『今日は会える?』


 スマホの中で勇人を待つ。一日中待つ。そして一日の講義が終わる頃、やっとメッセージが送られてきた。


『無理』


 昨日と同じ返事。私はため息をついて席を立つ。


 大学の建物から外へ出ると強い風が吹いた。私はマフラーを鼻のあたりまで押し上げる。

 白く煙った景色の中に、勇人と知らない女の子の背中が見えた。


 私は咄嗟にそのあとを追いかけた。ふたりは大学の敷地内を出て、繁華街を抜け、ホテルの建ち並ぶ路地を歩いて行き、ホテルの入り口前で止まった。

 私は深く息を吸い込む。心臓が痛いほど高鳴っている。そして寄り添い合うようにして、中へ入ろうとするふたりに声をかけた。


「勇人!」


 振り返った勇人が私を見て、驚いた顔をする。


「お前……何してるんだよ」


 一瞬、さすがに勇人もあわてたようだったけれど、すぐに開き直った口調で言った。


「は? まさかお前、俺たちのあとついてきたわけ? マジかよ」


 そう言って勇人は、私に冷たい視線を向ける。


「こんなことしないと思ってたのに。お前だけは」


 胸がずきんと痛んで、声が出なくなる。


「行くぞ」


 勇人が声をかけたのは私ではなく、その女の子だった。私を無視した勇人は、今来た道を早足で引き返す。女の子はちらりと私を見てから、勇人のことを追いかける。

 ホテルの前にぽつんと残された私の上から、冷たい雨が落ちてきた。



 びしょ濡れになってマンションに帰ると、私は部屋の真ん中で立ち尽くした。しばらくそうやって呆然としたあと、近くの物をつかんで、ゴミ袋の中に押し込んだ。

 本も食器も服も化粧品も、手当たり次第に何もかも。


 涙なんか出なかった。ただ歯を食いしばって、目の前の物をつかんではゴミ袋に放り投げた。

 ガラスのグラスに手が触れて、床に落ちた。ガシャンと砕けた破片を見たら、どうしようもない気持ちがあふれた。


 目の前のグラスをひったくり、次々と床に投げつける。音を立ててそれは砕け、私の足元にバラバラと散らばる。しゃがんで手を伸ばしたら、チクリと指先が痛んで、じんわりと赤い血が浮き上がった。


「和花ちゃん? 橘だけど。大きな音がしたけど大丈夫?」


 聞き慣れた声と、ドアを叩く音が聞こえる。私はゆらりと身体を起こし、ドアの鍵に手をかける。一瞬躊躇したあと、カシャンと冷たい音を立てて、鍵は開いた。


「和花ちゃん」


 橘さんはびしょ濡れでボロボロの私を見て、驚いた顔をしていた。


「何かあったの? そんなに濡れて……それに血が出てるじゃないか」

「……大丈夫です」


 部屋をのぞきこんだ橘さんが「ちょっと失礼」とつぶやいて、中へ入り込む。

 そこは泥棒にでも入られたかのようにぐちゃぐちゃに荒れ果て、床にはガラスの破片が散らばっていた。


「大丈夫じゃないだろ?」

「大丈夫です。物を捨ててただけです」


 橘さんが私を見る。


「もう捨てるんです。何もかも」

「和花ちゃん……」


 今まで出なかった涙が、つうっと頬を伝わった。そう言えば勇人と付き合い始めて一度も、私は涙を流したことがなかった。


「無理するなよ……」


 橘さんが私の手を取り、血の滲んだ指先を見つめる。


「見てられないんだよ……もう……」


 私は両手を伸ばすと、そう言った橘さんの身体に抱きついた。


 こんなことは、きっと間違っている。

 橘さんは隣の部屋の住人で、美人で素敵な彼女がいて、私に親切にしてくれるのは、私を妹みたいに思っているからで。


 それをわかっているのに――わかっているのに私は、彼の体温を求め、その唇に自分の唇を押し当てた。


「和花ちゃん……」


 唇を離した橘さんが、私を見ている。すごくつらそうな顔をして。

 私はそんな目を見ないように、彼の身体に顔をうずめる。


「……ごめんなさい」


 つぶやいた私の身体を、橘さんの手が引き離した。潤んだ目でその顔を見上げると、彼の両手が私の頬を包み、深いキスをされた。


「橘さ……」


 流されるように床の上に倒れ込んだ。息ができないほどのキスを交わし、私は彼の身体にしがみつく。

 どちらともなく、夢中で身体を求め合った。勇人のことも、美玲さんのことも、理性も、罪悪感も……何もかもが私の頭から吹き飛んでゆく。


 耳元で一度だけ、橘さんの声が聞こえた。


「ごめん……」


 私の口からは、嗚咽のような声だけが漏れた。

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