『武家諸法度』の「寛永(12年)令」(1635年,3代将軍家光)で頭を抱えている。
代々「文武弓馬之道専可相嗜事」から始まる『武家諸法度』を、5代将軍綱吉が「文武忠孝を励し可正礼儀事」に変えたこと(1683年「天和令」)、且つ、8代将軍吉宗が、新井白石起草(6代将軍家宣)の「宝永令」(1710年)を否定して、その「天和令」に戻したことでも知られるが、キリシタン制禁は、「寛文令」(1663年,4代将軍家綱)で初めて追加された(全21ヵ条)、と思っていた(尚、綱吉は「キリシタン条項」を削除し、15ヵ条にまとめている)。
しかし、先日「国立国会図書館デジタルコレクション」で「寛永(12年)令」を読むと(漢文。訓点はあるが、句読点は一切無し)、ナント、キリシタン制禁の条文も入っていたのである(全21ヵ条/画像は司法省調査課,昭和7年6月)。——「寛永(12年)令」には「キリシタン」条項が無い(全19ヵ条)、それは「常識」の部類であった。他のあらゆる論文・史料を漁っても、出てくる答えは一つ、そのことの再確認でしかない。
しかし、思い立って遙か昔の『日本史史料集』(自由書房)を読み直すと、「寛永(12年)令」(『武家諸法度』)に「一、耶蘇《やそ》宗門の儀、国々所々に於いて、弥《いよいよ》堅く禁止すべきの事」とあるではないか。その解説には、「右に掲げた寛永十二年(一六三五)令は三代将軍家光の発布したものであって、元和令に参勤交代の制度化・大船の建造禁止等の新内容八条を加え計二十一条としたものの一部である」 と書かれている(「元和令」は1615年,2代将軍秀忠・大御所家康)。その史料集は、同じ高校に通っていた二学年上の姉のお下がりであるが、当時まともに読んではいない。無論、覚えている訳がない。
さて、何れが信じられるのか。この50余年で歴史の解釈が変わったのだろうか。近頃の一般論に迎合すれば話は簡単なのだが、大いに悩む、今日この頃。生類憐みの令の論考は「638,745字」となった。
以上は今日Facebookでつぶやいた一文である。こんな調子なので、文章(年表がかなりを占める)は増える一方。近日中に一部公開予定だったけれど、当分無理という気が優勢であることは否めない。