55「祈りに似たもの」

  

 僕の右肩に、ぬくもりのない手が乗せられる感触があった。

 僕は振り向かず、自分を信じた。

 母を信じた。

 

 辺見先輩が立ちあがるのが見えた。

 土石流に背を向けており、復活した山の存在には気付いていないようだった。辺見先輩は視線を彷徨わせて僕を見つけると、次の瞬間ぐっと唇を噛み締めた。そして彼女は「にっ」と口角を上げた顔を震わせながら、親指を立てた。それは僕の左後ろに立つ、文乃さんへと向けられていた。

 三神さんが立ち上がり、次いで彼の体を支えるように、寄り添いながら幻子が立ち上がる。この時三神さんは、これまで自分が培ってきた拝み屋としての経験と誇りを、全て投げ打つ覚悟を決めたという。傍らに立つ幻子を見やり、三神さんはこう言ったそうだ。

「今ここでワシの力が何一つ通用せず、助けを求めた友を救えないのであれば、ワシはもはや拝み屋でも呪い師でも何でもない。見とれよゲンコ、このワシの全てをお前にくれてやる」

 そんなわけにいきますか。幻子は当然そう思った。しかし微笑みながら彼女は反論せず、ただ頷き返して師の勇気を称えた。

 山の斜面が崩落する。

 池脇さんの姿はない。

 だけどもう僕は、彼らに頼らないと決めたのだ。

 それは同時に、彼らを信じる事と同じだった。

 辺見先輩が笑顔のまま、両手を真上に持ち上げた。

 三神さんが両肘を強く横に張って合掌する。千切れ飛んだ筈の数珠が輪を描き、彼の頭上に浮かんでいるのが見えた。その隣では、見よう見真似で幻子が同じポースを取っている。天正堂での修行経験のない彼女には、三神さんが用いる様式は、本来必要ないはずなのに。

 地鳴りと共に、土石流が押し寄せて来た。

 と、全てを呑み込む怨念の川が、まるで辺見先輩を嫌がるように空へ向かって跳ねた。三神師弟の霊力も影響しているだろう。しかし僕は見た。辺見先輩の全身が、黄金色に輝きを放っているのだ。

 いや、違う。

 彼女の真後ろで、池脇さんが立ち上がったのだ。彼はずっとそこにいたのである。しゃがんでいたのか、倒れていたのか分からない。だが彼はずっと、初めに立っていた場所から動くことなく、辺見先輩を守ってくれていたのだ!

 ギュッと目を閉じた僕の目から涙が溢れた。

 僕の肩に乗せられた手が、すっと胸の方まで降りて来た。

 真っ白で、とても綺麗な二本の腕だった。

「新開さん」

 文乃さんの声が聞こえた。

 だが僕は振り向かず、頷いた。

 幻子の言葉を思い出していた。


『あなたのそばに、霊道は開く』


 僕は自分の意志で、それを開く事は出来ない。

 だが今は感じる事ができる。

 確かに僕の背後には、母の通って来た深淵なる虚無の穴が、大きく口を開けているのだと。

 天高く舞い上げられた濁流が、僕たちの真上に降り注いだ。

 濁った黄土色の川。木、岩、家、生活排水、排泄物、血と涙、そして人の命を丸ごと呑み込んだ呪いの川が、音もなく、母の開いた穴へと真っ逆さまに落ちて行く。

 そこはとても暗いかもしれない。

 何もない場所だからだ。

 だけど同時に、痛みも苦しみもないはずで、そこは楽園ではないけれど、眠るには丁度いい静けさに包まれているんじゃないだろうか。

 そうであればいい。

 そうであってほしいと、僕は思う。




 世界の振動が止まり、崩落した山はその姿を薄くしてやがて消え去り、夜の帳にくっきりと浮かび上がるマンションのシルエットが戻って来た。

 吐血する音が聞こえ、僕は慌てて文乃さんの体を抱き止めた。

「管理室の中へ!」

 幻子の叫ぶ声が聞こえた。三神さんに背負われて駆け付ける彼女らを待たずして、僕は文乃さんをマンション管理室へと運んだ。僕はこれまで女性を抱きかかえて運んだ経験などなかったが、文乃さんの身体は、信じられないくらいに軽かった。

 池脇さんが飛んできて、押し入れにあった布団を取り出して畳の上に敷いてくれた。変わり果てた親友の姿にも彼は動じず、いや、動じていたには違いない、しかしそんな気配をおくびにも出さず、微笑みながら文乃さんの額を撫でた。飲み物を取って来る、そう言って立ち上がった池脇さんは、玄関から外に出てすぐ、扉を力一杯蹴り飛ばした。

 辺見先輩が入れ代わりで文乃さんの側に座った。彼女とて、肉体的にも精神的にも正常とは言い難い。しかしはっきりと強い意志が先輩の目には宿っていて、今すぐ病院に行ってくれとお願いした所で、聞き入れるはずもなかった。

 幻子をおぶった三神さんが土足のまま上がり込んで来た。

「超能力を使い過ぎた、あるいは霊障を受け過ぎた、そういう事でしょうか」

 尋ねる僕に三神さんはぐっと堪えるように口を噤み、答えない彼の代わりに、幻子がこう言った。

「超能力ではありません」

 僕と辺見先輩は顔を見合わせ、そして黙ったまま幻子を見つめた。

「彼女は……」

 幻子は目を閉じ、激しく胸を上下させる文乃さんの額に手を置くと、大きく息を吸い込んだ。「文乃さんは、超能力の使い手などではありません。確かに彼女は、およそ一般人が見る事の出来ない存在を知覚していました。ですがそれは超能力とは似て非なるもので、生ける人間誰しもが持っている、いわゆる『気』に近いものです。そして彼女はその気を使って、大気を振動させたり押し退けたりする事ができると……そう、説明していたと思います。だけどそれは違うんです。私に言わせればそれは、彼女の生命力と言い換えるべきものです。命なんです」


 ……彼女のやっている事は、自分の命を千切って力一杯投げつけているのと、全く同じ事なんです。

  

 あえて文学的な表現で言おう。

 声帯と名のついた肉ひだを振動させて発生する音を増幅し、いわく意味ありげな自己表現と存在表明をそれに籠め、まるで高い所から落とすがごとく臆面もなくそれを放ち、この世の隅々にまで送り出したい衝動というものは実際、誰しもがごく自然に抱く顕示欲求であるまいかと僕は考える。

 そして僕にとってそれは『文乃さん』であり、『文乃』でも『フミノさん』でもなく、『文乃さん』なのだ。

 やはり簡潔に言おう。僕は何度でも、何度でも何度でも何度でも、文乃さんの名前を呼びたいと思うのだ。

 この世の中には多くの「ふみのさん」がいるだろう。

 だけど僕にとって、文乃さんは世界でただ一人、この方だけなのだ

 光を失い、その身を支える大切な足の一本が破壊された。

 美しい顔、それを彩る綺麗な黒髪は無惨にも引き抜かれ、頭皮が血に染まっている。

 赤い花のように血を吹く右耳は、おそらく何も聞こえてはいまい。

 だがしかし、残された左耳と、僕の手を握り返す温もりが彼女にはある。

 これからも僕は、何度でも文乃さんの名を呼ぶだろう。

 あなたは生きている。

 そして僕はここにいる。

 たったそれだけが、文乃さんにしてあげられる、僕に出来る唯一の事だからだ。


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