「あのふたり、別れたらしいよ」


 春のような日差しの下、大学内のベンチに座る私の耳に、学生たちの声が聞こえる。

 顔を上げると、会社の研修にでも行ってきたのか、黒いスーツ姿の美玲さんが、ひとりで颯爽と歩いていた。


「彼女が彼氏よりもいい会社に入っちゃうのって、なんか微妙だよね」

「彼、田舎に帰っちゃうんでしょ? 美玲さんのほうから『遠距離無理』って言ったらしいじゃん」


 美玲さんと橘さんが別れたという噂は、聞きたくなくても耳に入ってきた。でもその理由を、はっきりとは誰も知らない。この私でさえも。


 昨日、あの雨の夜以来、初めて橘さんに会った。

 引っ越し業者が最後の荷物を持ち去ったあと、橘さんは何もなくなった隣の部屋で、ぼんやりと立ち尽くしていた。


「橘さん……」


 開けっ放しだったドアの外から、声をかけたのは私だ。振り返った橘さんは、私の姿を見て、困ったような表情で少しだけ笑った。


「なんにもなくなっちゃったな……」


 橘さんの声が、部屋の壁と天井に響く。私は一歩踏み出し、部屋の中へ足を踏み入れる。

 隣の部屋に入ったのは、この日が初めてだった。


「もうずっと前から苦しかったんだ。彼女の存在が重すぎて……だけど別れることもできずに、ずるずると付き合って……結局彼女のことも和花ちゃんのことも傷つけた」


 私は黙って橘さんの声を聞く。


「最低な男だな……俺は」

「だったら私も、最低な女です」


 ほんの少し口元をゆるませた橘さんが、床に置いていたリュックを肩に掛け、私に言った。


「元気で」


 部屋に薄い日差しが射し込んできた。春から遠く離れた街で社会人になる彼とは、もう会うこともないだろう。


「橘さんも……元気で」


 私のすぐ横を、橘さんが通り過ぎる。かすかに感じた匂いに、あの雨の夜を思い出す。

 私を抱いたあと、すべてを捨ててしまった彼。そんな彼に、私がついて行くことはなかった。


 ふいに誰かがベンチに座った。見ると勇人が私の隣で前を向いている。

 私も何も言わず前を見つめた。あたたかい日差しの中、明るい表情の学生たちが行き交っている。


「悪かったな。この前は」


 ぶっきらぼうな口調で勇人が言った。そして頭をカリカリとかいたあと、その手で私の肩を抱く。


「なんか調子狂うんだよな。お前がいないと」


 私は必要とされている。この人に。

 そんな勇人に向かって、私は言う。


「今日、私の部屋に来る?」


 少し驚いた表情を見せたあと、勇人が嬉しそうに答えた。


「あとで行く」


 私はほんの少し微笑んで、また前を見つめる。


 勇人には私が必要だ。そして私にも勇人が必要。

 橘さんを捨てることはできても、私は勇人を捨てることができない。


 去年、家の階段から父が転落した。命に別状はなかったが、打ち所が悪かったのか、不幸にもベッドに寝たきり生活になってしまった。母はそんな父に付きっきりで世話をしている。


 あの絶対的支配者だった父が、今は母に捨てられたら生きてゆけないのだ。


 母を必要とする父。そんな父を支配している母。

 もしかして父を階段から突き落したのは――なんて、ありえないことを想像する。


 私は隣にいる勇人の指に、傷痕のついた指先を絡ませた。


「勇人……愛してる」




 あなたのことは、一生離さない。

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捨てられるもの、捨てられないもの。 水瀬さら @narumiyu

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