54「幽玄の虹」


 四十年前に起きた土砂災害がそのまま再現された霊障となり、『レジデンス=リベラメンテ』目掛けて襲い掛かった。自然の驚異そのものともいえる圧倒的な力に拮抗する甚大な霊的加護、そして災厄を退けるという東京中の道祖神から借り受けた力。激しくせめぎ合い行き場を失ったそれらの力が、まるで巨大な龍のように上空へと立ち昇って行くのが見えた。

「……ああッ」

 一瞬だった。

 幻子がまとう赤色の霊力と、池脇さんを守護する黄金色の霊気、その上を乗り越えようと押し寄せて来る黄土色の濁流が、勢いを増して天高く舞い上がり、ついには僕たちの頭上に降り注いだのだ。

 あまりの質量に全ての音は途絶え、圧迫感と息苦しさに天地がひっくり返るような衝撃だった。身体の内外から攻撃してくる激痛の波に呑み込まれ、高速で回転するような抗いがたい力に揉みくちゃにされるうち、僕の意識は剥奪され、プツリと途絶えた。

 実際どれほどの時間意識を失っていたのか分からない。時間の感覚というものをとうに失っており、今が昼なのか夜なのか、はては自分がどこにいるのかも分からなくなってしまった。

 どうやら僕は仰向けに倒れていたらしく、瞼を開けて見上げた頭上には、数えきれない程の霊魂が空を飛び交っていた。僕は一瞬その光景を美しいとさえ感じ、目を閉じた。

 体に力が入らない。本当に僕は目覚めているのか、夢を見ているのか、生きてるのか、死んだのか。

 何も分からない。

 何も考えられない。

 何も匂わず、何も聞こえない。

 ここがどこだか分からない。

 とても静かで、そう、何も聞こえない……そのはずだった。

 その詩は、昭和の初め頃に作られたものだと、彼女は教えてくれた。

 古い詩に付けられた名前は、「白き蟷螂」。

 昆虫のメスカマキリは、交尾中にオスカマキリを食べてしまう事がある、という有名な話がある。必ずしもそうなる習性があるわけではないが、この話題が持ち上がる時には大抵、オスの悲しみと黙って捕食される疑問点ばかりが語られる。しかし生き残る為、産卵の為、命の為にオスを貪りながらも、全身が白くなるまで耐え忍ぶメスの悲しみを歌った詩であると、「そこにはきっと、メスの悲しみだってあるんだよ」と、優しくも儚さを感じる声で、僕は教えを受けた。実際にカマキリが白くなってしまう事はないそうだ。だがそういう表現が、詩の中に出て来るのだという。

 文学サークルに身を置く学生としては、知らぬままでは捨て置けない作品だと考えさせられた。走馬灯のように、淡く幸せな記憶を思い巡らせていた僕の耳に、とぎれとぎれの小さな声が、聞こえて来たのだ。


「滴る命の垂れ行くを、赤きを知らず、愛とは知らず 襲い来る激流の本能の、行き先を見ず、淡さに抱かれ」


 その声が聞こえて来た時、僕の意識は曖昧で、声が何を言っているのか理解出来なかった。


「アアーア オオーオ 膨れる我が腹に満ちたるものよ、その名を叫べ、語り掛けよ」


 その声が文乃さんの声だと分かった時、僕は彼女が助けを呼んでいる声なのだと思った。


「戻り来る静謐を退けよ、うち震えるわが身、全ての色消え去るまで」


 僕は目を開け、寝返りを打って、頭を起こした。


「アアーア オオーオ! 天空を駆け行く星線となる、赤き半身、愛なるすべて」


 薄眼で周囲を見渡し、はたと気付く。


「その一歩をして嘆きなどなし、導きたまへ、銀色の地平線まで!」


 視界に入って来たのは土と、岩と、泥にまみれた流木と、半壊した家々だった。うつ伏せに倒れている辺見先輩の姿が目に入った時、まさしく汚泥の中に沈みかけていた僕の意識が覚醒するのが分かった。


「アアーア! オオーオ! 仰ぎたる我、白き蟷螂となりせば!」


 力強い詩その朗読が、夢でも幻聴でもないとはっきり理解することが出来た。文乃さんの声は、僕のすぐ側から聞こえていた。四つん這いになり、膝を立て、鉛のように重たい上半身を起こす。

 辺見先輩は動かない。

 左へ視線を移せば、倒れている三神さんと幻子の体が泥土の上に投げ出されている。発光する赤色の霊力は消え失せ、制服を着た一人の女子高生が倒れているだけだった。三神さんはいつも着用しているMA-1を失い、作務衣の前がはだけていた。右手にはかろうじて数珠が握られていたが、半分以上が千切れ飛んでいた。

 池脇さんはどこだ? 泥の川に沈んでしまったのか、それともずっと遠くまで流されてしまったのか。彼の姿だけがどこにも見当たらなかった。

 なぜ、こんな事になったんだ。

 そしてなぜ。

「なぜ、僕らは……」

 文乃さんは以前、僕にこう語った。


『私がそこそこ大きな力を使う時は、どうしても集中力が必要になってきます。そういう時、自分に暗示をかけるように、強制的に自分の内面に焦点を当て、目の前の事象から意識をそらす目的で、あの詩を諳んじるわけです』


 僕は震える両足に力を込めて、なんとか立ち上がった。

 これ以上文乃さんに力を使わせてはいけない。

 詩を朗読する芯の強い声が聞こえたのは確か、僕の左側後方だった。

「ふみのさ……」

 名を呼びながら振り返る僕の目に映ったのは、筆舌に尽くしがたいほど凄惨な、変わり果てた彼女の姿だった。

 抉り出されたように右目が飛び出し、そこから滴る鮮血が右耳から溢れ出す血と交じり合い、顎の下で太い線を描いていた。前に突き出した彼女の震える右手は、五本の指全てが砕けたようにひしゃげ、変色している。折れてしまっていた右足は膝から下が今や皮一枚でぶら下がっているにすぎず、とてもよく似合っていたショートヘアの髪の毛はほとんどが引き抜かれ、頭皮全体に血が滲んでいた。

 それでも文乃さんは生きていたし、それでも僕は彼女を美しいと思った。悲しみなのか怒りなのか、絶望なのか発狂なのか、自分でもよく分からない感情が爆発し、僕は絶叫した。

 文乃さんは辛うじて無事だった左目で僕を見、少しだけ照れたような表情を浮かべた。

 だが僕は知っている。彼女は出会った時からすでに左目が見えない。右目を抉り出された今、彼女はすべての光を奪われたのだ!

 長い尾を引く僕の絶叫が、怒りを含んだ雄叫びに変わった時、文乃さんはこう言った。


「新開さん。生きてください」


 僕は無様に叫ぶ事をやめ、意味のない滂沱を拭い去った。

 諦めてたまるか。

 きっとまだ皆は生きている。

 文乃さんだってこうして生きてるじゃないか。

 そうさ。

 何も終わってなんかいない。


「僕は」


 僕は再び振り返り、流れ来た黄土色の川の向こうを睨みつけた。

 そこに、山があった。

 禿山の断崖があり、大雨によりドロドロと斜面が流れ始めていた。

 もう間もなく、激しい音を立ながら山の斜面が崩落するだろう……。

 そうなのだ。

 この自然災害そのものと言える大規模な霊障は、何度でも繰り返し起きるのだ!


「僕は絶対にあきらめないぞ」


 大きく息を吸い込んだ。

 その時山頂のはるか上空に、大きな虹が見えた。

 あれは幽玄か、本物か。

 あの虹を現実のものにしよう。

 そしてあの虹を皆で見よう。

 そしたらきっと楽しい。

 僕はまっすぐに体を起こすと、ゆっくりと息を吐き出した。


「来てよ母さん。……彼らを眠らせてあげよう」


 



 

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