって来たの」

「……?」


 香菜が赤くなった目で見返すと、理真は微笑んで、


「福富さんが動物病院に行った理由はね、戻ってきたラヴィッジの様子が、どうもおかしかったからだったんだって。外で病気でももらってきたのかと思って診察してもらったら……」


 そこまで言うと、地面に置かれた猫用キャリーバッグを見た。福富がそれを持ち上げ、理真と香菜の隣に持ってくる。天面のアクリル製の蓋を通して、中にいる黒猫の様子がよく窺えるようになった。


「まだ見た目では全然分からないんだけど」理真はキャリーバッグの中に寝そべっている黒猫を見て、「ラヴィッジにね、赤ちゃんができてたの」

「えっ?」


 香菜は驚いた顔で理真を見てから、すぐにキャリーバッグの中に視線を戻した。


「お願いっていうのはね……生まれてくる子猫を、一匹もらってくれないかなってこと」


 それを聞いた途端、香菜の頬に赤みが差す。理真の後ろで福富も、


「猫って、五、六匹も赤ちゃんを産むっていうからさ、とてもうちじゃ養いきれなくって」


 と頭を掻いた。


「クロノの……赤ちゃん……」


 香菜は笑顔で黒猫に声をかけた。こっそりと世話をしている最中、黒猫のことをそう名付けていたのだろう。二つの名前をもらった黒猫は、自分を見つめる潤んだ瞳を見返して、「にゃー」と鳴いた。

 一般に猫の妊娠期間は二ヶ月程度だ。ラヴィッジは福富宅から逃げ出したあと、すぐにどこぞの雄猫と交尾をしたものと思われる。香菜がラヴィッジ(彼女の呼び名ではクロノ)を保護したときには、すでに妊娠期間に入っていたのだ。



 後日、ラヴィッジは無事に愛くるしい子猫を五匹出産した。香菜はその子らの中から(もちろん、猫に社会性を植え付けるため、母猫の元から離すのは、生まれてからさらに数週間の間を置いた)母親によく似た雌の黒猫を引き取ったという。改めて「クロノ」と名付けられたその猫は駒井家の一員となり、これから十数年――香菜が社会人となる頃まで――家族みんなに大切に育てられ、天寿を全うすることだろう。


 理真のお母さんからその報告を聞き、クロノの写真画像を見せてもらうため、私と理真は再び安堂あんどう家を訪れていた。

 話を聞きながら私は、泰然自若としてカーペットの上に鎮座ましている安堂家の飼い猫、クイーンを見た。この三毛猫は安堂家での生活に満足しているだろうか。そうに違いないと私は思う。この世にもし、もしも――動物の世界だけで構わない――生まれ変わりというものがあるのなら。もしくは、動物がそういう概念を持っているのなら、「生まれ変わっても、またこの家で、この人たちと暮らしたい」そう思ってもらえるような付き合いを我々はしていきたいし、そうする義務があるはずだ。

 クイーンの表情が変わった。これは「遊んで欲しい」と催促している顔だ。私は猫じゃらしを持ってきて三毛猫の眼前に振ってやるが、やはり、クイーンはまったく反応してはくれないのだった。

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少女はペットを欲しがらない 庵字 @jjmac

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