中編 黒猫の謎
喫茶店を出ると、私たちは
駐車場を出て、駒井のナビに従って理真が赤い軽自動車を駆る。一本向こうの道路に出ると、すぐにランドセルを担いだ小学生たちの姿が見られた。この道が香菜の通学路だということなので、車を路肩に停車させ、私たちは車内でターゲットが通るのを待つことにした。
「……」
助手席から通学路を見つめる駒井の表情が
「駒井さん」
たまらず理真が声をかけると駒井は、ちらと理真の顔を見返してから腕時計に目を落とし、
「もう、この辺りを歩いてきてもいい時間なんですけれど……」
その蔭った表情に不安の色が重なった。
「携帯電話などは?」
「持たせていません。いつもより早めに帰ったか、友達と遊んでまだ学校に残っているのでしょうか――」
「学校に確認を」
間髪入れずに帰ってきた理真の声に、駒井は携帯電話を取り出し、手を僅かに震えさせたまま発信した。
「……もしもし、四年一組の駒井香菜の母ですけれど……」通話をする間も、駒井の視線は通学路から離れない。「……はい……はい……そうですか、わかりました。ありがとうございます」通話を終えた駒井は、「いつもどおりの時刻に学校を出たそうです……」
手の震えが伝わり、握った携帯電話が小刻みに揺れた。
「自宅に電話してみて下さい」
理真の冷静な指示に従い、駒井は再び震える指で携帯電話を操作する。スピーカーから漏れる呼び出し音が耳にできるほど静寂した車内に、
「……香菜!」駒井の声が響いた。「もう帰ってたのね!」
私と理真は目を合わせると、同時にため息を漏らした。
「……うん、お母さんはこれから戻るから。……うん、それじゃあ」
通話を終えた駒井は、私たちのものとは比較にならない深いため息を吐くと、シートに深々と背中を預け、
「お騒がせしました。香菜は家に帰っています」
運転席と後部座席に向かって、ぺこぺこと頭を下げた。
「よかったです」理真は笑みを見せて、「でも、いつもどおりに学校を出たのに、この道路で見かけなかったということは、香菜ちゃんは、こことは違う道から帰宅したということですか?」
「ええ、おそらく、そうなのでしょう。この道を通るのが一番近いはずなのですが……」
駒井は首を傾げた。
「では、私たちも駒井さんのお宅へ行きましょうか」
「あ、はい、お願いします」
理真はエンジンを掛け、車を発進させた。
駒井宅へ向かう道は、左右に商業施設と民家が半々に入り混じって並んでいる閑静な通りだった。書店、コンビニエンスストア、地元のスーパーマーケット、美容院、銀行などが軒を連ね、歯科医、内科医に加えて動物病院も開業しており、生活圏内に必要な施設があらかた揃った、住むにはまことに便の良い場所だ。
「そこです」と駒井が指し示した住宅の前で、理真はブレーキを踏んで車を減速、玄関前の駐車スペースに愛車を入れた。
「ただいまー」と玄関扉を開けた駒井の後ろから、「お邪魔します」と理真、私が続く。
「おかえり――」
ひとりの女の子が出迎えた。彼女の語尾が不意に途切れたのは、母親の背後に見知らぬ二人の成人女性の姿を認めたためだろう。この子が香菜ちゃんか。
「香菜、こちら……」
駒井から理真と私のことを紹介されると、香菜は、ちょこんと頭を下げる。続けざまに駒井は、
「
理真の職業も聞かせたが、香菜は小首を傾げるだけだった。いや、母親の口から理真の名前を聞いた時点で、全然ぴんときた顔をしていなかったので、そうなるだろうとは思ったけど。
「ええとね……、安堂さんは、どんなものを書いているかというとね……」
言葉に詰まった駒井を前に、ここはフォローしなければ、と作家の親友である私が、
「理真は、ジュブナイル――子供向けの本はあまり書いてないから、香菜ちゃんが知らなくても無理はないかな」
「そうそう、安堂さんは大人向けの本を書いてらっしゃるから。ええと……私も読んだことはないんだけど……」
さらにしどろもどろになる母親を前に、香菜は反対側に小首を傾げ直した。駒井はなおも、「あのね……」と、二の句、三の句を継げようとするが、そろそろ限界だろう。作家安堂理真のライフはもうゼロだ。
とりあえず、とリビングに通された私と理真は、座卓を前に座布団に腰を下ろした。お茶を出され、香菜も篭に入れた茶請けの菓子を運ぶのを手伝っている。その間に私は室内を見回す。床に何か放り出されているということなどない、整理されて落ち着いたリビングだ。戸棚の上に数体の猫のぬいぐるみが置いてあるのがかわいい。同じシリーズなのだろう、造形はみなほぼ同じで毛色だけが違っている。白、三毛、キジトラ、茶トラ、サバトラ、と五匹がきれいに並んでいる。テレビを載せた台には映像ソフトが納めてある。背表紙に読めるタイトルには映画とアニメが混在している。両親と香菜のものが一緒に入れられているのだろう。
お茶の用意が調い、駒井も座卓の前に腰を落ち着けると、
「香菜も、ちょっとお話ししない?」
立ったままの娘にも同席するよう促した。香菜は突然の来客二名と目を合わせ、私も理真も笑みを返す。私のはどうだか自信がないが、理真が見せたスマイルは完璧だった。警戒される程度に露骨でなく、社交辞令ほどに薄くもない、この場面だけ切り取れば典型的な「きれいなお姉さん」としても誰からも異論は吹き出ないだろう。作家としての名前は通用しなくとも、理真には「美人」というもうひとつの武器がある。――しかし、
「あ、香菜!」
香菜は僅かに首を横に振って拒絶の意を示すと、母親の呼び止める声も聞かずにリビングを出た。階調の変わった足音が、階段を上って行ってしまったことを教える。立ち上がりかけた駒井を理真は制した。正解だろう。本人が嫌がっているのを無理に同席させたとて、何か有益な言葉を引き出せるとは思えない。「すみません」と駒井は詫びたが、理真も私も、仕方のないことだと返して済ませた。
せっかくなので世間話をしながらお茶を飲み干すと、理真と私は早々にお
見送りをさせようというのだろう、駒井は二階に向かって娘の名を呼んだが、香菜がその声に応えることはない。階段に向かおうとした駒井を今度は私が止めた。理真はそのとき、三和土に屈み込んで靴に足を入れていた。
帰りは私がハンドルを握ることになった。理真が考え事をしたいと言ってきたためだ。
「黒猫」
助手席で黙っていた理真が、突然つぶやいた。
「――えっ?」
私は一瞬理真を見てから、すぐに視線をフロントガラスに戻す。
「
「うん」
あの五匹の猫たちのことだ。
「黒猫がなかった」
「……そうだっけ……そうだった」
私は並んだぬいぐるみの種類を思い出す。白、三毛、キジトラ、茶トラ、サバトラ。確かに黒猫はいなかった。
「ラインナップになかったというだけなんじゃないの?」
「いや、サバトラなんてマイナーな毛色があるくらいだよ。定番中の定番、黒猫がないなんて、ちょっと考えられない」
「黒猫だけ買わなかったとか」
「それもあり得るけど、もうひとつ」
「なに?」
「『魔女の宅急便』」
「はい?」
「テレビ台に入っていた映像ソフトに、ジブリアニメがそろってた」
言われてみれば、『天空の城ラピュタ』や『となりのトトロ』というタイトルが背表紙に見えていたように記憶している。
「でも」理真は続け、「『魔女の宅急便』だけ、なかった」
「そうだったの?」
私はそこまでは見ても記憶もしていない。さすがだなと思うと同時に、
「それも、購入していないだけという可能性も。それか、棚の後ろのほうに押し込められてて見えなかっただけとか」
「『魔女宅』って、ジブリアニメの中でも、小学生女子に一番親和性の高い作品でしょ。駒井家に『ナウシカ』や『ハウル』があって『魔女宅』がないなんて考えられない。それに、ご両親が几帳面なのか、ソフトはシリーズごとに順番にきちんと並べて収納されてたわ。映画『トランスフォーマー』のシリーズはナンバリングされてないけど、『無印』『リベンジ』『ダークサイド・ムーン』『ロストエイジ』『最後の騎士王』って、ちゃんと公開順に並べてあったからね。『魔女宅』だけ棚の別の場所にあるというのも考えがたい」
「よく見てるな」
思わず声に出してしまった。『トランスフォーマー』は香菜の父親の趣味だろうか。理真は続けて、
「ジブリ映画も『風の谷のナウシカ』から『コクリコ坂から』まで、全部公開順に並べられてた」
「なのに、『魔女宅』だけが抜けていたと?」
理真は頷いた。
「でも、それがどうかした?」
「黒猫」
「……あ! ジジか!」
「そう」と、また理真は頷く。
『魔女の宅急便』に、主人公キキの相棒として黒猫のジジが出てくることはあまりにも有名だ。
「黒猫のぬいぐるみがなくて、黒猫が出てくるアニメ映画もラインナップから消えていた……」
「加えてね」と理真は、「香菜ちゃんの靴に、こんなものが」
理魔は懐からハンカチを取り出して開く。ちょうど信号で停車したので、私も目を向けると、そこには、
「……毛?」
白いハンカチの上に一本の黒い毛が載っていた。三センチ程度の長さしかない細い毛だった。駒井家からの帰り際、靴を履くため屈んだときに、香菜の靴から見つけて採取したのだろう。信号が青に変わったのでアクセルを踏み、車を発進させると、
「由宇、ちょっと、そこに寄って」
フロントガラス越しに理真が指さす先には、往路にも確認していた動物病院があった。その理真はと見ると、もうハンカチをしまって人差し指を唇にあてていた。これは、理真が謎の真相に迫る推理をしているときの、いつもの癖。
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