少女はペットを欲しがらない
庵字
前編 少女の異変
「ねえ、
そう声を掛けられて、
理真は、彼女の母親――声をかけてきた人物だ――のほうを向き、猫じゃらしから手を放してしまう。そうなれば、三毛猫(名をクイーンという)も興を削がれることはなはだしい。人間が振らない猫じゃらしなど猫にとって何の慰みにもならない。両前足を床に突くと、先ほどまでの執着ぶりはどこへやら、「なんだこんなもの」とばかりに猫じゃらしに
それでは、理真の代わりにと、私が猫じゃらしを持って猫の眼前に振り散らかしてみるが、三毛猫クイーンはまるで、そんなものは見えていないかのように一切の反応を示さない。猫じゃらしにも猫の興味を引くような上手い扱い方があるのだ。クイーンは、一心に猫じゃらしを振り続ける私のことを、「何してるの?」とでもいうようなつぶらな目で見つめてくる。
そんな虚無的な時間を私が過ごしている間にも、理真と彼女の母親との間で会話は進んでいた。
「なに? 相談って?」
理真は、お茶を煎れている母親を見て訊く。
「私の勤め先の同僚の話なんだけど」理真のお母さんは急須から湯飲みに茶を注ぎながら、「
「よかったじゃん」
「ところがね……」
「なに?」
「飼わなくてもいいって」
「えっ?」
「ペットは飼わなくてもいいって、香菜ちゃんが答えたそうなの」
「それはまた、何で?」
「さっぱり……理真、お茶運んで」
「ほい」
理真はお盆に三つの湯飲みを載せて運んできた。あとからお母さんも茶菓子を手に歩いてきて、私も含めた三人で座卓を囲む。「いただきます」と私は差し出された湯飲みを受け取って、熱いお茶をひと口すすった。
「でね、理真、相談っていうのは、香菜ちゃんが、どうしてそんなことを言い出したのかを調べてほしいってことなの」
「ははあ……」
理真の吐いた息が、湯飲みから立ち上る湯気を霧散させた。
勤め先の同僚の身に不可解な出来事が起き、それを娘に話す。ここまではどの家庭にもありうることだろう。だが、娘にその解決を依頼するとなれば、これは普通の家庭ではあまり見られない光景なのではないかと思う。
どうして理真のお母さんがそんなことを頼んだのかというと、娘、理真の素性に要因がある。安堂理真は作家を生業としているが、その本業とは他にもうひとつの肩書を持っている。「素人探偵」というのがそれだ。理真はこれまで、居住する新潟県を管轄に置く新潟県警の要請に赴き、いわゆる「不可能犯罪」と呼ばれるような難事件をいくつも解決に導いてきている。私、
ちなみに私はアパートの管理人という職に就いており、理真とは大家と店子という関係でもある。今日は理真の実家に二人して遊びに来ているのだ。
理真が素人探偵になった理由は別の話に譲るが、彼女の活動は当然母親の知るところでもあるため、こうして相談を持ち掛けたのだ。普段であれば、危険を伴う犯罪捜査に娘が介入することに良い顔をしない母親だが(もう理真を素人探偵からやめさせることは諦めているらしい)、そういった危険性皆無の「日常の謎」であれば話は別ということなのだろう。
「お母さん」と理真は茶菓子のせんべいを手に取りながら、「その女の子――香菜ちゃんだっけ――が、ペットを飼うことに興味がなくなったっていうだけなんじゃないの?」
「駒井さんも最初はそう思ったそうなんだけど、香菜ちゃん、好きな動物番組はずっと欠かさず見てるし、一緒に出掛けたときに、散歩している犬を見かけると目で追うっていうのとかも、前と変わらないって」
「理由は訊いてみたの?」
「うん。でも、あまり要領を得ない答えしか返ってこなかったみたい」
「いざ、本当にペットを飼ってもいいという事態に直面したら、日々の世話とかの大変さを具体的に想像できるようになって、飼うことに尻込みしたとか? 子猫か子犬を飼い始めることにしたとして、最近のペットは長寿だから十五年は生きるとしようか。香菜ちゃんて、いくつ?」
「十歳」
「じゃあ、十歳の香奈ちゃんは、これから十五年、自分が二十五歳になるまで、高校受験や大学進学、さらに就職、彼氏ができて結婚を考えるようになっても、ペットは変わらず居て、その間もずっと世話をし続けなければならないという事実に思い至って愕然として……」
クイーンの表情が微妙に変わった。(君、そんなことを考えていたのかね)とでも言いたげな表情に。もちろん、理真は一般的な事実を述べているだけだが。それを聞いた理真のお母さんも呆れたような顔をして、
「十歳の子供が、そこまで考えないでしょ」
「うーん……。でも、ペットを飼わなくてもいいって言っただけで、実害というか何か生活に支障が出ているわけでもないのなら、よその家庭の問題に下手に首を突っ込まなくてもいいんじゃ?」
「それがね」と理真のお母さんは表情を曇らせて、「それと前後して、香菜ちゃんに元気がなくなってきたそうで。だから駒井さんも心配になってね」
「その原因についても香菜ちゃんは……」
「やっぱり、要領を得ない答えしか返してこないって。でね、これから、その駒井さんとお茶する予定があるから、理真と由宇ちゃんも一緒に来てくれないかなと思って」
「私は構わないけど」
理真が顔を向けてきたので、私も了承の意味で頷きを返した。
「ありがとう」理真のお母さんは笑みを浮かべると、「じゃあ、お茶を飲んだらさっそく出かけましょう」
オーケー、と二枚目のせんべいをパクつき始めた理真の顔をクイーンが見上げた。猫じゃらしの扱い方は全然だが、代わりに私は、猫の気持ちを読み取る能力に長けていると自負している(こちらで勝手に想像しているだけかもしれないが)。あの顔は(人間ばっかりお菓子を食べてずるいぞ)と言っているのだ。直後、(かにかまでもくれないかなぁ……)という物欲しげな顔をしたので、私は腰を上げてクイーン用の食料を保管している棚に向かった。勝手知ったる親友の実家だ。クイーンも私の行動の意味を察したに違いない。立ち上がると私のあとをついて歩き出した。
理真のお母さんから、夕飯を食べていけとしきりに誘われたが、今日はこのまま帰ることにしたため、私たちは車二台に分乗して待ち合わせの喫茶店を目指した。理真のお母さんが駆るシルバーのインプレッサの後ろを、理真と私の乗る赤いR1がついて走ること十数分、二台の車は目的地喫茶店の駐車場に滑り込んだ。
カウベルを鳴らして入店すると、すぐに奥のボックス席に座る女性が手を挙げたのが見えた。理真のお母さんも挙手を返す。彼女が待ち合わせ相手の駒井だった。
理真のお母さんが娘と私を紹介し、同伴させた目的を告げると、駒井は申し訳なさそうに頭を下げた。三人ともが駒井のおすすめだというアップルティーの注文を済ませ(理真ひとりだけが「小腹が空いたから」とケーキセットにアップグレードしていた)、さっそく理真が、
「香菜ちゃんのことを、詳しく聞かせていただけますか?」
話を促した。はい、と駒井は、
「香菜の元気がなくなったのは、一週間ほど前からでしたか。どうしたんだろうと思ってはいたのですが」
「それまでの方針を転換させて、ペットを飼うことを許可されたとか」
「はい。夫の会社の同僚に、家に犬や猫を何頭も飼っている方がいるそうで、そのお宅に遊びに行ったときに、動物のかわいさに目覚めたらしいんですね。その同僚の方にも香菜と同じくらいの年齢のお子さんがいらっしゃって、『子供に幼いうちから命を預かる責任を持たせることで、情操教育にも繋がる』とかいう話も吹き込まれたそうで」
「ははあ」
単純な人だなー、と理真は思ったに違いない。私も思ったし。
「以前に、香菜がペットを飼いたいとしきりにお願いしている姿を見ていたものですから、いざペットを許可したら香菜は飛び上がって喜ぶだろうな、と夫は嬉しそうにしていまして。本人にとっては、香菜にサプライズを仕掛けるつもりだったのでしょう」
娘を喜ばせたくてうずうずしている様子が目に浮かぶ。いや、駒井の夫の顔は知らないのだが。
「でも、いざ、サプライズを仕掛けてみると、期待に反して香菜ちゃんからは、ペットを飼わなくてもいい、と返されたと」
「そういうことなんです」
とんだサプライズ返しだ。唖然とした駒井の夫の顔が目に浮かぶ。いや――以下略。
「この話をすれば、香菜も元気を取り戻してくれるかと期待していたのですが」
駒井は、はあ、とため息をついた。その間に理真は、フォークですくったケーキを口に入れ、アップルティーも喉に流し込んで、
「何か元気をなくす原因に心当たりや、その兆候のようなものはありましたか?」
「特に思い当たりませんが、私が香菜の異変に気づく前は、逆にいつも以上に高揚しているというか、元気に見えていました」
「それは、どのくらい前からのことでしょうか?」
「ひと月……いえ、三週間くらい前からだったように思います」
「ということは……三週間前からいつも以上に元気になったのですが、それが一週間前になると、その元気がなくなり、数日前にペット解禁の報を聞くも、ペットは飼わなくていいと返し。今現在に至って元気を失ったまま。これがここ最近の香菜ちゃんの状態ということですね」
「おっしゃるとおりです」
「香菜ちゃんは、別に動物が嫌いになったわけではないそうですね」
「ええ。ですから、私も夫も、わけがわからなくて……」
「ペット解禁のことを知る前から元気がなかったということは、香菜ちゃんの異変の因果関係にそれは関与していないと考えられますが……」理真は、またケーキとアップルティーに口をつけてから、「一度、香菜ちゃんと話は出来ますか?」
「ええ、お願いします。安堂さんから伺っていますよ、娘さんは小説家だそうで」
ええ、まあ、と理真は、ちょこんと照れくさそうに頭を下げた。
「香菜は動物と本が好きな子ですので、もしかしたら娘さん――理真さんのことも存じているかもしれません」
十歳の子供がいきなり初対面の大人に心を開いてくれるとは考えにくい。特に、まだ理由は分からないが元気をなくしてナーバスになっているとなればなおさらだ。そこへ来て、愛読している図書の作者という肩書きがあれば、会話のいいとっかかりになるとは思うが、あいにくと理真が書く小説は成人女性をターゲットとしたものがほとんどで、子供向けのいわゆるジュブナイルは数えるほどしかない。しかも定番人気作家が軒を連ねる同ジャンルの中においては、安堂理真の知名度は皆無に等しいだろう。小学校の図書館に著作が置いてある可能性はほぼゼロで、香菜が作家理真のことを知っていることはあるまいと私は踏んだ。それであれば、クイーンでも連れていって、小説ではなく動物方面から親和を図るほうがよいのではないだろうか。と思ったが、いきなり三毛猫を連れた見知らぬ成人女性が近づいてきても、それはそれで怪しまれるか。
「あ、そろそろですね」駒井が、店内に掛けてあるおしゃれな時計に目をやって、「小学校の授業が終わる頃です。近くが通学路になっていますので、この時間であれば、ちょうど下校途中の香菜をつかまえられます」
「では、行きましょう」
理真がアップルティーとケーキを完食した。善は急げだ。
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