56「幕は閉じない」


 平成十一年、九月。

 これが、僕が大学一年生の秋、初めて文乃さんにお会いした年に起きた出来事だ。補足という程でもないが、いくつか説明すべき点があるような気がして、改めて事件を振り返ってみたいと思う。まず結論から言えば、幸運な事に此度の事件関係者からは一人の死者も出なかった。

 あれだけの傷を負った文乃さんが命を落とさなかったのは、単なる奇跡ではなく、間違いなく三神幻子のおかげだった。それは、何故彼女が決戦の舞台に遅れて登場したのか、という理由と深く関係している。あの日、マンション管理人室で文乃さんに霊的治療を施したのは、三神さんではなく幻子の方だった。彼女が行った施術はいわゆる『手かざし』と呼ばれる民間療法の一種で、例えば痛みのある患部に第三者が手をかざしているだけで痛みが和らぐ、という実験結果が数多く報告されている。効果があるかないかで言えば、あるのだ。そして幻子の行ったそれは、一般的な手かざしのいわば『神の子版』である。

「私がこの国で最強だと認める治癒者ヒーラーに力を借り受けるべく、会いに行っていたんです」

 遅れて来た理由を、幻子はそう述べた。この時、彼女の言葉を本当の意味で理解できたのは師である三神さんだけだった。しかし、未来予知の出来る幻子には文乃さんに降りかかる惨状が見えていたのだろう、と推測することは出来る。

「迷いました」

 と幻子は言う。「もっと多くの道祖神を回って、さらに大きな『対抗する力』を借り受けるか。あるいは自分の見たものを信じて『治療する力』を借り受けるか。……自分を信じて良かった。未来を変えなくて良かった」

 文乃さんは助かるのかと詰め寄ったる僕に、幻子は真顔でこう答えた。

「というか、助けます。絶対に」

 そんな、他人の力を一時的とはいえ借り受ける事の出来る幻子とは逆に、自身の持てる力を全て失った人間もいた。池脇竜二さんだ。彼はこの事件をきっかけにして、神クラスと言われたエーテル体、いわゆる霊的加護の一切を失った。それが池脇さんを守護する存在であった以上、使い果たしたとか相殺されたとか、そういった質量的な問題ではないとの話だったが、守護霊の消滅がどういう理屈によるものなのかは僕には理解出来なかった。だが、初めから霊的なる存在自体を信じていない池脇さん本人はあっけらかんとしたもので、説明を受けた後も首を横に振って、

「だからなんだよ」

 と、笑って言ってのけたそうだ。

 しかし後に、幻子は僕にだけそっと打ち明けた。

「本当は、池脇さんの現状は、笑って済ますことが出来る事態ではないんです。彼をずっと守ってきた力という存在を、全部失ったんです。それはきっと彼だけでなく、周囲の人間にも多大な悪影響をもたらすことになる。おそらく彼はこれから、多くのもを失うことになると思います」

 なにか見えたのか?という僕の問いにはしかし、幻子は頭を振って答えた。

「……とは言え彼は、世界中から愛される人になります。多くのものを失ったとしても、より多くのものを手に入れ、誰よりも幸せになります。何せ、物理系最強アタッカー、ですから?」

 ここでそれを言うのか、と僕は目を丸くした。

 おかしいとは思っていた。池脇さんほど強い霊的加護を受けていながら「物理系」は似つかわしくないんじゃないのか、とずっと思っていた。だが幻子には、池脇さんがその加護を失った後の事まで見えていたのだ。日本一恐ろしい女子高生だと、僕は本気でそう思っている。

 そして一番の疑問点。

 なぜ、今回の事件は起きたのか。

 幽霊騒動や霊障などの因果関係を考える時、幻子の言葉を借りるならば、霊道が開かれこの世に再び魂が彷徨い出るまでは、彼らの存在は全くもって『無』であるはずだった。ならば自殺者の霊や、この世との因縁を断ち切れずに死んでいった魂たち、いわゆる地縛霊はどうなのかと言えば、それでも答えは同じ。そして彼らはこの世に顕現した瞬間から、死の間際を延々と繰り返すそうだ。何度も飛び降り自殺を繰り返す幽霊や、土砂災害をリプレイする此度の霊障などがいい例だという。

 共通しているのはそれら全てが、再びこの世に顕現、あるいは発現した段階で初めて事象として認識される、ということだ。つまりは霊道・霊穴が開かれなければ、無は無のまま、何も起きないのというのが三神幻子の語る霊的事象の認識である。

 しかし結局そこに該当する理由、何故此度の事象が発現したのかという部分に関しては、三神さんにも幻子にも解明できず、謎だけが残った。


 ……と、思われた。


 その日は何度目かの、文乃さんが入院する病院へお見舞いに行こうと決めていた日だった。大学を出た僕の携帯に着信が入り、見れば相手は長谷部さんだった。幸いにもあれから、マンションでの異変は起きていないと聞く。事件以降、何度か長谷部さん、岡本さんと事後処理のためにお会いしたが、彼らはすっかり人が変わったように毒気が抜けて、とても大人し人間になっていた。電話に出ると長谷部さんは、今回の事件に関して文乃さんから依頼されていた資料がまだ手元にあるのだが、どうしたものか悩んでいる、とのことだった。何の資料かと尋ねると、彼はこう答えた。

「住人のリストだよ。もう、いらないよね?」

 この時僕は特に何も考えず、せっかくなのでお預かりします、と答えた。

 夕刻になって病院を訪れると、文乃さんが療養する個室には池脇さんや三神さん、辺見先輩の姿もあった。幻子は所用で出かけている、とのことだった。

 僕は売店で買って来たバナナを文乃さんに手渡し、思い出したように長谷部さんから受け取った資料を取り出した。

「もう用済みだとは思いますけど、一応預かったんでお渡しします」

 幻子の霊的治療が功を奏し、文乃さんの飛び出した眼球はおろか、砕けた手の指、千切れかけていた足すらも、即元通りとまではいかないまでも、リハビリ次第では早期回復可能な状態にまで復元されていた。もちろん、大手術を受けての生還ではある。だが誰しもが、病院へ運ばれるまでの間に施した幻子の治療が、文乃さんの命を救ったのだと信じて疑わなかった。

 髪の毛は生えてくるのを待つしかないですよ、と幻子に言われた文乃さんは、それでも嬉しそうにニット帽をかぶっている。だがしかし、ベッドに座ってニコニコと微笑んでいた文乃さんは、僕の手から資料を受け取って目を通した瞬間、喉を詰まらせた。僕たちは一斉に声を失い、青ざめる文乃さんを見つめた。

「どうした?」

 池脇さんが尋ねる。

 文乃さんは太腿の上に資料を置き、右手で口元を抑えた。

「気分が悪いんですか」

 と、辺見先輩が備え付けの小さな洗面台からスーパーの買い物袋を取り出した。文乃さんは宙に視線を走らせ、そして再び資料を取り上げて睨んだ。

「住人のリスト……ですよね?」

 僕の問いに、文乃さんは頷いた。ベッドの脇に立ち並ぶ僕たち全員に見えるように、文乃さんはその資料を膝の上に広げた。彼女の指がさし示す場所は、『レジデンス=リベラメンテ』の最上階、八階一番奥の部屋だった。


 そこに記載された住人の名は、黒井七永くろいななえ


「誰なんです?」

 僕たちは顔を見合わせて首を傾げた。今更住人の名前が分かった所で、それが何だというのだろう、そう思ったのだ。だがそれはまさに、この事件の背景、それがどれ程闇深いものだったのか、僕たち全員が思い知らされた瞬間でもあった。

 文乃さんは、こう言ったのだ。


「私の妹です」


 物語の幕は、こうして開かれたのである。





             『文乃』、了




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

文乃 新開 水留 @dawnhammer

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ