第20話 「万歳(ばんざい)」はいつ頃日本に根付いたのか?(メモ)

万歳ばんざい」はいつ頃日本に根付いたのか?(メモ)

《前置き》

韓ドラ(歴史物)の『テ・ジョヨン(大祚栄)』や『チュモン(朱蒙)』を見終わって印象に残ったのは、随所に出てくる「万歳」と両手を挙げて叫ぶ場面である。戦争に勝った武将・兵卒たちの勝ち鬨や凱旋を迎える村人たちの雄叫びなど。

朱蒙は紀元前37年に「コグリョ」(高句麗)を建国したと言われる英雄であり、668年にその高句麗が唐・シルラ(新羅)連合軍に滅ぼされた後、大祚栄は698年に高句麗の難民などを率いて「パレ」(渤海)を建国したという。


私は日本でも選挙時などで叫ばれる「万歳」に良い印象を持たない。かつての占領・戦争時代の、「バンザイ突撃」や「天皇陛下万歳」といったイメージが常につきまとうからだ。2・26事件の「首謀者」と目された北一輝は1937年処刑されたが、その時、唯一「天皇陛下バンザイ」と叫ばなかったらしい。

それはともかく、「万歳」は、日本ではいつ頃から根付いたのか? 「朝鮮」では、紀元前からあったのだろうか? その「接点(継承性)」とは? という疑問が湧いた。


Ⅰ)《万歳の意味》

「万歳(ばんざい)/①万年の意。②寿命または運命を祝っていうことば。私人・諸侯・天子にいう。【漢書・武帝紀】『史卒咸聞呼万歳者三』。③貴人の死を忌んでいうことば。【史記・高祖紀】。〈国語特有の意義〉天子・国家、また団体・個人を祝福する意でとなえる語」(『漢和中辞典』角川書店)

—この場合は、②と〈国語特有の意義〉に当たる。『漢書』は、前漢(紀元前202~後8年)の歴史を記したものだが、作られたのは後漢時代の81~82年頃で、編者の死(92年)後も妹によって補完された。

だから、古朝鮮(紀元前2333年建国とされる)の滅亡(紀元前108年)後の高句麗に「万歳」が登場してもおかしくはない(ドラマの時代考証がどの程度のものかは知らないが)。

新たな発見は、「貴人の死を忌んでいう」とあり、「祝福」とはかなり違う意味がある。記憶によれば、中国や韓国の歴史ドラマでは、皇帝や王族が亡くなった時、屋根の上で故人の衣服を振って叫ぶ場面に登場する。


Ⅱ)《漢字「歳」の成り立ちと意味》

(1)「歳(サイ・セイ・とし)/・・・が古い字形で、歩と音符戌〈じゅつ〉とから成り、戌の転音が音を表し、周〈しゅう〉(ひとめぐり)の意をもつ。四時(春・夏・秋・冬)のひとめぐり(一終)を一歳という。一説に、木星の軌道を十二次にわけ、一次を行く間を一歳という。・・・①とし(年)。②みのり(豊作)。③としどし。毎年。④一年間。⑤よわい〈よはひ〉(齢)。年齢。人の一生。生涯。⑥つきひ。年限。⑦木星」(『漢和中辞典』角川書店)

—「歳」という字は、「じゅつと歩」からなるという。

ところが、

(2)「歳(サイ・セイ・とし)/①とし。よわい〈ヨハヒ〉。一年。また、としつき。年齢。②そのとしの作物のみのり。作柄。また、豊作。③その時の運勢。としまわり。④としごとに。毎年。一年について。⑤木星のこと。→木星は、ほぼ十二年で太陽を一周するので、これを『歳星』といい、略して『歳』という。昔は歳星の位置を天文測量のたいせつな目じるしとした。⑥としや年齢を数えるときのことば。・・・『戉〈エツ〉(刃物)+歩(としのあゆみ)』で手鎌の刃で作物の穂を刈りとるまでの時間の流れを示す。太古には種まきから収穫までの期間をあらわし、のち一年の意となった」(『漢字源』学習研究社)

・・・では、「エツと歩」とされる。字形や意味も似たような漢字だが、「じゅつ」ではない。


エツ(刃物)」説を採用している同上『漢字源』(学習研究社)で、「じゅつ」と「エツ」の違いを調べてみる。

〇「戌(ジュツ・いぬ)/もと刃物で作物を刈ってひとまとめに締めくくり、収穫すること。のち率〈ソツ〉(まとめる)と同系。十二支の名となったため、原義は忘れられた」

〇「戉(エツ・まさかり)/まるくえぐった形をしたまさかり。・・・のち鉞と書く」

・・・何れも「刃物」や農作業に関連しているが、読み比べる限り、直接の刃物である「えつ(鉞)=まさかり」より、「もと刃物」で「まとめる」意になる「じゅつ」の方が正しいように思える。

・・・しかし、

(3)「歳(サイ・セイ・とし)/古い字形・・・では戉〈エツ〉(鉞〈まさかり〉)の形。のち戉の刃部に止(足あとの形)を上下にかき、今の字形では上部の止と下部の少の形がそれである。したがって今の字形は、戉と歩(歩。止と少とを組み合わせた形)とを組み合わせた形。歳はもと戉(鉞)で肉を切って祭る祭祀(祭り)の名で、おそらくその祭祀が年一回行われたので、その祭祀をもって年を数えたのであろう。それで歳は「とし、一年」の意味に用いる。年を数えるのに、夏〈か〉代には歳、殷〈いん〉代には祀、周代には年を使った」(『常用字解』白川静/平凡社)

・・・では、「戉=まさかり」説を採用している。


果たして正しい解説は「えつ」なのか、「じゅつ」なのか?

それは判らないが、とりあえず2説あることにしよう。


Ⅲ)《「ばんざいらく(万歳楽)」或いは「まんざい(万歳,漫才)」について》

「万歳楽(ばんざいらく)/唐の則天武后が作ったといわれる舞楽の名。(まんざいらく)/むかし、正月5日に、宮中で行なわれた舞楽」(『新字源』角川書店)

「ばんざいらく」では、「唐の則天武后」が関係する。中国史上唯一の女帝であり、690~705年(同年没)に帝位に就いている(国号「周」)。「まんざいらく」は、明らかに唐代以降に日本へ伝わったものであろう。


〇「万歳(まんざい)・・・古く鎌倉・室町時代には、陰陽師〈オンミョウジ〉支配下の散所〈サンジョ〉、声聞師〈ショウモジ〉などの賤民の行う千秋〈センズ〉万歳があったが、近世になって三河万歳、大和万歳そのほか、各地に集団が生まれた。明治以後は次第に衰えたが、今日も三河、知多の万歳は正月に諸方にでかけ、また河内・尾張など各地の万歳も残っている」(百科事典『マイペディア』日立ソリューションズ・ビジネス)

⇒この「まんざい」は、「年の始めに家々を回り、舞いを見せる芸能」(『言葉の作法辞典』学研)のこと。「千秋万歳せんずまんざい」は、

①「日本古代の信仰に根ざす、正月の祝福芸能の一つ」(『精選版 日本国語大辞典』小学館)

②「平安中期から室町期に行われた」(『日本歴史大事典』小学館)

③「平安時代末から鎌倉・室町時代にかけて盛んであった正月年頭の祝言の芸能およびその演者をいう」(『ブリタニカ国際大百科事典』)

④「鎌倉・室町時代から江戸初期にかけて行われた芸能の一つ」(『旺文社全訳古語辞典』)


〇「漫才/寄席演芸の一つ。おもに2人が掛合でおもしろおかしく話すもの。この形式は万歳を背景として明治中期ころ関西に現れ、日露戦争終結のころから『万才』と呼ばれて次第に盛んになり、大正末期には吉本興業が万才を寄席にかけるようになった。1934年から『漫才』の文字が使われ始め(※)、大阪の横山エンタツ・花菱アチャコのコンビの出現によって全国的に愛好されたが、その要因として台本を手がけた秋田実の役割も大きい・・・」(マイペディア)

注:(※)〈昭和7年(1932)1月の吉本興業の宣伝雑誌「ヨシモト」に、宣伝部長橋本鉄彦が漫談にヒントを得て命名し載せたのが初めという」(『精選版 日本国語大辞典』小学館)に拠れば、2年早い。


Ⅳ)《最初の「万歳ばんざい」》

ところで、『江戸語の辞典』(講談社)には、「まんざい」(万歳)は載っているが、「ばんざい」(万歳)はない。

その後見つけたのが次の記事だ。

「『万歳』事始め(1882年/明治15年)・・・民権論者古沢滋らは、『自由万歳』と大書した旗をたてて、岐阜での遭難のあと大阪へ向かう板垣退助を琵琶湖に出迎えた。これが『万歳』という語の使用のはじめである」(『読める年表日本史』自由国民社)

・・・これが真実なら、富国強兵・戦争の時代へと突入してゆく大日本帝国と「バンザイ」とが、「自由」と裏腹な形で奇妙に結びつくことが理解できる。

日本の時代劇(主に源平時代や戦国時代)では、「勝ち鬨」はあっても「バンザイ」を叫ぶシーンは記憶にない、或いは見落としているのかも知れぬが、違和感がある。


「バンザイと発音するようになったのは大日本帝国憲法発布の日、1889年(明治22年)2月11日に青山練兵場での臨時観兵式に向かう明治天皇の馬車に向かって万歳三唱したのが最初だという」(ウィキペディア「万歳」より)


『自由万歳』と同時代の日本を見てみよう。

「1882年(明治15年)・・・天皇は1月4日軍人勅諭を陸軍卿大山巌に下した。軍隊は天皇に直属することを強調し、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五徳目を守るよう命じたものであった」(読める年表日本史)

「1882年(明治15年)・・・参議伊藤博文は3月3日、勅書によって憲法調査のための欧州出張を命じられ、3月14日、東京を出発した。伊藤は5月以降翌年にかけて、ベルリンやウィーンでグナイスト、シュタイン、モッセなどドイツ、オーストリア系の法学者のもとで勉強してきた」(読める年表日本史)

「1882年(明治15年)・・・自由党総理板垣退助は、4月6日遊説先の岐阜で襲われて負傷した。政府は、これによって板垣自由党の人気がたかまることを恐れ、後藤象二郎を懐柔して、板垣、後藤の二人を外遊させることを企てた」「その資金の出所などにつき改進党からではないかとの疑惑が広まり、自由党内でも馬場辰猪らが、9月17日反対を決議したが、板垣、後藤は方針を変えず、11月11日横浜を出発、ヨーロッパに向かった」(読める年表日本史)

・・・『自由万歳』と大書した古沢滋(しげる/うるお)は倒幕の志士であり、「1874(明治7)板垣退助らと『民選議院設立建白書』を作成、提出した」人物であった。


Ⅴ)《「三・一独立運動」などについて》

バンザイと言えば、「朝鮮の三・一独立運動」が有名だ。

「1919年3月1日、孫秉煕〈ソンヘイキ〉ら33人はソウルで独立宣言書を発表し、朝鮮の独立を世界の世論に訴え、またパリ平和会議に請願した。同時にパゴダ公園に集まった数千の群衆と学生は、独立宣言を読み上げ、『朝鮮独立万歳』を叫んだ。この示威運動は日本官憲の激しい弾圧を受けたが、たちまち全土に波及し、海外の居留民もこれに呼応、5月まで続けられた」(マイペディア)

しかしこの「朝鮮独立万歳」も、見方を変えれば、

『大韓独立万歳』(『韓国歴史地図』平凡社)である。

何故なら、当時の「朝鮮」とは、

「1910年(明治43年)8月22日、韓国併合に関する日韓条約が調印された。つづく29日併合に関する詔書、韓国王室を皇族の礼をもって遇する詔書が下された。また同日、22日調印の条約が公布され、即日施行された。韓国の国号は改められ、同地域を朝鮮と称し、朝鮮総督府を置くことが公布された」(読める年表日本史)ものであり、日本が押しつけた「名称」に過ぎない。


「(1919年、独立万歳の)蜂起は4月末までにあらかた鎮圧されたが、参加人員は約50万、騒擾箇所600余、騒擾回数8000余というのが総督府側の記録である。死傷者は官憲側が166人、蜂起側は2000余となっているが、実際この何倍も何十倍もあるだろう」(読める年表日本史)ともあるが、

「(1919年)2・8独立宣言は、朝鮮人留学生が展開した民族運動である。民族運動の原点である3・1独立運動は、朝鮮の全人口の1割にあたる200万の民衆が立ち上がったが(※)、その導火線となったのが、朝鮮人留学生による、2・8独立宣言であった。・・・東京・神田の東京朝鮮基督教青年会館に在東京留学生のほぼ全員である600人が結集し、高らかに『独立宣言書』を朗読した。・・・この宣言に結集した600名の学生のうち395名が帰国、3・1運動の示威の先頭に立った・・・」「1919年、3・1独立運動(~1920年)」(『在日韓人歴史資料館図録』明石書店)

注:(※)『韓国歴史地図』(平凡社)の「三・一運動参加者数と被害状況」によれば、参加者数の合計(当時の8道+間島・華北)は204万6,938人、死亡者は7,509人。


さらにもう一つ(その後)の「万歳」がある。

「純宗〈スンジョン〉(皇帝)の葬儀が行われた(1926年)6月10日・・・葬列が通り過ぎるさいにビラを撒き、万歳を叫びながら街頭デモを始めた(6・10万歳運動)」(『韓国歴史地図』平凡社)

・・・これは、公然と「皇帝の死を悼む」と共に、密かな願いである「独立万歳」という二つの意味を表しているのだろう。


韓ドラの朝鮮時代劇では、臣下は国王に対して「バンザイ」と叫ばない(一部例外あり)。「万歳ばんざい」は唯一中国の皇帝に対する祝辞であり、朝貢国の「朝鮮」には許されなかった。そういう場面が随所に見られる。

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