第19話 富士山は女人禁制だったのか?(富士山から見える「開国」)

富士山は女人禁制だったのか?(富士山から見える「開国」)


【はじめに…「問題」の提起】

① 外国人初のオールコックはいつ富士山頂に立ったのか?

 万延1年7月26日 or 27日(1860年9月11日 or 12日)

② 外国人女性では初の、パークス夫人の登頂年とその意義

 慶応2年 or 慶応3年(1866年登頂説/1867年登頂説)

③「高山たつ」が女性初の登頂者と言われるが、本当か?

④「庚申こうしん年」だけ、女性に富士登山が許されていたのか?

⑤ 以上追求することで生じた様々な疑問と開国への視点


富士山は、言わずと知れた日本一高いお山である。東京タワーの333メートルとともに、富士山3,776メートルと覚えていた。しかし、山の高さは変化する。測量法によってもかなり違う。富士山も然り、長らく不動の高さを誇っていたが、最近少し低くなったと言われている。

たまに「雑学」のように持ち出されるのが「富士山は日本一高い山ではなかった」という事実。台湾の「玉山ぎょくざん」は3,997mもあった(※)。無論現在も台湾の最高峰だが、「台湾が日本領となったことで、その玉山が日本一高い山となった。富士山よりも高い山、新しい日本の最高峰という意味で、玉山は新高山にいたかやまと名づけられた」(『雑学帝王500』中経の文庫)ことを、その統治や抵抗の歴史とともに知ろうとする人は少ない(大日本帝国海軍の日米開戦の暗号「ニイタカヤマノボレ」は有名だろうが)。

イギリス公使オールコック一行は、富士山の標高や気温などを測量していた。その時の標高は「14,177呎(フィート)」だったらしい。「約4,321メートル」ということになる(尚、「4,322メートル」とする者多数)。

(※)この標高は『雑学帝王500』による。[玉山…標高は公式には3,952mとされるが、1995年と1999年の衛星測量では、ともに3,978mと計測されている。また、日本統治時代は3,950mとされていた。3,997mと計測されたこともある(1957年、アメリカ遠東陸軍製図局による計測)](ウィキペディア『玉山 台湾』)



Ⅰ)【富士山の女人禁制…問題の発端】

寛政12年(1800)[この年、富士山に女人の登山を許す](『日本史年表』東京学芸大学日本史研究室編/東京堂出版)を見て、富士山はそれまで「女人禁制」だったのか、と驚いた。江戸時代にも様々な女性に対する禁止や制約があったが、この件に関して幾つかの「年表」を当たってみてもそれ以上触れていなかったので、1800年以降は「解禁」されたのだと考えていた。


けれども後日、次の年表を読み、少し事情が変わった。

寛政12年(1800)[この年、幕府、60年ぶりに女人の富士山登山を許す](『江戸時代年表』山本博文監修/小学館)

・・・60年前(1740年)にも「神聖な」富士山の女性登山が許されていたのだ、と初めて知る。


そうして、さらに、

[ふだんは富士は女人禁制の山だが、庚申の年だけはとくに許されたので、寛政12年は、続々と女たちが富士山頂をめざした。ただし遊女屋の女が登山すると天罰をうけて麓で気が狂ったり、体が痛んだり、天候が急変したりしたといわれる](『読める年表日本史』自由国民社)

・・・「遊女」云々は真っ赤なウソだが、そう言われる風潮はあっただろう。とにかく、「庚申の年だけ許された」ことが判る。幕府が許さず登れなかった女性が「富士山頂に登れた庚申年」、という理解。

だが、他の「庚申かのえさるの年」(万延1年/1860、元文5年/1740、延宝8年/1680、元和6年/1620、永禄3年/1560、明応9年/1500…欽明1年/540)を幾つかの年表で繙いてみても、その「事実」が全く見当たらない(※)。まあ、「富士山の女人禁制」など歴史の上では些細なことに相違なく、例えば1860年(前後)は幕末の激動期にあたり、字数が限られる年表では霞んでしまうのは無理もない。だからこそ逆に、「寛政12年」が特筆に値する出来事なのだろうと思う。

(※)「庚申縁年こうしんえんねん」について:次の論文がある(「ご縁年」は「庚申の年」のこと)。[延宝8年(1680)のご縁年の存在を明らかにしつつ…元和6年(1620)・永禄3年(1560)・明応9年(1500)の史料を紹介し、少なくとも15世紀の室町期にまで遡ることを確認した。…庚申縁年の始まりが鎌倉期にまで遡りうる可能性を示唆した](『富士山信仰における庚申縁年の由緒について(論文要旨)』菊池邦彦)



Ⅱ)【富士山の外国人初登山について】

1)万延元年(1860年)は特別な年(前置き)

○[万延1年(1860)7月26日、イギリス公使オールコック、愛犬のスコッチテリアとともに外国人で初めて富士登山登頂](『江戸時代年表』)


既に「開国」していた日本は、安政7年(1860)1月、日米修好通商条約の批准書交換のため、勝海舟(義邦よしくに)らが乗った随行艦・咸臨丸かんりんまる(先発か後発、出港日や航海日数で諸説あり)と外国奉行ら使節団を乗せたアメリカ軍艦ポーハタン号がサンフランシスコへ向け品川を出港した。同安政7年2月5日、オランダ商館長ら2名が横浜で殺され、3月3日には大老たいろう井伊直弼いいなおすけが暗殺された(桜田門外の変)。3月18日「万延」に改元(表向きは「江戸城本丸炎上」による改元らしいが)。

前々年(安政5年)11月初代駐日総領事に任命された(※¹)イギリス人オールコック(オルコックとも)は、翌安政6年(1859)5月26日、江戸へ着任(領事館は高輪たかなわ東禅寺)(※²)。同年11月公使に昇格。そのことを翌年(安政7年)1月、幕府に報告したらしい。彼が富士山に登ったのは、その年(万延1年)の7月だった。

ーーその後、アメリカ公使館通弁官ヒュースケンが薩摩藩士らに暗殺されたが(万延1年12月5日/1861年1月15日)、翌年の文久1年(1861)5月28日に高輪東禅寺のイギリス仮公使館が水戸浪士(「藩士」とも)に襲われ(公使館員2名負傷)、さらに翌年の文久2年(1862)5月29日、東禅寺警備を担当していた数藩のうちの一藩、松本藩の藩士が、警備中のイギリス水兵2名を殺傷した事件があった(「(2人を)殺害」説あり)。オールコックは帰国中で不在(公使代理が執務)、公使の殺害をしくじった、警備の藩負担の重さに憤ったらしい犯人は自刃して果てた(第1次、第2次「東禅寺事件」)。同文久2年8月21日、薩摩藩士がイギリス人4人を殺害した「生麦事件」が起こり(「殺傷」説や人数、賠償額などに異説あり)、12月12日には高杉晋作や伊藤博文(俊輔しゅんすけ)らによるイギリス公使館(品川御殿山に建設中)「焼き討ち事件」が続いた。

・・・「文久」に改元されたのが万延2年2月19日。幕末の「文久」「元治」「慶応」も短命であったが、「万延」は僅か一年もたなかった。

(※¹)総領事就任年の2説:安政5年(1858年)説と安政6年(1859年)説(以下、参照)。

(※²)江戸着任について:「江戸着任」の「年月」は同じ(安政6年5月/1859年6月)だが(一部例外あり)、東禅寺の到着日などに不確かな点がある(通常「江戸着任」とされ、実は「江戸湾着」の「年月日」は同じだが、「船上」を着任と見做すか、東禅寺着も同日なのか、不明)。以下の❶❷は代表例に過ぎない。任命・就任・赴任・来日・来着・着任、それら時期が入り乱れ、「総領事」と「公使」が混同されるなど、あまりに複雑なので詳細は割愛した。

❶ ⑴駐日総領事に任命(安政5年11月17日)→⑶香港出航(安政6年4月15日)→上海立ち寄り→⑷長崎入港(5月4日)→江戸湾到着(5月26日)→上陸(5月29日)→高輪東禅寺

❷ ⑴駐日総領事に任命(安政6年1月27日付)→⑵任命の受領/香港(4月1日)→⑶香港出航(4月14日)→⑷長崎到着(5月3日)(※³)/5月20日出発→⑸品川沖(5月26日)→高輪東禅寺

《❶の根拠》

◎[駐日総領事に任命されたのは1858年12月21日(安政5・11・17)のこと…1859年5月17日香港をたち、上海に寄ったのち、同年6月4日(安政6・5・4)長崎に入港した。…江戸湾に到着したのは6月26日(5・26)…三日後の29日(5・29)に非公式に上陸すると、高輪の東禅寺…を仮公館とした。](法政大学学術機関リポジトリ『オールコック英公使 : 富士山に登ったヨーロッパ人第一号』宮永 孝より)

《❷の根拠》

◎[1859年3月1日付けで初代駐日総領事に任命された。5月3日にこの命令を香港で受け取ると、5月16日には香港を立ち、上海経由で6月4日(5月3日)(※³)に長崎に到着した。日英修好通商条約の批准書交換を7月1日(6月2日)以前に行うように命令されていたため、長崎を6月20日(5月20日)に出発し、6月26日(5月26日)に品川沖に到着し、高輪の東禅寺に入った。](ウィキペディア『ラザフォード・オールコック』より)

(※³)両説6月4日(西暦)なので、この和暦換算は誤り(❶5月4日が正しい)。


-以下、4件は余談(間違い易い「年月日」)-

○[初の女性登頂者は高山たつ(1832年10月下旬)、初の外国人登頂者は英国公使ラザフォード・オールコック(1860年7月)、初の外国人女性登頂者は英国公使ハリー・パークス夫人(1867年10月)](或るネット記事)

・・・と列挙し、全て西暦年を用いながら、「オールコック」については和暦の「(登頂)月」を断りなく附すことは不適切だろうと思われる(この場合は「1860年9月」とすべき)。

○[万延元年7月27日(1860年9月11日)]なども散見する。

・・・『富士登山と熱海の硫黄温泉訪問』(露蘭堂,2010年)から得た情報らしいが、和暦か西暦の何れかが間違っているから困りもの(和暦7月27日なら西暦9月12日、西暦9月11日なら和暦7月26日)。ところで、他でも見られる「7月27日」説の原因の一つは、[1860年9月11日(万延元年7月27日)には大宮・村山口登山道を用いて富士山への登山を行ったが(途中村山三坊の大鏡坊に宿泊)](ウィキペディア『ラザフォード・オールコック』)かも知れないが、それはさておき、「7月27日」は必ずしも間違いとは言い切れない。

○[オールコックは、万延元年9月11日(1860年7月26日)に富士山に登頂します](国立国会図書館『本の万華鏡 第18回 登山事始め―近代日本の山と人 第1章 新しい登山の姿』より)

・・・これにはつい笑ってしまう。「西暦」月は、年末頃でもない限り旧暦月より以前である筈がないので、正しく読み返せば、「万延元年7月26日」(「1860年9月11日」)が登頂日であろうことが判る(紙本と違いネット上では安易に間違うが、直すのも一瞬)。何れ訂正されるかも知れないが、そのまま引用されることを憂う(特に、引用が和暦や西暦のみだと真偽のほどが容易に判らない)。

○[1860年…ラザフォード・オールコック一行が9月11(旧暦26)日に登頂]

・・・これにはただただ絶句。


閑話休題。

ーー当時の状況をもっと知る為に、他の書籍から一部引用してみよう。

○[日本が開国し、欧米の外交官が駐在するようになると、その外交官の間で富士山に登ることがブームになった。イギリス、スイス、アメリカ、オランダの外交官たちが、次々と富士山頂を目指した][幕府は外交官の登山を許しても…商人などの一般外国人の外出は「開港場から10里(40キロ)」の範囲に限定…許されるのは遊歩だけで、認められたごく狭い地域外では商売も禁止][外国人に日本国内の地理を詳しく知られると、土地租借の要求が高まったり、保護領化を目指す動きが強まる恐れが生じる…一般外国人に対する国内旅行の制限が、日本の植民地化を阻んだということもできる](『江戸300年の舞台裏』青春出版社)

○[江戸市中には5~15メートルほどの小山が数多くあった。…第一号は、安永8年(1779)、市中の高田に造営された高さ5メートルの小山(※¹)だったとみられている][富士山信仰と関係している…富士講が生まれた(※²)][女性には、60年に一度の庚申こうしんの年にしか、富士山入山が許されていなかった。…代わりとして造ったのが富士塚][富士塚の表面は富士の溶岩で固められ、その登山道には5~10合目の石標が立てられ…人気を集め、〝山開き〟の6月1日には富士塚へ「富士参り」…子供が7歳になったときには一種の通過儀礼として富士塚に登らせるしきたりがあった](『江戸の時代本当にあったウソのような話』河出書房新社)

(※¹)「高田富士」の成立年や高さ:[1780(安永9)年、高田藤四郎によってはじめて江戸に築造された高田富士](『近世期における富士山信仰とツーリズム』松井圭介, 卯田卓矢)、[安永9年(1780)に築かれた江戸市中最大かつ最古の富士塚](或るネット記事)などでは「1780年」。しかし、かつてそこにあった(現在は移築された水稲荷境内)(※²)という早稲田大学の記事によれば「1779年(安永8年)に作られた江戸最古の富士塚」、或いは「安永8年(1779年)に、高田村の植木職・高田藤四郎が手がけました」(新宿観光振興協会)がある。尚、現在の高さは「5メートル」ではなく、約10メートルらしいが、興味ある方は現地でお確かめ下さいませ。

(※²)「富士講」と高田富士:[富士講の信者たちは富士塚を築造したことでも知られる。これは安永8年(1779)、高田の植木職藤四郎が師の身禄追慕の記念として、地元の水稲荷みずいなり境内に富士の築山を溶岩(ボク)で造ったことに由来する(高田富士)…港区域には泉岳寺の境内に高輪富士があったといわれるが、現存しないため詳細は不明](港区/デジタル版『富士講と大山講』より)


ところで、前掲の『読める年表日本史』には次のコラムも載っている。

[(万延元年)七月二十一日、オルコックが富士山に登山したとき、七合目あたりで黒雲が湧き大雷雨となり、「御山は日本第一のあらたなるれいざんなり、いじんは、登山すべからずはやくさんいたすべし」との声がきこえてきたとかわら版は書いている。](※)

・・・はて、この日付(7月21日)は何処に掛かるのかと悩んでしまう。「出立日」か「登山の開始日」か、或いは「登頂日」なのか、「7合目あたり」を登っていた時なのか?(そこから山頂まで5日間もかかったのだろうか?)

・・・因みに登山前は「大雨」、6合目の日は「快晴」だったらしい記事もある。

(※)「あらたなる」と引用方法について:「あらた(なる)」は「あらたか(なる)」に同じ。漢字一文字で「あらたか」。この場合漢字にすれば「あらた(なる)」かも知れないが、瓦版なので恐らく原文も「ひらがな」なのだろう。尚、この引用文では原文ママの平仮名や漢数字を使い、全文引用を示す為に文末の句点も加えているが、本編では、大部分の数字は必要な時以外は断りなくアラビア数字に書き直し、通常は括弧内の文末に句読点など入れません。また、句読点や中点・括弧・余白なども可能な限り統一しました。


2)オールコックは万延1年7月26日(1860年9月11日)に登頂したのか?

二説ある。「万延1年7月26日(1860年9月11日)」と「万延1年7月27日(1860年9月12日)」登頂説。


登山ルート(7月26日登頂説)などが比較的詳しく分かるのが「富士宮市」の情報である。少しずつ引用しながら追ってみたい。

[オールコックは、計画に反対していた幕府を説き伏せ、万延元年7月富士山へ向けて出発しました。この旅には、単なるレクリエーションだけでなく、日英修好通商条約(1857年締結)にある内地旅行権の確認や江戸を離れた地方を視察するという政治的目的もありました](「富士宮市」HPより)

・・・を読んだところで、躓いてしまう。

⇒「日英修好通商条約」の締結は「1858年」であり、「1857年締結」ではない。

安政5年(1858)7月18日、幕府はイギリスと修好通商条約に調印した(「安政の5か国条約」と言われている安政5年6月19日アメリカ、7月10日オランダ、11日ロシア、18日イギリス、9月3日フランスと、修好通商条約に調印)。


ついでに、彼の心情について触れた別の記事があったので紹介したい。

[…記事は、イギリスの新聞『タイムズ』に掲載されたもので、富士登山に同行した記者が、旅の様子を紹介しています。オールコックが富士登山を希望した理由については、日本人が愛し尊ぶ富士山について、語られていることが真実であるか確かめようという好奇心からとあります](国立国会図書館『本の万華鏡 第18回 登山事始め―近代日本の山と人 第1章 新しい登山の姿』より)

・・・続けよう(「富士宮市」HPより)。

[旅には、オールコックを初めとする英国公使館職員ら8名のイギリス人に加え、幕府から派遣された外国奉行役人や荷物を運ぶ人馬が随行しました。そのため、オールコックの希望とは逆に大行列の旅であったといいます]

⇒「英国公使館職員ら8名のイギリス人」とあるので、最初に登った外国人はオールコックではない、彼を含む「8名のイギリス人」ということになろう。「全部で100人余、馬30頭で一隊を組んだ」らしい様子が「書かれている」(或るネット記事)という『大君の都 幕末日本滞在記』(オールコック著/岩波文庫)も読んでみたいが深入りせず、それは読者にお任せしたい。気になったのが、同ネット記事にある「オールコック以下イギリス公使館員6人(ら8人で登った)」らしいこと。

・・・続けます(「富士宮市」HPより)。

[一行は東海道を進み、吉原宿で台風をやり過ごした後、大宮町を経て村山の興法寺に入ります。翌朝、村山の法印(山伏)の案内のもと村山を出発し、「中宮八幡堂」で馬を返して荷物を強力に預けてからは、金剛杖を手に徒歩での登山を開始しました。/その日は6合目(現在の元祖7合目)(※)まで登り、翌日無事頂上に到達しました。山頂では持参した測量機器で標高や気圧など測量したほか、英国旗を掲げシャンパンで乾杯し登頂を祝いました](「富士宮市」HPより)

(中断)とりわけ、「当時、富士山の化身である天狗がオールコックの登山に怒ったため登頂できなかったとする瓦版が発行されました」とあるのが興味を引く。(続けます・・・)

[オールコックの富士登山は大変耳目を集め、一行が通過する東海道筋では見物制止命令が出されるほどでした。/大宮町の造酒屋の当主の日記『袖日記』には…宿泊場所の用意や人足・馬の手配など、大宮町が一行のために様々な準備や対応を行っていたことが記され][富士山御林守上役石川孫四郎の日記にも、オールコックの登山に備え、事前に富士山に登山して準備していたことが記されています。しかし、これらの準備や負担は重いものであったため、費用の支払いや負担のあり方について、登山後も長く問題になり、オールコック以降の外国人登山の際にも度々問題となりました][地域に残された資料によると、オールコックを含め、幕末期に5回の外国人富士登山が行われました。彼らの多くは大宮・村山口を利用し、幕末に大宮町町役人を務めた角田桜岳(佐野与一)の日記『桜岳日記』には、スイス総領事一行やアメリカ公使一行の登山の際に、付近の村々から見物人が集まっていたことが記されています](「富士宮市」HPより)

(※)「元祖」の意味が不明だった。しかし、予想通り?「麓から一合目、二合目と呼び習わすのは富士山が最初(でありその呼称を御嶽山にも取り入れました)」(『和邇御嶽山』より)らしい。・・・『元祖七合目山口山荘』がある。標高3,010m。「富士宮口は、5合目の標高が2,400mと一番高く」、「5合目から山頂までの距離は、4,309m(静岡県富士土木事務所調べ)」あるらしい。「新7合目(標高2,780m)」、「元祖7合目(標高3,010m)」、「8合目(標高3,250m)」、「9合目(標高3,460m)」と続く(以上、富士宮市HPより)。なので「現在の元祖七合目」と言われ、区別されているのだろう。・・・吉田ルートの「5合目(標高2,300m)」、少し高い「6合目(標高2,390m)」とすれば、「5合目(富士宮口)」よりちょっと低い「6合目(吉田口)」となろう。或いは、同じ富士宮口ルートで同一論文中に、「6合目(標高2,490m)」と「新6合目(標高2,490m)」が使われ、非常に紛らわしい。・・・注目すべきは、「(標高500mの村山浅間神社から)2,490mの旧4合目小屋、すなわち富士宮口新6合目」があったこと。・・・探せば切りがないが、ルートや情報源により○合目の「標高」が違うので、厄介なのである。オールコックらが大宮・村山口から登ったことは間違いないけれど、件の「元祖」に限れば、例えば[(現在の富士宮ルートにある『元祖七合目(山口山荘)』)]とでもすべきかも知れない。又は、標高のみ括弧内に入れるか([…その日は6合目(標高3,010m)])、或いは、「(現在の元祖7合目)」は不要(別口で注釈すれば良い)。


以上より、仮の「日程」を当て嵌めてみよう(7月26日登頂説)。

① ?→7月23日(東海道→台風,吉原宿)→7月24日(吉原宿→大宮町→村山・興法寺)→7月25日(興法寺→中宮八幡堂/馬返し→徒歩登山→6合目)→7月26日(6合目→登頂)


だが、次は相当異なる(7月27日登頂説)。

[(1860年)9月12日、さらに4時間登って山頂の浅間神社奥宮に到着。英国旗を掲げシャンパンで乾杯し登頂を祝い](『静岡・浜松・伊豆情報局』)などの記述から当て嵌めると、

② ?→7月22日(箱根→三島宿)→7月23日(三島宿→沼津→原→吉原宿)→7月24日(雨,吉原宿→大宮/現・富士宮中心部→富士山本宮浅間大社)→7月25日(大社→村山村の興法寺/現・村山浅間神社)→7月26日(村山・興法寺→中宮八幡堂/馬返し→登山開始→6合目)→7月27日(6合目→登頂/浅間神社奥宮)

・・・となろう(原文は西暦。比較の為、和暦に直して経路を辿ってみた)。とても詳しいが、登頂日が違うので中間が自ずとズレる。特に、「富士山本宮浅間大社」が加わるので(※)、日数も違ってくる。

(※)以下は該当原文:「9月8日」は和暦換算(上掲の②)で「7月23日」とした…[(前略)9月8日は、東海道を西に下って沼津、原を経て吉原宿で1泊。吉原宿には富士山本宮浅間大社から使いがあり、明日は富士山本宮浅間大社に宿泊してくださいとの招待を受けています。/9月9日に雨の中、大宮(現・富士宮中心部)へ移動し、富士山本宮浅間大社に宿泊。/(中略)/9月12日…山頂の浅間神社奥宮に到着。(後略)](「静岡・浜松・伊豆情報局」より)


次の情報もあった(7月26日登頂説)。

[『古事類苑』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した](ウィキペディア『富士山』より)…から、

③ ?→7月22日(大雨)→7月23日(?)→7月24日昼出立(大宮/小休止→村山)→7月25日(快晴,村山→6合目)→7月26日(快晴,6合目→登頂)


①~③何れも出立日が不明だが、例えば現・東禅寺から現・箱根町まで今のルートでも約80キロある。故に出立を「7月21日(※)」(東禅寺→箱根)と見做すにはやはり無理がある。その日はオールコック一行は登り始めてもおらず、「七合目あたりで…かわら版」の日付(※)は意味を成さない。まあ、所詮は「かわら版」と言ってしまえばそれまでだが…しかし、奇妙な一致をみた(後述)。

(※)この「日付」について:前掲Ⅱ)-⑴最後の段で取り上げた一文「(万延元年)7月21日、オルコックが富士山に登山したとき…」(『読める年表日本史』)。


・・・しかし(問題の「富士山本宮浅間大社」に言及しているが)、

[1860(万延元)年7月19日、尊皇攘夷運動の活発な時期、幕府は百人近い護衛をつけて富士宮の富士山本宮浅間大社から村山口に到着し、7月26日ついにオールコック一行は富士山登頂に成功した](『冨士エコツアー・サービス』の記事より)

・・・この「7月19日」がどこの地点を指すのか、皆目理解出来なかったのだが(尚、「1860(万延元)年7月19日」は西暦の年月日の如き扱いなので誤解を招く)、

[(万延元年)7月19日江戸を発し富士に向った。幕府の護衛と人夫百余人、行列数町に亘ったということである。23日吉原着、24日大宮着、25日早朝村山を出て、馬返しで馬を下り、その夜は六合目の石室で泊り、翌26日頂上に着いた](『富士山の高さ』日本気象学会・堀内剛二より)

・・・を、ついに発見。出立は「7月19日」と明快、登頂まで一週間もかかったことになるが(※)、現・東禅寺(高輪)から現・吉原宿まで現ルートで約130キロ。吉原宿まで丸5日間で移動したことになるので、単純平均で1日26キロ、無理のない行程であろう。

(※)富士登拝往復日数の一例(参考):富士講の事例として挙げられた丸藤講(牛込)は、甲州街道・八王子を経由するなどコースが違う往復例だが、「江戸からの富士山登拝は、道中往復で7泊8日の行程であった」(『近世期における富士山信仰とツーリズム』松井圭介, 卯田卓矢より)


④ 7月19日(江戸/東禅寺?)→7月23日(吉原着)→7月24日(大宮着→村山)→7月25日(早朝,村山→馬返し/徒歩登山→6合目・石室)→7月26日(6合目→登頂)


【 ①~④を比べ易いよう地名を軸に並べ直す(②は7月27日登頂なので4番目)】

① ?→7月23日(東海道→台風,吉原宿)→7月24日(吉原宿→大宮→村山)→7月25日(村山→中宮八幡堂/馬返し→6合目)→7月26日(6合目→登頂)

③ ?→7月22日(大雨)→7月23日(大雨?)→7月24日昼出立(大宮/小休止→村山)→7月25日(快晴,村山→6合目)→7月26日(快晴,6合目→登頂)

④ 7月19日(江戸/東禅寺?)→7月23日(吉原着)→7月24日(大宮着→村山)→7月25日(村山→馬返し→6合目)→7月26日(6合目→登頂)

② ?→7月22日(箱根→三島宿)→7月23日(三島宿→沼津→原→吉原宿)→7月24日(雨,吉原宿→大宮→富士山本宮浅間大社)→7月25日(大社→村山)→7月26日(村山→中宮八幡堂/馬返し→6合目)→7月27日(6合目→登頂)


・・・だが、

〈②7月27日登頂の類似説(7月19日/浄滝寺じょうりゅうじ)〉

後日、別の資料(元大学教授論文)を入手したので紹介しておくが、初っ端からのけぞった。「桜田門外の変」が「閏3月3日」とあったのだ。さらに驚いたのは、出立が「一八六○年九月四日(万延元・閏七月十九日)」とされていたこと。万延元年には確かに「閏3月」がある。が、「閏月」が1年に2度はあり得ない(実際は何れも「閏月」でなく、同文の他の箇所で7月の「閏」が外されているが)。…気を取り直し、組み立て直してみよう(途中から②と一致する/理解しやすいよう西暦も併記)。


❷ 7月19日(1860年9月4日)横浜・浄滝寺じょうりゅうじ出立→戸塚(朝食)→藤沢(泊)7月20日(9月5日)相模川→(海岸沿い)→小田原(泊)7月21日(9月6日)→湯元着/発(土砂降り)→(山登り)→湖畔(富士山・芦ノ湖眺望・スケッチ)の関所/元箱根・本陣(泊)/7月22日(9月7日)(雨止む)→三島(泊)7月23日(9月8日)→沼津→原→吉原(「この日大宮の神社から使いの者がきて、明日はわが神社を宿泊所としてほしい、と伝えた」)(泊)7月24日(9月9日)(晴れ)未明出立(途中大雨)→神社(大宮浅間社)に寄った,大宮(浅間社/泊)7月25日(9月10日)(天気上々)早朝出立→村山村(泊)7月26日(9月11日)→八幡堂/下馬→(日没寸前)休憩所(泊)7月27日(1860年9月12日)早朝出立→山頂(浅間神社)


山頂については、「九月十日から十一日まで(七・二五~二六)二晩泊まった」とあった。これがまた理解不能(7月25日登頂?,2泊?)。「寄った」と書かれた浅間社に、何故か泊まっている不思議。尚、「浄瀧寺じょうりゅうじ」(浄滝寺)は横浜開港時の「イギリス領事館」。オールコック一行の「指定集合地」とあった。オールコックの著書など多数史料を参照された引用が詳細かつ長々あり、なかでも彼らに随行したというフォンブランクからの引用が目立つ。「小田原に着いてから…箱根の山地を越え…八時間進んだのち、山の頂上にたどり着いた」などの引用が突如現れる(山頂で「われわれは国旗に敬意を表するため、ピストルを撃った」ともあるが、それって、どうなの?)。なので、かつて、「初めて富士山に登頂した外国人は…オールコックです。彼の手記によると麓から8時間かけて登り、山頂に1泊。…彼の手記では、1707年の宝永火山噴火と同時に琵琶湖が出来たと記してあります」(或る温泉旅館HPより)を読んで首を傾げ、大いにわらってしまったのだが、笑い事では済まない。

・・・③と同様な『届書』も転載されていた(③は肝心な箇所が抜けている)。


[英国人不士山登山 去る七月十八日出立 廿三日大宮泊の先触に候処 廿二日大雨にて廿四曰昼立 大宮小休 村山泊に相成り 廿五日快晴致し 不士山六合目へ泊り 廿六日快晴頂上いたし 其日不二山の木戸迄下り 廿七日同処昼休に相成り 無滞登山相済申侯間比段不取敢御届申上侯]


重要なのは、「七月十八日出立」「廿三日大宮泊の先触に候処」「大宮小休」である(尚、論者は「其日」に「ママ」を振っている。…それはともかく、「富士宮市HP」によれば、[…登頂を祝いました。その後、「一ノ木戸」(標高2160m付近)まで一気に下山し、同所に一泊した後、村山を経て大宮町に戻りました]とあり、妥当な見方であろう)。何処から出立したかこれでは判らないが、7月19日より前だった(7月18日が「東禅寺」の可能性もあり得る)。

先触さきぶれ」「小休」の箇所を読み解くと、「7月23日の大宮泊が手配されておりましたが、その前日の大雨で24日まで足止めなされ、為に大宮には少し立ち寄るだけ、その日は村山泊まりと相成りました」かな?(凄い台風だったのだろう。…それは明らかに「招待」ではない。予定スケジュール通り進まなかったことの弁明)。冨士「大宮司」の届出なので信用できる。これで疑問が氷解した。まあ、私の拙い解釈はともかく、この『届出』の転載後、論者は続けて「その通りなら、オールコック一行が山頂に至ったのは、万廷元年七月二十六日(一八六○・九・一○)」(要旨)と書いている。「1860年9月10日」は「万延1年7月25日」だ、なぬっ?……いや、恐らくは当のオールコックやフォンブランクを信じれば、「7月21日」、小田原からの登頂を果たしたことにもなる!……ここで思い出して頂きたい、「(万延元年)7月21日、オルコックが富士山に登山したとき…」(『読める年表日本史』)を。・・・う~ん、又もや頭を抱えてしまった。


・・・両説(7月26日/27日登頂)で共通するのは「7月23日吉原宿で宿泊」と推定できることであり、登頂までの最後の2日間の経路はいずれも同じであった(「小田原」云々を除く)。

オールコック一行が特権的地位にあったからこそ出来た登頂である。「庚申年」も影響したのだろう。その年、富士山は多くの人で賑わった。見聞を広めるには絶好のシチュエーションだから「寄り道」も考えられる。吉原宿から富士山本宮浅間大社まで僅か10キロほどだが、「大社に宿泊してくださいとの招待を受けて」訪れ、泊まったと考えることは出来よう。が、見てきた通り「招待」ではなかった。予定に組み込まれていた「宿泊」が狂ったと見るべきだろう。そうして、「小田原から…」、「山頂で1泊」、或いは「二晩泊まる」…など、事の真相が不明な記述が多く、互いに矛盾し、錯綜している。つまるところ、当事者の手記や記事が残っており、私的な旅といえど公的な大行列でありながら、その行程が少なくとも二通りあることは凡そ理解に苦しむ、それが問題。繰り返しになるが、先の「招待」はちょっとした誤解や勘違いと思われるし、小田原から8時間で登れたとも思わない、現に別のルートを辿っていた?・・・断言しよう、混乱の元凶は当のご本人たち。それを真に受け、伝言ゲームよろしく垂れ流す愚かな私たち。…人の記憶など、曖昧で当てにならぬ。

と、愚痴をこぼしても始まらぬ。・・・始めに戻ろう。

[万延1年(1860)7月26日、イギリス公使オールコック、愛犬のスコッチテリアとともに外国人で初めて富士登山登頂](『江戸時代年表』)を私は信じる。何故ならその監修者を信じているからだが、つまり、だが、但し、少し違う。


【「イギリス人8名」(公使オールコックら)が外国人として初めて冨士山頂に立った、それは万延1年7月26日(1860年9月11日)】


・・・だった。

犬を連れて登頂したことに、夫人連れで登ったパークスよりもっと驚かされる、さすが英国人、オールコックらイギリス外交官の政治手腕は優れている。江戸幕府も、イギリスに頼った薩長に対抗せず、フランスやオランダをうまく利用し、イギリスにすり寄ったなら、歴史は大きく変わっていたのかも知れない。



Ⅲ)【富士山における女人禁制の実態】

1)富士山(噴火、登山、登拝とはい、富士講、御縁年ごえんねんなど)について

ーー古代からの長い歴史なので、比較的要約されていた次の三つを引用するに留める。

○[富士山に初めて登ったのは聖徳太子(※¹)あるいは役小角えんのおづぬ(※²)とする説もあり、9世紀ごろはすでに盛んに登られていたと考えられるがさだかではない(※³-¹)。1149年(久安5)に駿河するが国(静岡県)の末代上人まつだいしょうにんが山頂に仏閣を建てた記事があり(※⁴)、村山口から登山が行われたという。近世初期に長谷川角行はせがわかくぎょう(1541―1646)によって富士講が開かれ(※⁵)、先達せんだつによって引率され、白装束に身を固めた人々が「六根清浄」(※⁷)と唱えながら登山した。山麓さんろくの富士吉田は浅間せんげん神社の門前町であり、日本第一の信仰登山地として発達し、登山者の集合地となった。登山口は富士宮口を正面とし、吉田口、御殿場ごてんば口、須走すばしり口が多く用いられ、村山口、須山口はその後廃道化した](「ジャパンナレッジで閲覧できる『富士山』の日本大百科全書(ニッポニカ)のサンプルページ」より)

(※¹)聖徳太子伝説について:富士山を飛び越えたとか登ったとかの伝承があるが、あり得ない作り話であろう。しかし山小屋の名称にもなり、「女人禁制」に関連するキーワードともなるので無視できない。必要に応じてその都度取り上げる。

(※²)役小角えんのおづぬについて:[役小角えんのおづぬ舒明じょめい天皇6年〈634年〉伝 - 大宝元年6月7日〈701年7月16日〉伝)は、飛鳥時代の呪術者。役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)などとも呼ばれている。姓は君。…流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている](ウィキペディア『役小角』)/[文武3年(699)5月24日 役小角を配流。](『日本古代史年表』)

(※³-¹)都良香みやこのよしか:[元慶3年(879)2月25日 都良香卒伝](『日本古代史年表』)頃までの著名な学者ですが、描写がリアルとされる『富士山記』が有名。以下、漢文(未検証の引用です、ご注意下さい。書き下し文も出回っているので、それらを検索してお読み下さい)。

[富士山者。在駿河國。峯如削成。直聳屬天。其高不可測。歷覽史籍所記。未有高於此山者也。其聳峯欝起。見在天際。臨瞰海中。觀其靈基所盤連。亙數千里間。行旅之人。經歷數日。乃過其下。去之顧望。猶在山下。蓋神仙之所遊萃也。承和年中。 從山峯落來珠玉。玉有小孔。蓋是仙簾之貫珠也。又貞觀十七年十一月五日(※³-²)。吏民仍舊致祭。日加午天甚美晴。仰觀山峯。有白衣美女二人。雙舞山巓上。去巓一尺餘。土人共見。古老傳云。山名富士。取郡名也。山有神。名淺間大神。此山高。極雲表。不知幾丈。頂上有平地。廣一許里。其頂中央窪下。體如炊甑。甑底有神池。池中有大石。石體驚奇。宛如蹲虎。亦其甑中。常有氣蒸出。其色純靑。窺其甑底。如湯沸騰。其在遠望者。常見煙火。亦其頂上。匝池生竹。靑紺柔愞。宿雪春夏不消。山腰以下。生小松。腹以上。無復生木。白沙成山。其攀登者。止於腹下。不得達上。以白沙流下也。相傳。昔有役居士。得登其頂。後攀登者。皆點額於腹下。有大泉。出自腹下。遂成大河。其流寒暑水旱。無有盈縮。山東脚下。有小山。土俗謂之新山。本平地也。延暦廿一年三月(※³-²)。雲霧晦冥。十日而後成山。蓋神造也。]

(※³-²)延暦21年3月などについて:『富士山記』は、実際に登った訳ではない「見聞」と思われる。[延暦19年6月6日 富士山噴火/延暦21年1月8日 富士山噴火](『日本古代史年表』)。延暦19年(800)〜延暦21年(802)頃は富士山の火山活動が活発だったという。貞観17年(875)(良香の死-伝承による「卒」=貴人の死-の4年前)11月5日の「仰觀山峯。有白衣美女二人。雙舞山巓上」(古老傳云)は、富士山頂などの描写と共に有名な一節。

(※⁴)末代上人まつだいしょうにん(「山頂に仏閣」)について:[久安5年(1149)4月16日 これ以前、富士上人末代と称する僧、関東で勧進、入京して大般若経書写を貴賤に勧める。法皇上人に結縁けちえん、諸人に大般若経を書写させる。/5月13日 法皇、富士山頂埋納のため、富士上人に如法経(※⁶)を賜る。](『日本古代史年表』)

(※⁵)長谷川角行はせがわかくぎょう(「富士講」)について:[富士講とは、富士山麓の人穴ひとあな…で千日間の修行をしたという長谷川角行(1541~1646)によって、江戸時代初期に創出された民間宗教で、祭神は木花咲耶姫命このはなのさくやひめのみこととしている。富士講は既成の仏教や神道とも異なる独自の教義を持ち、講集団を基盤に組織された宗教勢力](港区/デジタル版『富士講と大山講』より)

(※⁶)「如法経にょほうきょう」について:[法式に従って清浄に書写された経典や、それを安置し埋納する供養をさす。経典は主として『法華経』であるが、「浄土三部経」も多い。経典書写による功徳を願ったり、末法による法滅を恐れて、弥勒菩薩の下生まで経典を伝えるために行われた。天長年間(824─834)に天台宗の円仁が、比叡山に『法華経』を安置したのが起源とされる。平安時代から江戸時代まで、山岳信仰とも結びついて全国的に行われ、近畿地方に多く見られる。](『WEB版新纂浄土宗大辞典』より)

(※⁷)「六根清浄ろっこんしょうじょう」について:「六根ろっこん」とは、眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根の六つの「根」を指す。「仏教で、感覚や意識を生じさせ、迷いを起こさせるもととなる六つの器官。げんぜつしんの総称」(『明鏡国語辞典』大修館書店)が解説の一例だが、辞典により微妙に違う。「お山は晴天、六根清浄」(「六根清浄、お山は晴天」)と唱えながら登拝したらしく、今も伝統として続いている。富士講でも誦されていたという有名な『般若心経はんにゃしんぎょう』には「… げん ぜつ しん …」とあり、一般的に広く唱えられている。「清浄しょうじょう」は、同辞典によれば、「❷仏教で、煩悩ぼんのう・私欲・悪行などがなく、心身が清らかなこと」。


○『須山登山道の歴史』と題して、[鎌倉時代の正治2年(1200)の文書に富士山への登山道の一つとして珠山として記録され、文明18年 (1486)には准后道興親王が、須山口を訪れたさいの和歌が『廻国雑記かいこくざっき』にのっています(※¹)。/この須山口登山道も宝永4年(1707)の大爆裂でとざされてしまい、72年後に宝永山の北側をまわる登山道として復興しました。その賑わいは寛政12年(1800)の5,398人という登山者数からも想像がつきます]と書かれ、[歴史上に記録されている18回におよぶ富士山噴火のなかで、もっとも激しかったものは延暦19年(800)と貞観6年(864)の活動と(※²)、宝永の大噴火です]とあり、[富士山についての最古の文献…『常陸風土記』の霊亀元年(715)ごろ(※³)]とか[噴火についての最初の記録…『続日本紀』の天応元年(781)(※²)]ともある。(以上、『裾野市立富士山資料館』より)

(※¹)「准后道興」(『廻国雑記』)について:『国書データベース』(国文学研究資料館)によれば、『廻国雑記』は「道興准后廻國雜記どうきょうじゅごうかいこくざっき」とある。「(Doukyoujugoukaikokuzakki)」も附記されているので、「道興」の読みは明らかに「どうきょう」だが、一般的には[道興(どうこう、永享2年(1430年) - 大永7年7月7日(1527年8月3日))(※¹-²)は、室町時代の僧侶で聖護院門跡。/関白近衛房嗣の子。兄弟に近衛教基、近衛政家。寛正6年(1465年)に准三宮宣下を受ける](ウィキペディア『道興』)と、「どうこう」と読んでいるようであり(※¹-²:没年は誤り? 明応10年/文亀1年9月23日?=1501年没説もあり、26年も違う)、通常は「道興准后どうこうじゅごう」と書かれている。「准后じゅごう」は、「准三后じゅさんごう」或いは「准三宮じゅさんぐう」のことで、[平安時代以降、皇族、生母・准母・女御・外祖父など天皇の近親者、または摂政・関白・太政大臣その他功労ある公卿・武官・僧侶などを優遇するために、特に設けた称号。三宮、すなわち太皇太后宮、皇太后宮、皇后宮にじゅんじて、年官・年爵および封戸ふこを給与したもの。…江戸時代末まで存続した。准三后(じゅさんごう・じゅんさんごう)。准后(じゅごう・じゅんごう)](『精選版 日本国語大辞典』小学館)。ところで、引用文は「(准后道興)親王」だが、理解に苦しむ。道興と同じく聖護院門跡しょうごいんもんぜきとなった「道晃法親王どうこうほうしんのう」(1612年-1679年)は「親王」として存在するが、それより200年近く前、文明19年/長享1年(1487)成立と言われる紀行記(文明18年6月14日?/16日?京都出立~翌年3月までの紀行)『廻国雑記』を著した「道興」は、親王ではない。この「(准后道興)親王」は誤りではないか?

(※²)富士山の噴火:[天応1年(781)7月 富士山が噴火して灰をふらした](『読める年表日本史』)/[延暦19年(800)6月6日 富士山噴火](『日本古代史年表』東京堂出版)/[貞観6年(864)5月25日 駿河、富士山の噴火を奏上。7月17日 甲斐、富士山噴火による災害を奏上。8月5日 富士山噴火により浅間名神に奉幣](『日本古代史年表』)⇒[貞観6年5月25日、駿河するが国の報告によると、富士山が爆発し、噴煙が濛々とあがり、いたるところに溶岩が流出して本栖湖もとすこを埋めたという。7月17日の甲斐かい国の報告でも、本栖湖と剗湖せこが埋まり、溶岩が河口湖にも流入したという。なお、剗湖はこのために、精進しょうじん/ママ湖と西さい湖に分かれたといわれている](『読める年表日本史』)⇒この「剗湖せこ」は、「剗海せのうみ」「せの湖」とも書かれ、本栖湖もとすこ精進湖しょうじこ西湖さいこに分かれたと言われるが、それら出現の有様は微妙に違う。例えば、[せの湖…貞観6(864)年6月富士山の噴火による溶岩で湖の一部が埋められ、本栖湖、精進湖と西湖に分かれた](『ブリタニカ国際大百科事典』)という「6月」説もある(貞観6年5月25日は西暦864年7月2日)。尚、5月25日は「報告(奏上)」された日であるが、爆発した日でもあるかは定かでない(爆発日とする人もいる)。富士浅間神社は、かつて〈「箱根路」はいつ開かれた?〉で取り上げた延暦21年(802)噴火の「折の鎮火祭、大同2(807)年に鎮火報賽のために創建」されたという。

(※³)風土記ふどきについて:[和銅6年(713)5月2日 郡郷名は好字(※⁴)をつけ、風土記の撰進を命ず](『日本古代史年表』)により作られていったと考えられる。/[風土記…地名改称の原則は、嘉名かめい(※⁴)を選ぶこと、表記の漢字に好字(※³)をあてること、二字で表記すること、などであったようだ。死野しにの生野いくのに、しじみ里を志深里に、また二字にするために浜を幡麻、味蜂間あはちまを安八にする類いである](『読める年表日本史』)

(※⁴)「嘉名かめい」と「好字こうじ」:嘉名かめい-よい名、めでたい名。/好字こうじ-よい意味を持った文字。縁起のよい文字。また、立派な文字。


○[須山口登山道を使って登拝を行った道者の数については、1800年(御縁年)に約5,400人、1840年代前半に約1,700人 、1860年(御縁年)に約3,600人であったとされている][1707年の宝永噴火の際には、登山道のみならず冨士浅間神社及び須走村は噴砂に覆われ壊滅した。しかし、翌年には徳川幕府の支援の下に復興を果たし(※)、その後も多くの道者・富士講信者が登拝を行うようになった。18世紀後半には、江戸と富士山との間に所在する霊地・巡礼地が、須走口登山道とともに一連の巡礼経路に組み込まれたため、道者・富士講信者の数は年平均約1万人に達し、1800年の「御縁年」の年には23,700人にも及んだとされる](富士山世界文化遺産協議会/日本国『世界遺産一覧表への記載推薦書 富士山』より)

(※)「須走村は…翌年には…復興を果たし」について:前掲の[須山口登山道…72年後に宝永山の北側をまわる登山道として復興](『裾野市立富士山資料館』)は「須山口登山道」について述べられている。宝永山東側の「須走村」より深刻で、南側の「須山口登山道」(須山村)は壊滅的な被害を蒙り、登山道が分断されたということだろう。現代では…冨士には、自衛隊が、似合わねえ。


2)「60年周期」のウソ(「お蔭参り」から見た「庚申ご縁年」)

本来皇室祖先神を祀る神社(『神宮じんぐう』)であったため禁じられ(「私幣禁断しへいきんだん」=奉幣ほうへいの禁止であり、参拝の禁止ではない)、庶民に馴染みのなかった伊勢参りは、「鎌倉時代以後、一般人が参宮するように」(『百科事典マイペディア』日立ソリューションズ・ビジネス)なったと言われる。お蔭参りは「江戸時代、周期的に起こった伊勢神宮への群参のこと」(『広辞苑』岩波書店)であり、「奉公人の青年男女や子どもが、主人や家人に無断で飛び出し参加する〈抜参り〉も多かった」(『百科事典マイペディア』)ことは多くの人が語っている。だが、「起源は慶安3(1650)年に復活した遷宮であったが、その後ほぼ60年を周期とし」(『ブリタニカ国際大百科事典』)たことは事実に反すると思われる。遷宮は、その前年の慶安2年(1649)に行われており、更にその前回、前々回は寛永6年(1629)、慶長14年(1609)である。その頃「20年周期の常例」となったのであるから、これを「復活」と見做すことはできない。

「伊勢参り」は連綿と続いてきた訳であるが、「お蔭参り」は突如沸き起こった。その「契機」の実際はどうあれ、「庚申ご縁年」と重ね合わせたい素人考えで、その発生時期や熱狂性、特に周期性に着目した。『神宮』の遷宮は20年毎となった訳であるが、お蔭参りの「60年周期」説は誰もが指摘する「常識」と化している。ピークは4回。幕末の「ええじゃないか」(「参詣」とは別な独自の群衆乱舞なので「お蔭参り」とは通常見做さない)を入れれば5回あったとも言われるが、さらに、江戸初期に流行した「伊勢まいり」も加えたい(❶-❻)。


《流行した『神宮』群参/お蔭参り》

❶~❻,その他(○)「群参の顕著な年」(ウィキペディア『お蔭参り』より)/「遷宮年」「干支」「庚寅こういん年 ①-⑤」を加筆。(※¹)-(※³)は『江戸博覧強記』(小学館)による分類(ご覧の通り、「60年周期」とは無縁である)。


(中世:「前段階として、集団参詣が数回見られる」)

(遷宮:1629)

❶ 寛永15年/戊寅つちのえとら(1638)

(遷宮:1649)

❷ 慶安3年/庚寅かのえとら(1650)◎¹/①

○ 寛文1年/万治4年・辛丑かのとうし(1661)(※¹/初期〜)

(遷宮:1669)

(遷宮:1689)

○ 元禄14年/辛巳かのとみ(1701)(※¹/〜初期)

❸ 宝永2年/乙酉きのととり(1705)

(遷宮:1709)

[宝永7年/庚寅かのえとら(1710)②]

○ 享保3年/戊戌つちのえいぬ(1718)[この春 東国 御蔭参り流行](『江戸時代年表』)(※²/隆盛期〜)

○ 享保8年/癸卯みずのとう(1723)

(遷宮:1729)

○ 享保15年/庚戌かのえいぬ(1730)◎²(※²/〜隆盛期)

○ 寛延1年/延享5年・戊辰つちのえたつ(1748)

(遷宮:1749)

○ 宝暦5年/乙亥きのとい(1755)

(遷宮:1769)

[明和7年/庚寅かのえとら(1770)③]

❹ 明和8年/辛卯かのとう(1771)

(遷宮:1789)(※³/衰退期〜)

○ 享和3年/癸亥みずのとい(1803)(※³/〜衰退期〜)

(遷宮:1809)

(遷宮:1829)

❺ 天保1年/庚寅かのえとら(1830)◎³/④

(遷宮:1849)

○ 安政2年/乙卯きのとう(1855)

❻ 慶応3年/丁卯ひのとう(1867「ええじゃないか」)

(遷宮:1869)

(遷宮:1889)

[明治23年/庚寅かのえとら(1890)⑤]

(※¹,²,³)《伊勢への抜参ぬけまいり(御蔭参おかげまいり)の盛衰(『江戸博覧強記』小学館より)》

-寛政期以降は「著しく減少」とある。❺は最大ピークなので、例外的中の例外の「異常現象」?

(※¹)[伊勢参宮の普及に伴い、寛文かんぶん期から元禄げんろく期(1661〜1704)にすでに全国各地で行なわれていた]

(※²)[参宮は、農閑期の正月から2月までの間が多かった。伊勢参宮がピークを迎える享保きょうほう期(1716〜36)には抜参りの数も高まったが、それ以降は漸減ざんげん(ママ)し、一時的に増加した時期もあった]

(※³)[畿内やその周辺地域を除いて寛政かんせい期(1789〜1801)以降は著しく減少した。これは地方の寺社参詣が盛んになり、伊勢への集中的な参宮が減ったためとされる]


・・・以上、「遷宮年」と並べてみると意外?な「事実」が判った。遷宮が20年周期となったので当然であろうが(「十干十二支じっかんじゅうにし」による)、「遷宮」翌年に流行した「お陰参り」は3回/15あり(◎¹-³)、それらが「かのえ」。そして、「庚寅こういん年」の前年に「遷宮」が行われていたことを頭に入れておきたい。尚、「かのえ」とは、「かね」の意。


《大盛況の「お陰参り」(❶-❻)について》

❶ 寛永15年/戊寅つちのえとら(1638)

[この年 夏から翌年にかけ伊勢御蔭参り流行](『江戸時代年表』)/[夏から、伊勢まいりが全国的に流行、半年ほど続いた。後年の「おかげまいり」と同じだが、まだ、そのようには呼ばれない](『読める年表日本史』)

❷ 慶安3年/庚寅かのえとら(1650)

[この年 伊勢御蔭参り流行](『江戸時代年表』)/[江戸の商人が「伊勢抜けまいり」をはじめ、たちまち天下に流行しはじめた。3月から5月にかけて箱根関を通る者は一日に二千人をこえた。参詣者は組ごとに印をたて、白衣を着ていたという](『読める年表日本史』)

❸ 宝永2年/乙酉きのととり(1705)

[この年 諸国 伊勢御蔭参り流行](『江戸時代年表』)/[360万人の「おかげまいり」,閏4月、京都からはじまった…一週間をすぎるあたりから急速に加熱状態。…綱吉の「生類憐み令」が厳然としていた当時…京都の小松屋の長八という丁稚が、子守りばかりの毎日に嫌気がさし、苦心して貯めた百文の銭をふところに、赤ん坊を背負ったまま伊勢にとびだし、参詣をすませて無事に帰った。これが宝永おかげまいりの口火になったようだ。…少年のおかげまいりはさまざまの怪事神秘と結びつけられ](『読める年表日本史』)

❹ 明和8年/辛卯かのとう(1771)

[4月から伊勢お蔭参りがおこり、8月には諸国に広がった](『読める年表日本史』)/[明和8年3月 諸国 伊勢御蔭参り流行](『江戸時代年表』)/[約210万人](『百科事典マイペディア』)

❺ 天保1年/庚寅かのえとら(1830)

[この年は御蔭参りの年となった。3月に阿波から始まって6月、7月頃がピーク、8月までに460万人が参加したという](『読める年表日本史』)/ [文政13年(天保1年)3月 諸国 伊勢御蔭参り流行,7月 大坂ほか 御蔭参りピーク][60年に1度の御蔭年を翌年に控えた文政13年春…踊りながら参詣に繰り出していく。…御蔭参りであればなんでも許され](『江戸時代年表』)/[(4回の流行があり)その年には、通常70万人程度だった参宮者が、多いときには500万人(※)にもなった](『山川 日本史小辞典』)⇒因みに、前年の文政12年(1829)は『神宮』の式年遷宮であった(❷も同様、遷宮は前年)。

(※)「500万人」について:精査していませんが、500万人は当時の人口の15%以上に当たる。6人に一人(日本の人口は1716年-45年 3,128万人,1868年 3,330万人)。庶民に限れば、文政11年(1828)2,720万人,天保11年(1840)2,592万人だったそうなので、5人に一人。

❻慶応3年/丁卯ひのとう(1867「ええじゃないか」)

[8月 遠江・三河・尾張「ええじゃないか」の大乱舞発生(その後、江戸以西の本州・四国にも派生)](『江戸時代年表』)/[秋ごろから、天から伊勢神宮のお札が降ってくるという噂がまず名古屋方面に広まり、神戸では実際に三百種類の神符が舞い降りた。…乱舞が東海道筋にひろがり、東は江戸、横浜、静岡、西は京都、大坂から西宮にまで波及、さらに甲府、松本や徳島、淡路にも伝播した](『読める年表日本史』)


《「周期」を見てみよう》

❶→12年後❷→55年後❸→66年後❹→59年後❺→37年後❻となる。ご覧の通り、約60年は❷~❺(これが「4回」「60年周期」と言われる由縁だろう)。しかし、平均すれば、「60年」だった、に過ぎない。つまり、干支かんしは全くの無関係なのだ。…そのことを先ず押さえておきたい。

そうして、あらゆる意味で注目すべきは、❺天保1年/庚寅かのえとら(1830)である。「本来」なら翌年が60年目の筈だった。だが何故か人々は「待ちきれず」、浮かれ出す。その天保1年には、数々の奇瑞きずいが見られ、方々に「御札おふだが降った」という。それらが火をつけた。7月に京都で大地震が起きると(7月2日)、京都は不作、「薄情で御蔭おかげがなかった、ばちが当たった」と騒がれて、だからこそ人々は「お蔭」を求めて伊勢へ繰り出した。男も女も、老いも若きも、大人も子どもも、徒党を組んで、大いに踊りまくったのである(数百万人という最大規模)。沿道は大賑わい。宿屋は無料、金持ち振る舞うお菓子や弁当、縛られるのはまっぴら御免、通行手形なぞ糞食らえ!

そうだ、これが「本来」の姿だ・・・と、居直ってみる。つまり、❺の「とら」年に着目してみよう。最初に流行った❶「(寛永15年/戊)とら(1638)」から12年目が❷「(慶安3年/庚)とら(1650)」と、とらえられる。同様に❺の「庚寅かのえとら」を基準ととらえれば、❷「( 慶安3年/)庚寅かのえとら(1650)」から丁度180年目(60年×3)の❺「(天保1年/)庚寅かのえとら(1830)」ととらえられる。…この駄洒落こそが大切であり、そこに「大いなる作為」を見たい。

そうして・・・それらは、「富士講」が爆発的に流行した文化・文政期(1804年~1830年)」頃と丁度重なる。高山たつが山頂に登ったのは天保3年(1832)であった。また、もう一つの特異な現象…「ええじゃないか」も併せて考えてみたい。空から「お札」が降ってくるなどあり得ぬが、実際に「降って」きたから堪らない。これを、倒幕派の陰謀とする説や、逆に目を逸らせる幕府側による「ガス抜き」とも言われる、その「人為性」も押さえておきたい。そうして、1650年頃から見られる、これら「御蔭参り」の「60年周期(への期待感)」が、次の「1680年(延宝8年/庚申かのえさるの年)」以降へと繋がると私はとらえ、「こう」考え「ざる」を得ない。それは、「(恐らく江戸時代に限る)引っ張り出された庚申縁年」。


3)1680年(延宝8年/庚申かのえさるの年)須山口の場合

○[延宝8年は60年に一度巡ってくる庚申の御縁年にあたりますが、この年須山村は名主名義で当時の領主小田原藩から米や金を借用しています。これは明らかにこの年増加するであろう道者からの収入を当てにした先行投資であると考えられます](裾野市立富士山資料館資料集『富士山須山口登山道調査報告書』)


4)1740年(元文5年/庚申かのえさるの年)吉田口の場合

○[吉田村が1740年(元文5年)に幕府寺社奉行に提出した願書(『富士吉田市史 史料編』〔第五巻・近世Ⅲ〕119番史料)…吉田村はこの願書のなかで、「せめて庚申の御縁年ばかりは富士山の麓の大鳥居までは参詣に行きたい」(※)と願っている女性が多くいるとして、女性による関所通行を緩和してくれるように訴えている](『女人願い書 女人登山禁制小考』青柳周一より)

(※)北口本宮冨士浅間神社(境内の「大鳥居」)について:「当社は富士山の麓、標高が約864mの所にあり」(『北口本宮冨士浅間神社』HPより)、まさに「富士山の麓」である。「大鳥居は、北面の登拝拠点である吉田(富士吉田市上吉田)の象徴であり、吉田口登山道の起点として、広く認識されていたようです。…ただし、現在では北口本宮冨士浅間神社…登山門を登山道の起点とする意識が強く」(『山梨県立富士山世界遺産センター』より)なったという。・・・「大鳥居までは参詣に行きたい」という願いが「試み」だけに終わったとすれば、少なくとも1740年以前の吉田口は、女性が普段でも、或いはご縁年でさえ、『大鳥居』(登山口)へも行けなかったことになる(次項の5)-❻「吉田口」参照のこと)。


5)1800年(寛政12年/庚申かのえさるの年)

《1800年は、やはり特別な年だった》

❶【富士講の流行と禁止】

[寛政7年(1795)1月 幕府、江戸で流行する富士講を厳禁(※)]

[享和2年(1802)9月4日 幕府、違法行為が多いため、流行の富士講を禁じる(※)](以上、『江戸時代年表』)

(※)富士講の禁令:[富士講…身禄派は、飢饉などの社会不安が続くなかで現世利益を説き、救世や平等的考えを主張、尊皇思想とも結びついて講を拡大した。このため幕府は富士登山の禁令をいくたびも出して統制](『山川 日本史小辞典』)した。年代は不詳ながら「富士登山の禁令」である(文脈からすれば「富士講の登山(禁止)」についてだろうが、男女を問わない)。それでも、富士講が爆発的な流行をみたのは1802年以降の化政期(文化文政期/1804~1830)といわれる。「禁止令」が逆に益々庶民の熱情(反抗心)を煽ったということだろう。尚、未検証ながら、その他の「富士講禁令」を含めて挙げておく。・・・寛保2年(1742)、安永4年(1775)、寛政7年(1795)、享和2年(1802)、天保13年(1842)、嘉永2年(1849)。[幕府は、寛政7年(1795)から嘉永2年(1849)までに計8回にわたり、富士講と明記した禁令を出している](或るネット記事)/「富士講…1740年以降5回…弾圧され」(或る大学名誉教授)/「富士講に入っていても選ばれた人しか富士山に行けず、弱者である年寄りや子供、2合目以上の入山を禁じられていた女性」(或る富士塚愛好家)という記事もあった。例えば富士噴火が記録の上では18回と言われても…18回ぐらいなら全て挙げれば良いものを、その全てを知らない。富士講の禁令も、数回ぐらいなら挙げて欲しいと思ってしまう。数多あるなら別であろうが…挙げられたとしても、回数だけではあまり意味がない。知るべきは、どういう状況でどうなったのか、という歴史のダイナミズム(僅か数回の富士講禁令でさえも上掲の如く回数が異なるが、富士噴火の場合も、例えば12回とか断言する者もいる。判明している筈のそれら年代が全て開示されれば、歴史の見方が深まり、多くの誤解も解けるに違いない)。


❷【縁年「立て札」と女性登山者(須山口)】

○[縁年の立て札を立てる許可を、小田原藩に申請し、認可をうける(3月8日)…寛政の縁年は総じて須山村にとって成功であった。同年8月、戸川勝蔵に対し、須山口からの当庚申縁年の登山者は5398人(内女18人)であることが報告された。女性の数が少ないのは、先の登山制限(※¹)によるものであろう](裾野市立富士山資料館資料集『富士山須山口登山道調査報告書』)

(※¹)登山制限:「この年は6月に曇天が打ち続いた。これを女人登山が原因と考えた須山村を含む組合14か村は、その制限を申し出た。…最近の天候不順…は女性が山頂の御室摩胡岩(馬上石)まで参詣するためで(※²)、それを止めてもらいたいというのである。…6月19日から女人の御室までの登山を止め、下浅間宮までで戻している。来月20日頃まで女人を富士参詣道へは差し留める、と(須山村は)答えている」(同報告書より)ことを指す。

(※²)「御室摩胡岩(馬上石)」について:「女性が山頂…まで参詣する」とあり、浮き足だった。山頂まで登れたんだ、と喜んだ。或るネット記事([山頂の「御馬乗石(駒ケ嶽)」])では、富士山頂八峰(※³)の一つ、「駒ヶ岳(3,722m)」を指すらしいのだが、地図上で「御室摩胡岩」がどうしても確認できない。現在の山小屋『太子館』『蓬莱館』がある場所は、[標高3,100メートル、吉田口登山道(吉田ルート)八合目(※²-²)に位置する駒ヶ岳の岩尾根にあり、かつては駒ヶ岳太子室と言われていました。その尾根は、甲斐の黒駒にまたがり富士登山をしたといわれる聖徳太子が休憩した場所と伝えられています](『富士吉田市観光ガイド』一般財団法人 ふじよしだ観光振興サービスより)とあるので、この「駒ヶ岳太子室」が「御室(摩胡岩)」かも知れないと思われたのだが、そこは「(何処かの)山頂」ではない(※²-²:『甲斐国志』によれば「7合目」。『富士山道知留辺』によれば「7合3勺」と「7合5勺」の二つの「むろ」があったという)。/[聖徳太子騎馬像…かつて富士山吉田口登山道の七合目(現八合目)の駒ヶ岳の太子堂(小室)に安置されていた](『富士吉田市歴史民俗博物館だより』MARUBI 33 号より)

(※³)八神峰はっしんぽうについて:最高峰は「剣ヶ峰」だが、[八神峰はっしんぽうは、富士山頂にある8つの峰の総称。八神峰の他にも富士八峰ふじはっぽうや、仏教でいう八葉蓮華から由来した八葉はちようという名称で呼ばれることもある](ウィキペディア『八神峰』より)という。明治の廃仏毀釈で『興法寺』(※⁴)は『村山浅間神社』となったが、富士登山の歴史で『興法寺』が果たしてきた役割は極めて大きい。『浅間大社』(※⁵)に寄り添えば山頂を「八神峰」、『興法寺』側から見れば「八葉」と呼ぶのが妥当かも知れない。

(※⁴)富士山興法寺ふじさんこうぼうじについて:[創建は末代とされ、鎌倉時代に頼尊によって開かれたと伝わる。末代の流れを汲む頼尊が村山に興法寺を開き、寺号を「興法寺」としたという。…頼尊は「富士行」を行うなど、12世紀には既に村山周辺において修験道などの富士信仰に基づく宗教活動が行われていたと考えられている。/興法寺は大日堂や現在の村山浅間神社などにより構成され、村山三坊によって管理された。単独の寺としてではなく、堂社や村山三坊を含めた総称と考えられる](ウィキペディア『富士山興法寺』より)という。尚、大阪府東大阪市にも『興法寺こうほうじ』がある。生駒山上に近い標高約400メートルの山腹にあり、役行者えんのぎょうじゃが開基、弘法大師空海が諸堂を整備したと伝説される寺院(本尊は千手観音)。

(※⁵)『浅間大社せんげんたいしゃ』と祭神さいじん:「富士山の噴火を鎮め…富士山信仰の広まりと共に全国に祀られた1300余の浅間神社の総本宮と称されるように」なった。主祭神は「木花之佐久夜毘売命このはなのさくやひめのみこと(別称:浅間大神あさまのおおかみ)…天孫瓊々杵尊てんそんににぎのみことの皇后」であり、「懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため、戸の無い産屋を建て…無事3人の皇子を生まれたという故事にちなみ、家庭円満・安産・子安・水徳の神とされ」ている。「富士山本宮浅間神社」を『富士山本宮浅間大社』に改称したのは1982年3月11日(※⁶)(以上、『富士山本宮浅間大社』HPより)。ところで、富士山にまつわる伝承・逸話に、有名な「かぐや姫」も登場する。他にも女人にまつわる伝承があるが、木花開耶姫このはなさくやひめの父は「山の神」である。子の一人が「山彦」で、その子のまた子の一人が「神武天皇」とされる。[日本神話では、皇室はすでに山の神・オオヤマツミの娘との結婚によって山の支配権を得ている][天孫の道案内をしたサルダビコは…伊勢の土着の神で、伊勢神宮に仕える宇治土公うじのはじきみ氏の祖神おやがみとされている。名前の「サ」は神の稲、「ダ」は田を意味する。…都から伊勢へ参る者が増えるうちに、信者の安全を守る神として信仰されるようになった。…神話の内容が普及すると、道端に置かれた道祖神や古代の集落の入口に立てられた石が、サルダビコとして信仰されるようになった](以上、『図解雑学 古事記と日本書紀』ナツメ社より)とされる。男の乱暴狼藉に怒り岩戸に隠れたのが女なら、彼女を引っ張り出したのも女である。その天鈿女命あめのうずめのみことが男(猿田彦)を圧服して先導させたのである。かぐや姫(赫夜姫)については、[富士山周辺では、かぐや姫は月ではなく富士山に帰り、富士山の神様だった、というストーリーが伝承されています。この話は、「富士山縁起」という富士山信仰に関わる寺社の縁起書などに記され、特に富士南麓に位置する静岡県富士市・富士宮市を主な舞台としていることから、当地周辺にはいくつもの伝承地が残されています。…富士山は、神仏の住む世界で登るのは恐れ多いと考えられていましたが、皆かぐや姫を追って富士山に登りました。すると、途中でかぐや姫は振り返って別れを告げ、おじいさんと最後の別れの歌を詠んで、一人山頂へ登っていきました。この場所を中宮と呼んでいます。/かぐや姫は富士山頂に着くと、山頂にある釈迦ヶ嶽の近くの大きな岩にあるほら穴に入っていきました。実は、かぐや姫は富士山の神さまだったのです。そして、人々を救うために『浅間大菩薩』という女性の神さまの姿になって乗馬の里にあらわれたのです。/それからは、人々はかぐや姫にみちびかれ、女性は富士山の中宮まで、男性は山頂まで登れるようになったということです](富士山かぐや姫ミュージアム)

(※⁶)「神社」と「大社」:1982年以前については『…神社』とすべきでしょうが、時代を問わず殆どが『大社』を用いています。なので、引用文の多くは「大社」のままです。


❸【3人の女性登山者(村山口)】

○[庚申年の寛政12(1800)年の『大鏡坊道者帳』によれば…富士登山の2,000人の宿泊者のなかに3人だけ女性がいたという。どのような女性であったかは、分かっていない。たつの後にも、男装して富士登山を行った女性が少なからずいたというが、これも不詳](或るネット記事)


❹【観光産業としての富士山(須山口)】

[1796(寛政8)年5月(28日)の「富士山須山口掟取極連判帳」…⑪ 夏中は諸人が入山するので、石室や茶屋でばくちの勝負をせぬよう念を入れること。/以上、11箇条について…の署名者の連印は105名で、これに12名の御師おし・神主1名と村役人数名を加えれば一村全員に相当する(※)。すなわち、村を挙げて導者の登山に関わって収入を得る体制ができあがっていたのである。それは、御師だけでなく、先達・強力・馬士・茶屋・商品の売買など、富士山をとりまく観光産業が成立していたことを意味している](裾野市立富士山資料館資料集『富士山須山口登山道調査報告書』より)

(※)「一村全員に相当」について:次の史料との比較では確かに「村人全員」だろうが、何しろ百年以上も前の家数である。[1686(貞享3)年の須山村明細帳…によると家数111軒(名主2・組頭2・本百姓64・村足軽3・無田40)、人数705人(男387・女316・出家2)の人々が暮らしていたのである。牛が30頭、馬は120頭もいる](同『報告書』より)⇒例えば上吉田村の戸数は、元禄7年(1694)276 軒、寛政11年(1799)335 軒だったというが、天保9年(1838)294 軒と、減っている(元禄7年からは微増に留まる)。


❺【女性は山頂まで登っていた!?】

「馬上石」に似た「御馬乗石」が出てくる史料に出会った(❷及び❷-※²参照)。江戸時代に「富士山本宮浅間神社」の8合目以上支配が認められたことを示す重要な文献(一部引用。自信はないが、意訳)。

○[(争点の地域が)大宮支配に成ってしまえば、元禄16年(1703)争われた和解後の四分令(4割は須走村が受け取り、6割は大宮浅間修理料とした)配分の山頂(原文:内院)における賽銭等(原文:散物さんもつ)(※¹)に支障を来す。かつ、駿東郡西田中村が所持する寛文9年(1669)冨士郡57箇村(※²)と須山村の境界論争における裁許絵図の境界にては、御馬乗石・駒ヶ嶽を見通し富士・駿東両郡境につき、須走村の地域内と心得、八合目以上を大宮支配とする訳にはいかない。須走口薬師堂神主の持分にて、毎年6月12日午前8時頃より昼頃まで開帳した賽銭等は神主方へ収め、開帳過ぎの賽銭等は大宮へ取納するが、薬師堂が大宮支配に成っては四分令が無意味となる旨を伝えるため、大宮郷本宮浅間大宮司・別当・公文・案主、その外、山名主須走村十兵衛・甲州大石村弥兵衛などを呼び出し、糺明したところ、差し出された証拠書類などは不確かで、寛文の裁許絵図境界については、争論の場所を須走村側が勝手に記して差し出した境界であり印判が無く、特に御馬乗石等の名所も記していない。裁許の郡境は示された境界線の下より印判があり、須走村神主師職らが申し立てる境界は不当であるが、大宮においても冨士山八合目より支配と申すも証拠が無い。けれども、慶長5年関ヶ原の合戦の節、…/冨士山八合目より上は大宮が持ちたるべし、…行合いきあい(※³)より上は大宮にて(死骸を)引き請け、…](『安永8年(1779)12月5日富士山八合目支配等出入につき裁許状』より意訳)

・・・「御馬乗石(駒ヶ嶽)」が「馬上石(御室摩胡岩)」であれば、その後制限の憂き目に遭ったとはいえ、確かに、女も「山頂」に登っていたことになるのだが…。


〈原文の対照、比較〉

-裾野市立富士山資料館資料集『富士山須山口登山道調査報告書』より-

○報告書の本文:「最近の天候不順(史料では「朦々敷御天気」とある、霧が出たのであろうか)は女性が山頂の御室摩胡岩(馬上石)まで参詣するためで、それを止めてもらいたいというのである。」

-裾野市史 第三巻 資料編 近世-第五章『村の生活と文化』より-

○写本の原文:「此間中打続キ朧々敷御天気御座候も、女人御室迄参詣致し候故歟と被存候間、右女之御室参詣致候義ハ相止申度段…」


⇒『報告書』にはあった「山頂(の)」や「馬上石」が、写本「原文」の何処にも無い。また、先の『裁許状』にある「御馬乗石・駒ヶ嶽(を見通し)」は、文脈からすれば別々の箇所と推定するのが妥当と思われる。『報告書』には簡単な『1744(延享元)年須山村絵図』(富士山の絵)もあるが、冨士郡境(左右を分断する縦二重線)の反対側(右側の須山村側)に「御馬乗石」の縦文字が書かれているだけで、五つの石室や神社などのようには、その場所が示されていない。が、「駒ヶ嶽」でないことは確かであり、かつて7~8合目にあったとされる「駒ヶ岳太子室」や「室」でもない。もう一枚の絵図『宝永4年噴火以前の須山口富士山登山道』(※¹)はもっと詳しい。三合目辺りの右側道に「まこ岩」という山型の絵がある。これが「(御室)摩胡岩」であろうことはほぼ間違いではあるまい(「山頂」ではない)。見通せる山頂は「御駒嶽」と「浅間嶽」であるが、この絵図には「御馬乗石」がなく、代わりに「駿東郡」として、冨士郡境線(※²)の右側に書いてある。

・・・かつて裁許状で「殊に御馬乗石等の名所も記さす」と言われた通り、私にも未だ朧気にしか判らないが、以上で良しとしたい。

【女は、やはり三合目までしか登れず、そこからも追い払われた!】

(※¹)「内院散銭」について:「噴火口(内院)に投げ入れる賽銭(散銭)」のことだが、実際に噴火口に投げたら回収困難ではなかろうか。『大日本富士山絶頂之図』には「拝所鳥居の前で内院を伏拝している数人の道者と、その脇で二人の道者が紙ひねりにした賽銭を噴火口に投げ入れている様子が描かれて」(『富士吉田市歴史民俗博物館だより』MARUBI 33号)いる。賽銭は、元来は散米(打ち撒き)であったが、次第に「金銭」に代わっていった。「お米(水に浸すらしい)」に霊力があるというのは分からぬでもないが、おカネに「力」はあっても霊力はなかろう。しかし拾われたカネは相当な額に上ったという。他人のブログを読むと、「古銭」が見つかるという(つまり拾える、かつては日本最大の「賽銭箱」)。通常の賽銭箱は回収される為にあるけれど・・・何とも「あさま」しい気がしないでもない。

(※²)「裁許絵図」と冨士郡の村数:『報告書』の本文では「一六六九(寛文九)年富士郡六十七か村と郡境を争った須山村は勝訴し、裁許状と奉行八名の裏印を有する大判の絵図を下された(富士山資料館保管)。この時の郡境である。」とあり、『裁許状』の「寛文九年富士郡五拾七箇村と須山村境論裁許絵図墨筋」(原文)とは異なる(「57箇村」と「67か村」)。が、原本と言えど所詮は「写本」なので、何れが正しいか、判らない。

(※³)行合いきあい/ゆきあいの意味・場所、その他:[冨士山南面登山口駿州村山ロを表口と唱、大日ヶ嶽を登、其外同国駿東郡深山村の登ロハ八葉の外駒ヶ嶽へ出、北面ハ甲州都留郡上吉田村・駿州駿東郡須走村よりの登山口二筋有之、八合目にて一筋に成所を行合と唱、九合目を胸突と申、夫より薬師ヶ嶽へ登、其外登山口無之](同『裁許状』より/「深山村」は「須山村」のこと)


❻【女性登山者の増加と制限/3合目まで(吉田口)】

○[元文5年に女性参詣者の受け入れを試みた(※)ことを先例として、今度は女性参詣者に5合目までの登山を許可しようと画策する。しかし…吉田村周辺の村々が共同して、吉田村による女性登山の許可に対して抗議をおこなったのである(『富士吉田市史 史料編』〔第五巻・近世Ⅲ〕121番史料)。/…この寛政12年は偶然にも山麓地域一帯が悪天候にたたられた年となったため、地域のなかで女性の登山に対する不満が高まっていたのである。その結果、吉田村は女性の登山について、3合目までの許可にとどめるという線での妥協を余儀なくされた](『女人願い書 女人登山禁制小考』青柳周一より)

(※)「試みた」について:「女性参詣者の受け入れを試みた」は、「女性による関所通行を緩和してくれるように訴えている」(同書)と多少ニュアンスが違う気がするが、1740年(庚申年)の試みが失敗に終わった(女性は登山できなかった)と理解して良いのだろうか(とすれば、「二合目まで登れた」説は崩れ、それどころか、1740年は「大鳥居」さえも行けなかったことになろう)。大鳥居(富士山の麓、吉田口の登山口)さえ行けなかったのに、いきなり「5合目までの…画策」は余りの飛躍で現実味がないが…既にこの発想時点で「女人結界」が単なる「建て前」に過ぎないことを物語る。顕著になったのが1800年(前後)。以降「(女人)結界」は、上へ上へと上がって行く。それは最早「結界」と呼べぬ。


6)1832年(天保3年/壬辰みずのえたつの年)

・・・庚申年ではない天保3年/壬辰(※ )(9月)に、女性「高山たつ」が富士山登頂(後述)。

(※)この年の「壬辰じんしん」は、伐日ばつにち。/伐日:干支かんしで、下の支が上の干に勝つことから、下のものが上のものをおかすという悪日。/悪日:甲申こうしん丙子へいし戊寅ぼいん庚午こうご壬辰じんしん壬戌じんじゅつ乙酉おつゆう丁亥ていがい己卯きぼう辛巳しんし癸未きび癸丑きちゅうの12日。


7)1837年(天保9年/戊戌つちのえいぬの年)

○[天保年間の史料中にも、「既に去る戌年…女人登山致し候故、風雨多く違作(※)に相成り候」ー1837年(天保9年)には、女性が登山をしたせいで地域は雨風にたたられて不作となったのだ、という噂が当時の甲州郡内地方に広まっていたとの記述がある(『富士吉田市史 史料編』〔第五巻・近世Ⅲ〕124番史料)](『女人願い書 女人登山禁制小考』青柳周一より)

⇒「噂」なので何とも言えないが、ともかく、庚申年でもないのに、恐らく女性が登山していたのだろう。何処まで登ったかは分からないが、火の無いところに…である。

(※)「遺作」:農作物のみのりの悪いころ。凶作。


8)1860年(万延元年/庚申かのえさるの年)

○[歌川芳幾 《富士山北口女人登山之図》/「庚申縁年」の富士登山の賑わいを描いたもの。60年に一度の庚申の年、各登山口の浅間神社では、これを記念する祭礼がおこなわれ、また各地に建札を掲げ登山を奨励した。この年には多くの女性が入山した。本図は万延元年の様子を描いた貴重な資料](静岡県立美術館より)

⇒「入山」と言っている。登山ではない。次ぎも同じ絵だが、解説が少し違っているので取り上げた。

○[『富士山北口女人登山之図 万延元年庚申六十一年目に当り』

一恵齋芳幾(歌川芳幾)画 江戸時代後期 《小谷コレクション》

下仙元宮境内にある「登山門」から、富士山を登拝する人々を描いた錦絵。万延元年の干支は庚申で、考安天皇92年の庚申年に富士山が出現したという縁起から、60年に一度の「縁年」とされる。立て看板に「四月より八月迄不限男女信心之輩可被登山参詣もの也」とあるように、登拝を志す女性の増加を受けて広く参詣が促された世相を映している][立て看板の赤い四角で囲んだ部分に「不限男女」の文字が見られます。女人禁制の山が多い中、富士山は女性でも参詣することができたことがわかります](『書物で繙く登山の歴史2 -日本における江戸以前の山岳信仰- (1)』信州大学付属図書館)


○[庚申年富士山参詣群衆之図/一畴斉芳藤画/横山町北岡屋版/藤村秀賀誌「富士山略記」の記載あり

解説 富士講の60年に一度の縁年えんねんにあたる万延元年(1860)庚申の年の富士登山の様子を描く錦絵。火山は周囲から孤立して高く聳える形から古くから人々が崇める山として存在したが、霊峰の誉れ高い富士山はそのうちでも信仰の歴史は古い。噴火鎮めの富士本宮には中世以来、後醍醐天皇や足利尊氏などが寄進を行っている。しかし、富士信仰が大衆化するのは、江戸時代 角行かくぎょう身録みろくなどの行者が理想の世を求めて富士山中で断食の末自ら命を絶って以来のことである。特に庚申年に登山をすれば33回登ったのとおなじご利益が得られるとされ、幕末万延元年には、この錦絵にみるように、講紋と呼ばれる旗印を掲げ、日本橋、京橋、魚かしなど地域的まとまりを示す旗の下に江戸の講中が盛んに吉田口から富士山頂を目指した。石本コレクションの名山案内図59点のうち、33点が富士山で占められるが、幕末に盛んとなる吉田口の登山道の経路、あるいは頂上の火口ご神体の木花開耶姫命このはなのさくやひめのみことを描くもの、富士講の定宿の引札など、多様なものが収められている](東京大学学術資産等アーカイブズポータル)


○[明治初期の登山に見られた大きな変化の一つに、女性の姿が見られるようになったことが挙げられます。修験道や山岳仏教の中心地は女人禁制とされることが多く、その伝統が江戸時代まで維持されてきました。しかし、登山口近辺の寺社でも、より多くの参詣客を誘致したい、そのためには女性の登山も許容していかねばならないとの思惑もあり、徐々に女性登山を許容する考えが広まっていきました。例えば富士山では、『庚申の御縁年』にあたる万延元(1860)年に、女性の8合目までの登山を認めました。その人気を当て込んで、戯作者・仮名垣魯文は『滑稽富士詣』で男女の登山を描いています](国立国会図書館『本の万華鏡 第18回 登山事始め―近代日本の山と人 第1章 新しい登山の姿』より)



Ⅳ)【パークス夫人の初登頂(1866年登頂説/1867年登頂説)】

❶【1866年(慶応2年)登頂説/以下の3説には「月日」がない】

○[ハリー・パークス…1866年夫人らと富士登山を行う(※)。当時富士山は女人禁制の山とされており、外国人女性が登頂したのは夫人が初めてであった](富士山世界文化遺産協議会/日本国『世界遺産一覧表への記載推薦書 富士山』より)

○[1866年(慶応2)イギリス公使パークス夫人が女性として初めて登山した](「ジャパンナレッジで閲覧できる『富士山』の日本大百科全書(ニッポニカ)のサンプルページ」より)

○[1866年(慶応2)、イギリス公使パークス夫人が女性として初めて登山した](大倉精神文化研究所)

(※)パークス夫人登頂年についての錯誤?:未検証で信じがたいが、1866年(慶応2年)8月16日(旧暦7月7日)横浜を発し、富士登山した「スイス人一行」があったらしい(パークス公使の報告による、らしい)。スイス人らであり(スイス総領事ブレンワルト?)、夫人同伴ではなかったが、これを夫人同伴のパークス公使と見做した人がいた、らしい。浅薄なので訳が分からないのだが、そういう指摘があったことは興味を引く。無論、その指摘と「世界遺産」は無関係であり、何しろ『世界遺産…推薦書』、である…ので、「錯誤」など考えにくいのだが…。


❷【1867年10月15日(慶応3年9月18日)登頂説】

○[慶応3(1867)年9月、第2代英国公使ハリー・スミス・パークスは、夫人ファニーを伴い富士山に登頂します。外国人女性としては初登頂であると思われますが、彼女の富士登山については、登山口は苦情を出さなかったのみならず、外国人女性の前例がある以上、日本の女性にも庚申年以外の登山を認めたいという趣旨の願書を当局へ提出しました](国立国会図書館『本の万華鏡 第18回 登山事始め―近代日本の山と人 第1章 新しい登山の姿』より)

○[サー・ハリー・スミス・パークス…1867年(慶応3年)…夫人を伴い富士山に登った][パークス夫人は1867年に富士山に登頂しているが、これは外国人女性としては初めての富士登山であった。この時点では富士山は女人禁制であった](ウィキペディア『ハリー・パークス』)

○[慶応3年(1867年)に、駐日イギリス公使サー・ハリー・パークスの夫人も登頂しています](ニッポン旅マガジン『地蔵院』より)

○[1867年10月15日。イギリス公使ハリー・S.パークスが夫人同伴での登頂がきっかけと言われ…この日を記念して10月15日を『女人禁制破りの日』としています](『まつクリ院長通信』より)

○[今日(10月15日)は「女人禁制破りの日」婦人運動家が提唱/1867(慶応3)年10月15日、イギリス公使ハリー・S.パーク(ス)が、夫人同伴で、当時女人禁制だった富士山に登った](或るネット記事)

・・・何はともあれ女性が大っぴらに山頂まで登れたのだから「女人禁制」の「霊峰」と見做すわけにはいかない。庚申年でないことの意義は大きい。しかし一般人ではなかった。パークスにしてみればダンスパーティに夫人同伴で臨んだ如くに過ぎないのだろう。「破った」意識は恐らくない。だから、「女人禁制破りの日」とするのは、如何なものか。


❸【その他(?年10月初め)】

○[外国人女性登山第1号は英国公使ハリー・パークス卿夫人で、登山期の過ぎた10月初め、山頂はすでに雪でおおわれている中を登山し、夫と共に登頂に成功しました](国土交通省中部地方整備局『ふじあざみ64号(2)』より)


・・・以上、登頂年に両説あるが、「1866年」や「1867年」は「庚申縁年」ではもちろんない。「外国人女性としては初登頂である」ことにも異論はない。後に影響を与えたとする者も多い。

1866年登頂説は、何と言っても「日本国」、その『世界遺産一覧表への記載推薦書 富士山』に書かれている(らしい)のだから、信じても良さそうなのだが、圧倒的少数派に思える。対するは、『国立国会図書館』の「慶応3年9月(1867)」である。

残念なことに「日付」はないが、私は「図書館」を断固支持する。

あなたなら、どちらが信じられますか?



Ⅴ)【高山たつ(登頂は9月26日?/27日?)壬辰みずのえたつ

❶【天保3年9月26日(1832年10月19日)登頂説】

○[(地蔵院)境内には富士講中興の祖で、富士山が女人禁制の時代に、高山たつに男装をさせて山頂へと導いた小谷三志(こだにさんし)の墓所もあります。…天保3年9月26日(1832年10月19日)、小谷三志に連れられ、富士山に登頂した高山たつが、記録に残る最初の女性登頂者となっています(高山家所蔵『富士講文書』に小谷三志直筆で「同行六人内女たつ辰二十五」と記されています)。/慶応3年(1867年)に、駐日イギリス公使サー・ハリー・パークスの夫人も登頂していますが、それよりも35年前に高山たつが富士登頂を果たしています。/高山たつは、小谷三志の弟子の娘で、尾張徳川家江戸屋敷の奥女中でした](ニッポン旅マガジン『地蔵院』より)


○[富士山登拝を大きく転換させたのは食行身禄じきぎょうみろく(1671~1733)で(※¹)…小谷三志こたにさんし(1766~1841)は身禄の遺志を継ぎ日常的倫理観を高め、男女和合を主とし、女性が男性よりも上位になって出来る「さかさまの世界」の実現を目指した。日常の行いをただす「不二道」を発展させて女性の立場に理解を示し、女性の生理は清浄であり罪深いわけではないと主張した。その実践として天保3年(1832)9月26日には、女性信徒の高山たつ(1813~1876)を男装させて同行](『女人禁制と山岳信仰』鈴木正崇より)

(※¹)食行身禄じきぎょう みろくについて:[食行身禄(じきぎょう みろく 寛文11年1月17日(1671年2月26日) - 享保18年7月13日(※²)(1733年8月22日))…本名は伊藤 伊兵衛(いとう いへい)](ウィキペディア『食行身禄』)/⇒次のは誕生年が違う[食行身禄(1670~1733)](『日本歴史大事典』小学館)/[(富士講は)食行身禄じきぎょうみろく(1671~1733)の布教活動によって江戸市中に急速に広がっていった。/食行とは「じきは元なり」、身禄とは「弥勒の世」の意からきており(※¹-²)、伊勢国一志郡(現在の三重県津市)に生まれた身禄は、江戸に出て市中で油を売り歩く棒手振ぼてふりとして生活するかたわら、富士講行者ふじこうぎょうじゃ(角行から五代目あるいは六代目の弟子という)となった。そして身禄は「人は心を平らにして、正直、慈悲、堪忍、情け、不足を旨とし、各々の家職を熱心に務めるならば、末の世は神の加護により幸せを得る」と説いて廻り、富士仙元ふじせんげん大菩薩の教えによって長屋に住む都市下層民の生活の改善を目指す活動を精力的に行った](港区/デジタル版『富士講と大山講』より)

(※¹-²)「弥勒の世」の意、について:由来としての「弥勒」を意味しないという異説がある。(弥勒的救済は否定せず)「身」と「禄」の意味を分けて考えるべき、という捉え方。参考までに、三女「はな」が老後に書いた『食行身禄富士信心之伝申度書』を紹介する(一部抜粋、小生の意訳。括弧内は引用の原文例)・・・[近年世上冨士信心身禄同行と言って、加持祈祷や諸々の勧化かんげ(かちきとふ諸くわんけ)など専らにする者が多いが、もっての外で、間違いである。食行身禄○(一文字で「⺅杓」/「くう」と読むらしい)の教えとは、日月を元として、士農工商(しのふこふせう)その身に備わる家職(かしよく)を大切に勤め、分限に応じ、慈悲・情けを心がけ、人を惑わすことなく、朝夕恐れながら天下太平国土安穏(あんおん)、万法の衆生(しゆじやう)草も木もべて野川の魚(なべての川のうろくす)までも一筋に相助かり、家内安全・忠孝の二つを忘れずに心がけ、冨士仙元大菩薩を元の父母と拝し、もし病気などあれば、御伝えの「参」の一字を初穂はつほとして供えて(御伝えの参の一字を水初尾二て)頂きたいと言う事です。これも家内同行の内輪だけで、外へ広めないようにとの事です。](意訳)。尚、食行身禄は「米を真の菩薩」と称していたらしい。

(※²)身禄の入定にゅうじょう日について:[享保18年(1733)7月13日、富士山で食行身禄が入定。江戸市中で瓦版が出るなど話題となり、富士講隆盛のきっかけとなる](『江戸時代年表』)/同年7月17日没説もある。


○[富士山は、平安時代から多くの信仰の山と同じく女人禁制とされてきた。ところが、江戸時代の1832(天保3)年、江戸の高山たつが旧暦9月26日(現在の10月下旬)、初めて登頂したと言う。たつは、男装して富士講行者に紛れるようにして吉田口から登った](『冨士エコツアー・サービス』の記事より)


❷【1832年(その年、10月、10月下旬、秋、など)登頂説】

○[1832年に高山たつという女性が男装して登頂している](ウィキペディア『ハリー・パークス』)

○[記録に残っている限りで富士山に初めて登った女性は高山たかやまたつ(1813~1876)という人物です。古来、富士山への登山は山岳信仰の関係から男性のみに認められ、女性は禁ずるという女人禁制にょにんきんせいが徹底されていました。/江戸時代になり、男女平等を唱えていた小谷三志こたにさんし(1766~1841)という男性の協力のもと、たつは1832(天保てんぽう3)年に富士登山を実現させました。しかしこの登山は、まわりに分からないように、出発は富士山の山じまい後(10月下旬)に、さらにマゲを結うなど男装をしてというものでした。また、山じまい後なので、すでに8合目からは積雪しており、登山はより厳しいものになりました。富士山には、そうまでして登りたいと思わせるものが当時の人にあったのでしょう。/しかし、この後も女性の富士登山は一般化せず、女人禁制は明治時代になるまで続きました](『ふるさと山梨-中学校版-(デジタルブック版)』より)

○[1832年秋に最初の女性登頂者が記録されているように関係者は顧客開拓としても女性登山を進めてきたが、1872年に太政官布告で解禁され](『江戸時代の富士山における登山道・登山者管理と登山者による費用負担』伊藤太一)

○[1832年10月の江戸後期に女性が登る前例を作ろうと富士山の登頂に挑んだ女性がいます。/名前は高山たつ、彼女は富士山を登るために髷をして男装をしてまで登りました。その道は険しく天候もとても厳しい変化しました。登っていると暑くなり荷物を減らすために途中で上着を置いっていっくと、今度は雪が降ってくるという暑さから寒さへの急激な変化に襲われます。あまりにひどい天候のなかの登頂を成功させました](或るネット記事より)

○[初の女性登頂者は高山たつ(1832年10月下旬)](或るネット記事)

⇒「19日」を「下旬」と見做すかどうか微妙なところだが、「下旬」表記は多い。


❸【天保3年9月27日(1832年10月20日)登頂説】

○[富士山と女人禁制/

著編者等/著者名等 竹谷/靱負∥著

出版者 岩田書院

出版年 2011.6

内容紹介 富士山の女人登山の歴史は「女人結界の場」をめぐる闘争史である。戦国期の富士山庚申御縁年、天保3年9月27日のたつ女の初登頂の全行程、パークス夫人の富士登頂などを論じ、日英ハーフ女性の登頂記録も紹介](石川県立図書館)

・・・この本に限らず、「富士山文化研究会会長。富士学会理事」などの肩書きもある竹谷靱負たけやゆきえの著作は数多くの人が取り上げている。この日付について、初めは「誤植」かと思い、同書他の解説など読んでみたが、「目次」で目にしたのは何れも「第6章 天保3年9月27日のたつ女の初登頂の全行程」だった。

○[「高山たつ」は…富士山頂に立ち… 時は、江戸時代の天保三年、旧暦九月二十七日](『吉田口登山道』富士五湖 ぐるっとつながるガイド)

○[天保3年(1831年)辰の9月27日(※)、辰という江戸の25歳の女性が男装し、5人の男と頂上に登った文書が最近発見されており…](『日本山岳会』の記事より)

(※)「1831年」表記について:天保3年は壬辰じんしんの年である。「辰の(9月27日)」とあるので、明らかに「1832年」を指し、この「1831年」は誤りであろうから「1832年」と見做した。尚、「5人の男と頂上に登った」などとあるが、[高山家所蔵『富士講文書』に小谷三志直筆で「同行六人内女たつ辰二十五」と記され](ニッポン旅マガジン『地蔵院』より)がその根拠と思われる。


❹【その他/1833年登頂説】

○[1833年にたつは5人の男性と共に無事、山頂に達し、女性ではじめての富士山登頂者として言い伝えられています](或るネット記事)

○[高山たつ…彼女が富士登頂をしたのは1833(天保3)年のこと。不二道の開祖・小谷三志という人物の手引きで、男性5人と富士中宮に籠もったのち登頂したと伝えられています](或るネット記事)

⇒「1833年」説も散見するが、「天保3」年と併記している記事も見られる(1833年は「天保4年」)。



Ⅵ)【「庚申こうしん」年の由緒について】

❶【庚申伝説(富士山誕生伝承)】

富士山の誕生伝説には少なくとも二つあるらしい。①「考安天皇92年」と②「孝霊天皇5年」である。③「考安天皇44年」説もあり、「さる年」だが、「壬申じんしん」。非常に興味を引くが、殆ど流布されていないようなので一応省く。

 ① 第6代 考安天皇92年(紀元前301年-[西暦紀元前301年は、さる年で、干支かんし庚申かのえさる])

 ② 第7代 孝霊天皇5年(紀元前285年?/286年-[西暦紀元前286年は、年で、干支かんし乙亥きのとい])

・・・「孝霊天皇5年は庚申」と言う者はあっても、これは苦しい。或いは、「乙亥きのといの年」を採用しても良かったのではあるまいか。しかし、「がい」は「害」に通じるし、農作物などを荒らす「いのしし」では都合が良くないのだろう。

故に、干支に絡めて言えば、圧倒的に「考安天皇92年」が持ち出されている。しかし、だからこそ、こじつけであることは凡そ間違いない。


 ③ 第6代 考安天皇44年(紀元前349年-[西暦紀元前349年は、さる年で、干支は壬申みずのえさる])

[元禄5年/壬申じんしんの年(1692)9月吉日『冨士大縁起』(茶畑村浅間社)「ひそかに聞く…第六代孝安天王之治世四十四年壬申(※¹)之年に天曇り、大地震動すること七日七夜…忽然こつぜん山現やまげんず…其後用明天王之治世(※²)に聖徳太子権化して、六歳の時一切経を開き…飛龍に乗りの山に登る(※²)」](『裾野市史 第三巻 資料編 近世-第五章 村の生活と文化』より、意訳)

(※¹)「壬申じんしん」について:写真を見る限りは「壬(申)」だが、書写された本文は「閏(申)」となっている。PDF変換ミスかも知れないので、写真の文字を採用した。署名には「元禄五壬申歳九月吉日」とあり、明らかに「壬(申)」だろう(比較できる「写真」はないが)。

(※²)用明天皇の在位と第二皇子・聖徳太子の生没年(「太子が富士山に登った歳」について):用明天皇は、敏達びたつ14年(585)9月5日即位-用明2年(587)2月9日没。子・聖徳太子の生没年は、敏達3年(574)-推古30年(622)2月22日没。・・・つまり、この『冨士大縁起』では、太子12歳~14歳の時(「用明天王之治世」)に冨士山に登ったことになろう。「赫夜姫かぐやひめ」にも言及され、「改めて富士山と名づけたが…神体は女神故」、「冨士男」を以て賑やかにし、窮乏を救い、「富貴倍増、子孫繁栄」故に「冨士山」と名づけたとあり、良く理解出来ないが、「富(士山)」と「冨(士山)」が区別されている。・・・ところで、[「聖徳太子伝暦」(重要文化財、興福寺蔵)の中に、「(諸説あり…)二十七歳(西暦598年)の聖徳太子が、体が黒く足が白い馬に乗って富士山を飛び越え信濃に至った」という一節]があり(静岡県HPより)、「第33代推古天皇の時…空を飛んで富士登山をしたという伝説」もあるが…[推古6年(598)戊午つちのえうま 4月 是月 太子 甲斐烏駒を得る。/9月 附 神岳・信濃に飛ぶ。(聖徳太子伝暦-大日本仏教全書)](『日本古代史年表』東京堂出版)…う~ん、「うま」年なのか! 「うま」く合わせたものである。どうせなら、天竺へ飛べば?・・・馬鹿馬鹿しいのでこれ以上触れない。


❷【「考安天皇92年」の根拠は『富士山略縁起』(村山・興法寺)?】

○[万延元年の干支は庚申で、考安天皇92年の庚申年に富士山が出現したという縁起から、60年に一度の「縁年」とされる](信州大学付属図書館)

○[庚申年は「富士山御縁年」とされ、特に富士登山の御利益が高い年であるという。これは、庚申年に富士山が湧出したという伝説に由来するもので、江戸時代には広く流布していた。/庚申年は例年に増して多くの参詣者(登山者)が集まった。/申年も「小縁年」として信仰された。/富士市岩淵の岩淵鳥居講は、江戸時代から申年ごとに富士山山頂に鳥居奉納を行っており、今年…にも鳥居の奉納を計画している。/庚申御縁年の考えから、猿は富士山に縁があるものとされた。/村山で発行された富士山信仰のお札には、富士山の神仏である女神や大日如来を礼拝する2匹の猿が描かれている。また、江戸の富士講の信仰では、開祖・長谷川角行は、溶岩洞穴「人穴」での修行中、仙元大日神の使いである猿に導かれたという][孝安天皇92年の庚申の年の正月、駿河国が四方に割けて大海となり、その夜のうちに海から大山が現れて海を埋めてしまった。/村山の興法寺に伝わる「富士山略縁起」には、富士山の誕生(出現)についてこのように記されている。庚申年に突如富士山が出現したという話は、江戸時代には広く流布し、庚申年は富士山御縁年とされた](「富士宮市」HPより)


❸【「考安天皇92年」説と、主として「孝霊天皇5年」説】

○[富士出現に関し、『東海道名所圖會』には、「むかし孝安帝九十二年、この山初めて現ずとも、また孝霊帝五年、近州琵琶湖とともに一夜に現ずともいい伝えたり。ある説には、大むかしこの山雲霧深くしていまだ現れず、人民も少なくして、尋ね登ることなし。孝霊の御時、初めて霧はれ、見顕しけるとぞ。これらも都氏の記に見えざれば、正説にあらず」という記事があります(前掲『新訂東海道名所図会下』p50~p51)…(葛飾)北斎が、「孝霊(天皇)五年」説の方に則って富士出現図を描いていることが分かります](『浮世絵に聞く! 2.孝霊五年不二峯出現』より)

○[延宝8年(1680)に作成された「富士山」と題する「庚申縁年縁起の木版」(正福寺蔵)がある](或るネット記事より)

⇒尚、このブログには、参考文献『菊池邦彦,「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」『国立歴史民俗博物館研究報告第142集』,国立歴史民俗博物館,2008』が記されている。

○[葛飾北斎の「富岳百景」の中にも「孝霊五年不二峯山出現」という絵があり](『冨士エコツアー・サービス』の記事より)

○[富士山では昔から60年に一度訪れる「庚申」の年を「御縁年」と呼び、12年に一度訪れる「申年」を「小縁年」と呼んでいました。今年…の干支はその申年で、昔から申年に富士山に登ると何倍かのご利益があると言われてきました。それは、富士山が孝霊五年(紀元前286)の庚申の年に、近江の国が陥没し、駿河の国が隆起して富士山が出現したという伝承から来た話のようです](『冨士エコツアー・サービス』の記事より)

○[女性は、どんな時でも登れなかったわけではない。富士山の場合、庚申かのえさるの年には女性の登山を許可した。富士山が一夜にして出来上がったという孝霊天皇5年は庚申に当たる](或るネット記事)


❹【他のご縁年について(出羽三山)】

○[欽明8丁卯年(547年)に霊験あらたかで功徳のある神仏が月山にご出現されたことから、月山は卯年を御縁年としています。この歳に参拝すると12年分の御利益があると伝えられています](つるおか観光ナビ)⇒出羽三山の「ご縁年」は山により異なる。湯殿山 : うし歳、羽黒山: うま歳、月山: うさぎ歳、となるそうです。やはり、田畑や山を荒らすいのししはいない。


❺【庚申待こうしんまち 1481年】

○[庚申待こうしんまち(※)に連歌を楽しむ/ねむけざましやひまつぶしに…連歌が催された。文明13年(1481)2月15日の庚申の日、庚申待を勤めた中御門宣胤なかみかどのぶたね三条西実隆さんじょうにしさねたからは、参集した歴々の公家衆をまじえ、後土御門ごつちみかど天皇の発句ほっくで連歌を楽しんだ](『読める年表日本史』)らしい。

(※)「庚申待」について:「庚申祭こうしんまつり」の変化した語という。[干支えと庚申かのえさるにあたる日の夜に行なう祭事。…中国の道教における「守庚申(人の体内にすむ三尸さんし虫が庚申の夜に天に上って、その人の罪科を告げるという信仰から、その夜は潔斎して三尸の昇天をはばむ)」の行事が日本に伝わり、それに仏教と神道とが混交して独特の民俗的祭事になったという。庚申講が組織され、祭事は講中の家を輪番に回って行なう。終わると酒食が出て夜明けまで歓談をともにするので、江戸以来、庶民の社交の場ともなった。庚申。庚申会こうしんえ](『精選版 日本国語大辞典』小学館より)


❻【庚申塚について】

[16世紀のものが最古という。庚申を仏教では青面金剛しょうめんこんごうとし、神道では猿田彦として三猿の画像を碑塔に刻み…60年に一度の庚申年に建立されることも広く行われた。猿田彦が塞のさえのかみに付会されて、村境などの境界にたてられることが多かった](『山川 日本史小辞典』)

⇒「庚申塚」との関連性を追求してみたかったのだが、手に余るので、富士山に見られる「猿」の存在と、「16世紀…が最古」に注目して頂ければ幸いです。ところで、「還暦」は古くからあったらしいが、「一般化したのは江戸時代」(『百科事典マイペディア』)


❼【すべての道は「さる」に通ず】

○[申祭さるまつり…古く陰暦2月、11月の上申かみのさるの日に行なわれた奈良春日大社の春日祭をさす。また、別に、陰暦4月の第2回目の申の日に行なわれた滋賀県坂本の日吉ひよし大社の日吉祭をさすこともある](『精選版 日本国語大辞典』)

○[春日祭…嘉祥2年(849年)に始まったとされ、朝廷より出発した斎女(※)(内侍)が賀茂川で潔斎し、童女等を連れ、更に大臣や神祇官等総勢2000人の行列が祈願のため春日大社へ渡ってこられました。年2回、旧暦の2月と11月のかみさるの日が式日であったことから申祭とも呼ばれ、明治に新暦に改められると祭日は現在の3月13日に定められました。三大勅祭(葵祭、石清水祭、春日祭)の一つです](春日大社より)

(※)斎女いつきめ:[いつき清めて神に仕える少女](ブリタニカ国際大百科事典)/[貞観8年(866)12月25日 春日・大原野斎女を定む][貞観10年(868)閏12月21日 誤りて官符に記す春日大原社斎女の名を改む,25日 大和騎兵・執仗を春日斎女参社威儀に充つ](『日本古代史年表』)

○[全国には「日吉神社」「日枝神社」また「山王神社」とよばれる日吉大社の神様の御霊みたまをお分けした「分霊社」が約3,800社ございます。それらは方除の神様として、武士がお城や屋敷を建てるにあたり分霊されました。また「山王」とは日吉の神様の別名で、天台宗・比叡山延暦寺の守護神としての性格を意味します。それを「山王信仰」といい、天台宗のお寺の広がりと共に日吉の神様がまつられました。こうして全国に分霊社が増えるに伴い、「日吉さんといえばお猿さん」といわれるほど、魔除けの神猿まさるさんも広く知れ渡りました](山王総本宮 日吉大社)

○[日枝神社の社殿には、ほかの神社と大きく違う特徴があります。それは、境内に狛犬ではなく「猿」が置かれているところです。 猿は御祭神の大山咋神おおやまくいのかみの使いとされており、神様の使いの猿「神猿(まさる)」と言われ、敬われていました。その「まさる」という音から「勝る(まさる)」「魔が去る(まがさる)」とも考えられ、勝運の神や魔除けの神として置かれています。音読みの「えん」という音から、猿が「縁(えん)」を運んできてくれると考え、商売繁盛や縁結びの祈願を受けに来る方も多くいます](山王 日枝神社)

○[御神田の東側に神猿像が田んぼを見守るように2体あります](猿田彦神社)

・・・以下、余談。

『古事記と日本書紀』(ナツメ社)に、「国神くにつかみ猿田彦大神さるたひこのおおかみ(サルダビコノカミ)…鼻の長さ7尺、背の長さ7尺余り」とあったのでビックリしたが、その図解では「鼻の長さ約1.1m、背の高さ2.1m」ともあり安心?した。「しゃく」は分かるが、鼻の長さの単位が「あた」なのだと知って尚更驚く。「あた」と書けばその違いが分かるだろうが、罪作りな文字である。あたは「親指と中指(一説に人差し指)とを広げた長さ」と言われている。『古事記』には「八尺…八阿多やあた」とあるらしい。



Ⅶ)【女はどこまで登れたのか?】

❶【女人結界や女人禁制の初見】

○[各地の山々には女人禁制や女人結界の碑が残り、境界の地点を越えて女性が登拝すると山が荒れ大雨や土砂崩れなどが起るという伝承がある。…史料上の初見は、大江匡房編『本朝神仙伝』(12世紀前半)/山岳寺院への女性の入堂を禁じた初見史料は、最澄が比叡山での天台宗開宗にあたり大乗戒に基づいて僧徒を養成するための細則を取り決め、弘仁9年(818)8月27日に奏上した「勧奨天台宗年分学生式」(※¹)、いわゆる「八条式」に遡ると推定されている](『女人禁制と山岳信仰』鈴木正崇より)

(※¹)[弘仁9年(818)8月27日 最澄「勧奨天台宗年分学生式」(八条式)を制す](『日本古代史年表』東京堂出版)


❷【富士山の女人結界】

○[富士山の女人結界は、登拝道の北口(吉田口)、東口(須走口)、須山口では二合目の御室おむろ浅間社(※²)で、表口(大宮・村山口)は中宮八幡宮であった。吉田口二合目の御室浅間社(※³)は、勝山村の里宮に対する山宮、吉田の浅間社の「下の浅間」に対して「上の浅間」と称され、古くは「北室」「室ノ宮」と呼ばれ、富士山中で最初に勧請された社と伝える。天文23年(1554)の山中警護に関する小山田信有文書には「富士山北室之籠所」とあり、これより上は女人禁制で御室は女性の参籠所(※³)であった。行者堂が御室の西側にあり天文24 年(1555)の建立であった](『女人禁制と山岳信仰』鈴木正崇より)

(※²,³)御室浅間社:(※³)は「(富士)御室浅間神社」と思われるが、「富士山二合目という厳しい自然環境にあったものを、永久保護を目的として1974年(昭和49年)現在の地である場所へ遷座」されたので、件の場所(「奥宮おくのみや(旧本宮)」)とは異なる(現在は河口湖畔の「里宮さとみや」境内にある。遷座年に異説あり「1973~74年」)。また、須山口2合目にあるという「御室浅間社」(※²)は確認出来なかった(⑼で確認できた1合目の「御室明神」はある)。『富士山を中心にした登山地図(昭和23年発行)』(裾野市立富士山資料館資料集『富士山須山口登山道調査報告書』)で確認できたのは須走口の「御室浅間社」、須走口登山道の1合目と2合目5勺の中間にありました。逆に、この地図には、吉田口登山道にある筈の有名な「御室浅間神社」が見当たらない。同名なのでとても紛らわしいが、「御室浅間社」は幾つあるのだろう。

(※³)御室浅間神社の碑文と「参籠さんろう」:[二合目 御室浅間神社おむろせんげんじんじゃ…江戸時代まで、ここから先は女人禁制であった。](『御室浅間神社』碑文より)/「参籠さんろう」とは、「神社や仏閣などに参り、一定の期間昼夜こもって祈願すること。おこもり。」(『精選版 日本国語大辞典』より)


要するに、「吉田口」(富士吉田市の北口本宮浅間神社を起点)、「須走口」(現在も使われている)、「須山口」(静岡県裾野市にある須山浅間神社を起点)、「村山口」(古くは大宮浅間神社から村山浅間神社を通る道)という古道「登山口」からは女性が入れなかったということだろう。それらは1~2合目あたりに相当した。尚、江戸時代には川口(大石村)、大宮口も含め、登山口が6つあった(「登山口」と「入山」の区別が曖昧なのが気になる。登山口を過ぎれば「入山」なのか?「結界」は変わりうるのか)。各登山口の対応は同一・同様ではなかったので、一般論としての「○合目まで」というのは不正確であろう(※⁴)。

《各登山口の名称》

○[近世の登山口…北口・南口などの名称は様々に使われている。駿河からの登山口を総称して南口・表口、甲斐からの登山口を北口・裏口と称する場合もあれば、より細かく東口・南口・北口と区別する場合もある][川口…北口・裏口/吉田口…北口・裏口/須走口…東口・表口/須山口…南口・表口・東南口/大宮口…南口・表口・西口/村山口…南口・表口・西口](裾野市立富士山資料館資料集『富士山須山口登山道調査報告書』)

《「神聖性の境界」(馬返)について》

○[世界遺産の「富士山域」…富士山の価値にとって特に重要な地域(標高約1,500m以上)を資産範囲としています。その理由は有名な絵画に描かれた範囲が重なり合う部分にあたり、信仰の上では神聖性の境界のひとつであった「馬返」以上にあたるからです](静岡県HPより)とあった。

(※⁴)5合目について:[富士山の山麓から山頂に至る登山道を概ね標高に基づき10に分割した5番目の地点。五合目は、登山道ごとに異なるが、標高約2,400~2,500mの地点を指す](富士山世界文化遺産協議会/日本国『世界遺産一覧表への記載推薦書 富士山』より)


❸【女性はどこまで登れたか?】

⑴〈お胎内たいない

○[富士山では、山全体を大きな母胎と考え、その山麓にある洞穴を「お胎内:おたいない」と称している。その代表的な8ヶ所を富士八胎内とし、その中から「船津胎内」と「吉田胎内」が世界遺産に登録された。この二つの胎内は、吉田口登山道に近接して存在したことから、登拝前の人たちが前日にここを訪れ、洞内に潜って身を清めるなど、富士信仰巡拝の霊地として位置づけられている。/富士山は女人禁制であったが、お胎内には女性も立ち入ることができ、当時の女性たちが直に接することができる貴重な信仰の場でもあった](『世界遺産・富士山』政府広報オンライン)

⇒「吉田口登山道に近接…登拝前」とあるので、「船津胎内」と「吉田胎内」は2合目辺りと解釈すべきか? 「(全ての)お胎内」が2合目以下にあるのではなかろうか(※¹)と確認しようとしたが、力及ばず、分からなかった(※²)。地図上では、例えば須走口ルートの6合目辺りに「お胎内」があるようだから、2合目以下とは限らないのだろう。

(※¹)お胎内について:[各登山口に御胎内と称する溶岩洞窟がある](裾野市立富士山資料館資料集『富士山須山口登山道調査報告書』)

(※²)「標高」などについて:以下は全て未検証(ネット上にはいろいろな数値が入り乱れています。○合目は登山の目安であり、標高ではありません)。故に、決して信じてはいけません。―例えば「吉田口馬返し」は標高1,450m、「吉田口1合目」は標高1,520m、「吉田口2合目」(富士御室浅間神社本宮)は標高1,700m、船津胎内樹型がある「無戸室うつむろ浅間神社」は標高約1,050m、「須山お胎内」は1合目にあり、「須山御胎内周辺」は標高1,435~1,690m、村山口(登山道入口)の標高約500m、その先にある「中宮八幡堂」(1合目)は標高1,260m、「お胎内神社」は標高679m。


⑵〈村山口・中宮八幡堂ちゅうぐうはちまんどう(1合目)〉

○[女性は不浄とされ…村山口では1合目の女人堂(※³)までしか登れなかった](「ジャパンナレッジで閲覧できる『富士山』の日本大百科全書(ニッポニカ)のサンプルページ」より)

(※³)「女人堂」:「中宮八幡堂ちゅうぐうはちまんどう」(馬返し)の付近にある。なので、「中宮八幡堂」を境界とする者多数。


⑶〈吉田口・御室浅間神社おむろせんげんじんじゃ(2合目)〉

○[女性......不浄とされ、吉田口は2合目まで…しか登れなかった](『(横浜)緑区史資料編2』よりの引用らしい、或るネット記事より)

○[女性は不浄とされ、吉田口では2合目の小浅間上の御釜おかま(※⁴)まで…しか登れなかった](「ジャパンナレッジで閲覧できる『富士山』の日本大百科全書(ニッポニカ)のサンプルページ」より)

○[江戸時代には女性は吉田口登山道の2合目にある御室浅間神社(後に富士河口湖町勝山の里宮に移った)までしか登れなかった。そのために神社南東1㎞上に『女人天拝所』(※⁵)が設けられていた](『冨士エコツアー・サービス』の記事より)

(※⁴)御釜:「2合目を出発するとすぐ御室浅間橋が架かっていて、ここにある沢には御釜と呼ばれる穴があります。江戸時代まではここから先が女人禁制となっていました」という記事がある。しかし、ここでいう「小浅間」は確認出来なかった。

(※⁵)女人天上:[女人天上(富士山遥拝所女人天上)吉田口登山道 「富士山遥拝所女人天上」は、江戸時代、女人禁制であった富士山に対して、女性が富士山頂を遥拝できる最高度で山頂に最も近づけることのできた歴史的な眺望地点](国土交通省関東地方整備局)


⑷〈3合目/未検証(※⁷)〉

○[女性が禁止されている富士山ですが…女性でも3合目までは登ることが出来ました。最初は2合目までだったのが時代の変化か3合目まで登れるようにはなり](或るネット記事より)


⑸〈吉田口・御座石ございし浅間神社(4合5勺)/ご縁年〉

○[…すでに戦国時代に御座石と呼ばれており、「女性禅定にょしょうぜんじょう追立おいたて」の場とされていました。江戸時代になると二合目以上が女人禁制にょにんきんせいとされましたが、それ以前の戦国時代には女性はここまで登ることが許されていたようです。この岩は、古い時代における女人禁制の場を象徴するものでした。/この場所は、四合目といわれた時代もありましたが、現在では五合目となっています。](『富士山吉田口登山道 四合五勺よんごうごしゃく 御座石ございし』説明板より)

○[60年に一度の富士山の御縁年(庚申)時における…富士山北口(吉田口)において無数の男女の登拝者が群参している様子が描かれている。御縁年の登拝は、通常の年よりもご利益があるとされ、富士山は多くの参詣客で賑わった。江戸時代の富士山は女人禁制であったが、御縁年の際には登山結界が通常の2合目から4合5勺の御座石浅間神社まで引き上げられたので、女性の参詣客も多くみられた(富士吉田市歴史民俗博物館, 2006)](『近世期における富士山信仰とツーリズム』松井圭介, 卯田卓矢より)

○[富士山誕生にちなむ60年に1度の『御縁年(庚申の年)』、麓で7日間の修行をした者だけが4合5勺の御座石浅間神社まで登ることができたという(※⁶)。2合目付近は樹木が茂り山頂を拝めないため、山火事で開けた同所を遥拝所にし、そこから山頂を拝んだ。江戸時代の『富士山明細図』には、『女人御来迎場』として、大石と鳥居2基が立ち、山頂と御来光をそれぞれ拝む女性たちの様子が描かれている](或るネット記事)

(※⁶)修行の「免除」について:[御縁年にはいくつかの特典があった。そのひとつは、縁年を告げる建札にも「参詣之輩、無前斎致登山」とあるように、通常登山前に行うべき数日間の精進潔斎しょうじんけっさいを、縁年に限り免除するというものである](裾野市立富士山資料館資料集『富士山須山口登山道調査報告書』)


⑹〈5合目(表口)/ご縁年(1860年)〉

[「表口、女人登山五合目高祖堂迄ゆるす」『袖日記』][五合目高祖堂(現六合目)](裾野市立富士山資料館資料集『富士山須山口登山道調査報告書』)


⑺〈7合5勺(裏口)/ご縁年(1860年)〉

[「裏口ハ七合五勺(※⁷)迄女人登山也、但シ裏口の八合目より上ハ村山の支配也(※⁸)、是ヘ女人を禁ず」『袖日記』]

(※⁷)「富士講」では、ここも参拝の対象とされる。8合目(3,250m)。[身禄が入定したのが小屋に向かって右手の上にある社の脇の烏帽子岩えぼしいわのたもとである](『元祖室』山小屋ミュージアムより)。尚、角行が修行したと言われる「人穴ひとあな」の標高は約700m。

(※⁸)[富士山8合目上の支配権は、安永8年(1779)の幕府裁許状によって本宮浅間神社に認められていたが、登山者については聖護院直末として宮門跡を背景とした富士山興法寺の勢力が強く、8合目上も登山者は村山(富士山興法寺)が支配をしていたものと考えられる](裾野市立富士山資料館資料集『富士山須山口登山道調査報告書』より)


⑻〈8合目/ご縁年(1860年)〉

○[富士山では、「庚申の御縁年」にあたる万延元(1860)年に、女性の8合目までの登山を認めました](国立国会図書館『本の万華鏡 第18回 登山事始め―近代日本の山と人 第1章 新しい登山の姿』より)


⑼〈7合5勺ほか、山頂まで登らせよう…の動き(1860年)〉

○[万延元年(=安政七年)の御縁年…須山村では、当初前回の御縁年の組合村からの要望に懲りて女人登山を一合目の御室明神(※²)迄に止めていたが、吉田口では七合五勺まで、西口(大宮口=村山口)・須走口も三合目(※⁹)・四合目まで登らせているのを聞き、一合目の役場を迂回させるなどその取り締まりをゆるめている。吉田口や表口(西口)ではやがて頂上まで女人登山を認めようという動きも出たようである](裾野市立富士山資料館資料集『富士山須山口登山道調査報告書』)

(※⁹)「三合目」などがこの年の「御縁年」に限られたのか、或いは以前、或いは以降恒常的となったのか不明だが、「3合目まで登れるように」なったとする見解もある。


《この項の結びにかえて思うこと》

「登山」は山頂を目指す。だが、例えばエベレストは(チベット語で「チョモランマ(母なる大地の神)」、ネパール語は「サガルマータ(宇宙の頭)」で、何れも美しい。エベレストは測量したイギリス人の呼び名でしかない)、おいそれ登れる山ではない。最近は「インド」という呼び名を変える動きも見られるが…「エベレスト」へは、一生行かないだろう。けれども富士山は、一度は頂上まで登って「ご来光」を眺めてみたい(因みに私は拝まない。5合目へは車で、そこから6合目辺りまでしか登ったことがない。ちょっと立ち寄っただけ…これは「登山」と言えぬ)。

入山、登山、登頂は、もちろん違う。物見遊山や、生業としての伐木・山菜採りやキノコ狩り、或いは山で修行する為には別に山頂まで登る必要はない。登山目的ではない「入山」…裾野を歩き回ることもあれば、幾らか登る場合もあるだろう。せめて見晴台まで登ってみたいと思われる方もいる。……登れば、それも「登山」に違いない。

「霊山に信仰登山することを禅定ぜんじょう」といい、「登拝とはいの最終到達点である頂上のことを禅定と称する」こともある。「山頂を八葉はちよう蓮華れんげに見立てる修験しゅげん系の富士信仰」があり、内院ないいん(噴火口)の大日如来だいにちにょらいを中心として、外輪の峰々に仏像や懸仏かけぼとけが奉納されたりもする。しかし、例えば『法華経』を読むと、「諸優婆夷 皆勿親近」「寡女處女 及諸不男 皆勿親近 以爲親厚」などありガッカリする。『岩波文庫』版では、「諸の優婆夷に 皆、親近することなかれ。」「寡女やもめ・処女 及び諸の不男ふなんには 皆、親近して もって親厚ねんごろをなすこと勿れ。」と書き下され、サンスクリット語原典・口語訳だと「女の信者と親しくつき合うことを避けよ。」「婦女子たち・半陰陽の者たちと親しくつき合うことを避けよ。」と仰っている。これは「人」に対する釈迦の説法ではない。「男」に語る男の妄想である。正に「女人禁制」、男の虚栄心であり独占欲に他ならない。「欲」は、捨てねばならぬ。

「六十年に一度」は一生に一度あるかないかである。高山たつも、その時にしか登れそうもないから登ったのだろう。「庚申年」など待ってはおれぬ。「聖地」と仰ぐは自由だが、まことの聖地なら、君も仰ぐだけにすれば良い(※)。女を道連れにするなかれ。誰かが「聖人」や「求道ぐどう者」を気取り、勝手に結界を張り、「入るべからず」の杭を打つ。しかして俗人の「女人禁制」やその緩和策には、「土用のウナギ」よろしく、その日、その時、その年だけは儲けたい、あやかりたい…もっと欲張れば売れるかもしれぬ、楽しいかも知れない、そんな「下心」や「好奇」や「願望」が見え隠れする。周りと共に生きる為に身に着けた慣習は怖ろしく、偏見は容易に抜けないが、而して臨機応変な変わり身も潜む。無論、富士山は、眺めるだけでも美しい。

(※)「神域(神山)」について:[春日山かすがやま御蓋山みかさやまは神山のため、春日大神様の御神域を守るため平安時代に狩猟伐木禁止の太政官符が朝廷より出され、現在まで原生林として保たれています。県庁所在地に原生林が残るのは春日の神域だけで、神様の下で原生林の自然と「神鹿」を始めとする動物と人間が共生する世界です。(「春日山原始林」は国の特別天然記念物)](春日大社)/[承和8年(841)3月1日 大和春日社神山での狩猟・伐木を禁ず](『日本古代史年表』)



Ⅷ)【男も登れなかった富士山?】

○[山への登拝は、男性に対しても一年中いつでも開放されていたわけではない。相模大山は旧暦6月27日から7月17日まで(『東海道名所図会』)、富士山は旧暦6月1日から7月26日まで(※¹)、大峯山は現在でも5月3日の戸開けから9月23日の戸閉めまでである](『女人禁制と山岳信仰』鈴木正崇より)

(※¹)富士山の閉山:通常は、「富士登山…旧暦6月1日~7月27日」(大倉精神文化研究所)ともある。各史料を明示して夫々それぞれ「6月1日~7月27日」と「参詣登山は六月朔日から七月二十六日まで」(裾野市立富士山資料館資料集『富士山須山口登山道調査報告書』)となる場合があり、史料により日付が違う。「旧暦6月1日~7月21日」(『近世期における富士山信仰とツーリズム』松井圭介, 卯田卓矢)とするものもある。


ところで、「1860(安政7=万延元)…今回は登山期間を5月中から8月まで(※²)としており、期間の延長をはかっている」(裾野市立富士山資料館資料集『富士山須山口登山道調査報告書』)事実もあったらしい。或いはそれと多少重なるが(「安政7年6月1日~8月15日」)、「安政六年(1859)富士山開帳の引札」と題して史料を挙げ、[安政六未年所々二披露ノ札ナリ「庚申六十一年目 冨士山開帳…表口麓方御頂上迄、其場所々ニおゐて来ル庚申年御縁年二付、六月朔日方八月十五日迄令登山拝礼もの也」](『裾野市史 第三巻 資料編 近世-第五章 村の生活と文化』より)もある。「山開き」などが決まっていても、その期間以外に登る人は大勢いる。しかし、冬山はとても怖い。夏山でも、やはり恐ろしい。


高山たつ御一行は数人の男女で旧暦9月26日頃(西暦10月19日頃)に登っている。パークス御一行が登頂したのも旧暦9月18日(西暦10月15日)。オールコック御一行(※²)は旧暦7月26日(西暦9月11日)登頂を果たし、各々、それから下山していた。

・・・オールコック一行を除く(※²)2組は、明らかに登山期間過ぎに登っていたことになる。だから問題は、①何故この時期を選んだのか?②嫌がらせはなかったか?③山じまいの後にも「検問」(入山料などの徴収)はあったのか(※³)、である。パークス夫人は歓迎されたらしい(この頃既に「女人禁制」の観念は崩れていたと見るべきだろう)。オールコック一行には見物人が群がり、村を上げて準備されたが…更に高山たつの場合、④男装は本人の意志か?⑤その後どうなったのか、が気になる。が、全くそれが見えてこない(「男装させた」という記述は多いが、当人の「意志」確認への言及がない)。つまり女は、登る強い意志があり、時期を外せば山頂を目指せた、登っていたのかも知れない。だが、危険も伴う。世の中が安定し始めた江戸期だからこその問題なのだろう。古くから冨士は霊山で、男や女にも遙拝の象徴だった。

(※²)登山期間について:Ⅲ)-8)1860年(万延元年)の「信州大学付属図書館」記事も参照して頂きたい。[万延元年…立て看板に「四月より八月迄不限男女信心之輩可被登山参詣もの也」]とある。つまり、オールコックらは、「その年の」登山期間内に登っていた。

(※³)中宮八幡堂の場合:「中宮馬返しとも言われ、村山より派遣された社人が常駐しており」(「YamaReco(ヤマレコ)」より)とあるが、「常駐」の実際が知りたい。一年中なら、高山たつ一行との「やり取り」などが残っていても良さそうなのだが、今のところ見当たらない。



Ⅸ)【富士山は誰のもの?】

○[1609年には徳川幕府により山頂部における富士山本宮浅間大社の散銭取得権が優先的に認められた(※¹)。これを足がかりとして、富士山本宮浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり(※²)、1779年には幕府の裁許に基づき8合目(※³)以上の支配権が認められた。1877年頃には明治政府が8合目(※⁴)以上の土地をいったん国有地と定めたが、1974年の最高裁判所の判決に基づき、2004年には富士山本宮浅間大社に返還された](富士山世界文化遺産協議会/日本国『世界遺産一覧表への記載推薦書 富士山』より)

○[1962年(昭和37年)3月27日 国と浅間神社の争奪戦に名古屋地裁は「8合目(※⁵)以上は浅間神社のもの」と判決を出した](『読める年表日本史』)

○[富士山には所有者がいる…富士山の8合目(※⁵)以上は、静岡県富士宮市の富士山本宮浅間大社の私有地(※⁶)であり、浅間大社の境内となっている…平成16年(2004年)、最高裁の判決にもとづき、財務省東海財務局が、土地を無償譲与する通知書を神社に交付している](『雑学帝王500』中経の文庫)

(※¹)「1609年…散銭取得権が優先的に認められた」:事実は未確認だが、慶長5年(1600)「大宮におゐても冨士山八合目より支配と申証拠ハ無之といへとも、慶長五年関ヶ原御合戦の節、御願望御成就本社末社不残御再建被為成、其後散銭等ハ修即に可致旨、井出藤左衛門・今宮惣左衛門・佐野平兵衛より大宮司へ引渡証文」(『裾野市史 第三巻 資料編 近世-第五章 村の生活と文化』/「 安永八年一二月五日富士山八合目支配等出入につき裁許状」より)

(※¹,²,³,⁴,⁵)「山頂部」と「8合目」:通常全て同一と見做されようが、「優先的に認められた」山頂部と「管理・支配を行う」ようになった山頂部、或いは「幕府の裁許…8合目」の範囲が完全に等しいか定かでない。オールコック一行が泊まった6合目(石室)は現在の7合目らしいので、「幕府の裁許…8合目」と明治政府の「8合目」などが等しいのか疑問が残る。「山頂部」は曖昧で、「8合目」は客観的な具体性を欠く。尚、現在の「本8合目(吉田口より)」の標高は3,400mという。

(※³)幕府の裁許:裁許は安永8年(1779)12月5日。発端は、「冨士山北面八合目字胸突甲州分」で「行倒死人」が出たと「上吉田村」が伺い立てたこと。「代官役所へ見分」願いで、「駿州大宮郷浅間社中支配」とされたが、今度は「須走口九合目に商人体のもの倒相果る」を見届け・関連しているとして「須走村冨士浅間」が「領主役所へ検使」を願い出た。先の「甲州上吉田村より」申し立てられた「代官役所」はその旨を「領主役所へ通達」、「立合見分」のつもりで「大宮へ」通達したら、「大宮支配に付死骸取片付る」と返答され、結局、各「死骸」をどこが片付けるべきかという三つ巴の争いになった。「大宮におゐても冨士山八合目より支配」の「証拠ハ無之」、そうして、過去の「宝永・正徳・寛保并明和五年も頂上にて相果る参詣人」などの事例や、元禄16年(1703)の「散銭さんせん」の配分(須走村と大宮浅間)など引き合いに出された上での「幕府の裁許」(「冨士山八合目より上ハ大宮持たるへし」)であった。

・・・要するに、「死骸」処理の責任主体=「支配範囲」が確定すれば自ずと「散銭」も正々堂々頂ける「争い」なので、必死だったのだろう。特に山頂のお賽銭は莫大であったらしいので、「聖域」を護るとは言え、極めて世俗的な争いでもある。神社仏閣の修理・維持費は入山料や賽銭などで捻出しなければならず(※⁷)、道中様々な人の生活がかかっている。

(※³,⁴,⁵)8合目について:[富士山の山麓から山頂に至る登山道を概ね標高に基づき10に分割した8番目の地点。八合目は、登山道ごとに異なるが、標高約3,200m~3,375mの地点を指す](富士山世界文化遺産協議会/日本国『世界遺産一覧表への記載推薦書 富士山』より)/[(須走口)八合目は大行合おおいきあいと呼ばれ、須走口登山道と吉田口登山道が合流する地点である。ここから登山道はひとつになり、富士山頂上へと至る](『世界遺産 富士山とことんガイド』より)/[富士山の本八合目にある富士山ホテル。吉田口登山道の上から数えて3番目…標高3,400メートルとかなり高く、胸突八丁むなつきはっちょうと呼ばれる、最後の難関の場所にあります](『富士の国やまなし』より)

(※⁶)火口の大きさと私有地面積:「火口の構造は、国土地理院によると、最深部の標高が3,538.7m、火口の深さは約237m、山頂火口の直径は780m、火口底の直径は130m」(ウィキペディア『富士山』より)/浅間大社の土地は「約385万m²(約120万坪)」らしい。

(※⁷)入山料などについて:[江戸時代 は 、「山役銭 」といった入山料的な金銭を納めることが必要な山でした。江戸時代の登山案内『富士山道知留辺』には、「山役銭を出しミをきよめ斎山行のよそおいをととのふ」とあります。時代によっても差がありますが、『甲斐国志』の記述では、不浄祓ふじょうはらえの料32文、二合目 役行者えんのぎょうじゃ賽銭20文、金剛杖14文(内8文は杖代)、中宮三社への御供料32文(内16文は休息料)、頂上薬師ヶ嶽20文(内14文大宮神主、6文は吉田師職)の合計118文(実際に納めるのは122文)の山役銭を山中4箇所それぞれで納めました。江戸時代の後半の記録では、山中4箇所で徴収していた山役銭を御師が麓で一括して集め、登山切手を発行し、4ヶ所の役銭場はそれを検める所となりました。また、それら以外にも梯子の使用料である梯子銭や登山道を修理する道造銭なども登山者から徴収することもありました](『富士吉田市歴史民俗博物館だより』MARUBI 33 号より)


以上から、8合目より上は公的には「富士山本宮浅間大社」のモノである。それが(ご縁年の…恐らく「1860年」だけと思われる)女性登山の限界地点であった。だが逆に、頂上までもが公的に禁じられた所ではなかったと言えなくもない。そこは果たして「私有地」と言うべき処なのか?

・・・山は、誰のものでもない。「宗教」の本質は正に信ずることにあり、強制されるものでは決してない。



Ⅹ)【女人禁制(結界)の廃止とその理由】

❶【明治4年と明治5年の出来事(背景)】

主に『性風俗史年表 明治編』(河出書房新社)で、女人禁制廃止と言われる「明治5年」の前年からその年まで、関連記事を拾ってみたい(一部抜粋。同書と異なり旧暦を手前にして統一、◎は重要事項)。

【明治4年】

 ◎[1月5日 寺社領を没収、府藩県管轄とする](『日本史年表』東京堂出版)

  [3月 昨年から続いている排仏運動が、三河菊間藩の護法一揆で最高潮に達した](『読める年表日本史』)

 ◎5月14日(1871年7月1日)神社がすべて国家の支配下に置かれる。この時、神社仏閣に性神を祀るのは見苦しいとして廃棄を命じられ、東京では隅田川に大量の性神が捨てられたため、見物人が殺到。

 ◎7月22日(1871年9月6日)国内旅行が自由となる。

  [旅行者や寄留者に鑑札を渡す制度が7月22日廃止されて、旅行などが庶民の自由となった](『読める年表日本史』)

  8月2日(1871年9月16日)東京・築地の外国人居留地の居住者は72人。アメリカ人20人、イギリス人16人、フランス人6人、清国人10人、スイス人6人など。

  8月28日(1871年10月12日)横浜に混血児教育の亜米利加夫人教授所が設立される。

 ◎10月10日 第1回京都博覧会(『日本史年表』東京堂出版)(※¹)

 ◎10月 岩国県(山口県)が女校条令を制定し、男女同等の原則を明示。

 ◎10月 京都で銭湯の…「未だやまない男女の混浴はさらに厳禁」とする。(※⁵)

  11月12日(1871年12月15日)(津田梅子ら女子)5人が、特命全権岩倉大使一行と共にアメリカ留学のため出発。女子留学生の第1号。

 ◎11月 横浜で立ち小便禁止の布告…市内33か所に…公衆便所ができる。…罰金100文。1か月に85人の違反者が出る。公衆便所の初め。


【明治5年】

 ◎2月25日(1872年4月2日)「お産の穢れははばかるに及ばず」との布令が出される。

 ◎2月 東京府庁が芝居の太夫元や作者を呼び、高貴の人や外国人の見物人が増えつつある折りから、従来の淫奔劇を排して道徳の一端となるものを取り上げるよう説諭。

 ◎3月10日 第1回(京都)博覧会(『読める年表日本史』)(※²)

  3月19日(1872年4月26日)女相撲が禁止される。(※³)

 ◎3月27日(1872年5月4日)神社仏閣への女人禁制が廃止される。高野山(和歌山県)、男体山(栃木県)、岩木山(青森県)なども解除。

 ◎3月 神奈川県が裸で市中を通行すること、男女混浴を禁止。(※⁵)/5月には違反者の罰金を200文と定める。これまでは市中を港湾関係者(人足)がふんどし1本、銭湯に行くときはすっ裸でかっ歩。居留地の外国人から非難されていた。東京でも禁止。

 ◎8月15日(1872年9月17日)東京府、市内の再生温泉に混浴を禁止するように通達。(※⁵)

  8月 農民間の身分制の草分・水吞みずのみ等が禁止され、職業の自由が許可される。

 ◎9月 加持祈禱が禁止される。呪詛じゅそ・家相・人相等の占いも禁止。

  10月2日(1872年11月2日)人身売買禁止・娼妓の年季奉公廃止…芸娼妓解放令。(西暦)7月に発生した「マリア・ルーズ号」事件(※⁴)を審理中、ペルー側から「日本の芸娼妓制度も人身売買だ」と反論され…。

 ◎10月 上田女学校(通称・万年橋女学校)で男子にも教育を始める。科目は仏語、英語、独語。男女共学の初め。

 ◎11月8日(1872年12月8日)違式註違条令が制定される。その中で立ち小便、混浴、往来を裸で通行することなどが禁止される。(※⁵)

 ◎11月9日(1872年12月9日)太陽暦が採用され…。

  「12.9[11.9]太陽暦が採用され、この日が明治6年1月1日となる。1日24時間制も採用。」とあるが、布告は確かに明治5年11月9日(1872年12月9日)だが、「この日が明治6年1月1日となる」訳ではない(誤り)。実際は、明治5年12月3日を以て新暦の明治6年1月1日(1873年1月1日)とした(前日の明治5年12月2日は、西暦換算で「1872年12月31日」)。

 ◎11月14日(1872年12月14日)山梨県が道祖神祭を廃止し、道祖神や石のご神体を最寄神社境内へ移させる。甲府旧市域の道祖神祭は消滅。

 ◎11月23日(1872年12月23日)婦女子の大相撲見物が自由となる(2日目から)。初日から場所を通して見物できるようになったのは1877年以降。

 ◎11月(12月)京都市中の街頭に公衆便所が設置される。

 ◎ この年 東京の銭湯に、男女両槽をガラス張りで区別するところが登場。(※⁵)

 ◎[この年 僧侶も肉食・妻帯/排仏と開化の風潮から各地の石仏がとり払われる](『読める年表日本史』)。


(※¹,²)「(京都)博覧会」について:明治4年が日本で最初に開催された『博覧会』(※¹)。回数を冠した最初が明治5年の『第1回京都博覧会』(※²)。これら年表のように、「初」として「第1回」とする「第1回京都博覧会」と、正式名称としての『第1回京都博覧会』がある。非常に紛らわしいが、その「違い」をコンパクトな年表で周知させるのは難しい。

(※³)相撲など(異説あり):江戸時代、女相撲禁止時期があるらしいが未検証。1624年江戸勧進相撲の初め。1629年風紀を乱すとして女歌舞伎・女舞など女性芸能禁止。1648年江戸市中取締令…勧進相撲(後に復活)、博奕など禁止。婦人関所手形の条令制定。1694年路上での相撲禁止。1703年辻相撲・辻踊り禁止。1773年素人相撲興行での木戸銭徴収禁止。(以上『江戸時代年表』)

(※⁴)「マリア・ルーズ号」事件:6月7日(1872年7月12日)横浜に到着したペルー船「マリア・ルーズ号」から清国人苦力が脱走。船内における虐待が発覚。日本政府が苦力231人を解放させる(同『性風俗史年表』)。尚、「人身売買の禁止」は江戸時代初期(1619年)に出されている。

(※⁵)男女混浴の禁止:古くは797年、江戸時代には銭湯で幾度も、幕末は1858年に混浴禁止が出されている。「居留地の外国人から非難されていた」(『性風俗史年表』)男女混浴は、明治になっても、以降何度か禁令が出されている。混浴は銭湯から消えたが、温泉地では辛うじて残る。庶民はしたたかで、「禁令」が如何に無力かということ(だが、未だ「女人禁制の霊山」があるようだ)。


興法寺こうぼうじの消滅〉

○[村山は、富士山における修験道の中心地であり、明治時代の廃仏毀釈運動により廃されるまで、興法寺という寺院があった。…明治初年の神仏分離令により、三坊の修験者は還俗し、興法寺は廃され、興法寺の中心的堂社であった浅間神社と大日堂は分離された。…修験道は明治5年(1872)に禁止されたが、村山の法印ほうえん(修験者)の活動は1940年代まで続けられた](「富士宮市」HPより)


❷【女人結界の場を廃す(布告)】

◎[明治5(1872)年3月に太政官布告第98号「神社仏閣女人結界の場所を廃し登山参詣を随意とす」によって多くの山で「女人禁制」が解かれるようになりました。こうして徐々に女性登山者の姿が増えていきます](国立国会図書館『本の万華鏡 第18回 登山事始め―近代日本の山と人 第1章 新しい登山の姿』より)


❸【「女人禁制の廃止」ではない(「解禁」の本当の理由)】

○[女人結界の解禁の布告は、寺社の歴史的経緯や霊山の状況を慎重に検討して出された指令ではなかった。…明治5年(1872)開催の第1回京都博覧会(❶-※²)に訪れる外国観光客への対応で、外国人男性が夫人同伴できて比叡山への登山を希望した時に女人禁制を根拠に夫人が拒否されれば「固陋の弊習」として非難されかねず、文明開化を急ぐ近代日本には好ましくないと考えた。滋賀県令が比叡山の解禁を求めて大蔵省の同意を得て解禁に動いた。しかし、比叡山延暦寺は猛反対…最終的には太政官布告は「文明の上より論じ候へば」と理由を明記して解禁を命じ、明治5年4月8日が解禁日となった](『女人禁制と山岳信仰』鈴木正崇)


❹【『京都博覧会』について】

⑴【日本初の「博覧会」】

既に見てきたように、「女人禁制」の観念は次第に薄れてゆくが、例え庚申年であっても女性は富士山頂まで登れなかった。一人の女性が登頂した記録はあるが、数人の男に紛れて「男装」せざるを得なかった。外国人女性も登頂したが、それは「公使夫人」という身分が故である。何れの場合も、女性単独では登頂していない。また、一般の外国人は、遠出を自由に出来なかった。

・・・それらの状況を一変させたのが「博覧会」である。

日本初の「博覧会」は地域の豪商が発起人となり、京都で開催された。しかし、「開催の2日前(10月8日)…入場券(博覧会通券)発行と広告建札の許可を申請し、即日許可された」(『明治初期京都の博覧会と観光』工藤泰子)が、その広告で「但品物ヲ出サント望人ハ会場ニ持来玉へ」(『京都博覧協会史略』京都博覧協会)と、開催直前でも出品を募る有様だった(そこそこの入場者がありながら、主催者は「失敗」と捉えていた)。閉幕から4日後に設立された半官(京都府)半民の[京都博覧会社は、1872(明治5)年開催のものを「第一回京都博覧会」とし、1871(明治4)年のものは産業振興という目的からかけ離れていたために除外している](『明治初期京都の博覧会と観光』工藤泰子)…ことは頷ける。そうして、翌年に開催された『京都博覧会』が「第1回」となった訳であるが、その『第1回京都博覧会』が極めて重要な意義をもつことになる。


⑵【二つの『第1回京都博覧会』及び「第2回…」(その規模など)】

初の『京都博覧会』は、明治4年10月10日~11月11日、西本願寺で開催され、「入場者11,211 人(ほかに特殊熟覧者244人)」であった。本格的に始動し、「第○回」と初めて冠された、翌年の『第1回京都博覧会』(1872年3月10日~5月30日)は、「3カ月で約4万人が訪れ」た。更に、翌『第2回京都博覧会』は、入場者が激増した(しかし外国人は減っている)。(『明治初期京都の博覧会と観光』工藤泰子より)

○[第一回京都博覧会(1872)の入場者数が邦人38,634人、外国人770人であったのに対し、第二回(1873)はそれぞれ70万6,057人、外国人634人であった(『京博史』1937:11-53)。御所拝観ができることで入京者が増加した](同上)

○[1872年の第1回では外国人に向けた告知が、東京の日本橋、横浜、神戸、大津の札の辻・石場・小舟入、大阪の八軒家・高麗橋・川口・日本橋に掲示された。一方、当時は外国人の国内移動が制限され、博覧会訪問には大阪または兵庫で自国の領事による認証が必要であり、博覧会に伴う遊覧は京都府と彦根から草津・堅田にかけての琵琶湖(滋賀県)に限られた](ウィキペディア『京都博覧会』より)

○[(明治5年)3月10日から50日間、京都本願寺、知恩院、建仁寺で第1回博覧会、新古美術品を展観]「3月13日、第1回京都の博覧会余興に、府知事のすすめで、都踊・鴨川踊・東山名所踊競演。都踊はこの後毎年おこなわれる(※)](『読める年表日本史』)

⇒この「会期」(原文「五〇日間」)は誤り(実際は「3カ月」)。

(※)「都をどり」など:[祇園の「都をどり」、先斗町ぽんとちょうの「鴨川をどり」などが始まったのも、この時からです。たいへん好評で、「都をどり」は現在までつづいていますし、「鴨川をどり」も、一時中断しましたが、いまは復活されて、ともに京都観光の代表的な年中行事になっています](京都ホテルグループ)


❺【公衆便所から見える「開国」-終章-】

以下、当時の様子が分かる一文を紹介したい。

○[明治5年の陰暦3月10日から80日間、わが国最初の博覧会が、知恩院・建仁寺の2会場で(※¹)、開かれることになりました。古都の伝統産業などを広く紹介するとともに、海外からも出展してもらい、文明開化の空気を京の町に導こうということです。それにはどうしても、外国人の入京制限を解いてもらう必要がありました。/京都府の陳情をうけて、政府は、早速、各国の公使領事あてに、京都で博覧会を開催するので、入京を許可する旨を伝え、出展を促しました。京都府も外国人入京規則をつくって、外国人専用の案内所を、神戸・大阪のほか、京都の入り口などに設けるとか、市民との間にトラブルが起きないようにと、官服の袖に英語で「ガード」と書いた「ポリス」を巡回させ、また、辻には公衆便所をもうけたり(※²)、道路沿いの溝には蓋をさせたり、外国人の入京に備えました。/外国人たちも、これで初めて、日本の奥地へも旅行が出来るようになったのでした](「京都ホテルグループ」より)

(※¹)明治5年は3会場:「わが国最初の博覧会」は明治4年(於:西本願寺書院)。明治5年の『第1回京都博覧会』の会場は本願寺、知恩院、建仁寺の3箇所。

(※²)京都の公衆便所:明治5年11月に設置された(年表参照)。横浜に現れたわが国初の公衆便所も「初の博覧会(明治4年)」期間中に間に合わなかったと考えられるが、京都のそれは完全に間に合わなかった。京都の公衆便所は、『第2回博覧会』(明治6年)以降にはあるが、明治5年に設置されたとしても、明治5年の『第1回京都博覧会』の出来事として語られるのは不適切であろう(設置中かも知れないが)。「ポリス巡回」は「第1回(明治5年3月)」へ向けた試みであったようだが、国の対策が後手に回っていることに失望する。とともに、如何に外国人受け入れに躍起となっていたか、が見えてくる「公衆」の有り様が面白い。


明治5年1月29日 世襲の卒を士族に編入、皇族・華族・士族・平民、四族に。2月1日 前年の戸籍法で「壬申戸籍」施行、人口3,311万825人。2月15日(230年縛った)土地永代売買解禁。5月7日 品川・横浜(桜木町)間で鉄道仮営業(9月12/13日 新橋・横浜間で開業)。9月29日 神奈川県庁・本町通り間に10数基のガス燈点る。10月4日 富岡製糸場開業(日曜以外は外出禁止)。11月15日 神武天皇即位の年を紀元とし、即位日1月29日を祝日に(1873年10月14日 これを2月11日に改定)。


養蚕盛ん、ネズミの駆除で、猫の値上がり、散切り頭で帽子は不足(大阪)、兎の飼育大流行り。各地で電信線の工事が始まると、「処女の生き血を塗る」とデマが飛び(広島・山口)、戸籍番号は「生き血を取る順番」と騒がれた。東京日日「家出人広告」初めて載り、彗星衝突デマで、海岸沿いから山手へ、我先移転。太政官告諭に「物には税があり、これを血税という。その生き血をもって国に報ずる」とあったが為、徴兵制度で血を取られると、全国大暴動(翌年1月10日、徴兵令)。

前年横浜の立ち小便禁止で、公衆便所初のお目見え、受けて本年新潟で、各戸前に小便壺を置くこと禁止、京都市中に公衆便所。混浴禁止を各地で厳命、銭湯工夫し大わらわ。小便するな、裸で歩くな、外人さんに嗤われる!


明治五年 太政官布告 第九十八号

○三月廿七日

神社佛閣ノ地二テ女人結界ノ場所有之候處自今被廃止候條登山参詣等可為勝手事


[[明治]4年12月大蔵省より「滋賀院」の名号みょうごうを廃し、5年3月延暦寺の女人登山を許した](『滋賀縣史』第4巻より)

ーー明治5年12月3日、明治6年1月1日(1873年)の初日の出。比叡山は「都の冨士」と呼ばれていた。[貞観2年(860)5月5日 駿河、富士山上の五色雲を奏上](『日本古代史年表』)

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