第23話 咸臨丸はいつ太平洋を横断したのか?

―咸臨丸はいつ太平洋を横断したのか?―


Ⅰ)【日米修好通商条約とポーハタン号、咸臨丸かんりんまる

 安政5年6月19日(1858年7月29日)、日米修好通商条約および貿易章程が調印された。無勅許調印であった(※¹)。同年8月23日、幕府は外国奉行(※²)・水野忠徳みずのただのりらのアメリカ派遣を決定した。しかし、水野は翌安政6年軍艦奉行(※³)となり、条約批准のため実際にポーハタン号に乗り込んだのは新見正興しんみまさおき(外国奉行)を正使とする遣米使節団一行であった(※⁴)。安政7年1月(1860年)のこと。幕府軍艦・咸臨丸かんりんまるは、正使を迎えたアメリカ軍艦・ポーハタン号の「随行艦」としてアメリカ(サンフランシスコ)へ向かう。軍艦奉行・木村喜毅きむらよしたけ以下90余名であったが、世間では、新見しんみやポーハタン号や木村の名は知らずとも、艦長「勝海舟かつかいしゅうが日本人初の太平洋横断を果たした」ことで、「かつ」や「咸臨丸かんりんまる」は有名になる。

 咸臨丸は「随行艦」や「護衛艦」と言われている。しかし二艦の出発日は異なる。しかも、先発と後発が逆転する「迷走」劇があるので驚いた。何れが正しいのか? 旗艦と出発日が異なる咸臨丸を「随行艦」と呼ぶべきだろうか? ―そういう素朴な疑問に応えた(?)、正に同時出航説もあった(※⁵)。「2隻で品川沖を出航」したが「嵐にあい」、「万次郎が乗ったポーハタン号の方は、1カ月も海上を漂い、やっとの思いでハワイに辿り着いた」と物語り、万次郎まんじろうが咸臨丸に乗船していた「常識」を見事に裏切っている。―だがしかし、当初は実にドラマチックなこの記事の方が「正論」に思えて仕方なかった。そもそも出発日が異なる船を「随行艦」と呼ぶべきではない。恐らく共に出港したのだろう。ひょっとして、ジョン万次郎(中浜万次郎なかはままんじろう)は遣米使節団の正式な通訳としてポーハタン号に乗り込んでいたのかも知れない?


 問題の発端は二つの年表。何れも咸臨丸は「安政7年1月19日出発」とするが、ポーハタン号の方は、同年「1月18日」と「1月22日」出発説とに分かれており、咸臨丸が後発なのか先発なのか、或いは「同時出航」だったのか、分からなかったことにある。


❶[万延1年(1860)1月18日(※⁶)、条約批准交換のため、遣米特使として外国奉行新見正興・村垣範正・目付小栗忠順ら、米艦ポーハタン号に乗り品川を出帆する](『日本史年表』東京学芸大学日本史研究室編/東京堂出版)

❷[遣米使節・正使/新見正興しんみまさおき,村垣範正むらがきのりまさ(副使),小栗忠順おぐりただまさ(立合),77名,安政7年1月22日(1860年2月13日)出発,日米修好通商条約の批准書ひじゅんしょ交換(おもな任務と成果)](『詳説日本史図録』山川出版社より)


 ところが違いはこの2説だけではなかった。そうして、咸臨丸の出発にも「諸説」あることが分かる。


 注(※¹)無勅許調印について:「安政5年3月20日 天皇、正睦に条約調印拒否を告げる」(『日本史年表』東京堂出版)とあるが、「安政5年3月20日(5月3日)朝廷、条約調印は三家以下諸大名の意見を奏した後、再び勅裁を請うべしとの勅諚を堀田正睦に示す(幕末外国関係文書)」(『日本史総合年表[第三版]』吉川弘文館)であれば、事情は少し異なる。

 彦根藩主・井伊直弼いいなおすけが大老に就いたのは安政5年4月23日。同月25日、幕府は老中・堀田正睦ほったまさよしに示された「勅諚ちょくじょう」を諸大名に諮っているが、結局、勅許を得られず調印された。「1858年、アロー戦争(第2次アヘン戦争)で清国がイギリス・フランスに敗北し天津てんしん条約を結んだことが伝えられると、ハリスはこれを利用してイギリス・フランスの脅威きょういを説き、早く通商条約に調印するよう迫った。大老に就任した井伊 直弼なおすけ(1815-60)は、勅許を得られないまま、同安政5年6月19日、日米 修好通商しゅうこうつうしょう条約に調印した」(『詳説日本史研究』山川出版社)のである。この「天津てんしん条約」は1858年6月(清、咸豊8年5月)、順次(6月13日~27日)露・米・英・仏と結ばれた不平等条約であり、清国内で反対意見が根強く、特にイギリスとフランスについては批准が拒否された(ために翌年北京が攻略され、屈服)。つまりアメリカも当事者なのだが、言葉巧みであったのであろう、ハリス(当時、アメリカ初代駐日総領事)の説得が安政5年6月17日(1858年7月27日)と伝えられる。日米修好通商条約の調印は、その僅か2日後(1858年7月29日)。

 その後の展開は目まぐるしい。徳川斉昭らが井伊を難詰し、斉昭などは謹慎となるが、同安政5年8月8日、朝廷はこれら「無勅許調印」「大名処分」を咎める密勅を水戸藩などに下した。頭ごなしであったので、幕府転覆が疑われた。そうして、尊攘派志士が次々捕縛される「安政の大獄」が始まるのだが、何故か大晦日の12月30日、老中・間部詮勝まなべあきかつが参内して条約調印の了解と鎖国猶予の勅諚(※⁷)を受けることになる。

 注(※²)外国奉行について:安政5年7月8日(1858)創始。[通商貿易その他諸外国との応接一切のことをつかさどった。1858年(安政5)創設、68年(慶応4)廃止](『広辞苑』岩波書店)/[従来の海防掛を廃して新設された。…初任は…5人。人数は不定で、一時神奈川奉行を兼帯…](百科事典マイペディア)

 注(※³)軍艦奉行について:[安政6(1859)年2月に設置された。海防の目的で軍艦の製造、操練を司る職務](ブリタニカ国際大百科事典)/[安政6年(1859)2月24日 幕府、軍艦奉行を設置](『江戸時代年表』小学館)/[席次は外国奉行の次。1859年(安政6)海軍伝習所以来海軍創設に尽力した永井 尚志なおゆきが任命され、以後、水野忠徳、井上清直、木村 喜毅よしたけ、勝海舟、小栗忠順おぐりただまさらが歴任。鳥羽とば・伏見の戦に敗れた徳川 慶喜よしのぶを江戸に送ったのち、1868年(明治元)2月19日赤松範静が辞職、消滅した](『日本歴史大事典』小学館)

 注(※⁴)新見正興しんみまさおきらの任命:[1859.10.8 安政6年9月13日 幕府は外国奉行、神奈川奉行兼帯新見正興を正使、外国奉行、神奈川奉行、 箱館奉行兼帯村垣範正を副使、目付小栗忠順を立合として日米修好通商条約批准書交換の為米国差遣を命ず](一般社団法人「万延元年遣米使節子孫の会」)

 注(※⁵)「同時出航」説について:詳細は以下。[遣米使節団の正使と共にハワイへ漂着したジョン・万次郎/…万次郎はその後(漂流の末、航海中の船に救助されて最初に立ち寄ったのが、ここハワイだった)、英語力をかわれ、日本が初めて送る遣米使節団の通訳としても選ばれている。…1860年、遣米使節団は米国船ポーハタン号と、随行船の咸臨丸の2隻で品川沖を出航した。しかし、途中嵐にあい、2隻の船は別れわかれになってしまう。皮肉なことに、目的地のサンフランシスコに無事直行したのは随行船の咸臨丸だけ。正使と共に万次郎が乗ったポーハタン号の方は、1カ月も海上を漂い、やっとの思いでハワイに辿り着いた。こうして万次郎は、またしてもハワイの地を踏むことになったのである。…船の修理にかかる2週間の間に、一行は国王との謁見を許された。…修理を終えた一行は、ただちにサンフランシスコに向け出航したが、この予期せぬホノルル寄港の際、王国政府は日本と友好通商条約を結ぶことと、農業労働者の移民の協力を正式に申し入れている](某大手旅行会社の「ハワイ」本。1998年改訂3版なので、現在は訂正されている可能性はある)

 これ以外「同時出航」説は一切見かけず、明らかな誤りなので無視するが、困ったものだ。

〈以下、余談〉

 かつて初めて韓国旅行したとき、初めてなのでツアーで行った。景福宮キョンボックンを案内された時、現地ガイドが達者な日本語で豊臣秀吉の侵略について語っていた。「秀吉の侵略で景福宮が壊された」云々。完全な間違いではないが、実際は、景福宮から逃げ出した朝鮮国王や官吏の弱腰、民衆置き去りに怒った群衆が押しかけて「王宮」を焼き払ったのである。解説を端折れば意味も変わる。日本では「文禄の役」「慶長の役」と言うが、韓国では「壬辰倭乱じんしんわらん」「丁酉再乱ていゆうさいらん」であり、まとめて「壬辰倭乱じんしんわらん」とも言う。秀吉の死で「侵略」が終わりを告げ、「平和」な徳川の時代がくる。遣米使節が寄港した「ハワイ」は未だ「王国」であり、やがて明治1年4月25日(1868年5月17日)、日本からの移民が始まる。明治1年12月19日(1869年1月31日)、日本国は、明治新政府成立の通告書を朝鮮国に提出するが、朝鮮は受理しなかった。

 朝鮮の建国は1392年だが(日本では南北朝合一の年)、国名を「朝鮮」と定めたのは翌年のこと。隣国・中国の影響を受け続けた朝鮮半島は、常に中国への朝貢国として甘んじていた。その中国(明国)の承認を待って国名が定められたのである。後金こうきんが台頭し(1616年)、明が内乱で衰退していくと、朝鮮国内では明国に義理立てる一派と後金の支持派や中立派に分裂する。しかし、中立的な国王を廃位させ親明政策に転じた朝鮮は、後金(後の「清国」1636年4月改名)の侵略を二度も受けることになる。秀吉の侵略で疲弊していた頃である(1627年1月と1636年12月)。秀吉の侵略で朝鮮の苦境を救ったのは「明国」であり、秀吉の侵略を止め「国交回復」に努めたのが「家康」であった。徳川幕府は「朝鮮通信使」を受け入れていた(侵略で拉致された者の返還要請から始まるが、日朝友好を深めた。1811年が最後)。隣国との複雑な関係や「黒船騒ぎ」に悩む朝鮮が明治新政府を認めようとしなかったのは蓋し当然であった。倒幕を果たした皇国日本は、そういう朝鮮の立場を理解せず、征韓論の台頭を抑えきれず(抑えたと言われるが、内実は同じ。江華島事件や台湾出兵を引き起こす)、ロシアの脅威を背景にして、欧米列強に倣って再び侵略への道を突き進む(韓国併合)。ハワイ王国とアメリカの関係や、琉球王国と日本の関係も似ている。

 注(※⁶)「万延1年(元年)」の改元について:安政7年3月18日、万延に改元された。井伊直弼が暗殺されたのは安政7年(1860)3月3日(桜田門外の変)である(「発喪はつも」は同年、万延1年閏3月30日)。「江戸城本丸炎上」による改元らしいが、「炎上」はその前年、安政6年(1859)10月17日のこと。本丸再建は万延1年(1860)11月9日(文久3年/1863年焼失)なので、改元理由としては解せない。安政7年3月18日は「万延元年3月18日」となり、改元は正月朔日まで遡る為、暦の上では「安政7年」は消えてしまう(「万延元年」となる)。

 注(※⁷)安政5年12月30日の「勅諚ちょくじょう」について:勅諚ちょくじょうは「天皇の命令(勅命)」であるが、「おおせ(お言葉)」に近い。あまり知られていないようであるが、通商条約の「無勅許調印」は、結果的に天皇(孝明天皇)の事後承諾を得たことになる(※⁸)。だが所詮は「口上」に過ぎないのだろう。「鎖国」も猶予されたが、その後、文久2年10月10日(1862年)に勅使は攘夷の勅旨を幕府に伝え、文久3年4月20日(1863年)、幕府は已むなく「5月10日を攘夷期限」と奉答した。故に長州藩はその日より一斉に米船、仏艦や蘭艦を砲撃する。又、同文久3年7月2日、その前年8月21日に起こった「生麦事件」を巡り薩英戦争に至る訳であるが、公武合体を図り長州征伐を進めていた第14代将軍・家茂いえもちの死(慶応2年7月20日/享年21)と、妹を徳川家へ嫁がせる代わりに攘夷を認めさせた孝明天皇の死(慶応2年12月25日/享年36)により、時代は大きく変わる。昨日の敵は今日のとも。薩長(下級武士)は同盟してイギリスと手を組み(攘夷を捨て)、天皇を戴いて(王政復古)挙兵倒幕へ向かう。幕府の外交(開国と攘夷)や朝廷対策(勅許と無勅許)の矛盾、首尾一貫性の無さが災いし、幕末の「参勤交代制」は有名無実となる(文久2年/1862年頃~慶応1年/1865年頃)。「勅諚」を撥ねつけ、尊攘派をねじ伏せる力量が幕府には無かったのである。最後の将軍・徳川慶喜とくがわよしのぶは独自の政権構想を描いていたようではあるが、敵前逃亡という失態を犯し、後手に回った。

 注(※⁸)「事後承諾」の背景:天皇は「幕府に対しては不満を持ちながらも、政治は幕府に委任するという態度を一貫して崩さなかったので、慶応元年の段階では討幕派にとって邪魔な存在となり、ここから暗殺説が生れた」「孝明天皇毒殺の噂…明治になって岩倉の臨終の時見舞いにきた明治天皇が「ほんとうにお前がやったのか」とたずねたという話もある」(『読める年表日本史』自由国民社)や「幕府に好意的な孝明天皇こうめいてんのう(37歳)が急死。タイミングが良すぎる。岩倉具視いわくらともみら倒幕急進派公家による毒殺だったはずだ」(『面白いほどよくわかる江戸時代』日本文芸社)という見方もある。



Ⅱ)【咸臨丸とポーハタン号の出港日など(検証の為の分類)】

(1)〈咸臨丸かんりんまるの場合〉

〈出発日は5説(①、②、③、④、⑤-⑦)、品川(沖)発、横浜発、浦賀発の諸説がある〉


①安政7年1月12日出発(浦賀)

 〇[咸臨丸は正使一行出帆の3日前(旧暦正月12日)に浦賀を出帆](橋本進著『咸臨丸、大海をゆく: サンフランシスコ航海の真相』についての、或るレビューより)⇒著書未検証(要確認)。/[(咸臨丸は)浦賀発一月十二日ー二月二十六日着サンフランシスコ](「東善寺」HP)⇒「咸臨丸」は、二転三転した派遣船選びの末決定され(安政6年12月24日)、その「決定」を受け、浦賀で整備されたことは分かっている。⇒「1月12日夜…品川沖に停泊中の咸臨丸に乗り込んだ」(或る論文)記述はあるものの、この場合、乗船以前の日程や咸臨丸の国内航路まで深入りする必要はなかろう。


②-ⓐ安政7年1月13日出発(品川)

 〇[【勝海舟】…品川からの出発は1月13日でアメリカ到着は2月26日(新暦で3月17日)](ウィキペディア『勝海舟』)

 〇[安政7年1月13日 幕府軍艦咸臨丸、アメリカ渡航のため品川を出港](『江戸時代年表』小学館)

 〇[万延元年1月/幕府の軍艦咸臨丸は軍艦奉行木村喜毅やその従者福沢諭吉を乗せ、勝海舟の指揮で13日品川を出発しアメリカにむかった](『読める年表日本史』自由国民社)

②-ⓑ安政7年1月13日出発(不詳)

 〇[1860年2月4日、咸臨丸、米へ向かう](『世界史年表』岩波書店)(1860年2月4日は「旧暦1月13日」)


③安政7年1月15日出発(浦賀)

 〇[(勝海舟は)この年(万延元年/1860年)1月15日、正使を乗せたポーハタン号より3日も前に、無断で浦賀を出港させた](『学校では教えない歴史』永岡書店)⇒「無断」の根拠は不明。


④安政7年1月18日出発(横浜)

 〇[米国に向かった咸臨丸は2月9日(安政7年1月18日)に横浜を出港している](ウィキペディア『ポーハタン(蒸気フリゲート)』)


⑤-ⓐ安政7年1月19日出発(品川)

 〇[万延1年1月19日(2.10)幕府軍艦咸臨丸、アメリカ渡航のため品川を出発(軍艦奉行木村喜毅·軍艦操練所教授勝海舟ら搭乗)(維新史料綱要)](『日本史総合年表[第三版]』吉川弘文館)

 〇[小栗上野介ら遣米使節団が出発した1日後、すなわち安政7年1月19日には咸臨丸が品川沖を出帆して米国に向かっていた』(『幕末テロ事件史』宝島社)

⑤-ⓑ安政7年1月19日出発(横浜港)

 〇[横浜で米国行きの船待ちをしていた…フェニモア·クーパー号乗員21名中11名が咸臨丸に乗って太平洋を渡ることになる。…咸臨丸が横浜港を出港 (2月10日)](土佐清水市教委)⇒旧暦変換:1月19日。

⑤-ⓒ安政7年1月19日出発(不詳)

 〇[提督·木村喜毅きむらよしたけ芥舟かいしゅう)、艦長·勝海舟かつかいしゅう義邦よしくに)、通弁方·中浜万次郎なかはままんじろう、木村従者·福沢諭吉ふくざわゆきち/人員96名 安政7年1月19日(1860年2月10日)出発、万延元年5月5日(1860年6月23日)帰国](『詳説日本史図録』山川出版社より)

 〇[万延1年(1860)1月19日、軍艦奉行木村喜毅·軍艦操練所教授方頭取勝義邦ら、咸臨丸でアメリカへ向かう](『日本史年表』東京堂出版)


⑥安政7年1月13日出港(品川)→1月19日出発(浦賀)

 〇[【咸臨丸】…旧暦1月13日品川を出港。浦賀では、難破したアメリカ海軍測量船「フェニモア·クーパー」の船長ジョン·ブルック大尉指揮下11名が乗艦した。旧暦1月19日の浦賀出港(ウィキペディア『咸臨丸』)⇒「旧暦1月13日」は1860年2月4日、「旧暦1月19日」は1860年2月10日。⇒ブルック大尉らが乗り込んだのは「浦賀」?

 〇[1860.2.4 安政7年1月13日 随伴艦「咸臨丸」品川を出港][1860.2.10 安政7年1月19日 随伴艦「咸臨丸」浦賀を出帆](「万延元年遣米使節子孫の会」より)

 〇[(咸臨丸は)1月13日に品川沖から出帆後、浦賀に寄って薪や水を積み込んでから太平洋航海の途についた](『日本史新聞』日本文芸社)+[1860年1月19日、咸臨丸が浦賀港をアメリカに向け出航した](『歴史新聞』日本文芸社)⇒両「新聞」の出処を同一と見做したが、「1860年1月19日」は如何なものか。


⑦安政7年1月13日出港(品川)→横浜→1月19日出発(浦賀)

 〇[(事前に咸臨丸を調べると…工事を要する箇所があり…浦賀)奉行所では浦賀港の奧、長谷河口に咸臨丸を引き込み、河口をせき止め排水し工事を行いました。これが日本で最初のドライドッグです。/修理を終えた咸臨丸は、一旦江戸に戻り、大航海へ向け、安政7(1860)年1月13日品川沖で錨をあげました。途中横浜で、難破したアメリカ測量船クーパー号のブルーク大尉以下11名を乗せ、16日の夕刻再び浦賀に入港しました。航海の必需品、水と生鮮食料、燃料などの積込みを行なうためです。…二日間をかけて準備を整えた咸臨丸は、1月19日午後3時30分に浦賀を出帆しました。…無寄港で航海した咸臨丸は、2月26日快晴のサンフランシスコ港に到着です。](横須賀市浦賀コミュニティセンター分館(浦賀文化センター)『浦賀文化(第18号)』2009.4.1より)⇒参考資料として、[「よこすか開国物語(山本詔一)」「幕末軍艦咸臨丸(文倉平次郎)」「ふるさと横須賀·上(石井昭)」他]とある。

 〇[日米修好通商条約批准書交換のための使節の警護という名目かたがた航海の実地訓練を兼ね、使節たちの乗るアメリカの軍艦の出帆直前の旧暦正月13日に品川を発し、横浜を経て浦賀を出帆したのが19日、それから37日かかってサンフランシスコに着いた](『[慶應義塾豆百科] No.5 咸臨丸』慶應義塾)


【浦賀には「咸臨丸出航記念碑」が立っている】(『地図で訪ねる歴史の舞台·日本』帝国書院)/【昭和35年(1960)には日米修好通商条約の締結100年を記念して咸臨丸出港の碑が建てられています。碑の裏には、艦長の勝海舟をはじめ、福沢諭吉、ジョン万次郎などの乗組員の名が刻まれています。】(「愛宕山公園」横須賀市観光情報)

⇒最終的には「浦賀出港」、に尽きる。が、例えば「万延元年(1860)10月19日 幕府軍艦咸臨丸浦賀で修理ののち出港」(或るネット記事)という理解に苦しむ情報も含め、ご覧の如く諸説ある。実際の航路や行程を知る意義はあるものの、「太平洋横断」(遠洋航路)を考察する上で、国内航路も含めることは適切ではない。或いは、それらを起点とするのは如何なものか?


(2)〈ポーハタン号の場合〉

〈出発日は4説(①、②、③、④)、品川(沖)発と横浜発説がある〉


①安政7年1月15日出発(不詳)

 〇[咸臨丸は正使一行出帆の3日前(旧暦正月12日)に浦賀を出帆](橋本進著『咸臨丸、大海をゆく: サンフランシスコ航海の真相』についての、或るレビュー)より類推⇒著書未検証(要確認)。尚、「3日前」それ自体はかなり一般的に言われている。「咸臨丸1月19日発、ポーハタン号1月22日発」がその代表例だが、諸説入り乱れ、「3日前」だけが一人歩きしている感がある。「ポーハタン号は予定より3日遅れて出帆した」と言う者もいる(遅れた理由は不明だが、予定通りなら咸臨丸と「同日」出帆?)。


②-ⓐ安政7年1月18日出発(品川)

 〇[万延1年(1860)1月18日、条約批准交換のため、遣米特使として外国奉行新見正興・村垣範正・目付小栗忠順ら、米艦ポーハタン号に乗り品川を出帆する](『日本史年表』東京堂出版):再掲(Ⅰ-❶)

 〇[万延1年1月18日(2.9)幕府遣米使節外国奉行新見正興ら、条約批准書交換のためアメリカ軍艦ポーハタン号で品川を出発(同年9月27日帰国)(幕末外国関係文書)](『日本史総合年表[第三版]』吉川弘文館)

 〇[安政7(1860)年1月18日、幕府遣米使節団、条約批准書交換のためアメリカ軍艦ポーハタン号で品川を出港する](『江戸時代年表』小学館)

②-ⓑ安政7年1月18日出発(品川沖→横浜発)

 〇[小栗上野介ら遣米使節団が出発した1日後(、すなわち安政7年1月19日には咸臨丸が品川沖を出帆して米国に向かっていた)][遣米使節団(1月18日…品川沖を出帆)江戸→横浜→ハワイ→サンフランシスコ](『幕末テロ事件史』宝島社より)

②-ⓒ安政7年1月18日出発(不詳)

 〇[(勝海舟は…この年…1月15日、)正使を乗せたポーハタン号より3日も前(に、無断で浦賀を出港させた)](『学校では教えない歴史』永岡書店より)


③安政7年1月20日出発(「品川港」?)

 〇[外国奉行新見豊前守を正史とした一行77名を米国に派遣することとした。彼らは、万延元年(1860)1月20日米艦ポーハタン号に乗って品川港を出航](或るネット記事)⇒「品川」港は存在しない。


④-ⓐ安政7年1月22日出発(1月18日乗船/品川沖→横浜発)

 ㋐[1860.2.9 安政7年1月18日 使節一行は築地の軍艦操練所に集合し、品川沖碇泊中の「ポーハタン号」に 乗船し、品川沖を出帆][1860.2.13 安政7年1月22日 使節一行「ポーハタン号」横浜を出帆](「万延元年遣米使節子孫の会」)

 ㋑[安政7年1月18日(1860年2月9日)、使節団一行は品川沖でポーハタン号に乗船、横浜に4日停泊した後、旧暦1月22日(2月13日)、サンフランシスコに向け出港した](ウィキペディア『万延元年遣米使節』)/[1860年2月9日ポーハタン号で品川を出港し、横浜港へ。13日横浜出港](横須賀市自然・人文博物館)

④-ⓑ安政7年1月22日出発(不詳)

 ㋒[遣米使節/正使・新見正興しんみまさおき、副使・村垣範正むらがきのりまさ、立合・小栗忠順おぐりただまさ/人員77名/ 安政7年1月22日(1860年2月13日)出発](『詳説日本史図録』山川出版社より):再掲(Ⅰ-❷)



Ⅲ)【咸臨丸とポーハタン号のアメリカ到着日(諸説?)】

(1)〈咸臨丸のアメリカ到着日〉何れも正しい

❶安政7年2月25日(1860年3月17日):旧暦変換(現地日付)

 〇[1860.3.17 安政7年2月25日 随伴艦「咸臨丸」サンフランシスコ港に到着](「万延元年遣米使節子孫の会」)/[2月25日 現地時間3月17日 、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港した。](土佐清水市教委)

❷安政7年2月26日(1860年3月17日):和暦(現地日付)

 〇[咸臨丸がアメリカ現地時間3月17日(万延元年2月26日)…サンフランシスコ港に無事到着した](『日本史新聞』日本文芸社)/[2月26日(新暦3月17日)にサンフランシスコに入港](船の科学館)

❸安政7年2月26日(1860年3月18日):和暦(西暦変換)

 〇[万延元年2月26日(3.18)咸臨丸、サンフランシスコに到着(維新史料綱要)](『日本史総合年表[第三版]』吉川弘文館)

 〇[咸臨丸…3月18日サンフランシスコに到着](『歴史新聞』日本文芸社)


(2)〈ポーハタン号のアメリカ到着日〉何れも正しい

❶安政7年3月8日(1860年3月29日):旧暦変換(現地日付)

 〇[1860.3.29 安政7年3月8日 「ポーハタン号」サンフランシスコ港に到着](「万延元年遣米使節子孫の会」)

❷安政7年3月9日(1860年3月30日):和暦(西暦変換)

 〇[万延1年3月9日(3.30)遣米使節、サンフランシスコに到着(幕末外国関係文書)](『日本史総合年表[第三版]』吉川弘文館)



Ⅳ)【咸臨丸の航海日数(往路の無寄港太平洋横断)】

 咸臨丸については往路の航海日数だけの記述も多く、書籍やネット上では「35日間」「37日間」「38日間」「43日間」「44日間」などがあった。「航海日数」だけでは検証不能だが、例えば最も早い出発日説(安政7年1月12日)と最も遅いアメリカ到着日説の和暦(安政7年2月26日)からは、単純計算の航海日数は「45日間(44日目)」となる。最も信憑性がある出発日説(安政7年1月19日)からは「38日間(37日目)」となる。しかしアメリカ到着の現地時間(1860年3月17日)の旧暦変換は「安政7年2月25日」なので、「安政7年1月12日」と「安政7年1月19日」を出発日とした航海日数は、それぞれ「44日間(43日目)」と「37日間(36日目)」となるであろう(出発日を含めず太陽暦2月を「28日」としているらしい「35日間」説は消える)。


 安政7年の旧暦1月は「大の月(30日)」だが、2月は「小の月(29日)」。1860年の西暦1月は「31日」、2月は「29日」とした。(安政7年/万延1年の「大の月(30日)」は1月、3月、閏3月、6月、9月、11月、12月)


①【37日間例】

 〇[太平洋横断までの37日間、そのうち太陽を見たのはわずかに5、6日という悪条件のなか、咸臨丸はなんとかサンフランシスコに到着する](『江戸時代年表』小学館)とあるので「37日間」であろうが、同年表では品川出港「1月13日」とだけあり、サンフランシスコ到着日には触れていない(37日間の根拠は不明。出発日が「1月19日」の可能性大だが、年表からは読み取れず、逆に「43日間」前後かも知れない「憶測」を生む)。/⇒[万延1(60)年1月19日出航、2月25日サンフランシスコに入港](ブリタニカ国際大百科事典)に従った単純計算は「37日間」(36日目)になる。/⇒[37日かけて太平洋を横断しサンフランシスコに到着しました](在ニューヨーク日本国総領事館)や、ブルックの報告によれば「咸臨丸に搭乗し、江戸湾を出発してより37日の航海の後、今月17日にサンフランシスコ港に到着した」と書いてあるらしい(訳者不詳)記事は、「37日後」か「37日間」か、微妙。

②【38日間例(推定を含む)】

 〇[品川を出港した後、2月26日(新暦3月17日)にサンフランシスコに入港、往路は38日・4,629海里 (8,573 km)の航海でした」(船の科学館)

 〇「往復83日間」「復路45日間」(ウィキペディア『咸臨丸』)から、往路は「38日間」と見做した。

 〇[咸臨丸は…38日間にわたる多難な航海であった](土佐清水市教委),[咸臨丸…38日間の太平洋横断航海だった](土佐清水市観光協会)

 〇[37日後、サンフランシスコに到着](『江戸300年の舞台裏』青春出版社)に従えば、航海日数は出発日を含む「38日間」と推測。

③【39日間例(?)】

 〇[3月18日サンフランシスコに入港。正月19日の午後、浦賀を出港してから38日目にサンフランシスコ湾に投錨した。](或る論文)⇒出港日を含めれば「39日間」だが、出港日は和暦で、入港日は西暦(検証不可)。「〇〇日目」を勘違いしている嫌いがある。

④【43日間例】

 〇[43日間を要して太平洋を横断した](『日本史事典』旺文社)


【まとめ(太平洋無寄港横断の航海日数:38日間)】

❶38日間(1月19日浦賀→サンフランシスコ)/37日後(結論)

1月19日(和暦)→2月26日(日本暦):37日後(航海日数/38日間)

2月10日(西暦)の37日後:3月18日(航海日数/38日間)→日付修正(-1日):1860年3月17日(サンフランシスコの現地西暦年月日)

②44日間(1月13日品川→サンフランシスコ)/43日後(参考値)


【日本(人)初の太平洋横断?】

[【咸臨丸】…1860年遣米使節随行艦として、艦長勝海舟以下90余名とアメリカ海軍士官らが乗り組み、日本最初の太平洋横断を果たした](『大辞林 第二版』三省堂)とされる。が、日本船籍船とはいえ、そもそも幕府が注文・購入した「オランダ船」であり、国産船ではない。「アメリカ海軍士官らが乗り組み」、活躍したので、日本人だけの手柄でもない。なのに、「初の太平洋横断」が一人歩きしてしまう。


〈日本人「初の太平洋横断」は田中勝介らである〉

 ①「慶長15年(1610)6月13日、ビベロ、メキシコへ出航。京都商人田中勝介ら同乗(日本人初の太平洋横断)」(『江戸時代年表』小学館)の出航は、慶長15年6月13日(1610年8月1日)のことであった。日本との交流が深いビベロ(ドン・ロドリゴ)はスペイン領フィリピン(ルソン)の総督であったが、総督交代でアカプルコ(ヌエバ・エスパーニャ)へ向け航海中日本で遭難した。地元民に救助され、1年近く日本に滞在したが、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)との貿易を望む家康からガレオン船(「安針丸あんじんまる」)の提供を受けて帰国した(家康の使者とともに送還された)。浦賀で按針丸あんじんまる建造を指導したのはウィリアム・アダムス(三浦按針)。「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」と命名された大型帆船「按針丸」には、日本人22名も乗っていたという、その一人が田中勝介。彼らは翌年、答礼使(ビベロ送還のお礼と家康の使者への返答)・ビスカイノとともに帰国した。


 ② 伊達政宗だてまさむねが送った遣欧使節(支倉常長はせくらつねながを正使とする約200名の使節団)が出発したのは慶長18年9月15日(1613年)だが、先のビスカイノは、乗艦が帰途破損したので、この遣欧使節団の船に便乗して帰国した。使節団の船(「サン・ファン・バウティスタ号」と命名された)は、仙台藩の「自領内で建造した西洋型帆船。大きさは、長さ35.5m、幅10.9m、約500tで、建造には来日中のS.ビスカイノらが参加して、ごく短期間で完成した」(ブリタニカ国際大百科事典)という。約40日間で完成したらしい(「咸臨丸」より幅2m以上広いが、長さは約13mも短く、トン数も100トン以上下回る。が、乗員数は2倍近い)…この船自体は太平洋を2往復している。一度目は使節団派遣の月浦つきのうら(石巻)からアカプルコまで(使節団はその後陸路と別船でヨーロッパへ)。復路は、スペイン国王使節(神父)や一部帰国日本人などを乗せて浦賀まで。二度目は浦賀からアカプルコまで。復路は、ヨーロッパ帰りで帰国する使節団を乗せてアカプルコからマニラまで(支倉はせくららは約2年マニラに滞在、船はスペインに没収=半ば強制的に買収されたらしい)。

 支倉常長はせくらつねなが一行は、太平洋横断は無論のこと、イスパニア国王に政宗まさむねの書状を渡し、ローマ教皇にも謁見している。しかし、既に使節派遣の前年(1612年)には「キリシタン禁令」が布告されており、家康が没する(1616年)と益々キリシタン弾圧が強まっていく(「外国船の通商に託したキリスト教布教を禁止」、キリシタンの大量処刑など)。日本の情勢はヨーロッパにも伝わっていたので、遣欧使節団の一部は洗礼を受けたが疑問視され、幕府の一藩に過ぎない仙台藩の通商目的は果たせず、支倉はせくららが苦労して帰国したのは元和6年8月(1620年)であった。不遇である。メキシコに留まった一部の者達の方が幸せだったのかも知れない。


 それはそれ・・・何れの造船にも外国人が関わっているが、外国に発注された船ではない。特に操船技術では「難破した外国船」の存在が大きいが(①,②)、日本人水夫も大勢乗っていた(②)。「難破船」がなければ家康や政宗の遠洋派遣(太平洋横断)が発案されたかどうかさえ分からないが、しかし実現し、経験を積み、学ぶことは出来た。そうであろうが故に、又しても外国人に頼った「咸臨丸(オランダ船)」の価値はとても薄れる。そうして、「日本人だけで(初)太平洋横断を果たした」という戯言は、明治になって恰も新政府の成果の如く増幅され、喧伝された。

 咸臨丸も太平洋を横断したが、「初の日本人」ではない。国産船でもない。アメリカ人を送還したが、彼らはポーハタン号で帰国する予定であった。「日本人だけ」を謳うなら、彼らを同乗させるべきではなかった。



Ⅴ)【咸臨丸の行程と帰国】

1)【「咸臨丸」帰国日の3説?(①,②-④,⑤)浦賀、横浜、品川沖】

①万延1年5月4日(1860年6月22日)帰国(浦賀港)

 〇[浦賀入港は六月二十二日」(四国新聞)⇒日付変更せず?

②万延1年5月5日(1860年6月23日)帰国(浦賀&不詳)

 〇[1860.6.23 万延元年5月5日 随伴艦「咸臨丸」浦賀に帰着](「万延元年遣米使節子孫の会」)/[万延元年5月5日(西暦1860年6月23日)、帰国](『詳説日本史図録』山川出版社)

③万延1年5月5日(1860年6月23日)(浦賀港→翌日:横浜港)

 〇[万延元年 (1860)6月23日、咸臨丸は無事浦賀港に投錨した。 6月24日、浦賀港から横浜港へ、その夜万次郎は自宅に帰宅した}(土佐清水市教委)⇒和洋暦が混在している。「投錨」は微妙。

④万延1年5月5日(1860年6月23日)(浦賀→翌日:横浜港→品川沖)

 〇[浦賀に投錨した翌日5月6日には、横浜港でアメリカ人乗組員を下船させ、夜には品川沖に投錨](船の科学館)

⑤万延1年5月6日(1860年6月24日)帰国/帰着(品川&不詳)

 〇[万延1(1860)年5月6日、咸臨丸に同乗して帰国した中浜万次郎、アメリカ製ミシンを持ち帰る](『江戸時代年表』小学館)⇒③より、「横浜港」と推定される?(品川ではない?/未検証)

 〇[品川への帰着は5月6日](ウィキペディア『勝海舟』)⇒「帰着」であり、帰国とは言っていない(解釈が微妙)。

 〇[万延1年5月6日(6.24)咸臨丸、品川に帰航(維新史料綱要)](『日本史総合年表[第三版]』吉川弘文館)


2)【咸臨丸の航海日数(太平洋横断/往路は再掲)】

❶往路(太平洋横断):38日間(浦賀→サンフランシスコ)/37日後

1月19日(和暦)→2月26日(日本暦):37日後(航海日数/38日間)

2月10日(西暦)の37日後:3月18日(航海日数/38日間)→日付修正(-1日):1860年3月17日(現地西暦年月日)

❷復路(太平洋横断):44日間(サンフランシスコ→浦賀)/45日後(42日後+ホノルル3日/滞在4日間)

 〇サンフランシスコ→ホノルル(16日間)/15日後

閏3月19日(日本暦)→4月4日(日本暦):15日後(航海日数/16日間)

5月8日(現地西暦日付)→5月23日(現地西暦日付):15日後(航海日数/16日間)

 〇ホノルル→浦賀(28日間)/27日後

4月7日(日本暦)→5月5日:27日後(航海日数/28日間)

4月6日(現地和暦)の27日後:5月4日(航海日数/28日間)→日付修正(+1日):万延1年5月5日(帰国)


3)【咸臨丸の総航海日数(滞在含めず)】遠洋航海:82日間

①82日間(浦賀→サンフランシスコ→ホノルル(滞在)→浦賀)

②83日間(浦賀→サンフランシスコ→ホノルル(滞在)→浦賀→品川)

③89日間(品川→浦賀→サンフランシスコ→ホノルル(滞在)→浦賀→品川)

 尚、『日本史総合年表[第三版]』(吉川弘文館)では、品川を起点(出発)・終点(帰航)としている。1月19日(2.10)品川出発→2月26日(3.18)サンフランシスコ到着→5月6日(6.24)品川帰航


4)【咸臨丸の行程(まとめ)】

―「和暦/旧暦」と区別する為、「日本暦(日本での年月日)」新設―

(安政7年/万延1年の「大の月(30日)」は1月、3月、閏3月、6月、9月、11月、12月。西暦の2月は「29日」とする)


〈安政6年(1859年)〉

 11月24日(12月17日)幕府、木村喜毅以下に米国渡航を命ず

 12月24日(1860年1月16日)派遣船に「咸臨丸」(←観光丸)

〈安政7年(1860年)〉

 1月13日(2月4日)「咸臨丸」品川沖を出航

 (横浜寄港:同、1月13日?/未検証)

 1月16日(2月7日)横浜(昼頃、クーパー号ブルック等11人乗船)

 同、1月16日(2月7日)浦賀に寄港(同日夕刻)

 1月19日(2月10日)浦賀を出帆/午後3時30分(出国)

〈1860年(安政7年/万延1年)/「暦」順序入替→冒頭は現地日付〉

 3月17日(安政7年2月25日)日本暦:2月26日(3月18日)サンフランシスコ港着(※¹)

[「咸臨丸」修理で約40日間ドッグ入り/3月23日~5月1日(?)]

(3月29日/日本暦:3月9日)「ポーハタン号」サンフランシスコ着)

(4月7日/日本暦:万延1年3月18日「ポーハタン号」S.F.港出帆)

 5月8日(万延1年閏3月18日)日本暦:閏3月19日(5月9日)サンフランシスコ港出帆(ハワイへ)(※²)

 5月23日(4月3日)日本暦:4月4日(5月24日)ホノルル入港(※³)

 5月25日(4月5日)日本暦:4月6日(5月26日)ハワイ国王に謁見(※³)

 5月26日(4月6日)日本暦:4月7日(5月27日)ホノルル出港

〈万延1年(1860年)/「暦」の順序を戻す→冒頭は和暦(日本暦)〉

 5月5日(6月23日)「咸臨丸」浦賀(帰国)

 5月6日(6月24日)横浜港(米人下船)→品川(沖)に帰着


 注(※¹)サンフランシスコ港着について:[1860.3.17 安政7年2月25日 随伴艦「咸臨丸」サンフランシスコ港に到着](「万延元年遣米使節子孫の会」)とあるが、[【勝海舟】…品川からの出発は1月13日でアメリカ到着は2月26日(新暦で3月17日)](ウィキペディア『勝海舟』)や[咸臨丸がアメリカ現地時間3月17日(万延元年2月26日)、太平洋岸に臨むサンフランシスコ港に無事到着した](『日本史新聞』日本文芸社)などの「2月26日」は、日付変更していない「日誌」に拠ると思われる。/⇒「1860年3月18日」説も散見する。[咸臨丸は浦賀出港後1カ月あまり後の3月18日サンフランシスコに到着](『歴史新聞』日本文芸社)など。それらは、「安政7年2月26日」を単純に西暦変換したと推測する。[咸臨丸…1860年3月18日(安政6年2月26日) 、サンフランシスコに到着しました](外務省外交史料館)の「安政6年」はとんでもない「誤植」だろうが、外務省関連の多くは、旧暦をそのまま用い、西暦変換しているように思われる。つまり、日本(史)では「安政7年2月26日(1860年3月18日)」と記していると考えられる。それが確実であり、年表の作成方法や見方が分かっておれば良いのだが、西暦だから「現地日付」、のように捉えると混乱を招く。/⇒現地時間で比較すれば、咸臨丸はポーハタン号より「12日前」にアメリカに到達した(これは常識と言って良い)。/⇒『咸臨丸入港百年記念碑』(サンフランシスコ)には「the arrival of the Kanrin Maru, the first Japanese naval ship in San Francisco Bay, on 17 March 1860」などが刻まれている(現地の日付「3月17日」)。故に日本での暦は「2月26日」と考えられる。/⇒『天皇の世紀』(WOWOW/原作:大佛次郎)では、[咸臨丸の航海37日間。到着は西暦3月17日(旧暦2月26日)。ポーハタン号より12日前]として放映されていたが、咸臨丸の出港を「1月19日」とするものの、残念ながら、ポーハタン号より5日前と描かれていた(ポーハタン号出港「1月24日」説?)。


 注(※²)サンフランシスコ港出帆について:[【勝海舟】…閏3月19日(5月8日)にサンフランシスコを旅立ち](ウィキペディア『勝海舟』)より、現地日付「5月8日」、「閏3月19日」(「日本史(日本暦)」)とした。しかし、現地日付「1860年5月8日」の単純な旧暦変換(閏3月18日)が多く流布されている。[1860.5.8 万延元年閏3月18日 随伴艦「咸臨丸」サンフランシスコ港を出帆 ハワイに向かう](「万延元年遣米使節子孫の会」)など。⇒「閏3月19日」の西暦変換は「1860年5月9日」だが、現地日付が「5月8日」ということなのだろう。逆に言えば、「5月8日」の旧暦変換は「閏3月18日」になるが、日本時間は「閏3月19日」であろう。/⇒[出航から37日後の2月22日無事サンフランシスコに入港しました。…咸臨丸は3月19日帰途につき](或るネット情報)なども散見する(3月の「閏」が抜けている)。「2月22日…サンフランシスコ」なら恐らく「37日後」ではなく、凡そ考えられない「到着日」だが、同じく、[咸臨丸はその後船体の大規模な修理を行い、病人と付添人の9名を残して、3月19日にサンフランシスコを出港した](「木古内町観光協会」)などの「3月」(「閏」が抜けている)説をあまりにも多く見かける。「3月19日帰途」(「閏」を無視)はあり得ない。同様な例は枚挙にいとまがない。[1月29日に浦賀を出航した咸臨丸は、途中冬の北太平洋で強烈な時化(しけ)に遭いながらも、2月26日に目的地のサンフランシスコに到着しました。そして、3月19日にサンフランシスコを離れ](横須賀市)の「1月29日」は明らかに誤植であろうし(恐らく「1月19日」)、「3月19日」もやはり「閏」が抜け落ちている。

 [サンフランシスコ湾の奥にあるメア・アイランド海軍工廠で、新艦のように修繕された咸臨丸は、万延元年閏3月19日(1860年5月9日)朝8時、人々が見送る中、礼砲を交換し、サンフランシスコを出港しました](「船の科学館」)の西暦「5月9日」も「和暦」が基準と考えられる西暦変換だろう。/⇒[帰国に際し約40日間も修理の日数を費やし…万延元(1860)年閏3月19日サンフランシスコを出帆し、ハワイ・ホノルルに寄港。日本人だけで航海を終え(※⁴)、5月5日午前9時10分…浦賀へ入港しました。](『浦賀文化(第18号)』2009.4.1より)とあり、帰国時間まで記されている。


 注(※³)ハワイ国王に謁見など:以下

⓵ホノルル入港

以下の和暦は同じ「4月4日」だが、西暦が違う。

 ①[1860年5月23日(万延元年4月4日)、ハワイ王国のホノルル港に到着](慶應義塾関係者)

 ②[4月4日(5月24日)にホノルルに入港](「船の科学館」)

⇒次の⓶(「ハワイ国王に謁見」)より逆算して、現地日付は1860年「5月23日」とする。「4月4日」の西暦変換は「5月24日」だから、①②の「4月4日」は、現地日付(和暦)ではないということになろう(日付変更されていない旧暦と推定)。/⇒尚、「万延元年閏四月四日朝、咸臨丸はサンドウィッチ諸島オアフ島のホノルルに着いた」(或るネット記事)の「閏4月」はあり得ない。

⓶ハワイ国王に謁見

 謁見日は、次の記事に従って「1860年5月25日(現地日付)」とする。[咸臨丸はサンフランシスコに直行し、その帰路、薪水の補給のためにホノルル港に寄港し、(1860年)5月25日に使節団の木村摂津守喜毅、勝鱗太郎等が四世とエマ王妃に改めて謁見をしています。通訳はジョン万次郎が勤めました。その際、四世より、日本からハワイへの移民の要請がありました。ハワイ王国は、砂糖産業の拡大を受け、農園での労働力確保のために外国からの移民の受入れを考慮する時期に差し掛かっていたのでした。](「アロハプログラム」より:アロハプログラムはハワイ州観光局が運営する公式ラーニングサイト)を採用した。


 注(※⁴)「日本人だけで航海」について:「Ⅷ」で詳述する。



Ⅵ)【遣米使節(ポーハタン号など)の行程と帰国】

1)【「遣米使節」帰国日の2説(①,②)横浜港、品川沖】

①-ⓐ万延1年9月27日(1860年11月9日)(品川沖碇泊/帰着)

 ㋐[11月9日…ナイアガラ号は横浜沖から江戸湾に進み、 品川沖に碇泊](㋐㋑「万延元年遣米使節子孫の会」)

 〇[旧暦9月27日(11月9日)に品川沖に帰着、翌日下船した](ウィキペディア『万延元年遣米使節』)

 〇[9月27日(1860年11月8日)品川沖に帰着した](慶應義塾大学関係者)⇒西暦は恐らく現地日付。

 ㋒[九月二十七日(11月9日・金)松輪浦~横浜~品川沖着](㋒㋓東善寺HP)

①-ⓑ万延1年9月27日(1860年11月9日)(横浜港)

 〇[9月27日(11月9日)横浜港着](或る論文)/[アメリカ軍艦「ナイアガラ」に乗船し…9月27日(11月9日)に横浜に帰着した](ウィキペディア『新見正興』)

①-ⓒ万延1年9月27日(1860年11月9日)(横浜港→品川沖)

 ㋔[11月8日三浦半島松輪村沖の海上に碇泊、翌日横浜港で従者等を下船させ、品川沖に碇泊。](㋔㋕横須賀市自然・人文博物館)

①-ⓓ万延1年9月27日(1860年11月9日)(不詳)

 〇[遣米使節…万延元年9月27日(西暦1860年11月9日)、帰国](『詳説日本史図録』山川出版社)/[万延1年(1860年)9月27日、新見正興ら帰国する](『日本史年表』東京堂出版)

②-ⓐ万延1年9月28日(1860年11月10日)(江戸湾/築地上陸)

 ㋑[11月10日に江戸に入港][1860.11.10 万延元年9月28日 使節一行築地操練所に上陸](㋐㋑「万延元年遣米使節子孫の会」)/[遣米使節が…11月10日に江戸に入港した](外務省「万延元年遣米使節団のパナマ通過(1860年)」)/㋕[11月10日使節団は築地操練所に上陸して、一時帰宅](㋔㋕横須賀市自然・人文博物館)

②-ⓑ万延1年9月28日(品川沖/下船)

 ㋓[九月二十八日(11月10日・土)下船し帰国上陸(㋒㋓東善寺HP)

②-ⓒ万延1年9月28日帰国(不詳)

 〇[ナイアガラ号で…万延元年九月二十八日帰国](サライ.jp)


2)【遣米使節団の行程(まとめ)】

―「和暦/旧暦」と区別する為、「日本暦(日本での年月日)」新設―

(安政7年/万延1年の「大の月(30日)」は1月、3月、閏3月、6月、9月、11月、12月。西暦の2月は「29日」とする)


〈嘉永7年/安政1年(1854年)〉

 7月9日(8月2日)日章旗を日本国総船印に制定(嘉永7年)

〈安政5年(1858年)〉

 6月19日(7月29日)日米修好通商条約・貿易章程調印

 8月23日(9月29日)外国奉行らのアメリカ派遣決定

〈安政6年(1859年)〉

 9月13日(10月8日)親見・村垣・小栗に批准書交換の幕命

 12月19日(1860年1月11日)ポーハタン号が横浜に帰着

〈安政7年(1860年)〉

 1月16日(2月7日)遣米使節に国書と批准書を渡す

 1月18日(2月9日)使節(小舟)→ポーハタン号出帆(品川沖)

 (横浜に4日間停泊/残りのクーパー号乗組員10人?乗船)

 1月22日(2月13日)横浜を出発(出国)

〈1860年(安政7年/万延1年)/「暦」順序入替→冒頭は現地日付〉

 2月23日(2月2日/日本暦:2月2日)日付変更線を通過(※¹)

 (参考:名村五八郎「日付変更(修正)」)

[同日/2月22日(2月1日/日本暦:2月2日)日付変更線の通過後]

 2月27日(2月6日/日本暦:2月7日)ハワイへ進路変更(燃料補給)

 3月5日(2月13日/日本暦:2月14日/3月6日)ホノルル港着(※¹)

 (ハワイに14日間滞在)

 3月9日(2月17日/日本暦:2月18日)ハワイ国王に謁見(※¹)

(3月17日/日本暦:2月26日「咸臨丸」サンフランシスコ港着)

 3月18日(2月26日/日本暦:2月27日)ホノルル港出帆(※¹)

 3月29日(3月8日/日本暦:3月9日/3月30日)サンフランシスコ港着(※²)

 4月2日(3月12日/日本暦:3月13日)市の歓迎宴に出席(※²)

 4月7日(安政7年3月17日/日本暦:万延1年3月18日/4月8日)サンフランシスコ港出帆(ポーハタン号)(※³)

 4月24日(閏3月4日/日本暦:閏3月5日)パナマ港着(※⁴)

 4月25日(閏3月5日/日本暦:閏3月6日)汽車→アスピンウォール(コロン港)着(大西洋)→ロアノーク号(翌日出港)

(5月8日/日本暦:閏3月19日「咸臨丸」S.F港出帆→ハワイへ)

 5月13日(閏3月23日/日本暦:閏3月24日)フィラデルフィア号

 5月14日(閏3月24日/日本暦:閏3月25日/5月15日)12時頃、ワシントン到着(海軍造船所)(※⁵)

 5月16日(閏3月26日/日本暦:閏3月27日/5月17日)国務長官カスに挨拶

 5月17日(閏3月27日/日本暦:閏3月28日/5月18日)ブキャナン大統領と会見(国書奉呈)(※⁵)

 5月19日(閏3月29日/日本暦:閏3月30日)大統領主催歓迎会

 5月22日(4月2日/日本暦:4月3日/5月23日)米国務長官カスと条約批准書を交換(※⁵)

 5月24日(4月4日/日本暦:4月5日)ワシントン海軍造船所見学、貨幣比率の談判(※⁶)

 6月5日(4月16日/日本暦:4月17日/6月6日)大統領・国務長官に挨拶

 6月8日(4月19日/日本暦:4月20日/6月9日)ワシントン出発(汽車)→ボルティモア

 6月9日(4月20日/日本暦:4月21日)フェリー(メリーランド号)乗船(汽車)→フィラデルフィア(夕刻)

 6月14日(4月25日/日本暦:4月26日/6月15日)フィラデルフィア造幣局訪問(※⁶)

 6月16日(4月27日/日本暦:4月28日/6月17日)ニューヨーク港到着

 6月29日(5月11日/日本暦:5月12日)ナイアガラ号乗船

 6月30日(5月12日/日本暦:5月13日/7月1日)ニューヨーク港出帆(ナイアガラ号)(※⁷)

 (木村鉄太「日付変更」5月19日/日本暦:5月20日)

 7月16日(5月28日/日本暦:5月29日))ポルトガル領ポート・グランデ寄港

 8月6日(6月20日/日本暦:6月21日)コンゴ(ポルトガル領)ロアンダ港到着

 8月15日(6月29日/日本暦:6月30日)ロアンダ港出帆

 8月26日(7月10日/日本暦:7月11日)喜望峰通過

 9月30日(8月16日/日本暦:8月17日)バタビア港到着(碇泊)

 10月22日(9月9日/日本暦:9月10日)香港到着

 (英領香港に停泊/8泊)

 10月30日(9月17日/日本暦:9月18日)香港出航

〈万延1年(1860年)/「暦」の順序を戻す→冒頭は和暦(日本暦)〉

 9月26日(11月8日)三浦半島松輪村沖の海上に碇泊

(浦賀沖:9月27日/村垣が日付「9月28日」のズレに気付く)

 9月27日(11月9日)横浜港で従者等下船、品川沖に碇泊(※⁸)

 9月28日(11月10日)軍艦操練所(築地)に上陸(※⁸)

 9月29日(11月11日)遣米使節、出仕


3)【遣米使節団の見学場所など】

〇[工場・学校・博物館、その他の施設見学、芝居見物、パーティーに走り回った。](『面白いほどよくわかる日本史』日本文芸社)

〇[ワシントンでは海軍造船所を見学し、船舶や銃器の製造などを実地で見聞](『幕末テロ事件史』宝島社)

〇[ワシントンに 25日間滞在し、スミソニアン博物館、国会議事堂、海軍工廠、海軍天文台などを訪れました。](外務省外交史料館)

〇[遣米使節団はサンフランシスコを皮切りに、首都ワシントンでの市中パレード、ホワイトハウス歓迎会や舞踏会、批准後陸路向かったボルティモア、フィラデルフィアでも大歓迎を受け、昨日(1860年6月16日/現地時間)のパレード(ニューヨークのブロードウェーに至る目抜き通りは、出迎えの軍楽隊や騎馬隊など7千人の軍兵とともに馬車を連ねて市中パレードする遣米使節団一行を一目見ようと集まった大群衆であふれかえった)に至った。](『日本史新聞』日本文芸社)

〇[遣米使節団が最後の訪問地である当地ニューヨークを訪れたのは1860年6月のことで、ここでも一行は街を挙げての大歓迎を受けました。マンハッタンでは、一行に敬意を表しブロードウェーでパレードが催されましたが、この時日米両国の国旗が各所に掲げられたブロードウェーは50万人の観客で溢れかえり、ビルの窓から身を乗り出したり電信柱に登って見物する姿も見受けられました。パレードは、ダウンタウンからユニオン・スクエアに至るコースを行進し、最終地点では軍による閲兵式が行われました。夜にはニューヨーク市主催のダンスパーティも開催されています。パレードには著名な詩人ウォルト・ウイットマンも訪れており、パレードについてこの詩人が記した詩は彼の詩集「Leaves of Grass」に残っています。パレードの他、使節団一行は市長との会見、市内視察等を行いましたが、その間一行に関する演劇・歌が上演されたり、土産物が売られたり、「日本人(Japanese)」と名づけられたカクテルが人気を博したり、1860年夏のニューヨークは日本で溢れかえりました。](在ニューヨーク日本国総領事館)


4)【遣米使節団は2番目の世界一周旅行者?】

 ご覧の通り、遣米使節団は太平洋を渡り、大西洋、アフリカ、インド洋を経て帰国しているが、初の世界一周「旅行者」は津太夫つだゆうらである。寛政5年11月(1793年)、石巻港を出帆した若宮丸(乗員16名)は遭難して漂流、ロシア人に救われた。イルクーツクで生活し、生き残った4名は(他にイルクーツク残留6名がいた)、日本への使節・レザノフに連れられて、大西洋から太平洋を回り、1804年帰国した。厳密に言えば彼らは「旅行者」ではないが、遣米使節団も「旅行者」ではない。そもそも津太夫つだゆうらは、単にロシアから送還された訳ではない。レザノフは、ロシアの使節として来日したが、「露米会社」(ロシアの独占的特許植民会社。母体はアメリカ商事会社との合同会社)創設者としての顔をもつ(数次に亘る日本人送還は通商などを有利に運ぶ為の手札)。遣米使節団は、何故太平洋を横断せず、4ヵ月以上もかけて帰ったのだろうか。大西洋航路の方が近かった(早かった)と言われればそれまでだが(※⁹)、気になったのは、「ナイアガラ号」は「大西洋横断通信ケーブルの敷設作業に従事していた」という記事。それはともかく、世界一周を果たした日本人は遣米使節団一行が最初ではない。


〇[陸奥国船籍の「若宮丸わかみやまる」の津太夫つだゆうも、(大黒屋だいこくや光太夫こうだゆうとほぼ同じ路程でシベリアからペテルブルグへ達した。彼らは、ロシア使節レザノフに伴われ、イギリス、ブラジル、ハワイを経て文化ぶんか元(1804)年に長崎へ帰還した。/1年間にわたったこの航海は地理的探索の任務を兼ねており、津太夫らは世界一周旅行をした初めての日本人となったわけである。](『面白いほどよくわかる江戸時代』日本文芸社)


 注(※¹)ホノルル寄港など:以下

①〈「日付変更線」通過について〉

 「ポーハタン号…ホノルル到着の2日前に日付変更線を通過している」(ウィキペディア『万延元年遣米使節』)とあるが、合点がいかなかった。

 実際には、[1860年2月…(23日日付変更線を通過)…3月5日ハワイ諸島のホノルル到着](横須賀市自然・人文博物館)とあり、ホノルルまで10日以上かかっている。/⇒次の一文が「日付変更線」の通過事情を物語る。[2月23日(2月2日)夕刻6時頃、ポーハタン号は経度180度を通過した。米国測量官は、今日は2月23日であるが、日付変更線を通過したので、今日を2月22日にしておけば、合衆国到着の際現地の日付と適合する理を説明したが、「日本人は、従前の日数を逐ひ、改めずして用ふ」こととした。通詞名村五八郎を除けば、残存する使節一行の日記がすべて、帰朝下船の日に…一日の差を確認している](「万延元年遣米使節子孫の会」より)/⇒しかし、気付いたのは一人ではない。名村五八郎は日付変更線で日付を変更しているらしいが、「木村鉄太は5月20日、西経45度線で日付変更をしている。…日本=東経135度とし、ちょうどその反対側で行った」(或る論文)が詳しい。

 原則「日付変更線」は東経/西経180°にあり、「ホノルル」は西経157°51分32秒(約158°)、つまりホノルルまで大凡「22°」の間隔がある。例えば北緯30°の経度1秒は26.802m、1°=3,600秒なので、96.4872㎞。22°の開きは「2,122.7184㎞」(約2,123㎞)に相当する。時速44.2㎞(約23.9ノット)以上出さなければ2日間で到達しない。なので、「ホノルル到着の2日前に日付変更線を通過」は、少なくともポーハタン号(速力11ノット)では先ず無理であろう。仮にホノルル港まで10日間とすれば、平均4.8ノット(時速約8.9㎞)で到達する(因みに咸臨丸の速力は最高「6ノット」とされる)。


②〈ホノルル寄港日について〉

❶1860年3月4日(安政7年2月13日)

[旧暦2月13日(1860年3月4日)補給のためにホノルルに寄港](ウィキペディア『万延元年遣米使節』)/[二月十三日(3月4日・日)ハワイ・ホノルル着](東善寺HP)などの「1860年3月4日」説も数多あるが、

❷1860年3月5日(安政7年2月13日)

[1860.3.5 安政7年2月13日 使節一行「ポーハタン号」ホノルル港に到着](「万延元年遣米使節子孫の会」)などの「3月5日」説とは一致しない。何れも「安政7年2月13日」だが、その西暦変換は「1860年3月5日」であり、❶の西暦はそれより「1日」遅れているが(3月4日)、❷の「2月13日」は、現地日付「3月5日」に対応する旧暦となっている(❷の解釈)。

 日付変更線の通過は「1860年2月23日」(安政7年2月2日)であり、修正された現地日付は「1860年2月22日」(安政7年2月1日)となる。これを基準に考えてみたい。「安政7年2月13日」は、日付変更線通過の12日後。「1860年2月22日」の12日後は「(あり得ないが)2月34日」。西暦「2月末日=28日」の場合は「3月6日」、「2月末日=29日」で「1860年3月5日」となる(❷と一致)。次に、日付変更前の旧暦(安政7年2月2日)を基準に考えてみたい。「安政7年2月13日」はその11日後。「1860年2月23日」の11日後は「(あり得ないが)2月34日」、西暦「2月末日=29日」で「1860年3月5日」だが、これを日付修正すれば「3月4日」となる(❶と一致)。つまり、❶の「安政7年2月13日」は無修正の日付ということになろう。修正された「1860年2月22日」の11日後は確かに「1860年3月4日」(2月末日=29日)になる。

 相違点は、違いがあってはならない「航海日数」。到着12日目が正しいなら、無修正の旧暦(❶)も「安政7年2月14日」ホノルル到着でなければならない。11日目が正しければ、ホノルル到着の現地日付(❷)は「1860年3月4日」でなければならないが、検証の結果、❷「3月5日」(現地日付)が正しいことが分かった。つまり、日付変更線の「12日後」にホノルルに到着していた。❶の「安政7年2月13日」は日付修正後の日付でなければならないが、それを修正前の日付と勘違いしない限り、決して❶「1860年3月4日」は導けない(❶は誤り)。


③〈ハワイ国王への謁見日について〉

 「2月17日(3月8日)」(東善寺HP)など散見するが、「1860年3月9日」が現地日付であろう。[1860.3.9 安政7年2月17日 使節、ハワイ国王カメハメハ4世及び王妃エマに謁見する](「万延元年遣米使節子孫の会」)の「2月17日」は単なる旧暦変換だが、「2月17日(3月8日)」の「2月17日」は、それを日付変更していない旧暦と捉え、「2月16日」に修正した日付の西暦変換「3月8日」と考えられる。


④〈ホノルル出港日について〉

 「1860年3月18日」がアメリカ現地日付。「使節到着の第一報は次の記事である。一行は1860年3月5日に入港し、同18日に出港した」(慶應義塾大学関係者),「1860年…ポーハタン号…3月5日ハワイ諸島のホノルル到着。後日、ハワイ国王に謁見。18日出港」(横須賀市自然・人文博物館)したが、「旧暦2月26日(1860年3月17日)ホノルルを出港」(ウィキペディア「万延元年遣米使節」)なども散見する。旧暦2月26日の西暦3月18日を1日戻した(日付修正した)「1860年3月17日」であろうが、恐らく勘違いしている。


 注(※²)サンフランシスコ入港など:以下

⓵〈サンフランシスコ入港日について〉

 ①1860年3月28日(安政7年3月8日)

 [旧暦3月8日(3月28日)にサンフランシスコに到着した](ウィキペディア『万延元年遣米使節』)/[サンフランシスコには米国に直行した咸臨丸より遅れて、(1860年)3月28日に到着した](ウィキペディア『ポーハタン(蒸気フリゲート)』)

 ②1860年3月29日(安政7年3月8日)

 [1860.3.29 安政7年3月8日「ポーハタン号」サンフランシスコ港に到着](「万延元年遣米使節子孫の会」)

 ③安政7年3月9日

 「旗艦のポーハタン号は3月9日に嵐のために遅れて到着」(「木古内町観光協会」)

⇒何れも紛らわしいが、①は成立しない。例えば「現地日付:1860年3月29日/旧暦変換・修正日付:安政7年3月8日(和暦・日誌日付:安政7年3月9日/西暦変換:1860年3月30日)サンフランシスコ着」とでもすれば正確か?(無論、前提が違えば総崩れ!)


⓶〈サンフランシスコ市の式典日について〉

 ①[3月11日には市長主催の歓迎式が行われている](ウィキペディア『万延元年遣米使節』)⇒誤りと思われる。

 ②[1860.4.2 安政7年3月12日 使節、サンフランシスコ市主催歓迎宴に臨席](「万延元年遣米使節子孫の会」)⇒未確認だが、恐らく和暦は「安政7年3月13日」だろう(①「3月11日」は導けない)。


 注(※³)サンフランシスコ港の出帆日(安政年と万延年):[1860年4月7日(万延1年3月17日)「ポーハタン号」サンフランシスコを出帆](「万延元年遣米使節子孫の会」)⇒「3月17日」は未だ「安政7年」である(安政7年3月17日)。つまり、「3月18日改元」に合わせた改元号使用であろうが故に、日本時間(和暦)「万延1年3月18日」と推定した(現地「1860年4月7日」サンフランシスコ出航)。


 注(※⁴)ポーハタン号の下船:[1860.4.24 万延元年閏3月4日 「ポーハタン号」パナマ港に到着 蒸気機関車にて大西洋へ](「万延元年遣米使節子孫の会」)であるが、汽車に乗ったのは翌日のことと考えられる(1860年4月25日)。尚、当時、パナマ運河は未だない。

 [米艦ポーハタン号に乗船した一行は、ハワイとサンフランシスコに寄港した後、大西洋へと抜けるため当時大コロンビアの一州であったパナマを訪れた(4月25日)](外務省『万延元年遣米使節団のパナマ通過(1860年)』)の日付は、旧暦を基準に西暦変換していると思われる。「4月25日」は年表:4月24日パナマ(現地日付)。こちらが正しければ、(間違いではないが)外務省の「罪」は重い。「日付」の定義を周知させるべきであろう。


 注(※⁵)ワシントン到着日と批准書交換など:以下

①〈ワシントン到着日について〉

[1860.5.14 万延元年閏3月24日 使節一行ワシントン海軍造船所に到着、上陸](「万延元年遣米使節子孫の会」)/[1860年5月14日ワシントンに到着](『歴史新聞』日本文芸社)/[現地時間5月14日、ワシントン到着。条約批准を済ませている]『面白いほどよくわかる日本史』(日本文芸社)⇒「条約批准を済ませている」はあり得ない。/⇒[2016年5月13日、万延元年遣米使節団が日米修好通商条約批准書交換の為、米国ワシントン海軍工廠に1860年5月14日に到着したことを刻銘する記念碑が建立され、米国海軍に寄贈されました](「万延元年遣米使節子孫の会」)より、「5月14日」がアメリカの現地日付であろう。⇒[5月15日にワシントンに到着](ⓐ外務省外交史料館&ⓑ外務省『万延元年遣米使節団のパナマ通過(1860年)』)は、和暦「閏3月25日」の西暦変換と推測した。しかし、「5月15日にワシントンに到着しました。翌16日にキャス国務長官を訪問し、17日にはブキャナン大統領に謁見し、批准書を交換しました。…6月5日、再び大統領に謁見し、その後キャス国務長官から使節3人に金メダル、随員に銀メダル、従者に銅メダルが贈られました」(ⓐ外務省外交史料館)の中の一文なのである(ⓑではない)。この「(5月)16日」「(5月)17日」或いは「6月5日」は確認出来たが、これらは現地日付としてである(正しい現地日付)。実際に「5月15日」(ⓐ,ⓑ)から連続しているのであれば、先の「推測」(旧暦の西暦変換説)は崩れるし、「記念碑(5月14日)」と矛盾する。だが「推測」が正しく、矛盾しない(「記念碑」の現地日付が正しい)。「17日にはブキャナン大統領に謁見し、批准書を交換しました」(ⓐ外務省外交史料館)とあるが、謁見はワシントン到着の3日後(ⓐでは「2日後」)、「批准書交換」は「17日」の数日後であり、相手はカス(国務長官)。外務省さん、どうにかして頂きたい(現地日付を混在させる誤り)。

 『日本史総合年表[第三版]』(吉川弘文館)の記述は、和暦とその西暦変換併記で首尾一貫している(以下3件は要旨)。

㋐3月9日(3.30)遣米使節、サンフランシスコ到着

㋑閏3月28日(5.18)遣米使節、ワシントンでアメリカ大統領と会見

㋒4月3日(5.23)日米修好通商条約批准書交換

 外務本省(『11.日米修好通商条約批准書交換証書(重要文化財)』)によれば、[(1860年)5月22日(万延元年4月3日)、ワシントンの国務省において、使節団正使の新見正興(豊前守)と国務長官のキャス(L. Cass)との間で批准書の交換が行われた](外務本省)とあり、この「5月22日」はアメリカの現地日付、「4月3日」は日本での日付と考えられる(「4月3日」の西暦変換は「1860年5月23日」、つまり、㋒吉川弘文館の年表と同じ)。和暦(4月3日)、現地日付(5月22日)、和暦の西暦変換(5月23日)、現地日付の旧暦変換(4月2日)、これらの無節操な混在が混乱の元凶。


②〈アメリカ大統領謁見日について〉

[1860.5.17 万延元年閏3月27日 使節一行、ホワイトハウスに於いて、ブキャナン大統領に謁見し、 国書を奉呈](「万延元年遣米使節子孫の会」),[1860年5月17日ブキャナン大統領と会見し将軍親書を手交する](『歴史新聞』日本文芸社),[17日にはブキャナン大統領に謁見し、批准書を交換しました](外務省外交史料館)とあるが、先の①-㋑(吉川弘文館)や[万延1年(1860年)閏3月28日、新見正興ら、ワシントンにおいて大統領ブキャナンに謁見する](『日本史年表』東京堂出版)は、「日本史」としてはこちらが正しいと思われる。/⇒「一行は3月28日にブキャナン大統領を公式に表敬」(在ニューヨーク日本国総領事館)⇒これも「閏」が抜けている。日本国総領事館よ、お前もか!


③〈批准書交換日について〉

[1860.5.22 万延元年4月2日 使節、国務省に赴き、カス国務長官との間に日米修好通商条約批准書の交換を行う](「万延元年遣米使節子孫の会」)⇒現地日付(5月22日)とその旧暦変換(4月2日)としては間違いない。/⇒[万延1年(1860年)4月3日、米国務長官カスと条約批准書を交換する](『日本史年表』東京堂出版),[批准書交換は万延元年(一八六〇)四月三日にワシントンで行われた](文化遺産データベース)⇒「日本史」としては「4月3日」が正しいと思われる。


 注(※⁶)造船所見学と貨幣交換比率:[フィラデルフィアでは、小栗上野介は、小判1両が米ドルでは4ドルに替えられる不条理の廃止を説得、カス国務長官と面会し、フィラデルフィア造幣局に出向いて、実際に天秤を持ち出し、その不公平を認めさせる場面があったとされる(貨幣交換比率の確定)](『幕末テロ事件史』宝島社)⇒冒頭の「フィラデルフィア」はワシントンの誤りか?/⇒幕府は「安政6年(1859)6月1日、安政二朱銀を鋳造、外国通貨の通用を布告」、同年「8月13日、メキシコ銀貨と同品質の一分銀を鋳造」した。更に、「万延1年(1860)4月10日、金流失の防衛として、金の含有率が低い万延小判を鋳造・通用」させた(『江戸時代年表』より)。

〇[外国商人が取引用に持ち込んだのは”洋銀ようぎん”と通称されたメキシコドル銀貨である。/単純に重さで比較すると洋銀は日本の「一分銀」3枚に相当した。貿易が盛んになるにつれて一分銀が不足するようになり、幕府は洋銀に「3分の価値がある」と刻印して通用させようとしたが誰も洋銀を使わない。しかたなく品質を落として一分銀を毎日2万枚も鋳造したがそれでも足りない。…日本では4分=1両だから…4枚の洋銀がなんと3枚の小判に化けてしまう計算だ。小判750両を持ち帰れば洋銀3千枚の価値がある。/日本と母国を往復するだけで元手が3倍に増えるのである。…/慌てた政府は万延元(1860)年に比価を欧米並みとした新金貨を鋳造してこの問題に対応するが、わずか2年の間に50万両以上の小判が海外に流出してしまった。](『面白いほどよくわかる江戸時代』日本文芸社)とある。


 注(※⁷)ナイアガラ号について:[ニューヨークから大西洋を横断して東回りで日本まで航海した、蒸気スクリュー式米国海軍フリゲート艦「ナイアガラ号」の排水量は5,540トンで、1857年4月に米国海軍ニューヨーク造船所にて建造された。1860年当時、「ナイアガラ号」は米国海軍が保有する軍艦で一番大きな艦船であった](「万延元年遣米使節子孫の会」)/⇒ところで、「幕府ミッションは太平洋を横断し…帰路は、6月20日、アメリカの軍艦ナイアガラでニューヨークを出港、大西洋を横断し、アフリカ喜望峰経由で帰国しました。」(在ニューヨーク日本国総領事館)とあるが、この「6月20日」はあり得ない(1860年「6月30日」が正しい?)。日本国総領事館よ、お前もか!


 注(※⁸)「帰国」について:Ⅵ-1)【「遣米使節」帰国日の2説(①,②)横浜港、品川沖】参照のこと。⇒[(1月18日…品川沖を出帆)江戸→横浜→ハワイ→サンフランシスコ→パナマ→ワシントン→フィラデルフィア→香港→横須賀→江戸](『幕末テロ事件史』宝島社)/⇒この「横須賀」は「浦賀沖」の可能性はあるものの、未検証。「江戸」も、恐らく「品川沖」と考えられる。/⇒[11月9日(わが9月27日)ナイアガラ号は横浜沖から江戸湾に進み、 品川沖に碇泊](「万延元年遣米使節子孫の会」)/⇒[9月27日(1860年11月8日)品川沖に帰着した](慶應義塾大学関係者)⇒「11月8日」はアメリカ現地時間か?/⇒「築地操練所」は、「安政4年(1857)4月11日 幕府、軍艦教授所(のちの軍艦操練所)開設。海軍伝習生が教授となる」(『江戸時代年表』)が、海軍伝習所は安政2年(1855)7月29日、長崎に設置されていた(安政6年4月、長崎を引き揚げる)。

 万延1年9月27日浦賀沖で、副使の村垣範正むらがきのりまさは、「9月28日」としていた間違い(日付変更線後の「1日のズレ」)に初めて気付いたと言われる。浦賀或いは横須賀上陸という記述は今の所見当たらないので(横浜港は寄港)、「浦賀沖を通過」と見做したい。ナイアガラ号で「9月27日」品川沖に碇泊(帰国)、「9月28日」上陸して「軍艦操練所(築地)」に帰着した。

 尚、[9月27日(11月9日)横浜港着](或る論文)や[ナイアガラ号で…万延元年9月28日横浜帰着](或るネット記事)、「万延元年11月…ナイアガラ号は横浜に到着」(下呂市HPのマンガ)などの「横浜」説も散見するが、日付が違ったりする。同じネット記事(別項目)なのに、「9月28日横浜帰着」「9月28日品川沖下船」ともあり、理解に苦しむ(「9月27日横浜→品川沖」とあるので、翌日品川沖下船は分かるが、「9月28日横浜帰着」が宙に浮く)。実際に、「横浜港」へは寄港したようである(9月27日。詳細は未検証)。


 注(※⁹)大西洋航路について:日本開国を迫ったペリー来航について、次の記事がある。[ペリーはどういう航路を通って日本まで来たのでしょうか。…蒸気船の太平洋航路は未整備なので、アメリカから大西洋を横断し、アフリカの西海岸を南下して喜望峰(きぼうほう)を回ってインド洋に入り…](日本財団 図書館)⇒ナイアガラ号の航路と多少違うが、それに近い「大西洋航路」である。しかし、咸臨丸は太平洋無寄港横断、ポーハタン号(往路)はハワイに寄港した。7年経てば事情は変わる。



Ⅶ)【咸臨丸のアメリカ人乗船(往路)の真相?】

 問題の発端は次の記述であった。

 〇[【咸臨丸】…旧暦1月13日品川を出港。浦賀では、難破したアメリカ海軍測量船「フェニモア・クーパー」の船長ジョン・ブルック大尉指揮下11名が乗艦した。旧暦1月19日の浦賀出港](ウィキペディア『咸臨丸』)


1)【アメリカ人の乗船は「送還」か、「航海援助」か?】

〇[クーパー号が難船したので咸臨丸に便乗帰国することになったのだが、真相は、そもそも木村がアメリカ総領事ハリスに持ちかけた話であった](『間違いだらけの歴史常識』新人物往来社)

〇[実は咸臨丸には、アメリカ人が乗り組んでいた。神奈川沖で乗艦が座礁し、帰国の船便を待っていたブルック大尉ら11名である][幕府からは、咸臨丸の指揮はブルック大尉がとるよう指示が出されたが、海舟は異議を申し立て、撤回させていた](『学校では教えない歴史』永岡書店)

〇[【咸臨丸】…1860年遣米使節随行艦として、艦長勝海舟以下90余名とアメリカ海軍士官らが乗り組み、日本最初の太平洋横断を果たした](『大辞林 第二版』三省堂)

〇[長崎海軍伝習所の出身者や塩飽島水夫のほか、日本人だけの航海を危ぶんだアメリカ人数名も咸臨丸に乗り込んでいた](『江戸時代年表』小学館)

・・・以上の書籍からは、「送還」か「航海援助」か微妙で、アメリカ人がどこから乗船したのか皆目分からなかった。しかし、「浦賀」はあり得ないと疑った(神奈川は広い)。


2)【アメリカ人乗船は「浦賀」なのかい?】

 以下では、冒頭の[浦賀で…船長ジョン・ブルック大尉指揮下11名が乗艦した]という「浦賀」説は完全に否定されている。つまり、「横浜」が正しい。

〇[咸臨丸は…『ポーハタン』号の随伴艦として、品川を出港。途中横浜へ寄港し、そこで…『フェニモアクーパー』号のアメリカ人乗組員を乗船させ…浦賀へ寄港。最後の水と食料を補給し、サンフランシスコへ](参考文献:『咸臨丸海を渡る』土居良三(未來社)、とするネット情報=参考文献未検証⇒要確認)

 咸臨丸にアメリカ人も乗り込んでいたことは常識となっている。「横浜」では前年から外国人居留地などの建設が始まっていた。「神奈川沖で…座礁」したクーパー号の乗組員が横浜に集められていたことも十分考えられた。しかし、当初は書籍しか漁っていなかったので、その場所や乗船日付の確認が出来なかった。

 再掲しよう。[(咸臨丸は)安政7(1860)年1月13日品川沖で錨をあげました。途中横浜で、難破したアメリカ測量船クーパー号のブルーク大尉以下11名を乗せ、16日の夕刻再び浦賀に入港しました。…二日間をかけて準備を整えた咸臨丸は、1月19日午後3時30分に浦賀を出帆しました。](『浦賀文化(第18号)』)では、アメリカ人の乗船日時は不詳だが、1月13日~16日に同乗していることが分かる。「1月13日品川出帆、横浜着…1月15日ブルック大尉ら11名咸臨丸乗船、横浜出帆、浦賀着…1月19日浦賀出帆」(『咸臨丸子孫の会』より)もある。これらにより、乗船場所(横浜)は揺るぎない事実となり、乗船日付も特定された(1月15日)。そう思ったが、一筋縄ではいかなかった。先ず知るべきは「クーパー号座礁」の経緯であろう。


〈クーパー号の座礁〉

〇[(フェニモア・クーパーは)1859年8月13日には横浜に到着した。しかし23日に台風に遭遇し座礁。乗組員は全員無事で、積荷も概ね回収できたが、船体の破損は酷く、破棄された。][ブルック大尉およびフェニモア・クーパーの乗組員は、横浜に滞在していた。ちょうどその時期、幕府は米国への外交使節団と、その護衛として咸臨丸による太平洋横断を予定していた。咸臨丸の司令官である軍艦奉行木村芥舟は、咸臨丸の日本人乗員の能力を不安視しており、米国海軍の軍人の同乗を求めた。使節団を運ぶポーハタンの司令官であるジョサイア・タットノールはブルックを推薦した。ブルックらは技術アドバイザーとして咸臨丸に乗船したが、途中嵐に遭遇したこともあり、米国人乗員を中心として咸臨丸は太平洋を横断した。](ウィキペディア「フェニモア・クーパー (スクーナー)」)

 クーパー号の座礁を「8月21日」とする異説もあるが、追究しない。クーパー号の乗組員が「横浜に滞在していた」のは事実のようで、少なくとも「神奈川沖」座礁より具体的で説得力がある(神奈川沖で停泊中に強風に引きずられ座礁したらしい)。ならば何故その「横浜」が読んだ限りの書籍に出てこないのか、何故「浦賀」が突如飛び出すのか、気になって仕方なかった。そうして、アメリカ人「11人」は頭の中に固定化されていく。だから、アメリカ人「送還」という目的もある程度の比重を占めていた。


―しかし、乗船日が異なり、しかも・・・

 『中濱万次郎』(中濱博、富山房インターナショナル)に、次のような記述があるらしい。

〇[一月十六日、ブルックはじめ、旧フェニモア・クーパー号の乗組員のうち十一人のアメリカ人が横浜で十二時頃に咸臨丸に乗り込んだ。この十一人はブルックの気に入りの人たちで、他の者はポーハッタン号に乗った](海と船と港の物語「海の駅から⑩」土佐清水市観光協会)

 クーパー号の乗員数を「不明」とする記事もある。11人以上いたことは薄々分かっていたが、残留組もあり得る。総員数はともかく、クーパー号の乗組員は元々ポーハタン号で帰国する予定であったことが後日分かる。先の記事では「1月15日」、しかし「1月16日」乗船と言う。何れが正しいか、俄に判断できなかった。


 ところで、咸臨丸の6倍(排水量比)は大きいポーハタン号に乗り込んだ使節団一行は77名であった。しかし、咸臨丸(幕府所有のオランダ船)は日本人96名と言われ、それだけでも「オランダ海軍定員:85名」を上回っていた。アメリカが誇る当時最大級の外輪フリゲート艦であるポーハタン号の定員は「300名」らしい(「レファレンス協同データベース」より)。「乗員 289人」(ウィキペディア「ポーハタン (蒸気フリゲート)」)とも言われる。

 ポーハタン号は「迎船」である。アメリカ側の「送迎」が約束されていたので、所謂「水夫」は必要ない「遣米使節団」77人を含め、「総員312人が乗り組んでいた」。ポーハタン号にはクーパー号の乗組員(10人?)も同乗していた(咸臨丸には残りの「11人」が乗船)。(「日本近海で難破」が気になる)クーパー号の乗員数は不明ではない。そのことが以下の記事で判明する(21名)。


〇[米国の測量船フェニモア・クーパー号のブルック船長等21名が日本近海で難破し、ちょうど横浜で米国行きの船待ちをしていた。咸臨丸は操船が日本人ばかりで乗船経験がなく、軍艦奉行木村摂津守は、航海に熟達した米国人を 1~2名乗船させたいと考えており、まさに双方にとって「渡りに船」であった。フェニモア・クーパー号乗員 21名中11名が咸臨丸に乗って太平洋を渡ることになる。](土佐清水市教育委員会生涯学習課・市史編さん室『市史編さん便り=【35 号】』より)


 「1860年2月7日」の命令書が、アメリカ東印度艦隊司令官ジョシア・タットナル提督からブルックに届いたという。『万延元年遣米使節資料集成・第五巻』にあるらしい、その原文を入手していないが、要旨は、❶幕府(日本政府)の要望である、❷船員の帰国希望を考慮した、❸目的は咸臨丸艦長を援助すること、を以ての咸臨丸乗船命令書である。命令書が届いたその日に乗船するなど通常考えられないので、何とも判断しかねるが、その日本語「やく(?)」には、日付の上に「江戸湾」と書かれている。これを「乗船日」指定と解釈すると、辻褄は合う。「1月16日(1860年2月7日)乗船説の裏付けが取れた。そうして、天秤に掛けていた「1月15日」(1860年2月6日)乗船説は完全に消え失せた。



Ⅷ)【咸臨丸は復路も日本人だけの航海ではなかった!】

 往路はアメリカ人11名も乗船していたことはよく知られている。しかし、復路もアメリカ人5名(水夫「3名」説あり)が乗船していた。故に「日本人だけで航海」とは言いがたい。「ブルック大尉指揮下だったアメリカ人水夫5人を雇い、帰路も同行」という記事が多くある。

 次もその一例。[サンフランシスコには52日間…滞在中、水夫の死亡や病気療養者が出たため、木村提督(木村摂津守)は帰りの航海の安全を考え、アメリカ人乗組員を5人雇い入れ、欠員を補充しました](「船の科学館」)という捉え方もあるが、「欠員補充」は些か解せない。元々の「定員」が85人だからである(往路は、定説では計107人、米人11人を含む「22人オーバー」)。

 次もその3例。「往路は米国人11人の補助に頼ったが…復路は往路で同乗したアメリカ人のうち5名を雇った以外は日本人のみでの運用」や「帰路は日本人が概ね操船し太平洋横断を成し遂げることが出来たようです(往路で乗艦した米国人水夫を5名雇ったが)」は「日本人のみ」説に近いが、微妙である。さらに、「米人船員4人を頼みコック1人で計5人に乗ってもらってサンフランシスコから帰途についた」(東善寺HP)という。

 次の3例では、「日本人のみ」が強調されている。「勝はアメリカ人を新たに5人雇い入れた。だが復路の航海はきわめて順調で、日本人がすべてをこなした。咸臨丸が日本人だけで太平洋を横断したというのは復路を指したもの」や「帰りの航海は日本人のみの操船で順調に航海した」や「帰路のためにアメリカ人水兵を5人雇入れましたが、水夫たちが自分たちの力だけで帰り着いてみせると一同で申し合わせていました。そのため米国水兵たちには仕事が無く、復路は文字通り日本人による太平洋横断を成し遂げた航海となりました」となれば、更に違うだろう。しかし、仕事をしない船員の存在など、その裏付けがない限り認めることは出来ない。

 後述するが、帰路の日本人は84名であった。うち水夫は54名(往路は66名)に減っていたが、「オランダ海軍定員:85名」は理由もなく定められた「定員」ではない。補充しなければならない「欠員」が生じたとすれば、それは自らの無能、帰路の無計画性を曝け出したに過ぎない。しかし、仮に復路を日本人だけで乗り切れたとすれば、正にアメリカ人を乗せる必要など微塵もないと言わざるを得ない。復路も外国人に頼らざるを得なかった航海、ただそれに尽きる。


―以下、余談の補足(再掲)―

 既に触れたが、「サン・ファン・バウティスタ号」は遣欧使節の為仙台藩が建造した大型帆船である(1613年)。一行の帰国にも使われたが、遣欧使節がヨーロッパを回っている間に、船は太平洋を一往復している。1616年から翌年にかけ、「仙台藩の横澤吉久(将監)や、カタリーナ神父らスペイン人10人、向井忠勝派遣の船頭ら日本人200人が同乗した」浦賀からアカプルコへの帰途(カリフォルニアのロス・モリネス経由)、「その航海中に悪天候で船頭を含む約100名の水夫が亡くなった」(ウィキペディア『サン・ファン・バウティスタ号』より)という。咸臨丸より244年前の「太平洋横断」であり、「輸入船」ではない。その殆どが日本人であった。



Ⅸ)【咸臨丸は随行艦(護衛艦)だったのか?】

 咸臨丸は、幕府の文書では「別航ノ軍艦」とある。『日米修好通商条約批准書交換証書』の解説で、「日米修好通商条約の調印をうけて、江戸幕府は条約の批准交換のため、外国奉行(神奈川奉行兼任)を正使とする使節をアメリカに派遣することに決定した。1860年2月(安政7年1月)、米艦ポーハタン号と咸臨丸に分乗した一行はアメリカへと向かい、同年5月22日(万延元年4月3日)、ワシントンの国務省において、使節団正使の新見正興(豊前守)と国務長官のキャス(L. Cass)との間で批准書の交換が行われた」(外務本省)とあるが、咸臨丸はポーハタン号とは全く別の航路を辿っている(往路はポーハタン号より北側の航路)。


〈「咸臨丸」の実態〉

❶「別航ノ軍艦」

〇[万が一の事故に備えて、軍艦奉行木村摂津守喜毅を指揮官として…日本人乗組員で航海する咸臨丸を随行艦として派遣することにしました](『浦賀文化(第18号)』より)

〇[随行船ではあったがポーハタン号を支援するというわけではなく、多くの人間の渡航を幕府が希望したために、別の船を仕立てる必要が出てきた](或る論文)

❷実地訓練(&護衛)

〇[咸臨丸の使命は条約批准使節の乗るポーハタン号の「護衛」だが、もうひとつ、オランダ人教官から伝授された航海術の実地訓練ということがあった](『間違いだらけの歴史常識』新人物往来社)

〇[咸臨丸の役目は、日米修好通商条約批准書交換のために別の米艦で渡米する遣米使節団の護衛と外洋航海の実地訓練を兼ねたもの](『日本史新聞』日本文芸社)

〇[咸臨丸による遣米使節の警護、航海術の実地訓練](『詳説日本史図録』山川出版社)

〇[1860(万延元)年、幕府は日米修好通商条約批准書の交換のため、外国奉行新見正興(1822~69)を首席全権としてアメリカに派遣し、このとき勝義邦(海舟、1823~99)らが幕府軍艦咸臨丸を操縦して太平洋横断に成功した](『詳説日本史研究』山川出版社)

❸随行艦

〇[勝海舟以下遣米使節団が出発/(咸臨丸は)日米修好通商条約の批准書交換のために派遣された、勝海舟氏を代表とする遣米使節団の随行船](『歴史新聞』日本文芸社)

❹随行の断念

〇[勝はひどい船酔いで自室に引きこもり、首都ワシントンへ行く予定が勝のわがままでサンフランシスコ止まりとなり、帰国後に失態により艦長を解任された](『幕末テロ事件史』宝島社)

〇[木村軍艦奉行は正使一行と協議の結果、ワシントン行きを断念し咸 臨丸と共に帰国する決断をした](或る論文)

〇[当初の予定では、副使であった木村は咸臨丸を降りて使節団に同行し、ポーハタン号で首都ワシントンに赴く予定であった。しかし、木村なしでは咸臨丸内の秩序が保てず、乗組員からも反対があり、木村は仕方なくワシントンに行かずに咸臨丸を指揮して帰国の途に就いた](三田評論「木村芥舟」)


〈同時出航を「断念」した経緯〉

〇[正使一行が搭乗したポーハタン号と比べ、咸臨丸は速力が遅かったため、先行して1860年2月10日(安政7年1月19日)浦賀を出航し(ポーハタン号は3日後横浜を出航)、洋上で落合う予定であった。しかし、ポーハタン号が連日の荒天による破損著しく、ハワイに寄港し、修理を行ったため、咸臨丸は単独航海となり、3月17日(安政7年2月26日)、サンフランシスコに到着した(ポーハタン号は、12日遅れて到着)。その後、咸臨丸も連日の荒天のため、メインマストの交換、船体外板を修繕するなどの必要が生じ、メア・アイランドの海軍造船所で修理を受けた。](外務本省『14.咸臨丸修理に関する感謝状(複製)』)とある。咸臨丸は、確かに「出国」(遠洋航海)という意味では3日前に出航している。何れの軍艦もスクリュー推進機を備えた蒸気帆船であり、速力はそれぞれ「6ノット」と「11ノット」という差がある。ではあるが、蒸気機関は主に出港時や入港時、或いは「無風」で使われるという。帆走が主力なのだ。咸臨丸が「9ノット」で帆走していた記録もあるので、伴走も可能なのだろう。性能が劣るが故に3日早めに出航し、最短の「大圏航路」(北寄り航路)を採った行動も一応頷ける。「ポーハタン号と咸臨丸に分乗した一行」なら、確かに「随行艦」の資格はあろう。しかし、「洋上で落合う予定」地点が不明である。逆に言えば、ポーハタン号は何故「大圏航路」を選ばず、伴走(牽引)しなかったのか? 速力が勝る方が劣る艦船に付き合えるが、逆の場合、しかも航路が全く異なる場合、洋上合流は難しいのではないか。

 当初遣米使節に予定されていた水野忠徳みずのただのりが、「日本人乗組員だけで遠洋航海を体験させたい」と、「正使に支障が起こった場合、代わり得る副使を乗せる船」として「朝暘丸」を指名したらしい。この「朝暘丸」は、その後乗船希望者が多くなることで、受け入れ可能な、より大きな「観光丸」へ替わった「理由」とされるが、外輪船(観光丸)が遠洋航海に不向きとされ(観光丸「老朽化」説もある)、実際にアメリカへ渡ることとなった咸臨丸(朝暘丸と同型のスクリュー式蒸気帆船)、それに乗り込んだ木村喜毅きむらよしたけら。木村が「副使」とされた実態は見えないが、他方、遣米使節団の新見正興しんみまさおき(外国奉行)は「正使」である(副使:村垣範正むらがきのりまさ/外国奉行)。

 咸臨丸の木村喜毅きむらよしたけ(軍艦奉行)も「副使」なら、或いは「洋上で落合う」地点が明快に示されるなら、確かに咸臨丸は「随行艦」と見做すべきかも知れない。『詳説日本史図録』(山川出版社)でも、遣米使節新見正興しんみまさおきの名の下に咸臨丸一行の名を連ねている。だが、「木村喜毅きむらよしたけ芥舟かいしゅう)は「提督」であり、「副使」は附されていない。実に「副使」ならば、協議するまでもなく、かつの我が儘など聞くべきでもなく、ワシントンへ同行すべきであろう。

 『批准書』(控え)が木村の手中にもあらねば、万が一の「副使」とは認め難い。「随行」を口実とした実地訓練航海(これ自体は誰もが認める)と言うべきだろう。誰が「随行艦」と命名したのか、それが伝わってこない。「幕府軍艦咸臨丸、アメリカ渡航のため」(『江戸時代年表』)などとし、「随行艦」を付さない記述も多い。1854年のペリー艦隊再来日の旗艦であったアメリカ軍艦ポーハタン号を「護衛」するというのも奇妙な話である。

 ところで、ブルック大尉は自らの航海日誌を死後50年間公開するなと遺言したそうだ。それが明るみに出て、かつの大言壮語やウソがバレたというオチがつく。しかし、ブルックの手記は本当に「真実」なのか。日本人の恥を晒すことを避けたとも言われる。しかし、50年と言えば、当事者が亡くなっていても不思議ではない期間であろうから、逆に勘ぐれば、反論されることを避けたとも言えるのではないか。私が本当に知りたいのは、勝や福沢やブルックの話ではない。底辺で支えた水夫たちの話をこそが聴きたい。

 「咸臨丸」は随行艦や護衛艦ではない。日本人だけで遠洋航海を乗り切れなかった情けなさが、ただただ残念でならない。

 


Ⅹ)【咸臨丸の日本人は96名だったのか?】

 咸臨丸の往路の乗員は、一般に「日本人96名」と言われるが(『詳説日本史図録』山川出版社、など多数)、「98名」「95名」「94名」各説がある。或いは「辞令が出た乗り組み員は…計86 名」とも言われるが、何時の辞令か定かでない。乗組員数について、『海軍歴史』には、「オランダ海軍の規定では85人であるが、日本人はまだ遠洋航海に習熟していないのでオランダ規定より増員して95人にした」と書いてあるらしい。横浜で乗船したアメリカ人11人は、その「増員された定員」さえオーバーしていた一団であった(一般に総員「107人」と言われている)。


 愛宕山公園(横須賀市浦賀)に建てられた『咸臨丸出港の碑』の裏側に、「総員九十六名と記されていますが、刻まれている名は九十五名、一名はどこに消えたのでしょうか」(浦賀文化センター)と言われる(「95名」説を裏付ける?)。更に、名簿上は「94人」しかいなかった(残る2人は「記載漏れ」と解釈されているが)。

 香川県に「塩飽しわく諸島」がある。一説に依れば、かの村上水軍の末裔らしいが定かでない(「塩飽水軍」とも)。

〇[塩飽諸島(しわくしょとう)は、瀬戸内海に浮かぶ諸島。香川県に属しており、小豆島(香川県)や笠岡諸島(岡山県)とともに備讃諸島と称される。塩飽島(しわくじま)とも呼ばれ、岡山県と香川県に挟まれた西備讃瀬戸に浮かぶ大小合わせて28の島々から成る](ウィキペディア「塩飽諸島」)

 「塩飽島」は極めて特殊な島々である。[寛永7年(1630年)8月、讃岐の塩飽島1250石が慶長5年の先例にまかせ、650人の船方に与えられた。「六五〇人名」とか「人名」と呼ばれる一種の自治制度が定着する](『読める年表日本史』自由国民社より)/⇒[【人名にんみょう】江戸時代、讃岐 塩飽しわく諸島で成員権を持つ者の称。一般農村のほん百姓に相当。人名株を持つ者が、幕府御用の舟方として加子かこ役を負担する代償に田畑の領知権と漁業権を保障され、島役人の選出に参加](『広辞苑』より)/⇒[【人名制にんみょうせい近世、塩飽しわく御用水主ごようかこによる島政。…](『日本歴史大事典』小学館)/⇒尚、「水夫650人」とする記事も見かけるが、実際は「株」であり、株分けも行われていた。水夫は1,000人ぐらい居たらしいが、詳細は定かでない。


以下、『幕府遣米使節随伴艦 咸臨丸乗組員名簿』(「咸臨丸子孫の会」)より作成。

①士官17名(木村摂津守喜毅、勝麟太郎義邦、中濱万次郎ら)

②医師4名(うち「見習い」2名)

③奉行従者5名(福沢諭吉ら)

④大工役1名(長崎海軍伝習所出身)

⑤鍛冶役1名(長崎海軍伝習所出身)

⑥塩飽出身 水主かこ35名(うち死者2名)

⑦?(欠番)

⑧長崎出身 水主かこ31名(水主かこ15名、火焚き16名(うち死者1名)

⑨米海軍士官/水兵11名

 合計105名

水夫計66名(水主かこ50名、火焚き16名)(日本人:総勢94名)


 「日本人96人、アメリカ人11人、合計107人。名簿が2人少ないのは、奉行の従者、教授頭取の家来名が欠落しているためと思われる」(或る論文)とも言われる。しかし、例え「欠落」が事実であったにせよ、「名簿」にその名を留められねば意味がない。恐らくこれが「94名」の根拠なのであろう。

 もう一つ、重要な点を指摘したい。これまで「日本人水夫50人」を前提として話を進めてきた。が、実際は「66人」も乗っていたことになる。「火焚き16名」を除けば「水夫50名」ではあるが、「火焚き」だけ分ける(除く)のは奇妙なことであろう(以下、それを踏まえて読んで頂きたい)。


 なので、「50人余りの水夫は、瀬戸内海塩飽島出身の熟練者ばかりだった」(『江戸300年の舞台裏』青春出版社)は明白な誤りであろう。「咸臨丸の水夫は、50名中35名を塩飽の島民が占める」(ウィキペディア「塩飽諸島」)という、その内訳は以下。

 塩飽諸島の水夫35名の内訳は、丸亀まるがめ市「ほん島12名・うし島2名・ひろ島11名」、坂出さかいで市「櫃石ひついし島3名・瀬居せい島1名」、多度津たどつ町「高見たかみ島4名・佐柳さなぎ島2名」であった(坂出市櫃石島に『遣米咸臨丸と塩飽水主 顕彰碑』がある)。

 乗員のうち、亡くなられた方は3名だった(病死)。水夫計50名(実際は66名)のうち、病身の7名(8名のうち1名は咸臨丸出港後に現地病院で死亡)、付き添い2名が現地に残ったという。とすれば、「帰路の日本人は84名」ということになろう(「3名死亡、14名病人」という記事もあったが、「残留」との関連は定かでない)。つまり、復路の「米人5名」のうち4名は規定の定員をオーバーしている(総員、推定89名)。もともと総勢107名が乗船していたが(規定の定員22名オーバー)、安全な航海を望むなら定員は守るべきであろう。或いは補充するなら「12名」(欠員水夫)、彼らは必要不可欠ではなかったのか?という疑問が湧く。



Ⅺ)【咸臨丸の写真は偽物か?(他、その頃の帆船について)】

 咸臨丸の「写真」は随所に見られるが、[『咸臨丸』の全体を明瞭に写した写真は発見されていない][今までに三種類の写真が『咸臨丸』として発表されたが、いずれも誤り][品川沖の脱走艦隊とみられる写真の中央に写っている帆船が『咸臨丸』と判断されるのみ](『歴史の「その後」』新人物往来社)らしい。「日米修好通商100年記念」(1960年)切手の図案として「咸臨丸」が描かれている。絵画であり、写真ではない。「明瞭に写した写真は発見されていない」ことの真偽は未検証だが、これ以上深入りしない。


 ポーハタン号の排水量は「3,825トン」、「積載量 2,415トン」なので、「排水量は諸説あるが625トン程度と推定される」(『精選版 日本国語大辞典』小学館 2006)咸臨丸はとても小さい(「コルベット」と言われる)。さらに小さい「300トン」(『日本史事典 三訂版』旺文社 2000)と見做す記述(排水量?)もあるほど、性能や構造は不明瞭であった。当時明確なのは、「木造蒸気船(100馬力)」「3本マスト帆船)」「速力6ノット(※¹)・大砲12門の軍艦」ぐらいか。長さや巾に関してもマチマチ。全長「約47m」(『日本史事典』旺文社)や船長「50m」、全幅「7m」(『江戸300年の舞台裏』青春出版社)もあった。しかし、それらは過去の推定値らしい。

 現在は、「全長48.8m」「最大幅8.74m」「排水量625英トン」(ウィキペディア『咸臨丸』)が「最新値」としてあるようだ。この情報は[1989年に同型艦「バリ」の図面などがオランダで見つかり、2005年に公表される]に基づく数値らしいので、古い事典などより信憑性は高いかも知れない。

 『広辞苑 第七版(岩波書店)』(2018年)や『第六版』(2008年)には「全長163フィート」とあるのみで、「全幅」の記載は無い。しかし、同『第五版』(1998年11月11日第1刷)には「全幅24フィート」も、この「全長」とともに併記されていた。1フィート=30.48センチメートルで計算すると、全長49.6824メートル・全幅7.3152メートル。[江戸時代の長崎…オランダの技術を導入するとき、当時ヨーロッパで使用されていたヤード・ポンド法に近い体系や、オランダ式のメートル法が入ってきたそう](『単位と記号雑学事典』日本実業出版社)なので、必ずしもこの換算が正しい訳でもなさそうだが、「全幅」は先の最新情報とかなりかけ離れている(故にカットされた?)。


 かつて、「(咸臨丸は)日本の軍艦では初めて推進機にスクリューを備えた艦となったが、スクリューは主に入出航時に使用され、航海中は抵抗を減らすため水線上に引き上げる構造になっていた(2翼引き上げ式プロペラ、1軸)」(ウィキペディア『咸臨丸』)ことの真偽が分からなかった。大きさなどの相違はともかく、『広辞苑 第五版(岩波書店)1998』には記載されていた蒸気の推進形式「蒸気内車船」が抹消されていたことがとても気になっていたからである(『広辞苑』の【咸臨丸】解説が、改訂版では大幅に簡略化されている)。

 1852年建造のポーハタン号はアメリカの「蒸気外輪船」であった。その5年後、1857年竣工のオランダ船(「咸臨丸」)は「蒸気内車船」と言われ、その言葉は『ブリタニカ国際大百科事典 2014』にも見られる(「100馬力の蒸気機関を備えた内車型汽帆併用船」)。咸臨丸が「スクリュー推進」という言葉は、『日本歴史大事典』(小学館 2007)や『精選版 日本国語大辞典』(小学館 2006)にも記述されている。ただ、一つの疑問が湧く。ポーハタン号も外輪船だが、「観光丸」は外輪船故に不向きとされ、「咸臨丸」に変更された、という説の真偽である。

 スクリューは、[「1836年、イギリスのスミス、デンマークのエリクソン、各独立に汽船のスクリュー推進機を発明」『自然科学辞典』1950](『外来語辞典』あらかわそおべえ著/角川書店)されたのであれば、アメリカの軍艦にも備えられて然るべきと思うが、[ペリーの来航が特別な意味を持つのは、それまでに来航した船は帆船だったが、ペリー艦隊の船は、外輪と蒸気機関をもつもので、船体が黒く塗られていたのがひとつの理由である。煙突からはもうもうと煙を上げ、その外見から、『黒船』と呼ばれるようになる](『日本史と日本地理が面白いほど分かる!』青春出版社)ので、来航したアメリカなどの外洋船(軍艦)にスクリュー式は未だ無かったのかも知れない(1854年頃)。

 幕府がオランダに軍艦や鉄砲などを発注したのは、嘉永6年9月(1853年)であり(※¹)、アメリカの国書を携えたペリー来航の直後であった(同年9月15日、幕府は「大船建造を解禁」。11月、浦賀に造船所建設=洋式軍艦「鳳凰丸」の建造、石川島造船所の設立と運営を水戸藩に委託。翌年7月9日、日章旗を日本国総船印に制定)。

 安政2年6月9日(1855年)、オランダ国王から幕府に贈呈された蒸気船「スンピン号」は、同年8月25日受領され、「観光丸」と命名された(外輪船。易経「観国之光」から採った命名らしい。所謂「観光」の由来)。幕府にはその他水戸藩に建造させた「旭日丸あさひまる」もある。嘉永6年(1853)11月12日幕命、安政3年(1856)7月12日竣工の西洋式帆船であったが、安政4年(1857)8月5日、オランダ海軍軍医らが、幕府発注のヤパン号(後の「咸臨丸」)で海軍伝習所教官として長崎に来航した。

 咸臨丸と「同型艦」とされる「バリ」(「バリー」とも)の図面は、当然ながら「ヤパン号(後の「咸臨丸」)」そのものの「図面」ではない(「同艦」とする記述も見られるが)。「スクリュー推進機」が発明されて20年足らずで、その発明国以外のオランダにも「スクリュー」が普及したとは考えにくいが、保有していたとしても、外国(日本)に引き渡すとは凡そ思えなかった。しかし、「内輪式」は「スクリュー式」であり、「暗車」とも書かれる。「外輪」に対して、「隠れて見えない」から命名されたという「内輪(暗車)」。軍艦としては、「外輪」は敵の標的になりやすく、大砲装備に支障を来すので敬遠され、当時は「スクリュー推進」への過渡期だったという。

 幕府が当初オランダに発注した軍艦は2隻である(※²)。「咸臨丸(ヤパン号)」と、もう一つが「朝暘丸(エド号)」。朝暘丸は咸臨丸と同じ、木造内輪式蒸気帆船である。咸臨丸到着の翌年、安政5年5月3日(1858年)長崎に入港した。遣米使節団(批准書交換)とは別に、安政6年(1859)11月24日、幕府が「渡米」を決定したとき、当初予定されていた船はこの「朝暘丸」(内輪船)であった。それが「観光丸」(外輪船)に変わり、最終的に「咸臨丸」(内輪船)となる。この二転三転の選定劇はかなり不興を買ったらしい。

 安政5年(1858)11月に佐賀藩がオランダ政府から購入した「電流丸でんりゅうまる」も「内車(スクリュー・プロペラ)」、文久3年7月2日(1863年)石川島で進水の「千代田形ちよだがた」も、[幕府軍艦としては初の国産蒸気砲艦で、薩摩藩の「雲行丸うんこうまる」、佐賀藩の「凌風丸りょうふうまる」に続く3番目の日本国内で建造された蒸気船](ウィキペディア『千代田形』)であり、「スクリュー 推進」併用の帆船であった(他2隻の藩船は「外輪」)。慶応3年(1867)3月26日(25日説あり)横浜に到着したオランダ発注の幕府蒸気軍艦「開陽丸かいようまる」も「スクリュー推進」なので(オランダは「鉄製」を勧めたらしいが、これは「木造」)、「スクリュー推進」の過渡期というより、主流化の時期と言ってよいだろう。「佐賀藩では蒸気で動く汽車の雛形(模型)以外に船の雛形として、外輪船だけでなくスクリュー船を早くも1855 年(安政2 年)に作成し、現在も文化財として保存されている」(或る論文)という。

 遣米使節団が利用した船は6隻あった。太平洋を横断したポーハタン号は「外輪蒸気船」(帆船)だが、ロアノーク号は「蒸気スクリュー式フリゲート艦」(帆船)だった。フィラデルフィア号は「外輪蒸気船」(※³)、外観(絵)を見る限りメリーランド号(フェリー)やアライダ号も「外輪蒸気船」だろう。最後に乗船し、大西洋を渡って帰国を果たしたナイアガラ号は「蒸気スクリュー式米国海軍フリゲート艦」(帆船)だった。ナイアガラ号は[排水量は5,540トンで、1857年4月に米国海軍ニューヨーク造船所にて建造された。1860年当時、「ナイアガラ号」は米国海軍が保有する軍艦で一番大きな艦船であった。](「万延元年遣米使節子孫の会」より)。


〈咸臨丸のその後(最期)〉

 江戸幕府の海軍伝習所練習艦であった咸臨丸は、太平洋横断後、小笠原諸島開拓(1861年)などに利用されたが、[慶応3年、老朽化により機関が撤去され、「咸臨丸」は帆船となった](ウィキペディア『咸臨丸』)という。慶応3年は1867年だが、異説①『日本歴史大事典』:[1865年(慶応元)には損傷が激しく、蒸気機関を撤去、帆船として改修された]や異説②『山川 日本史小辞典』:[(18)68年(明治元)機関を取り外して帆船となっていた咸臨丸]もある。その後、榎本武揚えのもとたけあきらの江戸脱出艦隊に従うも(軍艦8隻)(※⁴)、荒天の為清水港に避難していたところ討幕派に捕獲され、明治新政府の「北海道開拓使の運送船」となり、民間に移された。その末路は以下のようである。

〇[1871(明治4)年9月12日、咸臨丸は、北海道移住を決意した(戊辰戦争に敗れた…仙台藩の白石にあった)片倉小十郎家臣団401名を乗せて、仙台の寒風沢を出航します。/箱館経由で小樽に向かう途中、9月20日、木古内町サラキ岬沖で岩礁に乗り上げ座礁します。/現地(泉沢)の人々の懸命な救助により乗船者は難を逃れましたが、咸臨丸はその数日後に破船沈没しました。](「木古内町観光協会」より)

〇[明治4年(1871)9月19日に北海道開拓に向かう400人余りを載せて函館を出港、小樽に向けて航行中、台風に遭い木古内町近くのサラキ岬沖で座礁し20日に沈んだ。乗員は全員助かった](或る論文より)



【あとがき】

 以上長々と検証してきたが、「これが正解」と言うべき自信は微塵もない。だが、少なくとも、検証可能な形で比較検討できたとの自負はある。

 はじめの疑問に戻ろう。

〈ポーハタン号〉

❶[万延1年(1860)1月18日、条約批准交換のため、遣米特使として外国奉行新見正興・村垣範正・目付小栗忠順ら、米艦ポーハタン号に乗り品川を出帆する](『日本史年表』東京堂出版)

❷[遣米使節・正使/新見正興しんみまさおき,村垣範正むらがきのりまさ(副使),小栗忠順おぐりただまさ(立合)…安政7年1月22日(1860年2月13日)出発](『詳説日本史図録』山川出版社より)

・・・いずれも「正しい」。が、遠洋航海としての出発は「安政7年1月22日(1860年2月13日)」、横浜からであった。

〈咸臨丸〉

①[万延1年(1860)1月19日、軍艦奉行木村喜毅・軍艦操練所教授方頭取勝義邦ら、咸臨丸でアメリカへ向かう](『日本史年表』東京堂出版)

②[提督・木村喜毅きむらよしたけ芥舟かいしゅう)、艦長・勝海舟かつかいしゅう義邦よしくに)、通弁方・中浜万次郎なかはままんじろう、木村従者・福沢諭吉ふくざわゆきち…安政7年1月19日(1860年2月10日)出発](『詳説日本史図録』山川出版社より)

・・・いずれも同じだが、せめて「浦賀」出港を入れて欲しい。咸臨丸はポーハタン号より3日も早くアメリカへ向かった。出帆港が違う、アメリカ人も乗せていた「遠洋訓練船」だった、それらをもっと強調して伝えるべきではなかろうか。批准書を交わし、世界一周を果たした使節団より、たかが日本初でもなかろう太平洋横断をアメリカ人の手を借りて行ったオランダ船「咸臨丸」の方が遙かに有名になったのは、誰の所為だろう? 賞賛すべきは、咸臨丸の日本人水夫たちやジョン万次郎、そして使節団の小栗忠順おぐりただまさではなかろうか?


 注(※¹)「6ノット」について:1ノットは、1.852㎞(1海里=1ノーティカルマイル)/1時間とすると、6ノットの時速は「11.112㎞/h」。参考までに、横浜とカリフォルニア州ロングビーチ間は8,960㎞で、これをコンテナ船「シーランド・コマース号」が[「6日間と1時間27分」で横断した記録がある](『ギネスブック79年度版』講談社)という(当時の世界記録「最も速い太平洋横断」)。「平均33.27ノット(平均時速61.65㎞)」だったらしい。ロングビーチはサンフランシスコ港の遙か南側、ロサンゼルス付近なので飽くまで参考値だが、これを37日間(一般に言われている太平洋横断「咸臨丸の航海日数」)で割ると「約10.09㎞/h」になる。咸臨丸の最大速力が「6ノット(時速10キロ)」と言われているのも頷ける(まあ、「約11㎞/h」だが、気象庁は「10㎞/h」としている)。尤も、ブルック大尉は「1月22日…7ノットで進む」「1月25日…船は約9ノットで進んでいる」と日誌に書いたそうだが(未検証)、蒸気機関の速力はともかく、帆走の速力は予測不能。

 例えば[ロサンゼルスと東京を最短距離で結ぶ航路を大圏航路(Great Circle…)、常に一定の方位を維持して航海する航路を等角航路(Rhumb Line…)と呼び、2点間の距離は大圏航路で約4800マイル、等角航路で約5100マイルとなります。…この航路ではロサンゼルスを出港後、太平洋を北緯50度付近まで北上する大圏航路が一般的に利用されており、20ノットで航海するコンテナ船があれば、4800マイル÷20ノット=約240時間(10日)で東京に到着します。](「商船三井」より)⇒4,800マイルは「8,889.6㎞」。参考までに、「日本機械輸出組合(JMC)」の「標準航海日数表(包括保険の手続)」によれば、「北米(西海岸)」(サンフランシスコ、ロサンゼルスなど)は「20日」(通関期間は常に7日間)としている(保険手続き上の日数計算、つまり航海日数を「13日」と見做す?)。

 咸臨丸も復路はハワイに寄港・滞在しているが(往路は無寄港)、[咸臨丸は、37日間の荒波を乗り越え太平洋を渡り…往復16,665キロメートル余、143日の航海で、帰路は本当に日本人だけの航海でありました](横須賀市)とある(実際は帰路もアメリカ水夫乗船)。単純計算で片道「8,332.5㎞」、これを37日間で割ると、「時速約9.4㎞(約5.1ノット)」。/⇒[咸臨丸の総航海日数は142日、航海距離は約2万キロメートル](或る論文)の「航海日数」は1日ズレるが、そもそもこれらは「航海日数」ではない(「旅行日数」とすべき)。

 ところで、ポーハタン号の場合、「太平洋を渡る…往路だけでも1万2千海里」(或るネット記事)とすれば事情はかなり違う。これは「22,224㎞」、地球を半周以上回ったことになる。航路は直線ではあり得ずハワイに寄港しているにせよ、仮にハワイ滞在(2週間)を除く「35日間」で計算すると、「約26.5㎞/h(約14.3ノット)」になり、ポーハタン号の速力「11ノット」を大幅に上回る。これは不可能に近い(「海里」は誤り、「1万2千キロ?」)。

 咸臨丸の「総航海日数」については本文も参照して頂きたいが、次の記事がまだしも信用できる。[往復83日間・合計10,775海里(19,955㎞)の大航海][復路はハワイ経由での航海となった。…45日間・6,146海里 (11,382㎞)の航海(ウィキペディア『咸臨丸』)⇒起点・終点が不明であるが、単純な引き算で往路は「8,573㎞」になる。それは[往路は38日・4,629海里 (8,573㎞)の航海](船の科学館)と一致する。「約9.65㎞/h(5.2ノット)」だが、勝海舟が言ったとされる「2,300里」なら、1里=4㎞として「約9,200㎞」、平均「10.36㎞/h(約5.6ノット)」。「江戸―サンフランシスコは4,697海里(8,698.8㎞)」(或るネット記事)もある。更に、「航路の決定はブルック大尉が行う。最短距離である大圏航路を取った。…約7,160㎞」という論文もあったが、如何なものか?(もう面倒なので一々「ノット」に直さない)。

 咸臨丸が「大圏航路」を選択した事実はあるが、地図上(メルカトル図法)で横須賀(浦賀港辺り)とサンフランシスコ港辺りを大雑把に結べば(国土交通省「国土地理院」の大圏航路計算地図使用)、その大圏航路は「約8,296㎞」と推測されるが、東京湾(浦賀水道)を出て房総半島を回るまでの距離は考慮しないので、実際の「最短距離(航路)」は、より長くなるだろう。つまり、先の「約7,160㎞」はあり得ず、「約8,296㎞」より短い航路もあり得ない。故に、「遥か8,200㎞の海を越えてやって来た咸臨丸」(サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』の公式サイト)では「航路」とは言っていないが、如何なものか。

 咸臨丸は、平均5.04ノット(9.24㎞/h)以上のスピードが出ていた筈であろう(往路37日間の場合)。

 注(※²)オランダ発注の幕府軍艦について:「幕府がオランダに軍艦…を発注したのは、嘉永6年9月(1853年)」と書いたが、「1854年発注(咸臨丸)」は他でも見られる。どうやら、キャンセルして、1854年に発注し直したようである。

①1853年発注説(咸臨丸)

 〇[咸臨丸 徳川幕府が洋式海軍育成のため、1853年オランダに発注・建造された](或る論文)

②ⓐ1854年発注説(咸臨丸)

 〇[江戸幕府は、ペリー提督が去るや、海軍の創設を決め、オランダに軍艦を発注する。/これが後の咸臨丸と朝陽丸である。…咸臨丸は、オランダのロッテルダムを流れるレタ川の上流にあるキンデルダイクのホップ・スミット造船所で建造され、発注してから3年後の1857(安政4)年2月に完成した。](「木古内町観光協会」)

②ⓑ1854年発注説(朝暘丸)

 〇[朝陽丸 …発注 1854年(安政元年)](ウィキペディア『朝暘丸』)

②ⓒ1854年11月11日発注説(咸臨丸、朝暘丸)

 ◎[アメリカのペリー艦隊に驚いた幕府は、「幕府海軍の創設、海軍伝習所の開設、軍艦の購入」を決め、嘉永7年9月21日(1854年11月11日)、親交のあったオランダに軍艦の建造と海軍伝習所の教官派遣を依頼しました。/軍艦の建造依頼については、前年の6月、ペリー艦隊が退去した直後に、帆装軍艦を発注していましたが、時代遅れということで帆装軍艦をキャンセルし、改めて木造スクリュー式蒸気軍艦2隻を発注しました。/この2隻が「咸臨丸(かんりんまる)」と姉妹艦「朝陽(ちょうようまる)」です。](船の科学館)

③1855年発注説(咸臨丸)

 〇[咸臨丸…発注 1855年(江戸幕府)][1855年(安政2年)7月、オランダのキンデルダイクにて起工](ウィキペディア『咸臨丸』)

④1856年発注説(咸臨丸)

 〇[咸臨丸は、安政三年(1856)にオランダのホップ・スミット造船所(旧名称)に発注して建造させた軍艦である。](土佐清水市教委)

⑤発注年不詳(咸臨丸/1856年起工)

 〇[咸臨丸…幕府の注文により1856年オランダのホップ・スミット造船所で起工、1857年3月進水](『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館)

 注(※³)「外輪蒸気船」について(補足):「フィラデルフィア号」は「チェッサピーク湾からポトマック河経由米国海軍造船所に向かった(外輪蒸気船)」という。「メリーランド号」は「サスケハナ川を横断する時に、蒸気機関車ごと乗船したフェリー」であり、「アライダ号」は「ニュージャージー州のSouth Amboyからマンハッタン島への移動に使用された河蒸気船」と説明されている(「万延元年遣米使節子孫の会」より)。狭い河川を航行する為の仕様のようであり、それらのスケッチに帆は描かれていない(「帆走」ではなさそうだ)。

 注(※⁴)朝暘丸の最期:榎本武揚らが五稜郭を拠点に戦った「箱館戦争」は、明治2年(1869)5月18日、榎本が降伏して終わる(戊辰戦争の終結)。朝暘丸はその直前、同年5月11日の箱館海戦で戦没した。

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