第21話 横浜開港は安政6年6月2日(1859年7月1日)?(メモ)

《横浜開港の経過から考えさせられる「開国」事情と年表のあり方》

Ⅰ)横浜開港記念日は6月2日(?)

〇「安政5ヵ国条約の規定により、のちにYOKOHAMAとして知られるようになる神奈川は1859年7月1日(安政6年6月2日)に開港します」(神奈川県立歴史博物館)

・・・ここでは、開港したのが「神奈川(港)」であるように読める(※)。

現在の「横浜開港記念日」は(新暦の)6月2日(かつては西暦の「7月1日」を用いていたらしい)(※)。イベントとしての「横浜開港祭」は、今年(2024年)は6月1日(土)、2日(日)の二日間行われた。

何故「神奈川」かはともかく(後述)、横浜開港は「安政6年6月2日」と言われている。

 注(※)「開港記念日」について:「安政6年6月2日、幕府、神奈川(のち横浜)・長崎・箱館で米・英・仏・露・蘭と自由貿易を開始(開港記念日、西暦7月1日)。慶応3年兵庫開港、明治元年新潟開港」(『江戸時代年表』小学館)/「横浜港は安政6年6月2日(1859年7月1日)に開港した。…開港記念日…当初は旧暦の6月2日だったが、1909年(明治42年)7月1日に開港50周年記念事業が行われ、1918年(大正7年)に横浜市会が開港記念日の7月1日を休暇日とした。しかし、1928年(昭和3年)に横浜市会が開港記念日を7月1日から(新暦の)6月2日に変更した。開港記念日の6月2日は横浜市立の小中学校・高校のほとんどが休校日となる」(ウィキペディア『横浜開港祭』より)


Ⅱ)安政6年5月28日(1859年6月28日)「開港」について

しかし、

〇「安政6年(1859)5月28日、幕府、神奈川・長崎・箱館を開港し、米・英・蘭・仏・露の諸国との貿易を許す」(『日本史年表』東京堂出版)

〇「1859年6月28日、条約締結5か国に長崎・箱館・横浜にて自由貿易を許可」(『世界史年表』岩波書店)

〇「安政6年(1859)5.28(6.28)幕府、6月以降に神奈川・長崎・箱館3港で露・仏・英・蘭・米との自由貿易を許可することを布告(続実紀)」(『日本史総合年表[第三版]』吉川弘文館)

・・・安政6年5月は「小の月(29日間)」であり、西暦の6月は30日で終わるので、この「布告」から丁度3日後に「開港」したことになる。また、「1859年6月、神奈川・長崎・箱館の3港で貿易を開始」(『日本史総合図録』山川出版社)は、あたかも「西暦」の如く書かれているが、実際は旧暦の「6月」だった。「安政6年6月2日」或いは「1859年6月28日」を知るが故に、私を悩ませていた。旧暦は5月なのか、6月なのか。西暦は6月なのか、7月なのか? そして、「神奈川」と「横浜」が両立(?)する不思議。


Ⅲ)「安政5ヵ国条約」で約した5つの開港について

函館港も、1859年「7月1日(6月2日)…開港して貿易が始まる」を信じれば横浜と同時開港であるが、長崎港については、「安政6年6月5日(1859年7月4日)に長崎は再び開港し、自由貿易が始まった」(以上、ウィキペディア『函館港』,『長崎貿易』より)らしく、何故か3日も遅れている。3港とも「開港記念日、西暦7月1日」(『江戸時代年表』小学館)とする見解とはズレがある。

横浜の開港に伴い下田港が閉鎖された(安政6年12月8日/1859年12月31日)。しかし、兵庫開港は、慶応3年12月7日(1868年1月1日)であり、大政奉還後の「王政復古の大号令」の前々日であった。新潟開港は明治元年11月19日(1869年1月1日)、明治新政府が成立した後のこと。太陽暦の採用前だが、下田港閉鎖が西暦の大晦日、兵庫や新潟の開港は西暦の「元日」・・・これらは果たして偶然なのだろうか? と素朴な疑問が生じた。と言うより、「自由貿易」の円滑な運営を望む布石(欧米に配慮した太陽暦の暗黙の運用を始めた)と考えるのはあながち間違いでもあるまい。


横浜市(横浜港の歴史年表)によれば、

 安政元年 1854 日米和親条約(神奈川条約)締結

 安政5年 1858 日米修好通商条約により神奈川開港決定

 安政6年 1859 横浜開港、東・西波止場建設

という変遷を辿る。


この「東・西波止場建設」が果たして「完成」なのか「途上」かは定かでないが、

〇「横浜開港/通商条約の締結により、日本は箱館・長崎・神奈川・新潟・兵庫の開港を決定した。東海道の宿場町神奈川は、立地上の都合で横浜に変更され、安政6年春から開港場の建設が始まり、6月には外国人居留地と日本人町が完成、11月には遊郭もつくられた」(『江戸時代年表』小学館)

〇「ハリス怒る/「条約で神奈川と決定したのだから神奈川を開け」。神奈川ごまかし横浜/実際には横浜村の入江を埋めて神奈川の一部だとこじつけたので、当時のかわら版なども「神奈川在横浜」と表記した」(『読める年表日本史』自由国民社)

・・・つまり、東海道と直結する幕府直轄地「神奈川宿(神奈川湊)」はマズいという重鎮の意見を採り入れ、約束違反の「横浜(村)」に新設したのだから、「港」としてすぐに整備出来る筈もない。歴史的に重要なのは決定・布告したことであろうから、「安政6年5月28日(1859年6月28日)を記録する意義は大いにある。しかしそれに言及したモノは少ない(「布告」を以て「開港」とするのは誤りか? 今の所「開港」の典拠が見当たらないので「メモ」に留める)。


東海道(五十三次)三番目の「宿」が神奈川宿である。日本橋から品川宿、川崎宿を経て神奈川宿へ至る約28㎞の処にある。幕末には、英米仏などの領事館が神奈川宿周辺の各寺を間借りする形で置かれていたが、以下の「神奈川を視察」云々を読む限り、当時の「横浜港」が「港」として成立していたとはとても認めがたい(「7月1日(6月2日)」に開港したなら、オールコックは真っ先に「横浜」を視察すべきであろう)。


〇「1858年…日英修好通商条約が締結され、翌1859年7月1日(安政6年6月2日)をもって長崎、神奈川、箱館の3港が開港することが約束された。…1859年3月1日付けで初代駐日総領事に任命された(※)…オールコックは、7月1日(6月2日)に開港予定地である神奈川の視察に赴き、7月6日(6月7日)、東禅寺に暫定のイギリス総領事館を開き…7月11日(6月12日)に一行は江戸城に登城、批准書の交換が行われた。なお、神奈川を視察した際に、対岸の横浜に居留地が建ち、そこが実際の開港地であることを知らされる。オールコックは実利的な面からは横浜が有利と認めながらも、条約遵守を要求し、結局領事館を神奈川の浄瀧寺に設置することで妥協した」(ウィキペディア『ラザフォード・オールコック』より)

 注(※)/拙稿「富士山…」でも取り上げたが、駐日総領事に任命されたのはその前年、「1858年12月21日」(安政5年11月17日)との異説もある。その2説は、彼の江戸着任(高輪東禅寺)「月」は1859年6月(安政6年5月)で一致しているが、上掲に拠れば、その後10日前後の「7月6日」(安政6年6月7日)」に「東禅寺」が暫定イギリス総領事館になり、神奈川宿の「浄瀧寺」は、その後に正式な領事館になったということになる。


Ⅳ)以上を踏まえ、とても気になり考え込む「横浜村開港」年など(未検証)

「1859年、神奈川・長崎・箱館3港を開き貿易開始」(『日本史年表・地図』吉川弘文館)

「1860年、横浜村開港」(『日本史年表・地図』吉川弘文館)


そうして、やはり気になるのは、

「神奈川(湊)」「横浜(港)」の相違以上に殆ど考慮されない「兵庫港」と「神戸港」の歴史的相違。或いは、新潟開港は明治元年11月19日ではあるが、西暦を用いれば1869年1月1日なのに「明治元年」と書くだけの表記法。

〇「開港場のうち神奈川は交通量の多い宿場であったので近接した横浜にかえられ、横浜開港とともに下田は閉鎖され、兵庫も1867(慶応3)年ようやく開港の勅許を得たが、実際には現在の神戸になり(※)、新潟も貿易港として改修する必要があるとして遅れ、開港は1868(明治元)年となった」(『詳説日本史研究』山川出版社)

 注(※)「兵庫港」「神戸港」について:「神戸港は…大輪田泊(おおわだのとまり)や兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれた兵庫港に始まるが、兵庫港が神戸港の港域に含まれるようになったのは1892年(明治25年)10月1日である。最期まで神戸を兵庫だと言い張った江戸幕府の最末期に神戸港が兵庫の名のもとに開港したため混同されがちであるが、神戸港開港後の24年9ヶ月間も兵庫港は依然として不開港であり、神戸港に飲み込まれる形で一体化された」(ウィキペディア『神戸港』より)

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