第22話「コシャマインの戦(たたかい)」はいつ起きたか?

「コシャマインのたたかい」はいつ起きたか?

《はじめに》 

 「応仁おうにんの乱」勃発の10年前、康正こうしょう2年(1456年)~長禄ちょうろく2年(1458年)の間に起きたとされる「コシャマインの戦い」は、「室町中期、北海道渡島(おしま)半島を舞台にしたアイヌ民族の最大の蜂起」(『日本歴史大事典』小学館)と言われる。松前まつまえ氏(和人わじん(※⁰))が北海道で支配権を確立していく転換期となるのだが、その「蜂起」がいつ頃始まり終わったのか、定かではない。

 注(※⁰)和人わじん:意味は幾つかあるが、この場合は[日本で「夷人」に対して「日本人」をさす語。現在でもアイヌの人々に対して本州系日本人に使用することがある。アイヌ語ではシサム(隣人)といい、また転じてシャモともいう](山川 日本史小辞典)


《蠣崎氏(松前氏)の蝦夷支配への大きな転換点は3つ》

〇[文禄2年(1593)1月5日、豊臣秀吉、蠣崎慶広にアイヌと交易する商人からの船役徴収権等を付与(福山秘府)](『日本史総合年表[第三版]』吉川弘文館)/[文禄2年(1593)2月、蠣崎慶広、蝦夷島を管理【寛政重修諸家譜】](『日本史年表』東京堂出版)

〇[松前慶広/松前藩初代藩主。蠣崎季広(かきざきすえひろ)の第三子。…1599年(慶長4)姓を松前と改め](『日本歴史大事典』小学館)

〇[慶長9年(1604)1月、幕府、蝦夷統治の特権を松前慶広に与える](『日本史年表』東京堂出版)/[慶長9年(1604)1月27日、幕府、松前慶広に蝦夷地交易の特権を与える](『江戸時代年表』小学館)/[慶長9年(1604)1月27日、幕府、松前慶広に蝦夷地統治に関する条規3ヵ条を与える(慶長令状)](『日本史総合年表[第三版]』吉川弘文館)

・・・これらの出典は様々で内容も多少異なるが(日付などが違う)、『新羅之記録』(※³)でも大凡確認できる([文禄2(1593)年正月…太閤秀吉公は…6日に国政の御朱印を賜い],[慶長4(1599)年の冬…当家の称号を「松前」と改めた],[(慶長9年)正月24日、佐渡守正信から国政の黒印状と伝馬の御判を賜った])。この松前慶広(蠣崎慶広)の祖と言われている人物が武田信広(蠣崎信広)。「コシャマインのたたかい」を制したことで、「蝦夷地統治」への道を突き進む。つまりその原点であり、最大の転換点だった。



Ⅰ)「コシャマインのたたかい」の諸説について

 一般に流布している諸説を大雑把に発端と終結年で次の5ケース(①-⑤)に分類してみた。もとより分類は難しいのだが、最も違いが際立つ、つまり、アイヌ諸部族を率いたコシャマインの「死」により終息に向かうので、彼の没年で2説(❶,❷)に大別した。重複する事例複数を挙げたのは、微妙な違いを知る為である(「蝦夷東部」と「蝦夷島南部」、「首長」と「大首長」、「胡奢魔伊」と「胡奢魔犬」、「父子が弓で射殺され」と「父子が討たれ」、など)。


①1456年-1457年(❶)

 〇[【コシャマインの戦】…1456年(康正2)春、箱館近郊志濃里(しのり)(現、函館市志海苔町)の鍛冶屋村で和人がアイヌの青年を刺殺したことに端を発し、翌57年(長禄1)東部アイヌの首長コシャマインに率いられたアイヌ民族の大蜂起へと発展した。…武田信広(松前氏の祖)が和人軍を指揮して反撃を加え、ついにコシャマイン父子を射殺、これによりアイヌ軍の勢力は急速に弱まり鎮圧されるにいたった](『世界大百科事典(旧版)』平凡社/『コトバンク』より引用)


②1457年/長禄1年(※¹)(❶)

 〇[長禄1年(1457)5月 蝦夷東部の騒乱、武田信広が平定する[松記](※²)](『日本史年表』東京堂出版)

 〇[長禄1年(1457)5月14日 蝦夷島南部でアイヌの蜂起。武田信広、酋長胡奢魔伊を射殺(コシャマインの乱)(新羅之記録)(※³)](『日本史総合年表[第三版]』吉川弘文館)

 〇[コシャマイン/室町中期のアイヌの首長。1457年(長禄1)、渡島(おしま)半島南部に定住し始めた和人の圧迫に抗してアイヌ諸部族を率い戦ったが敗れた。(- - ~1457)](『広辞苑 第七版』岩波書店)

 〇[1457(長禄ちょうろく元)年、和人の圧迫に耐えかねたアイヌは大首長だいしゅちょうコシャマイン(?~1457)を中心に蜂起した](『詳説日本史研究』山川出版社)


 注(※¹)「長禄ちょうろく1年」について:「長禄」改元は康正こうしょう3年9月28日なので、「5月14日」は康正3年5月14日(西暦換算、1457年6月6日)。当時の改元は元日まで遡って適用された為、康正2年の翌年は長禄元年になる(史料上は康正3年5月14日)。通常「長禄元年」と書かれるが、比較の便宜上多くは「1年」と表記した。

 注(※²)「松記」:「松記」は、当該書では出典「松屋筆記」の略。「松屋日記」「松屋会記」ともいう。安土桃山・江戸初期の茶会記。/[松屋会記まつやかいき…松屋源三郎(まつやげんざぶろう)家3代にわたる茶の湯他会記。構成は松屋久政(まつやひさまさ)会記が1533年(天文2)から1596年(慶長元)、松屋久好(まつやひさよし)会記が1586年(天正14)から1626年(寛永3)、松屋久重(まつやひさしげ)会記が1604年(慶長9)から1650年(慶安3)までで、…原本は伝わらない](『日本歴史大事典』小学館より)

 注(※³)「新羅之記録」:『新羅之記録しんらのきろく』は、「日本の歴史書。江戸時代に幕命により編纂された松前家系図(※⁴)をもとに補筆して作成された記録」(ウィキペディア『新羅之記録』)だが、約190年後に成立した(1646年)。しかも、「寛永14年(1637年)の福山館の火災により焼失した記録を、記憶によってまとめたといわれており、他の記録と一致しない点が多く、信憑性や疑問が持たれている」(同上)。「福山館の火災により焼失」は『新羅之記録』にもみられる。[(寛永)14(1637)年3月28日の夜、福山城が焼失する。…信廣朝臣の時代より伝わった鎧、…さらに系図などことごとく焼失](『新羅之記録【現代語訳】』(無明舎出版))→別項で詳論する(Ⅱ-2)。尚、ここでは「胡奢魔伊」とあるが、その出典とされた『新羅之記録』では何故か「胡奢魔犬」。

 注(※⁴)「松前家系図」:別項で取り上げる(Ⅱ-1)。


③1457年-1458年(❶)

 〇[康正3年/長禄元年(1457年)5月、アイヌによる和人武士の館への一斉襲撃があり、和人武士団とアイヌの間で戦闘が始まった(コシャマインの戦い)。…季繁の客将だった信広は、敗残兵をまとめ、七重浜で戦い、自身の弓でもってコシャマイン父子を射殺した。乱が鎮定されたのは、長禄2年6月だった](ウィキペディア『武田信広』)


④1456年-1458年(❷)

 〇[【コシャマインの戦】蝦夷地(えぞち)のアイヌが起こした大規模な和人(シャモ)に対する蜂起(1456年-1458年)…若狭(わかさ)出身と伝える〈客将〉武田信広が蝦夷地東部の首長コシャマイン父子を討ち戦は終わった](百科事典マイペディア)


⑤1457年-1458年(❷)(多くは1456年のアイヌ刺殺事件を「契機」とする)

 〇[1457年(長禄元年)東部の首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、…翌1458年(長禄2年)に蠣崎季繁の女婿であった武田信広によってコシャマイン父子が討たれて以降も戦いは散発し、十二館は交戦時の拠点となった](ウィキペディア『道南十二館』)

 〇[コシャマイン…胡奢魔犬…は、北海道渡島半島東部のアイヌの首長。1457年(康正3年、長禄元年)に起こったコシャマインの戦いの指導者。…アイヌの少年が志濃里(現、函館市。「志苔」「志海苔」「志法」とも表記される)の和人の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生し、怒った鍛冶屋がその小刀で客であるアイヌ少年を刺殺した。/1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結した。1457年(長禄元年)5月14日、コシャマインらは大軍を率いて東は胆振の鵡川から西は後志の余市までの広い範囲で蜂起した。事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍はさらに進撃を続け、和人の拠点である花沢と茂別を除く道南十二館の内10までを落とした。1458年(長禄2年)に花沢館主蠣崎季繁によって派遣された季繁家臣武田信広によって七重浜でコシャマインとその子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した](ウィキペディア『コシャマイン』)

 〇[志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに…首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦端を開いた…1458年(長禄2年)に花沢館主蠣崎季繁によって派遣された季繁家臣武田信広によって七重浜でコシャマイン父子が弓で射殺される](ウィキペディア『コシャマインの戦い』)

 〇[アイヌの男性(少年とも)が志濃里(しのり)(函館市)の鍛冶屋にマキリ(小刀)を注文したところ、品質と価格をめぐってトラブルが勃発。結果、和人の鍛冶屋がアイヌ人男性を刺殺する事件に発展しました。/これを機に、それまで鬱積していたアイヌの和人に対する不満が爆発し、渡島半島東部のアイヌが武装蜂起したのです。/さらに1457(長禄元)年5月14日、渡島東部の首長コシャマインが挙兵…武田信広は…1458(長禄2)年に七重浜(ななえはま)(北斗市)でアイヌ勢を迎え撃つ態制を整えました。/いったん退却するそぶりを見せ、アイヌ勢を懐深くまで招き入れた武田信広は、強弓でコシャマインを射殺。総大将を失ったアイヌ勢は瓦解し、戦いは終結したのでした」(『まっぷる TRAVEL GUIDE』より)


 ところで、「1456年勃発」説では、「(1456年)秋には沈静化していた」「冬期は休戦状態」「(1457年)再び蜂起」「組織・軍備を整えていた」といった論考も見られる。また、「(志苔館の)小林太郎左衛門良景…長禄1年5月14日戦死」「下国定季はアイヌ勢に生け捕りにされた」や「総大将コシャマイン、副将長男、勢力9,000~1万人」、「康正3年(1457)6月20日コシャマイン父子を射殺」という記事もあった。或いは、「1458年終結」説には、「敗走した諸館軍を武田信広がまとめ、反撃、父子射殺」や「だまし討ち」(和睦を持ち掛け酒宴で殺害/一斉退却と見せかけ殺害)説も散見する。→これら「相違点」の考察は最後にまとめた(「Ⅷ」参照)。



Ⅱ)『寛永諸家系図伝』と『新羅之記録しんらのきろく

1)『寛永諸家系図伝』とは?

〇[寛永18年(1641)2月7日 幕府、『寛永諸家系図伝』編纂開始(太田資宗・林羅山・林春斎監修)](『江戸時代年表』小学館)/[寛永18年(1641)2月7日 幕府、太田資宗らに『寛永諸家系図伝』の編纂を命じる(江戸幕府日記)](『日本史総合年表[第三版]』吉川弘文館)

⇒[寛永20年(1643)9月25日 『寛永諸家系図伝』成り、太田資宗、家光に呈上](『日本史総合年表[第三版]』吉川弘文館)


《「松前氏廣まつまえうじひろの家系図」について》

[(寛永)20(1643)年7月16日(※¹)、大将軍家光公の命で太田備中守資宗おおたびっちゅうのかみすけむね うけたまわりとして、松前氏廣の家系図を書きあげるようにとの仰せがあった。家臣の斉藤多宮直政さいとうたのみやなおまさはこれをその日のうちに早速、系図書きの筆者12人のうち高野山見樹院こうやさんけんじゅいんの法印 立詮りっせんにお会いした。松前の先祖は若州の屋形の息男で、牢人をしていた来歴を申し上げ、…要点を取って一小卷としてまとめ、法印立詮に二巻を清書させた。そしてその一巻は資宗から大将軍に進上し(※¹)、もう一巻は氏廣が所持した。/(景廣は)しかしよくよくこれを見てみると、…年賦(※²)などあれこれ相違のことがあった。偽りのことが多いといえども、今となってはやむを得ないことである。そのため慶広朝臣が記し置いた文書をもってこれを考え、景廣が記憶している代々の名誉奇特の事例などを一巻に書き連ねた。/この巻中に載せなかったことは…別の一巻に書き残す。/正保3(1646)年…9月3日に新羅大明神の神殿に詣で…三井寺において…清書させたものである。](『新羅之記録【現代語訳】』より)

・・・などと、『新羅之記録』の最後に長々と記されている。

 しかしこれは「現代語訳」。本稿で指摘したい核心的な「問題点」を、以下の「注釈(※¹)」でも展開しているので、是非お読み頂きたい。


 注(※¹)「寛永20(1643)年7月16日」などについて:この「現代語訳」をそのまま読めば、「寛永20年7月16日」は、「家光公の命で…家系図を書きあげるようにとの仰せがあった」年月日となろう。しかし、幕命の編纂開始は「寛永18年2月7日(1641年)」であり、それより約2年半も前のことである。

 実際に「幕命が伝わった」のはいつ頃か、考えてみた。『新羅之記録【現代語訳】』によれば、松前 氏廣うじひろは三男・泰廣やすひろを伴って「寛永18(1641)年…冬、江戸に参勤」したというから、遅くともこの「幕命」は、在府の年(寛永18年)の冬辺りでなければ辻褄が合わない。

 しかし「寛永20年7月16日」は、幕臣・太田資宗が『寛永諸家系図伝』を徳川家光に呈上した「寛永20年(1643)9月25日」の2か月前である。その日は、「松前氏廣の家系図を書きあげた年月日」と見做す他あるまい。

 松前氏広の帰国後、三男・泰廣やすひろは、引き続き寛永19年(1642)春より「江戸に留まって住むこととなった」という。故に「寛永20年7月16日」が、「実際に松前氏に幕命が下った日」の可能性は残すものの、その場合の作成期間は僅か「2か月余(以下)」である。法印に「来歴を申し上げ」、「要点を取って一小卷としてまとめ、…二巻を清書させた」という一連の作業がつつがなく成せる期間とは到底考えられない。何より完成日(提出日?)の「不記載」など、あってはならぬ「家系図」であろう。「寛永20年(1643)に幕命によって編纂された松前家系図」(文化庁)と言われているので、「書きあげた」或いは「提出した」年月日と捉えるしかあるまい。そうして正に[「寛永廿年幕府江御差出写」という「松前家譜」…この系図には、「寛永二十癸未歳七月吉日 松前辨之助/太田備中守殿」とあり、系図提出の時期についての『新羅之記録』の記述を裏付けることができる。](『松前家による系図作成の一齣』工藤大輔より)という。

 以上により注目すべきは、『新羅之記録』などで冠せられる「年月日(或いは「季節」)」は、必ずしもその直後の出来事に掛かるのではなく、多くが、それ以降の「文末など(最も強調したい事項)」に掛かっている点である。それを読み違え、解釈の「齟齬」(誤解)を生じさせている点に気付かない問題がある。

 『寛永諸家系図伝』などが史実として判明しているので、それら「誤解」は避けられる。しかし、他に検証できる史実が見当たらなければ、解釈の「誤り」は容易に解けない。『新羅之記録』にある多くの事柄は、正にそれに該当する。

 注(※²)「年賦」について:原文は「年賦」だが、腑に落ちない。賜った「石高」や「金銀」などは散見するが、「年賦に相当する」箇所が見当たらない。松前氏は資宗を介して『家系図』を進上したが(1643年)、松前景廣は、『家系図』には「年賦などあれこれ相違のことがあった」ので、「正保3(1646)年」、『新羅之記録』として書き残したというから、負債などに触れないこの「年賦」は意味不明(「年譜」の間違い?)。


2)『新羅之記録しんらのきろく』について

[松前家の歴史を記した上下二巻の巻物からなる書物で、「松前国記録」「新羅記」ともいわれます。松前家は新羅三郎義光の流れをくむところから、この記録に新羅の名がつけられたものです。/寛永20年(1643)に幕命によって編纂された松前家系図を第6代藩公の弟、景廣(※)が多くの記述を補って作成したもので、今日残されている北海道最古の歴史文献です。/和人による北海道支配の成立過程をこれほど詳細に記録したものはなく、まさに北海道の古事記とも称すべき文献といえます。](文化庁)

[北海道指定有形文化財 昭和45年2月12日指定

 初期の松前家の事績を記録する古文書で、寛永20年(1643年)に編纂された松前家系図を6代藩主の弟、松前景廣(※)がその不備を正し、記述を補って作成された。北海道最古の歴史文書と言われる。上下2巻の巻物で、「家譜一・二」と記され、巻頭と巻末には源氏の氏神である新羅神堂の朱印が押される。「新羅之記録」とされる由縁である。別名「松前国記録」、「新羅記」とも。](奥尻町)

・・・などと説明され、奉納された近江・三井寺みいでら園城寺おんじょうじ)の「清書」日付は正保しょうほう3年9月19日(1646年)。


 注(※)「6代藩主の弟、景廣」について:武田信広を祖とすれば、6代目は松前公広(1598-1641)であるが(祖・蠣崎李繁から7代目とする「(蠣崎)系譜」もある)、公広は2代・松前藩主で、実の兄弟はいないらしい。『新羅之記録』その他に拠れば、松前景広(1600-1658)は初代松前藩主・慶広(1548-1616)の六男である。公広の父(慶広の長男)・盛広(1571-1608)が早世したので、公広は初代藩主・松前慶広の世子となり、藩主を継いだ。甥(兄・盛広の子)の公広が父・慶広の世子となったので、六男(盛広の弟)・景広は2代藩主・公広の弟ということになる(父・慶広逝去時、公広19才,景広17才)。景広は公広より2才年下なので「弟」としてまだしも素直に「兄」と呼べるであろうが、例えば、景広の兄、慶広の二男・忠広(1580?-1617)も公広の兄弟となり、兄(37才)ではあるが18才も年下の公広(19才)を「主君」と仰ぐ関係となる。・・・それはさておき、6代藩主は松前邦広(1705-1743)なので時代が全く違う。ここで言う「6代藩主」や「藩主の弟」は非常に紛らわしい。


3)「長禄元年五月十四日」は何の日か?(『新羅之記録』の読み違い?)

 『新羅之記録』の「原文」が入手できなかったので、参照できた以下(a)を引用する。(尚、「この原文」に半角アキはないが、カクヨム制約(フリガナ)の都合上空けてある。例えば、「穏内郡之舘主蔣〈コモ〉土甲斐守季直」…原文は《コモ》だが、「穏内郡之舘主蔣」全体のフリガナ扱いになる為半角空けた。本来の漢文「穏内郡之舘主蔣土甲斐守季直」にヨミが入れてある、と思われる)

-『国立歴史民俗博物館』より-

新羅之記録 上巻・〔初代武田信広〕

全文: 〇抑狄之嶋、古為安東家之領地事者、知行津軽、在城十三之湊、而雖隔海上、依為近国令領此嶋也、政季(安東)朝臣、越秋田之小鹿嶋節、下之国者、預舎弟茂別八郎式部太輔家政、被副置河野加賀右衛門尉越知政通、松前者、預同名山城守定季、被副置相原周防守政胤、上之国者、預蠣崎武田若狭守信広、副置政季之婿蠣崎修理大夫季繁、令護夷賊襲来処、長禄元年五月十四日、夷狄蜂起来、而攻撃志濃里(志苔)之舘主小林太郎左衛門尉良景、箱舘之河野加賀守政通、其後攻落中野佐藤三郎左衛門尉季則、脇本南条治部少(ママ)季継、穏内郡之舘主 コモ土甲斐守季直、覃部ヲヨベ之今泉刑部少季友、松前之守護下国山城守定季、相原周防守政胤、祢保田之近藤四郎右衛門尉季常、原口之岡辺六郎左衛門尉季澄、比石ヒイシ之舘主畠山之末孫厚谷右近将監重政、所々之重鎮、雖然下之国之守護茂別八郎式部太輔家政、上之国之花沢之舘主蠣崎修理大夫季繁、堅固守城居、其時上之国之守護信広朝臣為惣大将、射殺狄之酋長 胡奢魔犬コシヤマ父子二人、斬殺 侑多利ウタリ数多、依之凶賊悉敗北、其後式部太輔経中野路来山越於上之国、会若狭守・修理大夫、有献酬之札、式部太輔家政者、授刀〈一文字〉於信広、被賞勇功、又修理大夫者、授喬刀〈来国俊〉於信広、此時信広朝臣者、従若州差来進〈助包〉之大刀於式部太輔也、修理大夫無継子、故得政季朝臣之息女為子、令嫁信広、居川北天河之洲崎之舘、仰家督、信広朝臣為実安東太政季朝臣之聟也、


⇒以上(a)より抜き出した①「上之国者・・・其後攻落」と、該当する以下②③を比較してみよう。元来漢文に句読点はないが、読点(、)や句点(。)の付け方の違いに注目して頂きたい(前掲文(a)にも読点や中黒はあるが、句点は無い)。重要な相違点は、日付の箇所(読点「、」の有無や繋げ方)、「而」の位置や解釈、加えた「改行」や「句点(。)」への変換。


①『新羅之記録 上巻・〔初代武田信広〕』(国立歴史民俗博物館)より

「上之国者、預蠣崎武田若狭守信広、副置政季之婿蠣崎修理大夫季繁、令護夷賊襲来処、長禄元年五月十四日、夷狄蜂起来、而攻撃志濃里(志苔)之舘主小林太郎左衛門尉良景、箱舘之河野加賀守政通、其後攻落」


②《コシャマインの戦いに関する『新羅之記録』の史料的検討》(新藤 透)より

1.)「上之国者預蠣崎武田若狭守信広、副置政季之婿蠣崎修理大夫季繁、令護夷賊襲来処、長禄元年五月十四日夷狄蜂起来而、攻撃志濃里之館主小林太郎左衛門尉良景、箱館之河野加賀守政通、其後攻落」

(書き下し文)

2.)「上之国は蠣崎武田若狭守信広に預け、政季の婿蠣崎修理大夫季繁を副へ置き、夷賊の襲来を護らしめし処、長禄元年五月十四日夷狄発向し来って、志濃里の館主小林太郎左衛門尉良景・箱館の河野加賀守政通を攻め撃つ。其後……攻め落とす。」


③『新羅之記録【現代語訳】』(無明舎出版)より(「(信)廣」と書く)

上之国かみのくに蠣崎武田若狭守信廣かきざきたけだわかさのかみのぶひろに預け、政季の婿 蠣崎修理大夫季繁かきざきしゅりのたいふすえしげを副において、夷賊エゾの襲来に備えたのである。

 長禄元(一四五七)年五月十四日に夷狄エゾが蜂起し、襲撃してきた。志濃里の館主小林太郎 左衛門尉良景さえもんのじょうよしかげ、箱館の河野加賀守政通を攻め落した。そのあと……攻め落した。」


 ②-2.と③は、常識的に「5月14日蜂起」と読んでいる(これに限らず、世の「常識」)。しかし、①の区切り方では、違った読み方も可能である。「5月14日」が、それ以降の全文に掛かっている読み方である。

 つまり、夷狄が蜂起して来たことを挙げ、ことの次第を物語り、うち2国が耐えたことを讃えた上で、信広がコシャマイン父子を射殺した、その(勝敗が決した)日を冒頭に掲げた、という見方である。

 文中の日付は「5月14日」しかない。「其後」は顔を出すも、「(其)時」は唯一1度きり。ここで言いたかったのは果たして「敵の蜂起日」だったのか、或いは「鎮圧した日」なのか? 改めて問うまでもない。間違いなく「鎮圧日」だろうと考える。蜂起日が分かっているのに鎮圧日が不明で残さない「家系図」など、凡そ考えにくい。しかし、「長禄元年五月十四日夷狄蜂起来而」では、「5月14日蜂起(して来た)」としか解釈出来ない、そこが「問題」なのだ。長々と説明した後の「其時(上之国之守護信広朝臣為惣大将、射殺狄之酋長胡奢魔犬父子二人)」が、冒頭の「日付」を指すなど、常識では到底思いも寄らぬ。


◎【夷狄が蜂起して来て、即ち、志濃里の舘主小林太郎左衛門尉良景、箱舘の河野加賀守政通を攻撃し、その後中野…季則、脇本…季継、穏内…季直、覃部…季友、松前…定季、相原…政胤、祢保田…季常、原口…季澄、比石…重政、それらの重鎮を攻め落とし、れど下之国の守護茂別…家政、上之国の花沢…季繁、堅固に居城を守り、その時(5月14日)…信広…酋長胡奢魔犬父子二人を射殺、ウタリ多数を斬り殺し、賊が悉く敗北した。その後…】(私的暫定解釈)



Ⅲ)武田信広はいつ渡島おしまへ渡ったのか?

 次の一文を読み、幾つかの奇妙な点に気が付く(㋐は小生追記、原文漢数字)。

ⓐ[松前当家の元祖、鎮狄大将武田彦三郎若狭守新羅氏信廣朝臣ちんてきたいしょうたけだひこさぶろうわかさのかみしんらしのぶひろあそんの系譜について述べる(※¹)。…/…㋐信廣朝臣21歳の(ママ)に、宝徳ほうとく3(1451)年3月28日の夜中に密かに国を出た。これは、繁綱と祐長の計略によるものであった。/まず関東の足利に下った。ここで少し留まり、そして享徳きょうとく元(1452)年3月に奥州田名部に来たのである。蠣崎の所領を治めるようになってからは、伊駒安東太政季いこまのあんどうたまさすえ朝臣と心を合せて、8月28日にこの国に渡って来たのである。](『新羅之記録【現代語訳】』より)

《㋐以降の書き下し文相当の「漢文」》(「シュウ」は「秋」の俗字)

[信広朝臣二十一歳之穐、宝徳三年三月二十八日密出国於夜中、是併依繁綱与祐長之計略也、下東関足利、少時住、享徳元年三月来奥州田名部、知行蠣崎而後、伊駒安東太政季朝臣同心、八月二十八日渡此国、]([コシャマインの戦いに関する『新羅之記録』の史料的検討]新藤 透 より)


❶「(21歳の)秋」という落し穴

 武田信廣が出奔した(夜中に密かに国を出た)「3月28日」を「秋」と見る人は先ずいない。この「秋」は当然の如く無視され、信広(信廣)が国を出たのが「宝徳ほうとく3(1451)年3月28日」と誰もが考える。同現代語訳でも「秋に」に「ママ」が振られている通り、通常は「作者の勘違い」などと片付けるだろう。そうして更に、享徳きょうとく1年(1452)3月に奥州田名部おうしゅうたなぶに来た、その同じ年・・・北海道へ渡ったのも「享徳1年(1452)8月28日」と思うに違いない。それらは疑いようもない「常識」として通っている。

 だがしかし、もしも、渡島ととうの「8月28日」が、「享徳きょうとく元年(1452)」ではなく、「信廣朝臣21歳の秋」と考えればどうだろう?

 ―これには深い陥穽がある。この文(ⓐ)のずっとずっとずっと先には、次の異文(ⓑ)が出てくるからだ。


ⓑ[伊駒政季いこまのまさすえ朝臣は、…名前を改めて安東太政季と名乗り、田名部の地を治めて家督を継ぐこととなった。しかし、蠣崎武田若狭守信廣かきざきたけだわかさのかみのぶひろ朝臣(※²)、相原周防守政胤あいはらすおうのかみまさたね河野加賀右衛門尉越智政通こうのかがうえもんのじょうおちまさみち等が計略をもって、享徳きょうとく3(1454)年(※)8月28日に大畑より出航して、えぞの嶋に渡ったのである。](『新羅之記録【現代語訳】』)→(※)漢文は「同三年」らしい(前文「享徳二年」から?)。


「年表」で確認しよう。

〇[享徳3年(1454)8月、武田信広・安東政季ら陸奥国大畑より蝦夷松前に渡る【松屋筆記】](『日本史年表』東京堂出版)


 つまり、「享徳きょうとく元(1452)年3月に奥州田名部に来た」時期から2年後のⓑ「8月28日」(前掲ⓐの「8月28日」と同日)、「えぞの嶋に渡った」とある。何とも罪な構成であり、混乱をもたらす。その「二つ」(ⓐ,ⓑ)が『新羅之記録』に「共存」することで、「享徳きょうとく1年8月28日 渡島ととう」説と「享徳きょうとく3年8月28日 渡島ととう」説という、「二年間のズレ」を生じさせていた。更には、「宝徳ほうとく3年(1451)に渡海した(と『新羅之記録』に書かれている)」という、とんでもない読み違い(三年間のズレ)をも生んでいる。「秋」の意味を深く考えず、「錯誤」とも見ず、意図的な「書き換え」を疑う者もいる始末。「宝徳ほうとく」と「享徳きょうとく」という紛らわしさに加え、何より「出奔」も「田名部たなぶ」も同じ「3月」(「秋」ではあり得ない)、何故か渡海は出奔と同じ「28日」であるが故の混乱、なのであろう。

 つまり、ⓐ「信廣朝臣21歳の秋」を勝手に分割する。「21歳」は出奔時期に掛け(「国を出た(21歳)」とする。「(国を出た)3月28日」は春なので「秋」は無視)、「秋」をⓐ「8月28日(にこの国に渡って来た)」に掛ける。その(不明な?)渡海年は、ⓐ「享徳きょうとく元(1452)年(3月に奥州田名部に来た)」と「同年」に違いないと、文脈上から常識的に判断せざるを得ない。何よりも、『新羅之記録』における武田信広の「没年」及び「享年64」を尊重すれば、このⓐ「21歳」は、出奔した時期(宝徳ほうとく3(1451)年)でなければならないからである。・・・しかし、初めに戻ろう。「3月28日」を「秋」と見る人は先ずいない。だからこそ、「国を出た(21歳)」ではあり得ない。


 注(※¹)「(武田)彦三郎…信廣」について:この一文に続く記述「若州の屋形第一代 武田伊豆守信繁たけだいずのかみのぶしげ朝臣に男子三人があった。」云々によれば、嫡男 治部大輔信栄じぶのたいふのぶひで、二男 大膳大夫陸奥守信賢だいぜんたいふむつのかみのぶたか(※³)、三男 國信くにのぶの「男子三人」。家督を継いだ二男の「信賢朝臣は…自分の子信廣朝臣を弟 國信くにのぶ朝臣の養子にして、家督を大膳國信朝臣に譲ろうとしたところ、信廣朝臣は主家を去り牢人となってしまった(「幸いに…信親朝臣が若州武田の家督を継いだ」)」と言っている。これだけ読めば、信広は養子にされるのが嫌で国を出た(未だ養子ではない?)、となろうが、「信賢朝臣と國信朝臣が…縁を絶ち(信廣を)殺害しようとした」と続く。信広が出奔したのが「宝徳3(1451)年3月28日」なので、当時の信広は21才、国信は14才ということになる。義父が自分より年下の「14才」では誰もが逃げ出したくなるに違いない。が、「殺害(未遂)」となれば話はかなり違うだろう。

 信広が生まれた時期、未だ国信は生まれていない(7年後に国信誕生)。それを以て「養子」説が否定されたりするが、それは違う。信賢と弟・国信は18年も歳が離れている。二男・信賢は兄・信栄のぶひでより7才も年下で、つまり、父・信繁(1390-1465)には長い間子ができなかった時期が2度もある。長男・信栄のぶひでは、三男・国信が生まれてすぐ(2年後)、亡くなってしまう(父・信繁51才、二男・信賢21才、三男・国信3才、信賢の子・信広10才)。養子は、父・信賢の意向では必ずしもなく、家系を案じた祖父・信繁が二男・信賢をいち早く結婚させ、その子・信広を養子に出そうとしたことは十分あり得る。

 武田信賢たけだのぶかた(※³)(1420-1471)の幼名は不詳だが、ウィキペディア(『武田信賢』)によれば、信賢は「通称 彦太郎」だったらしい。また、『新羅之記録』では父・信繁の男子3人(信栄・信賢・国信)とあるが、四男・元綱もとつな(1441-1505)もいたという。武田信広(1431-1494)や武田国信(1438-1491)の幼名は彦太郎(『コンサイス 日本人名事典』三省堂より)。国信の子は長男・信親のぶちか(1458-1485)と二男・元信もとのぶ(1461?-1521)がいた。『新羅之記録』では「信親朝臣が若州武田の家督を継いだ」とあるが、実際に若狭国(守護信賢)を継いだのは信賢の(意向通り?)弟・国信であり、国信を継いだのは二男・元信であった(信親は父に先立つ)。信広がいつ頃叔父・国信の養子となったか明瞭ではないが、無論国信が生まれる前と考えることはできない。考えられる一つの仮定として、国信の「元服」頃がある。信広の出奔は1451年、国信14才の年である(後に詳論するが、信広の父・信賢が14才=元服で婚姻したとすれば、父15才で子・信広が生まれたという仮説も成り立つ)。

 長男や継嗣けいし(「継子けいし」も「相続人」という同じ意味をもつが、通常用いられる継子けいし=「ままこ」として、「継嗣」=「あとつぎ」とは厳密に区別する者もいる)に「(幼名)彦太郎」を付けることは納得できるが、信繁の長男・信栄のぶひで(1413-1440)は「通称 彦九郎」だったらしい(ウィキペディア『武田信栄』より)。歌舞伎の板東彦三郎は長男だが、九代目坂東彦三郎を襲名した。足尾鉱毒事件で名を馳せた田中正造たなかしょうぞうと関係が深い元衆議院議員・栗原彦三郎は二男だった。無論何れも「幼名」ではない。

 ところで、信広が「異説 信親の子」(『コンサイス 日本人名事典』より)もあるようだ。仮にくだん信親のぶちか(1458-1485)であれば、「コシャマインの戦」の頃は、信親は未だ生まれてもいないので、この「信広」は全く別人となろう。『新羅之記録』を信じ、諸説併せて考えられることは、①信広は武田信賢の実子・長男(幼名 彦太郎)。②信広は、信賢の弟・国信(幼名 彦太郎)の養子。③初代若狭国守護・信賢(通称 彦太郎)、二代(当時は予定)国信(幼名 彦太郎)、三代(予定)信広(三代=彦三郎)、④信広出奔(除籍、自称 彦三郎or源頼義の三男・新羅三郎義光に因む)、かな?…といろいろ憶測してみたが、何故「彦三郎」なのか、という疑念を呈するに留めたい。(信広の生年疑惑については次項で論じる)

 注(※²)「蠣崎武田」について:「武田信広…’52(享徳1)陸奥国田名部の蠣崎を領した」(『コンサイス 日本人名事典』)ので、「蠣崎(武田)」姓を名乗っていたとされる。後に蠣崎季繁の養女(安東政季の娘)を娶る武田信広の義父(蠣崎季繁)も蠣崎姓であり、信広が「蠣崎氏」の家督を継いだので(蠣崎姓)様々な憶測も飛び交うが(蠣崎季繁も「蠣崎(領主)に因む」とも言われ、蠣崎蔵人信純=蠣崎季繁=武田信広説などあるが、未検証)、故に、個々別々な「蠣崎」の相違点が見落とされ、或いは混同されている。

 注(※³)「信賢」の読み方:『コンサイス 日本人名事典』では「(たけだ)のぶかた」とあり、それが一般的と思われる。『新羅之記録【現代語訳】』では「のぶたか」と振られている。故にその引用文は「のぶたか」で統一してある。しかしこれに限らず、他の引用文ではそのフリガナの用い方=原則、読み方が記されていない事柄には勝手に「ヨミ」を入れず、「( )」で補足されているヨミはそれに従い、拙文は適当に振っている(漢文にフリガナがなく、人名や地名などの読み方や実際の呼び方はあまり正確に伝わっていない。例えば昔は「白村江はくすきのえの戦い」と読んだが、現在の主流は「はくそんこう(の戦い)」、山内一豊は「やまのうち(かずとよ)」と必ず読んでいたが、「やまうち(かずとよ)」と読むようになった、など)。但し、原文の漢数字は統一性を保つ為、なるべく算用数字(アラビア数字)に直している。句読点(「,」「.」→「、」「。」)なども同じ(無論、例外も多い)。


❷「年齢」の落し穴

 『新羅之記録』には、武田信広は「明応めいおう3(1494)年5月20日、64歳にて逝去」と記されている。逆算すれば、生まれは「1431年」(※¹)。

 繰り返しになるが、ⓐの渡島ととう年を・・・実は、ⓐ「信廣朝臣21歳の秋」、ⓐ「伊駒安東太政季いこまのあんどうたまさすえ朝臣と心を合わせて、8月28日にこの国に渡って来た」と解釈すれば、ⓑ「享徳きょうとく3(1454)年8月28日に大畑より出航」は、ⓐと矛盾しない(ⓑ「一説」に統一される)。その場合、信広の生年は「1434年」と考えられるが、「享年61」となってしまうので、「64歳にて逝去」(『新羅之記録』)が宙に浮く。

 しかし、父と見做される武田信賢たけだのぶかたの生没年が「1420(応永27)~1471(文明3)」(出典は『宗賢卿記』らしいが未検証)なら僅か父12歳で子(信広)が生まれたことになるが、信賢「元服」の頃(「元服」は11/12才~16/17才or14才~15才、幼名を実名に改めること)となれば、それより幾らか信憑性が増す(信賢15歳の子・信廣)。或いは、叔父・国信(永享10年/1438生~延徳3年/1491没)の「養子」説も多少現実味を帯びるかも知れない(兄・信賢の元服14才/婚姻⇒弟・国信の元服14才/養子取り=国信の養子・信広=信広の出奔年)。が、何しろ信広は「謎の人物」、父親の生年も実は不詳という(武田信廣の出自が怪しいことに変わりないが、「出奔=除籍」も十分考えられるので、一般に言及されている「若狭での記録がない」ことを以て「松前藩祖・若狭武田氏」はウソ、とされる事でもなかろう)。


 史実(?)の「年齢合わせ」に拘ると、「21歳の秋」は永久に迷宮入り。だから「常識」を疑い、蒸し返したくもなる。「享年64」は果たして正しいのか?


《「信広朝臣二十一歳」について》

 『新羅之記録』で信広の「年齢」が明記されているのは、ⓐ-㋐「信広朝臣二十一歳(之穐、宝徳三年三月二十八日密出国於夜中、)」と「64歳(にて逝去する)」の二箇所だけである。「享年」が記されるのは当然であろうが、「出奔時の年齢」は唐突過ぎて違和感がある。何歳で出奔したのか、それだけを家系図に残すことに、一体どのような意義があるのだろうか?


 「蠣崎かきざき」の家督を継いだ武田(蠣崎)信広に続く相続人が、蠣崎 光広みつひろ⇒蠣崎 義広よしひろ⇒蠣崎 季広すえひろ⇒5世・蠣崎 慶広よしひろ/改名,初代・松前慶広(1548-1616)…長男・盛広もりひろ逝去(1608)⇒2代・松前 公広きんひろ/きみひろ⇒3代・松前 氏広うじひろであり、この氏広うじひろが『家系図』を所持したという(1643年)。

 『新羅之記録』は、「寛永14年(1637年)の福山館の火災により焼失した記録を、記憶によってまとめたといわれており、他の記録と一致しない点が多く、信憑性や疑問が持たれている」(ウィキペディア『新羅之記録』)と言われるが、『新羅之記録』を読むと少し事情が違う。「慶広朝臣が記し置いた文書をもってこれを考え(、景廣が記憶している代々の名誉奇特の事例などを一巻に書き連ね)](『新羅之記録【現代語訳】』より)たのであれば、焼失を免れた「文書」も幾らかでもあったのだろう、その「文書」をも直ちに「記憶によってまとめた」と見做す訳にはいかない。『新羅之記録』編纂は慶広よしひろの六男・景広かげひろに拠るが、父「慶広朝臣が記し置いた文書をもってこれを考え」たと言っているのである。けれども、その後半「景廣が記憶している…」だけが強調されているきらいがある。


《世の中は「間違い」だらけ》

 世の中には、例えば次の様な「間違い」も普通に見られる。

〇[【松前氏】/…信広以降、蠣崎光広(みつひろ)(1456-1518)・蠣崎義広(よしひろ)(1479-1545)・蠣崎季広(すえひろ)まで蠣崎を姓とし、5世蠣崎慶広(よしひろ)(1507-1595)のとき豊臣秀吉・徳川家康に臣従し、松前慶広と改姓して、松前藩を形成した],[【松前慶広】(1548-1616)](以上、『日本歴史大事典』小学館 2000,2007より/現在は訂正されている可能性あり-要確認)

・・・とあったので、とても驚いた。『新羅之記録』でも確認出来るが、「5世蠣崎慶広(よしひろ)(1507-1595)」は間違いであり、この生没年は慶広の父・蠣崎季広のことである。と同時に、同じ事典の「松前慶広」の項目では、正しい生没年(1548-1616)が記されている。「史実」に於けるこの手の「誤記」や「錯誤」は枚挙に暇がない。特に生没年や年齢には諸説あることがとても多い。にも拘わらず、武田信広の生没年、特に享年は知る限り「異説」を見かけない。それは逆に、取りも直さず『新羅之記録』以外にそれら「史実」が無いことを意味するのだろう。だとすれば尚更、それ自体の「矛盾」や「錯誤」にもっともっと目を向けるべきと思われる。


 『新羅之記録』を編纂した(1646年)松前景広(初代松前藩主・慶広の6男、後に2代藩主・公広の弟)が、父の「文書」にあったかも知れない「信広朝臣二十一歳」だけに着眼して、「秋(穐)」を見落とし(無視して)、信広出奔の「宝徳三年(1451年)」と見做した可能性は十分考えられよう。信広の没年月日=明応3年5月20日(1494年)が動かしがたい「事実」であれば、信広の享年「64」は、後日推定されたのかも知れない、その可能性は否定できない。「享年」が、他の記事には見られない唯一の年齢「二十一歳」から、景広の錯誤で推定され得た「年齢」であると見做すことが、より自然な見方のように思われる。その「鍵」は、「二十一歳之穐(秋)」の解釈にある。


 注(※¹)武田信広の生没年について:「1431-1494」(『日本歴史大事典』小学館)/生年月日まで記した「武田信広/永享3(1431)年2月1日~明応3(1494)年5月20日(1494年6月23日)」(或るネット記事)もある。没年の根拠は恐らく『新羅之記録』と考えられるが、出生年月日の出典は、この記事では不明。しかし、かつての『ウィキペディア(武田信広)』では、武田信広[永享3年(1431年)2月1日~明応3年5月20日(1494年6月23日)…若狭守護(※²)武田信賢の子として若狭小浜青井山城に生まれた。書誌には御瀬山城生まれとあるが、同城は大永2年(1522年)に建造されたもので前身である青井山城と思われる。…父信賢は家督を弟武田国信に譲る際に、実子であるこの信広を養子にさせたが、間もなく国信に実子信親が誕生したことで、疎遠されるようになった。実父信賢とも対立して孤立無援となっていったとされるが(※³)、永享3年当時、父と伝えられる信賢は12歳であり、国信は誕生前であったことが分かっているので、この伝説の信憑性は低い]とあった(この記事は現在書き換えられている。歴史は塗り替えられるものだが、特に『ウィキペディア』は「書き換え」を前提としているので要注意)。

 注(※²)「若狭国守護」について:[武田信賢/…若狭武田氏は永享12年(1440年)に兄信栄が室町幕府6代将軍足利義教の命により若狭守護一色義貫を討ち取った恩賞として若狭守護に命じられたことに始まり、同年に兄が病死すると若狭を相続、父から家督と安芸分郡も継承した。](ウィキペディア『武田信賢』より)/一色義貫いっしきよしつらが殺されたのは永享12年(1440)5月15日。彼は若狭、丹後、三河の守護であり、別に山城守護も兼ねていた。6代将軍足利 義教よしのりの重鎮であったが対立し、結局「義教の大守護弾圧政策の一環として…殺された」(ブリタニカ国際大百科事典)。結果、一色氏の守護は丹後のみとなった。故に、[信繁…の代に、大将軍左大臣 義教よしのり公より若州(若狭国、現福井県)を賜う。このため嘉慶かきょう元(1387)年に芸州(安芸国、現広島県)より若州に国入りし]たとする『新羅之記録』と異なり、武田信賢が若狭国守護となったのは「永享12年(1440)」と考えられているが、実際に国入りしたのがその翌年、「嘉吉かきつ元年」(1441年)だった可能性はあろう。『新羅之記録』の編纂者・松前景広が、この「嘉吉かきつ」を、「嘉慶かきょう」と勘違いした可能性は大いにあり、「嘉慶かきょう元年」(1387年)は明らかな誤りである(この「14年」差が何故生じたのか、とても気になる)。尚、余談であるが、足利義教は嘉吉1年(1441)6月24日逝去した(将軍職は暫く空位で、僅か数ヶ月で亡くなる「7代義勝」を挟むが、1449年、8代・義成よししげ=後に改名・義政よしまさまで空位が続いた)。要するに、人は斯くも間違いを犯す存在なのだが、「享年64」を担保する「事実」が、「信広朝臣二十一歳之穐」しか存在せず、それでありながら、その「穐(秋)」の「不自然さ」に着眼せず、逆に「享年64」を絶対視する解釈が気に食わない。

 注(※³)「実子信親が誕生…疎遠され…実父信賢とも対立」について:信親のぶちか(1458-1485)が正しければ、この見方自体が矛盾している。1458年は所謂「コシャマインの戦い」が終わった頃であり、信広は既に独立し、蠣崎信広を名乗っている。「信親が誕生」は疎遠の原因ではあり得ない。前提を間違えれば、その推論(「この伝説の信憑性は低い」)は意味を成さない。


❸「漢文」の落し穴(補足)

 「漢文の違い」については既にⅡ-3〈「長禄元年五月十四日」は何の日か?〉で触れた。また、この章(Ⅲ)冒頭のⓐ-㋐で、次の⓵-㋑「信広朝臣二十一歳之穐…」以降の漢文を取り上げたが、⓵-㋑及び⓶-㋒は、視点を変えた、「漢文の違い」に着目した引用(転載)である。

 改めて二つの漢文を比べてみたい。日付の違い(「8月28日」と「8月20日」)は重大で、「穐」と「秋」など若干の違いもある。けれど、保管された原本(?)は幾つかあるらしいので、取り敢えずこれら「相違」には目を瞑る。先ず一番の問題は、漢文の区切り方が違うこと(読点や中黒の付け方の違い)。

《注目点》

1)特に注目すべきは、㋑「、其外侍三人而、信広朝臣二十一歳之穐、」と㋒「・其外侍三人、而信広朝臣二十一歳之秋、」の相違(「而」の位置の違い)。

2)㋑「知行蠣崎而後、伊駒安東太政季朝臣同心、」と㋒「知行蠣崎、而後伊駒安東太政季朝臣同心、」(「而後」の位置の違い)

3)㋑「家子佐々木…」箇所は、㋒「召具家子佐々木…」と比べ、「召具」が抜け落ちているが、㋑の書き下し文は「其外侍三人を召具して、」とあるので、単純な「欠落」かも知れない。

4)㋑「(国信朝臣)共家思且国、」と㋒「(国信朝臣)共、思且家思且国、」

5)㋑「八月二十八日渡此国、」と㋒「八月廿日、渡此国矣、」(日付が違う。㋒は「矣(断定の意)」=「(渡った)のである。」)。


⓵『コシャマインの戦いに関する『新羅之記録』の史料的検討』(新藤 透)より

 ㋑[信広朝臣者稟性大力強盛而為勇気麁豪之間、信賢朝臣与国信朝臣共家思且国、不得止事合心義絶而欲令巳曁生害之刻、家老之数輩就哀惜、遁其難、家子佐々木三郎兵衛尉源繁綱、郎等工藤九郎左衛門尉祐長、其外侍三人而、信広朝臣二十一歳之穐、宝徳三年三月二十八日密出国於夜中、是併依繁綱与祐長之計略也、下東関足利、少時住、享徳元年三月来奥州田名部、知行蠣崎而後、伊駒安東太政季朝臣同心、八月二十八日渡此国、]


⓶-『国立歴史民俗博物館』-新羅之記録 上巻・〔初代武田信広〕より

 ㋒[信広朝臣者、稟性大力強盛而為勇気麁豪之間、信賢朝臣与国信朝臣共、思且家思且国、不得止事、合心義絶而、欲令已曁生害之刻、家老之数輩就哀惜、遁其難、召具家子佐々木三郎兵衛尉源繁綱・郎等工藤九郎左衛門尉祐長・其外侍三人、而信広朝臣二十一歳之秋、宝徳三年三月二十八日、密出国於夜中、是併依繁綱与祐長之計略也、下東関足利、少時住、享徳元年三月、来奥州田名部、知行蠣崎、而後伊駒安東太政季朝臣同心、八月廿日、渡此国矣、](※)


⓷私的解釈

 信広朝臣は……難を逃れ、家子郎党5人をともに従えた。

 即ち、信広朝臣二十一歳之秋、(云々しかじかのしかる後)伊駒安東太政季朝臣と一緒に、8月20日(28日?)、(5人を従えて)此の国へ渡ったのである。(「渡った」であり、「渡って来た」ではない)

(中略)

・・・本章(Ⅲ)❶-ⓑに続く(『新羅之記録【現代語訳】』より)

㋓[伊駒政季いこまのまさすえ朝臣は、……享徳きょうとく三(一四五四)年八月二十八日に大畑より出船して、えぞの嶋に渡ったのである。]

(㋑㋒は武田信広について書かれたものだが、そのずっと先にある㋓は伊駒政季(安東政季)について書かれている)


 注(※)比較の為一部(㋒)のみ引用したが、重要な「全文」は以下の通り。

[全文: 〇信広朝臣者、稟性大力強盛而為勇気麁豪之間、信賢朝臣与国信朝臣共、思且家思且国、不得止事、合心義絶而、欲令已曁生害之刻、家老之数輩就哀惜、遁其難、召具家子佐々木三郎兵衛尉源繁綱・郎等工藤九郎左衛門尉祐長・其外侍三人、而信広朝臣二十一歳之秋、宝徳三年三月二十八日、密出国於夜中、是併依繁綱与祐長之計略也、下東関足利、少時住、享徳元年三月、来奥州田名部、知行蠣崎、而後伊駒安東太政季朝臣同心、八月廿日、渡此国矣、爰在蠣崎修理大夫季繁云者、是生国若州屋形武田伊豆守信繁朝臣近親者也、然季繁有其過立去若州、乗商舶来当国、而為安日政季朝臣之聟、号蠣崎修理大夫、住上之国、所副置信広朝臣河南花沢居舘也、](国立歴史民俗博物館より)

〇書き下し文例(但し、信広⇒信廣、国信⇒國信、八月廿日⇒八月二十八日)

—『新羅之記録【現代語訳】』より—

 信廣朝臣は生まれつき大力強盛で物怖じせず、荒々しい気性であった。このため信賢朝臣と國信朝臣が、家を思い国を思ってやむを得ず心を合せて、縁を絶ち殺害しようとしたのである。しかし家老ほか数輩が、哀惜の情をもってこの難を救ったのである。家の郎党佐々木三郎 兵衛尉源繁綱ひょうえのじょうみなもとのしげつな、工藤九郎左衛門尉祐長、その外の侍三人を呼んで、信廣朝臣二十一歳の(ママ)に、宝徳ほうとく三(一四五一)年三月二十八日の夜中に密かに国を出た。これは、繁綱と祐長の計略によるものであった。

 まず関東の足利に下った。ここで少し留まり、そして享徳きょうとく元(一四五二)年三月に奥州田名部に来たのである。蠣崎の所領を治めるようになってからは、伊駒安東太政季いこまのあんどうたまさすえ朝臣と心を合せて、八月二十八日にこの国に渡って来たのである。

 ここに蠣崎修理大夫季繁かきざきしゅりのたいふすえしげという人があった。この人も生国は若州で、屋形武田伊豆守信繁朝臣の近親の者であったという。しかし季繁は、何か過ちがあって若州を立ち去り、商船に乗って当国に来たという。当国では安日政季朝臣あべのまさすえあそんむことなり、名を蠣崎修理大夫として上之国に住んだ。信廣朝臣をすけ(次官)にして置く所は、川の南側にある「花澤の居舘」であった。



Ⅳ)光広の誕生から捉える父「蠣崎信広」と「洲崎館」の虚実

 『新羅之記録【現代語訳】』では、武田信廣の子・蠣崎光廣は、[永正15(1518)年7月12日…63歳にて逝去]と書かれている。逆算すれば、光廣の生誕は「1456年」となる。[蠣崎光広/1456~1518(康正2~永正15)戦国時代の蝦夷島の武将。…松前氏の祖武田信広の長男。母は安東政季の娘で蠣崎季繁の養女](『コンサイス 日本人名事典』三省堂)とあり、一致するが、この「生まれ」は、「(和人の)鍛冶が…乙孫オツガイを突き殺してしまった」、「渡島おしま争乱」の始まりの年でもある。幾つかの事典によれば、光広の生まれは「康正2年3月」とされている。

 『新羅之記録【現代語訳】』では、あたかも「コシャマインの乱」の後日譚(鎮圧後の報賞)の如く書かれている、武田信廣の「結婚」や「家督」に触れた箇所を読んでみたい(本稿では原文の改行なども「/」で表すが、ここでは理解を深める為、実際に改行させた。原文は漢数字)。


㋐[…凶賊はことごとく敗北したのであった。

 その後式部大輔は、中野の路を経て山越えに上之国に向かった。まずは、若狭守修理大夫(※)に会い献酬の礼を取り、互いに盃を交換した。式部大輔家政は刀(割書にて、一文字)を信廣に授けて、勇功を賞された。また修理大夫は、喬刀たち(割書にて、來國俊らいくにとし)を信廣に授けた。この時信廣朝臣は、若州より差し来たる助包の大刀たちを式部大輔に進呈した。

 修理大夫には跡継ぎの子が無かった。そのため、政季朝臣の息女を修理大夫の養女として迎え、信廣朝臣と結婚させて天ノ川の北側に「洲崎の館」を構えて、後を継ぐべく家督となる。しかし実際には信廣朝臣は、安東太政季朝臣の聟にあたるのである。

 天ノ川の洲崎の館の北側に毘沙門堂を建立した。そもそもこの毘沙門天王が現れたという縁起は、寛正かんしょう3(1462)年夏に天ノ川館のはるか西側の海の沖に、夜な夜な光る物体があった。…]

 注(※)「若狭守修理大夫」について:『新羅之記録【現代語訳】』の注釈では、「蠣崎李繁と武田信廣が交錯しているが、ここは信廣と李繁の二人を同時にいっているものと思われる」とある。しかし、㋐の「原文(和様漢文)」は手元にないが、次の漢文(㋑)「会若狭守・修理大夫」を読む限り、交錯していない(二人を書き分けている)。


―こういう順序で書かれているので誤解され易い。現代語訳の「親切」な句点や改行が「誤解」の連鎖を生む。漢文と読み比べると、その違いがハッキリ分かる。信廣が「安東政季の聟にあたる」理由を説明しているが、「被賞勇功」との直接的な時系列関係にはない。つまり、一般に流布している「コシャマインとの戦いで武名を上げた信広は、花沢館主の蛎崎季繁の養女(茂別館主 下国家政の娘)と結婚し蛎崎姓を名乗りました」(松前町)のような「事実」は一切無い。


㋑[依之凶賊悉敗北、其後式部太輔経中野路来山越於上之国、会若狭守・修理大夫、有献酬之札、式部太輔家政者、授刀〈一文字〉於信広、被賞勇功、又修理大夫者、授喬刀〈来国俊〉於信広、此時信広朝臣者、従若州差来進〈助包〉之大刀於式部太輔也、修理大夫無継子、故得政季朝臣之息女為子、令嫁信広、居川北天河之洲崎之舘、仰家督、信広朝臣為実安東太政季朝臣之聟也、](『国立歴史民俗博物館』より)


 初めに戻ろう。信廣の子「光廣の生誕は1456年」であった。「コシャマインの戦」の「蜂起」は、「康正3年(1457)5月14日」である、と見做されている。蛎崎季繁の娘(養女)との結婚は、光廣の生まれから、1456年以前でなければならず、「この蜂起の鎮圧を契機に、武田信広が和人軍の軍事的指導者たる地位を確保し、蠣崎氏の養女(蝦夷島の管轄権を有する下国安藤政季の娘)と結婚し、蠣崎氏の家督を相続することで、蠣崎政権の基礎を築いた」(『日本歴史大事典』小学館)などとは決して言えまい(但し、『新羅之記録』その他類似に依拠する限りに於いて)。

 とすれば、洲崎館は、「文献史料の築城年代とされる長禄元年(1457)」(上ノ国町)という見解や、[洲崎館は、長禄元年のコシャマインの戦いで勝利した武田信広が上之国守護蛎崎季繁(かきざきすえしげ)の養女(安東政季の娘)を妻とし、同年築いた館であると本道最古の記録であると「新羅之記録」に記録されています](上ノ国町観光協会)、或いは、[松前藩の歴史書『新羅之記録』(しんらのきろく)には、長禄元年(1457)のコシャマインの戦いで功をあげた武田信広が蠣崎季繁の養女である安藤政季の娘を妻とし、同年築いた館と記述されています](『南北海道の文化財』上ノ国町教育委員会より)などの「築城年」や「因果関係」も、当然見直さねばならないだろう。



Ⅴ)武田信広は「コシャマインの戦」前から上之国「守護」だった

 「コシャマインの戦」の前に戻ろう。

 ⓵[蠣崎修理大夫李繁かきざきしゅりのたいふすえしげという人…も生国は若州で、…武田…信繁…の近親の者であったという。しかし李繁は、何か過ちがあって…当国に来たという。当国では安日政季朝臣あべのまさすえあそんむことなり、…上之国に住んだ。信廣朝臣をすけ(次官)にして置く所は、川の南側にある「花澤の居館」であった]が、⓶[政季朝臣まさすえあそんが秋田の小鹿嶋に出発した時に、][下之国しものくには…置かれた。松前は…相原周防守政胤あいはらすおうのかみまさたねを副として置かれた。]⓷[上之国かみのくに蠣崎武田若狭守信廣かきざきたけだわかさのかみのぶひろに預け、政季の婿 蠣崎修理大夫李繁かきざきしゅりのたいふすえしげを副において、夷賊エゾの襲来に備えたのである。]として、主従関係(⓵と「⓶+⓷」)が逆転している。

 この「逆転」について、『新羅之記録【現代語訳】』の注釈では、「錯誤か意識的か分からないが、物語全体の流れから…置かれたものと思われる」と見ている。その見方それ自体は否定しないけれど、その「流れ」とは・・・、

 ・・・つまり信廣は、「長禄元(1457)年5月14日」以前に結婚していて、1456年、長男・光廣を授かっており、既に「蠣崎(…武田…信廣)」姓を名乗っていたことになろう。その頃は(それ以前は「客将」「寄寓」などであろうが)、一般に言われている「花沢館の客将」「居候」ではなく、それどころか家督を継いだ「大将(守護)」であったと見るべきであろう。上掲の⓷と、それに続く「長禄元年五月十四日」から始まる一文を漢文で読もう。


[(松前者、預同名山城守定季、被副置相原周防守政胤、)上之国者、預蠣崎武田若狭守信広、副置政季之婿蠣崎修理大夫季繁、令護夷賊襲来処、長禄元年五月十四日、夷狄蜂起来、而攻撃志濃里(志苔)之舘主小林太郎左衛門尉良景、箱舘之河野加賀守政通、其後攻落中野佐藤三郎左衛門尉季則、脇本南条治部少(ママ)季継…](『国立歴史民俗博物館』より)


「コシャマインの戦」時にも、その二人の関係は既に明瞭だった。

ⓐ[上之国の花澤の館主蠣崎修理大夫李繁は、堅固に城を守り通した。この時上之国の守護信廣朝臣を惣大将として、エゾの酋長 胡奢魔犬コシャマイン父子二人を射殺し、侑多利ウタリ数多を斬り殺した。これによって凶賊はことごとく敗北したのであった。](『新羅之記録』【現代語訳】より)

ⓑ[上之国之花沢之舘主蠣崎修理大夫季繁、堅固守城居、其時上之国之守護信広朝臣為惣大将、射殺狄之酋長 胡奢魔犬コシヤマ父子二人、斬殺 侑多利ウタリ数多、依之凶賊悉敗北、](『国立歴史民俗博物館』より)


Ⅵ)『新羅之記録』冒頭(八幡大菩薩)の「錯誤」について

 『新羅之記録』は、[天照皇大神あまてらすおおみかみより六代の神武天皇の後に、三十代目の欽明天皇が治め給う御時の三十年に…お告げがあった。「我は、第十六世 誉田天皇ほむたのすめらみこと応神天皇おうじんてんのう)広畑八幡である。…」]から始まる。

 『新羅之記録【現代語訳】』の注釈では、「史料では欽明天皇は第二十九代、 誉田天皇(応神天皇)は第十五代である。原文の錯誤か」とある。かなり致命的な「錯誤」だが、アマテラス(天照)⇒アメノオシホミミ(天忍穂耳)⇒ニニギ(迩迩芸)⇒ホオリ(火遠理/山幸彦)⇒ウガヤフキアエズ(鵜草葺不合)⇒カムヤマトイワレヒコ(神倭伊波礼毘古/神武天皇)、「六代の神武天皇」は、「六代」で合致する。先の冒頭文に続いて「第五十六代の清和天皇の御時、貞観じょうがん元(八五九)年のことである」として「行教和尚」に言及されているが、これらも天皇の「代数」や年号として正しく、一般に「石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうの起源」とされる僧・行教ぎょうきょう勧請かんじょうもその年(8月)であり、史実と一致している。因みに、同書「道南十二館とコシャマインの乱」の箇所で、「長禄元(一四五七)年五月十四日」への注釈として、[「長禄元年」への改元は、九月二十八日である。従ってそれ以前の五月十四日は「康正三年」のこととなる。原文の錯誤か。]とあるが、既述の通り、明治以前の「改元」は、通例その年の元日まで遡って適用されていたので、(その種の注釈が多い本書の)これらは「錯誤」と言えない(しかしその時代を考察する上で、改元前の「年号」を知る必要があろう)。「史料」として不適格だが、「家系」としては妥当と思われる。

 武田信廣が源氏(清和源氏)の子孫であることを伝える必要があった『新羅之記録』では、後の箇所に出てくる「神武天皇正統15世の孫。応神天皇」や「56代…清和天皇」などは正しい。しかし、これら史実と合わない「錯誤」と思しき記述が多くあることは、これまで見てきた通り、事実である。



Ⅶ)「コシャマインの戦」の発端、及び以降の「蜂起」について

 「コシャマインのたたかい」の「発端」と言われる刺殺事件については既に「諸説」で触れたが(この有名なくだりは様々に要約されている)、「年月日」などの見方を、もう一度整理する必要がある。


[あまり遠くない程の昔、宇須岸うすけし(現函館市付近)が夷賊えぞに攻め破られたことがあった。志濃里しのり(現函館市志海苔町付近)の鍛冶屋村に百棟程の屋敷があった。康正こうしょう2(1456)年春に、乙孫オツガイという者が来て、鍛冶に劘刀まきりを打たせたところ、乙孫と鍛冶の間で出来の善し悪しを論じて、鍛冶が劘刀を取り上げて乙孫を突き殺してしまった。これによって夷狄えぞはことごとく蜂起して、康正2年夏より大永だいえい5(1525)年春(※)に至るまで、東西数十日程の中に住まいする所の村々里々を破り、者某しゃもを殺した。これは元はといえば、志濃里の鍛冶屋村に起った事なのである。その後生き残った人々は皆、松前と天の川(現上ノ国町)とに集住したという。](『新羅之記録【現代語訳】』)

 注(※)大永5年の「蝦夷蜂起」:「大永5年(1525)この春、蝦夷蜂起[松前家記]」(『日本史年表』東京堂出版)・・・と思われるが、何故か『新羅之記録』に具体的な記述が見当たらない(見落としか?)。


 ここで注目して頂きたいのは、その「季節(時期)」である。それぞれ「春」「夏」「春」とあり、まあそれが当たり前なのかも知れないが、具体的な月日は省かれている。そして、「康正2年夏より」が「夷狄えぞはことごとく蜂起」の始まりであろうこと、それが「コシャマインの戦(蜂起)」と考えられること。それらを強調したいので敢えて全文引用を避けたが、以下のような解説が一般的な見方であろう。


〇[康正2(1456)年から大永5(1525)年に至る約70年もの間、渡島東部を中心にしたアイヌによる移住和人への襲撃が繰り広げられた。その発端が康正2年、志海苔の鍛冶屋村を舞台にして起こった鍛冶職人と乙孩(オツカイ)(アイヌ語で少年・青年の意)との劘刀(マキリ)をめぐる「善悪・価」にあった。しかし志海苔に端を発したアイヌと移住和人との衝突は、その乙孩と鍛冶職人との対立をはるかに越え、民族戦争の色彩を帯びていった。それは史料が物語るように、長禄元(1457)年5月14日の胡奢魔犬(コシャマイン)の率いる「十二館」の攻撃に象徴される。首長コシャマインの指揮するアイヌの蜂起は、この「十二館」のうち、志苔館・箱館・中野館・脇本館・穏内館・覃部館・大館・袮保田館・原口館・比石館の10館を攻め落とし、辛うじて残ったのは茂別館と花沢館の2館のみであった](函館市/函館市地域史料アーカイブより,原文は漢数字)


 この解説も恐らく『新羅之記録』に基づくと思われるので、「長禄1年/康正3年(1457)5月14日」以降、「大永5年(1525)」前後までの、年月日が出てくる「アイヌの蜂起」を、以下、抜き出してみた(原文は漢数字)。


①[永正えいしょう9(1512)年4月16日に宇須岸(箱館)、志濃里、與倉前の3館が夷賊エゾに攻め落とされた。そのため…皆殺されてしまった。]


②[永正10(1513)年6月27日の早朝、夷狄エゾが攻め込んで来て、松前の大館を攻め落とし、守護相原彦三郎李胤と村上三河守政儀を殺害した。]


③[永正12(1515)年、エゾの賊徒が蜂起する。6月22日に光廣朝臣は計略を持って、居宅の客殿と台所の内側の戸を数間外し、縄でつなぎ止めておいた。そして夷賊エゾの酋長、庶野ショヤ訇峙コウジ(※¹)の兄弟と侑多利ウタリを招き入れて、一日中酒宴を催し彼らを酔興に至らしめた。…うかがっていた。/この間に…乱入した。/この時、…光廣朝臣は、…酋長二人を斬り殺してしまった。この喬刀たちは、…相続することとなった。]


④[(享禄きょうろく)2(1529)年3月26日、エゾが発向して上ノ国和喜の館(※²)を攻めようとしていた。その時良廣公は館に籠り、密かに謀り事を企んで和睦して、数多の報賞を引き与えた。酋長…は、館に上る坂の中程の平地にて報賞の品を受け取り、…矢で射られた。…酋長が射殺されたのを見て、数百の侑多利ウタリは…逃げ散っていった。これを見て良廣軍は、館の中より打ち出でて…追い込み、ことごとく討ち殺した。]


 何れの日付も蜂起した年月日ではなく、「殺された(殺した)」日であろう。蜂起年(?)はあるが、その日付が無い。ここで指摘したいのは、まさに蜂起した日が重要視されていないこと。特に問題にしたいのは④の解釈。「コシャマインの戦」と、その構成がとても似ている。④「3月26日」は、「酋長が射殺された」日なのか、「ことごとく討ち殺した」日なのか俄に判断できないが、少なくとも「攻めようとしていた」日ではなかろう。


 良く知られている史実と見比べてみよう。『新羅之記録』には、

[慶廣朝臣の代になると、天正18(1590)年の秋に関白豊臣秀吉公が小田原に進発し、北条家を追討して関東の仕置を定め、奥州・羽州の検地を行ってその仕置が仰せつけられた。よって両国中の領主は皆関白秀吉公のもとに出仕させられた。]

・・・という一文がある。

史実は(『日本史総合年表[第三版]』吉川弘文館による)、

天正18年(1590)

 3月1日 秀吉、京都を出陣

 4月3日 秀吉、小田原城を包囲

 7月5日 北条氏直、秀吉に降伏

 7月17日 秀吉、陸奥に向う

 8月9日 秀吉、会津黒川城に入り、豊臣秀次らに奥羽の検地を命じる

 9月1日 秀吉、帰京

・・・であり、比べてみればお分かりだろうが、旧暦の「秋」は7月~9月なので、「秋に…小田原に進発」ではない。「降伏」以降は全て「秋」だが、「仕置が仰せつけられた」ことが主題とみることは、あながち間違いでもあるまい。要は、松前家にどのような影響を与えたのか、どう対処したのか、が重要と思われる。冒頭に持ってくる年月日や季節は、それを指し示す。

―話を戻そう。

 「シャクシャインの戦い」のくだりでの「長禄元(1457)年5月14日」以降の説明は、「夷賊エゾの襲来に備えた」ことの顛末を述べている。蠣崎氏が如何に「堅固に城を守り通した」か、総大将・信廣が如何に「乱」を鎮めたか、それを物語る。肝要なのはその点であり、「夷賊エゾ」が何時蜂起したのかではない。そもそも、敵方の蜂起の一部始終を正確に把握できる筈もない。


 注(※¹):「訇峙コウジ」について:「コウ」の漢字がなかったので一般に流布されている漢字「こう」を当てた。原文は、つつみがまえ(勹」)の「合」。

 注(※²)「和喜の館」について:「勝山館」のこと。[光廣の時代に松前徳山館に本拠を移転して以降、主要な副城となり、脇の館が転じて「和喜の館」と称されるようになったという](『新羅之記録【現代語訳】』注釈より)。「洲崎館」と同一視する者もいるが、『新羅之記録』では築城年不詳。しかし、[勝山館/洲崎館主武田信広によって築かれたとされる。築城時期については詳らかでないが、長禄元年(1457)のコシャマインの戦いには登場せず、また勝山館敷地内に鎮座する館神八幡神社の創建が文明5年(1473)とされることから、この間のことと推定されている]などと一般的に言われている。しかし、「洲崎館」もそうであったが、「コシャマインの戦いには登場せず」が、その間の非存在理由にはならない。



Ⅷ)『新羅之記録』以外の史料を読む

 以下史料(❶❸❹❺)は、《コシャマインの戦いに関する『新羅之記録』の史料的検討(新藤 透)》より引用・転載した(原文縦書き)。❶は、新藤氏が付加された数字①-③を省く。「/\」は縦書き(/,\)の「繰り返し符号」。❸の「所々之重鎮□」の「□」は、[「長禄元丁丑」の記事は途中で切れている](新藤氏)ことを示す。❹の原文には「レ点」等の「返り点」が付くが、都合により省略した(力量不足)。尚、改行は全て「/」で表す。(❸❹❺の「戌寅」は恐らくPDF変換ミスで、「戊寅ぼいん」が正しい)


❶【松前系図】(1643年)

〈寛永20年(1643)に完成した『寛永諸家系図伝』…所収の松前氏の系図〉(新藤氏)

[又武田の氏族といふ事ハ、むかし夷の千嶋に住するものを和多利党と号す、此時松前より東廿日路、西廿日路、人宅民家ありといへども、夷蜂起して志法の城主太郎左衛門・箱館の城主加賀守・松前の城主相原周防守其外所々の城郭をせめとるといへども、下国の城主茂別治部太輔・上国の城主蠣崎修理大夫、此二人なを城堅固にまもつて是に居す。その折節、若州武田大膳大夫国信の嫡男太郎信広、父と不和の事ありて若州を立去て、商人の舟にのり松前にきたつて居す。此時夷又蜂起して下国・上国の両城をせめとらんとす。時に信広其ゑらびにあたつて武者奉行と成て、夷の渠魁二人を討とり、賊徒数輩をきりころす。是によりて凶徒こと/\く敗走す。そのゝち治部太輔下国より上国にきたつて会合し、酒宴のとき、修理大夫ハ来国俊の刀を信広にあたへ、治部太輔ハ菊一文字の刀を信広さづけて、その勇功を賞す。]


❷【新羅之記録】(1646年)

 書き下し文の殆どは『新羅之記録【現代語訳】』(無明舎出版)より引用した。が、同書には原文(和様漢文)がない。[『新北海道史 第七巻 史料一』にある『新羅之記録 上巻、下巻』の漢文による本文と訓読文(以下「原文」という)を現代文に書き直したものである。]という。浅学な私には「原文」の意味が理解出来ないが、問題(曲者くせもの)なのは「訓読文」。そして人によって違う漢文の区切り方。


❸【蝦夷之国松前年々記】(1661年~1673年?)

〈原本:松前藩士横山守房写の写本〉(国立国会図書館サーチより)

[長禄元丁丑/(中略)/五月十四日夷蜂起ス、攻撃志濃利之館主小林太郎左衛門良景、箱舘之河野加賀守政通其通後攻滅ス、中野三郎、佐藤三郎左衛門季則、脇本之南條治部少輔季継、穏内之館主蒋土甲斐守季直、覃部之今井刑部少輔季友、松前ノ守護下国山城守定季、相原周防守政胤、祢保田之近藤四郎右衛門季常、原口之岡部六郎左衛門季澄、比石之畠山ノ末孫厚谷右近将監重政、所々之重鎮□/同二年戌寅/去年反逆ノ長、胡奢魔犾父子二人其外斬殺ス、侑多連数多ヲ因茲山賊悉ク敗北ス]


❹【福山秘府 年歴部】(1780年)

〈1776年(安永5)松前藩主道広(みちひろ)の命を受けて家老松前広長(ひろなが)が編集に従事し、80年12月に脱稿した〉(『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館より)

[長禄丁丑/○松前年代記曰、夏五月十四日、蝦夷大乱、與志乃利小林太郎左衛門良景・箱館河野加賀政通等戦、而後蝦賊亦攻破中野佐藤三郎左衛門季則・南條治部季継・穏内薦槌甲斐季直・覃部今泉刑部季友・松前下国山城定季・相原周防政胤・祢保田近藤四郎右衛門季常・原口岡邊六左衛門季澄・比石厚谷右近重政等之諸館主(割注略)。雖然下国守護茂別(割注略)八郎式部(割注略)家政・上国館主蠣崎修理太夫季繁、猶堅守館居焉。于時 始祖武田信広膺其択為先鋒、遂討夷賊酋長父子弐人及賊徒数輩平治焉。於是諸館主各頻賞 始祖之戦功、令始祖推以為季繁之嗣子。季繁家政各解佩刀以貽始祖。季繁所貽太刀来国俊、家政所貽刀菊一文字。始祖亦與刀于家政。銘助包。于時会親族而略行建国之大礼云。是時 始祖築塁于上国河北天河洲崎居焉、(中略)/二戌寅/松前年代記曰、是歳誅夷酋長父子。/ 按、是誅伐賊残党也。]


❺【松前家記】(1878年)

〈旧松前藩士新田千里が、1878年(明治11年)9月に脱稿した〉(ウィキペディア『松前家記』より)

[長禄元年丁丑信広花沢城ニ在リ/五月十五日東部ノ酋長胡奢麻尹父子大挙入寇、勢益猖獗ス、此時渡島南界ノ諸豪族志濃里ノ城主小林良景太郎左衛門尉ト称ス、宇須岸ノ城主河野政通加賀守ト称ス、中野ノ城主佐藤季則三郎左衛門尉ト称ス、脇本ノ城主南條季継治部少輔ト称ス、穏内ノ城主菰土季直甲斐守ト称ス、覃部ノ城主今泉季友刑部少輔ト称ス、大館ノ城主下国季直〈定季力〉山城守ト称ス、相原政胤、祢保田ノ城主近藤季常四郎左衛門ト称ス、原口ノ城主岡部季澄六郎左衛門ト称ス、厚谷重政等防戦力竭キ咸城ヲ棄テ亡ク、茂別家政式部太輔ト称ス下国ノ城ヲ守リ、信広花沢ノ城ヲ守リ勢尚未タ屈セス、是ニ於テ諸豪会議信広ヲ推シテ主帥トス、信広乃チ残兵ヲ糾シテ東発ス、六月廿七日大ニ七重浜ニ戦フ、衆寡敵セス、我軍幾ント敗レントス、信広佯走朽木中ニ匿ル、胡奢麻尹父子追躡ス、信広居箭一発父子ヲ洞シ、直チニ木中ヨリ跳出、大刀ヲ揮ツテ稗酋数人ヲ斬ル、我兵奮撃大ニ之ニ克ツ、余衆潰散、諸部震慴ス、茂別家政花沢ニ来リ、季繁ト会シ各宝刀ヲ信広ニ贈ツテ其以テ戦捷ヲ賀ス季繁又伊駒政季ノ女ヲ養フテ信広ニ配ス、七月朔諸豪勧進、信広始メテ国ヲ建ツ、是ヨリ諸豪皆信広ニ臣事ス、八月新城ヲ天王河北ニ築キ勝山館ト名ケ信広徒ル/二年戌寅正月二日満月出ス、四月佐々木繁綱、工藤祐長ヲ東部ニ遣ハシテ胡奢麻尹ノ余党ヲ勦ス]


《私的留意点》

❶「むかし」とあるが「蜂起」の年(月日)が無い。「松前」を起点(基軸)に説明されている。「蜂起して志法の…箱館の…松前の」3「城」(「館」では無い)を明記するが、「其外所々の城郭」は不明。「此時夷又蜂起」の「此時」は、「下国の…上国の…城堅固にまもって」いる時であろうが、「信広…松前に居す」時と受け取れる(俗に言われる「花沢館」では無い)。信広は「国信の嫡男」とされ、「若州を立去」ったとある。「又蜂起」は、「蜂起2回」を指すのか、「又攻撃」(一連の反乱)を指すのか不明瞭。「渠魁きょかい二人を討とり」とあるので、「(コシャマイン)父子」では無く、「首長2人」。「射殺」の事実は無い(討とり)。信広の「勇功を賞す」のみで、舞台は「上国」だが、「家督を継ぐ」類いの後日譚が無い。

 尚、「(信広が)商人の舟にのり」辺りが、「信広は商人だった」デマを生む原因か?(『新羅之記録』には、蠣崎李繁が「商船に乗って当国に来た」記述はあるが、信広についてはそのような記載は無い)。


❷『新羅之記録』では、「蜂起」は、①「夷狄えぞはことごとく蜂起して、康正2年夏」を1回、②翌「長禄元(1457)年5月14日に夷狄エゾが蜂起し」を2回目(別蜂起)と捉えることは可能。しかし②が、③「志濃里…箱館…蠣崎修理大夫季繁、堅固守城居」へ続き、④「射殺狄之酋長胡奢魔犬父子二人」を齎すので、❶の蜂起2回(仮定ⓐ)は、③→④に限られる(ⓐの否定=②蜂起1回/仮定ⓑ)。他方、①~④を同一の反乱と見做すことも可能である( ①蜂起-小康-②蜂起/仮定ⓒ)。更に言えば、①と③以降が全く同じ「反乱(2年に亘る反乱)」で蜂起は①の1回のみとする新解釈(①=②の文言「蜂起」,②の年月日は「蜂起」を意味しない/仮定ⓓ)。つまり、「康正2年夏」「夷狄えぞはことごとく蜂起」、翌「長禄元(1457)年5月14日…射殺狄之酋長胡奢魔犬父子二人」である。その原因を「康正2年春」のアイヌ刺殺事件に求める見方である。❶(ⓐ)の蜂起は、1回目が所謂「蜂起」、2回目の「蜂起」は戦術上の転換(攻撃)と見做す。


⓵「康正こうしょう2(1456)年春に…乙孫オツガイを突き殺してしまった」⓶「これによって」「康正2年夏より」「夷狄えぞはことごとく蜂起」

(⓷「昔…宇須岸うすけし夷賊えぞに攻め破られたことがあった」)

⓷「志濃里…箱館…蠣崎修理大夫季繁、堅固守城居」

⓸「信広…射殺狄之酋長胡奢魔犬父子二人」

⓹「生き残った人々は皆、松前と天の川とに集住したという」


❸「五月十四日夷蜂起ス」とあり、「長禄1年5月14日」を蜂起日と断定している。反乱は翌年まで続いた、とする。翌年「(父子)斬殺」であり、同年「(父子)射殺」(『新羅之記録』)は否定される。「(胡奢魔)犾」であり、「(胡奢魔)犬」(『新羅之記録』)ではない。


❹「夏五月十四日、蝦夷大乱」は「松前年代記」に拠るとし、「蜂起(日)」とは言っていない(尚、「大乱」は通常「長期」を意味する)。5月は確かに「夏」であるが、『新羅之記録』では付加されず、「夏」は、前年の「康正こうしょう2(1456)年春…鍛冶が…乙孫を突き殺してしまった。これによって夷狄えぞはことごとく蜂起して、康正2年夏より大永だいえい5(1525)年春に至るまで…者某しゃもを殺した」に出てくる。武田信広については、「上国館主蠣崎…始祖武田信広」とし、以降全て「始祖」と表記していた(「武田」や「信広」が消えている。『新羅之記録』では「上之国之花沢之舘主蠣崎…上之国之守護信広」とあり、以降全て「信広」表記のみ)。長禄丁丑「酋長父子」が討たれ、一応平定されたとするが、翌年「酋長父子」や「残党」が誅されたと「松前年代記」にあると書き、2説を併記している。洲崎は長禄 丁丑ていちゅう(この場合は「元年」のこと)築城(塁)・居住とある(『新羅之記録』では築城年不詳)。その他、「先鋒」(『新羅之記録』は「惣大将」)、「建国之大礼」(『新羅之記録』は該当無し)。


❺「長禄元年丁丑信広花沢城ニ在リ」は、信広があたかも「客将」如き書き方。「入寇」は「蜂起」ではないが、「五月十五日」(❷❸❹は「五月十四日」)は、蜂起後に攻め込まれた日と解すべきか? 以下④などには「作為」を感じる。

 ①「城ヲ棄テ亡ク」(❶「城郭をせめとる」→❷「攻落」→❸「攻滅」→❹「攻破」→❺「城ヲ棄テ亡ク」)

 ②「東部ノ酋長胡奢麻尹父子」(❶人名不詳/渠魁二人→❷酋長胡奢魔犬父子→❸反逆ノ長胡奢魔犾父子→❹酋長父子→❺東部ノ酋長胡奢麻尹父子)

 ③「信広…主帥」(❶信広…武者奉行→❷守護信広…惣大将→❸不明→❹始祖武田信広…先鋒→❺信広花沢ノ城ヲ守リ…主帥)

 ④「新事実」連発(「講談」「巷談」として面白い)/フリガナ、解釈は小生

  〇「残兵ヲきゅうシ東発ス」(残兵を集めて東へ発つ)

  〇「六月廿七日大ニ七重浜ニ戦フ」(「6月20日」説は文字の欠落?(※))

  〇「我軍幾ント敗レントス、信広佯走朽木中ニ匿ル」(ようは欺く)

  〇「せん一発父子ヲとおシ」(一矢で父子を串刺し、は神業?)

  〇「七月朔諸豪勧進、信広始メテ国ヲ建ツ」(さく/一日)

  〇「諸豪皆信広ニ臣事ス」(臣事しんじス/主君と崇めて仕える)

  〇「八月新城ヲ天王河北ニ築キ勝山館ト名ケ信広徒ル」(勝山館=洲崎館?)

   (天王河=天ノ川。❹では「洲崎」。尚、「徒ル」のヨミや意味が不明⇒「したがえル」のPDF誤変換か?)

  〇「(長禄)二年…四月佐々木繁綱、工藤祐長ヲ東部ニ遣ハシテ胡奢麻尹ノ余党ヲそうス」(そうス/滅ぼす。勦滅⇒掃滅そうめつ

 注(※)「6月20日」説などについて:『松前家記』(❺=ⓐ)とする次の「ネット記事」(ⓑ)を引用して比較する(ⓐのヨミや注解釈は小生に拠る)。

ⓑ[六月廿日大イニ七重浜ニ戦フ、衆寡敵セズ、我軍ココニ敗レントス。信広偽リ走ッテ朽木ノ中ニカクル、コシャマイン父子追従躡(ついじょう)ス。信広巨箭(きょせん)一発父子ヲオドシ、直チニ木中ヨリ跳リ出シ、大刀ヲ揮ッテ稗酋数人ヲ斬ル、我共ニ奮戦シ、大ニコレニ克ツ。余衆潰散、諸部震懼(しんく)ス]

・・・【⓵】ⓑ六月廿日(ⓐ六月廿七日)、ⓑ大イニ(ⓐおおいニ)、ⓑ敵セズ(ⓐ敵セス/「せず」と読むが)、【⓶】ⓑココニ(ⓐ幾ント/意味・ヨミは「ほとんど」に同じ)、ⓑ偽リ(ⓐよう/意味は「偽り」だが)、ⓑ走ッテ(ⓐ走/意味は「走って」だが)、ⓑ朽木ノ中ニ(ⓐ朽木中ニ/「ノ」は入らない)、ⓑカクル(ⓐかくル/漢字である)、【⓷】ⓑコシャマイン(ⓐ胡奢麻尹/史料により「漢字」も相違する)、ⓑ追従躡(ついじょう)ス(ⓐ追躡ついじょうス/「従」は余計なお世話)、【⓸】ⓑ巨箭(きょせん)(ⓐ居箭/「きょ」「せん」…ⓐが正しければ、隠れて座ったまま弓を引いたことになる)、【⓹】ⓑオドシ(ⓐとおシ/とおし=つらぬくの意,ⓑは「おどし」か?)、ⓑ跳リ出シ(ⓐ跳出)、ⓑ揮ッテ(ⓐ揮ツテ/促音ではない)、【⓺】ⓑ我共ニ奮戦シ(ⓐ我兵奮撃/「共に」と「兵」は全く違う)、ⓑコレニ(ⓐ之ニ)・・・ご覧の如く、殆どが微妙に違うが、何よりも「日付」の違い(⓵)が大問題。その他、⓶〜⓺も意味が異なるので問題であろう。無論、原文を入手していないので、ⓐⓑ何れが正しいか判断を保留するが、⓸は、他でも散見する「強弓」の類いなので、これも大問題に違いない。

 尚、「乱が鎮定されたのは、長禄2年6月だった」(ウィキペディア『武田信広』)は確認出来なかったが(❺では「長禄2年4月」)、「(長禄元年)六月…七重浜ニ戦フ」辺りをはき違えた可能性はある(未検証)。



Ⅸ)「康正3年(1457)5月14日」は「蜂起」ではなかった!?


《以下、本稿の結論/推定》([ ]内は『新羅之記録』準拠の一般説)

〇武田信繁(信賢の父/安芸分郡守護)1390年生?-1465年没?

〇信廣の実父(武田信賢/1440年-若狭国守護)1420年生?-1471年没

〇信廣は実父15歳([12歳 ])の子→叔父・國信(1438年生-1491年没)の養子(⇒出奔)

〇信廣の義父・蠣崎季繁(養女/安東政季の娘と婚姻)1400年生?~1462年没

〇信廣の義父・安東政季(娘→蠣崎季繁の妻,娘→季繁の養女)?- 1488年没


⓵宝徳3年(1451)3月28日、武田信廣、若狭国出奔(18歳)[21歳]

     この年、関東の足利に下る(逗留)

⓶宝徳4年(1452)3月、奥州田名部(19歳)[22歳]

     この年、蠣崎の領主(蠣崎武田信廣)

⓷享徳3年(1454)8月28日(秋)武田信廣、渡島ととう(21歳)[24歳]

      (松前に居住?)

      この年、武田信廣、在花沢館(蠣崎季繁の客将かくしょう

⓸享徳4年/康正1年?(1455)武田信廣 結婚、洲崎館築く(在洲崎館)

    (享徳4年7月25日「康正」改元,この年「閏4月」あり)

⓹康正2年(1456)3月? 蠣崎信廣(通称武田)長男・光廣を授かる(蠣崎氏を継ぐ)/上之国 主管(守護)蠣崎武田信廣(洲崎館主),副・蠣崎李繁(花沢館主)

      春、アイヌ刺殺事件(志海苔の鍛冶屋村)

      夏、アイヌ蜂起(『コシャマインのたたかい(蜂起)』)

⓺康正3年(1457)5月14日、総大将・信廣、コシャマインら首領二人を殺す

 [長禄元年五月十四日、夷狄蜂起来、…射殺狄之酋長胡奢魔犬父子二人]

      この年(長禄1年)、『コシャマインのたたかい』平定

〇〈勝山館(築城年不詳)/文明5年(1473)館地内・館神八幡神社の創建〉

◎武田信廣 永享6年(1434)~明応3年(1494)5月20日(享年61)

[治世39年(康正2年~),永享3年(1431)~明応3年5月20日没(享年64)]

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