「おはよう、和花ちゃん」


 ドアを開けてはっとした。隣の部屋の橘さんが私の前に立っている。


「……おはようございます」

「どうしたの? なんかぼうっとしてる」

「いえ、べつに」


 私は部屋の鍵をかける。カシャンと冷たい金属音が冷え切った廊下に響く。

 もしかして橘さん、私のことを待っていてくれたのだろうか。

 そんなことを考えながら、橘さんと一緒にマンションを出た。どんよりと曇った空が私たちの上に広がっている。


「今日も寒いね」

「そうですね」


 もうすぐ学校は休みに入る。そう言えば、橘さんの引っ越しはいつなんだろう。

 私はちらりと、隣を歩く橘さんを見上げる。

 勇人とは違う背丈。勇人とは違う歩幅。勇人とは違う声。勇人とは違う匂い。


「どうかした?」


 目が合って、私はあわてて目をそらす。


「い、いえっ。なんでもないです」


 あっという間に学校の門が見えてきた。門の前に立っていた美玲さんが、私たちに向かって手を振った。



 講義が終わる頃、気温がぐんと下がっていた。空からは冷たい雨が落ちてきそうだった。

 私はそんな空を見上げて白い息を吐く。そして今日、何度も何度も確認したスマホの画面を見つめる。

 やっぱり勇人からのメッセージはない。私は思い切って、勇人にメッセージを送る。


『今日、会えない?』


 既読の文字が現れたあと、すぐに短い返事が返ってきた。


『無理』


 なんとなくわかっていた。わかっていたけど、その文字を見ると切なくなる。


 スーパーで買い物をして家へ向かった。

 両手に袋をぶら下げて階段をのぼったら、隣の部屋のドアを開けようとしている橘さんと目が合った。


「あれ、今帰り?」

「はい。橘さんも?」


 橘さんはうなずいてから、小さく笑う。


「すごい荷物だね」

「あ、寒いから、お鍋でも作ろうかと……」

「へぇー、鍋か。いいね。でも一人分作るのも面倒だしなぁ」


 そんな彼の笑顔を見ながら、私はぎゅっと両手の袋を握りしめた。


「じゃあまた」


 ドアの向こうに消えそうになる橘さんに、声をかける。


「あの、よかったら……一緒に食べません? 鍋」


 言ったあと、すぐに後悔した。橘さんも少し驚いたような顔をしている。何を言ってるんだろう、私は。橘さんを困らせてしまった。


「ごめんなさい。美玲さんに怒られちゃいますね」

「そんなことはないけど。でもさ……和花ちゃんの彼氏はどうなの?」


 ゆっくりと私は視線を上げる。橘さんが私を見ている。


「ほら、いつも部屋に来てる茶髪の彼」


 知ってたんだ。勇人のこと。勇人と部屋に入る時、橘さんにばったり会ったことはなかったけれど。


「彼は……大丈夫です。そういうの気にしない人だし……べつに鍋食べるだけですから」


 なにも、悪いことをするわけじゃない。それにきっと勇人のほうが、もっと悪いことをしてる。

 しばらく黙り込んだあと、橘さんは「そうだね」と言って小さく笑った。



 橘さんを部屋に呼んで、一緒に鍋を作った。橘さんは私よりも、料理が上手で驚いた。


「四年間も自炊してるし、高校の時は料理屋でバイトしてたんだよ」

「そうだったんですか」


 彼は手際よく野菜を切って、それを鍋に入れて私に笑いかけた。


「いただきます」


 橘さんと向かい合って座り、鍋を囲む。部屋の中はあたたかく、窓は白く曇っていた。


「なんだか作ってもらっちゃって、すみません」

「いや、俺のほうこそ。人の家でずうずうしかったよね」

「そんなことないです」


 顔を見合わせてふふっと笑う。

 どうしてだろう。橘さんといると、なんだかすごく心が落ち着く。


 ふたりでふーふーと息をかけながら、あたたかい鍋を食べた。

 橘さんには田舎の実家に、私と同じ年の妹がいるそうだ。


「和花ちゃんを見てると、なんとなく妹のことを思い出すんだ」

「よかったですね。もうすぐ会えるじゃないですか」

「別に。俺が帰っても、きっとウザがられるだけだよ。和花ちゃんみたいに素直な子だったら、喜んでくれるかもしれないけど」


 橘さんにとって私は、会えない妹さんの代わりなんだ。


「そろそろ帰らなきゃ」


 壁の時計を見上げて橘さんが言った。


「片づけるよ」

「あ、大丈夫です。このままで」


 そう言って私は立ち上がる。


「今日は付き合ってもらって、ありがとうございました」

「いや、こちらこそ。楽しかった」


 楽しかった――その言葉が胸に沁みこむ。


「あの……」


 立ち上がった橘さんに向かって私はつぶやく。


「実は今日、誕生日だったんです」

「え?」

「それでひとり鍋は、さすがにちょっと寂しくて……」


 冗談っぽく言ったつもりだったのに、橘さんは顔をしかめた。


「彼、一緒にいてくれないの?」

「記念日とかそういうの、全然気にしない人なので」


 そうだ。勇人はそういう人だ。それをわかっていて、私は付き合っている。


 ドアを出て行く橘さんを見送った。出て行く時、彼は一言私に「誕生日おめでとう」と言ってくれた。

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