3
「おはよう、和花ちゃん」
ドアを開けてはっとした。隣の部屋の橘さんが私の前に立っている。
「……おはようございます」
「どうしたの? なんかぼうっとしてる」
「いえ、べつに」
私は部屋の鍵をかける。カシャンと冷たい金属音が冷え切った廊下に響く。
もしかして橘さん、私のことを待っていてくれたのだろうか。
そんなことを考えながら、橘さんと一緒にマンションを出た。どんよりと曇った空が私たちの上に広がっている。
「今日も寒いね」
「そうですね」
もうすぐ学校は休みに入る。そう言えば、橘さんの引っ越しはいつなんだろう。
私はちらりと、隣を歩く橘さんを見上げる。
勇人とは違う背丈。勇人とは違う歩幅。勇人とは違う声。勇人とは違う匂い。
「どうかした?」
目が合って、私はあわてて目をそらす。
「い、いえっ。なんでもないです」
あっという間に学校の門が見えてきた。門の前に立っていた美玲さんが、私たちに向かって手を振った。
講義が終わる頃、気温がぐんと下がっていた。空からは冷たい雨が落ちてきそうだった。
私はそんな空を見上げて白い息を吐く。そして今日、何度も何度も確認したスマホの画面を見つめる。
やっぱり勇人からのメッセージはない。私は思い切って、勇人にメッセージを送る。
『今日、会えない?』
既読の文字が現れたあと、すぐに短い返事が返ってきた。
『無理』
なんとなくわかっていた。わかっていたけど、その文字を見ると切なくなる。
スーパーで買い物をして家へ向かった。
両手に袋をぶら下げて階段をのぼったら、隣の部屋のドアを開けようとしている橘さんと目が合った。
「あれ、今帰り?」
「はい。橘さんも?」
橘さんはうなずいてから、小さく笑う。
「すごい荷物だね」
「あ、寒いから、お鍋でも作ろうかと……」
「へぇー、鍋か。いいね。でも一人分作るのも面倒だしなぁ」
そんな彼の笑顔を見ながら、私はぎゅっと両手の袋を握りしめた。
「じゃあまた」
ドアの向こうに消えそうになる橘さんに、声をかける。
「あの、よかったら……一緒に食べません? 鍋」
言ったあと、すぐに後悔した。橘さんも少し驚いたような顔をしている。何を言ってるんだろう、私は。橘さんを困らせてしまった。
「ごめんなさい。美玲さんに怒られちゃいますね」
「そんなことはないけど。でもさ……和花ちゃんの彼氏はどうなの?」
ゆっくりと私は視線を上げる。橘さんが私を見ている。
「ほら、いつも部屋に来てる茶髪の彼」
知ってたんだ。勇人のこと。勇人と部屋に入る時、橘さんにばったり会ったことはなかったけれど。
「彼は……大丈夫です。そういうの気にしない人だし……べつに鍋食べるだけですから」
なにも、悪いことをするわけじゃない。それにきっと勇人のほうが、もっと悪いことをしてる。
しばらく黙り込んだあと、橘さんは「そうだね」と言って小さく笑った。
橘さんを部屋に呼んで、一緒に鍋を作った。橘さんは私よりも、料理が上手で驚いた。
「四年間も自炊してるし、高校の時は料理屋でバイトしてたんだよ」
「そうだったんですか」
彼は手際よく野菜を切って、それを鍋に入れて私に笑いかけた。
「いただきます」
橘さんと向かい合って座り、鍋を囲む。部屋の中はあたたかく、窓は白く曇っていた。
「なんだか作ってもらっちゃって、すみません」
「いや、俺のほうこそ。人の家でずうずうしかったよね」
「そんなことないです」
顔を見合わせてふふっと笑う。
どうしてだろう。橘さんといると、なんだかすごく心が落ち着く。
ふたりでふーふーと息をかけながら、あたたかい鍋を食べた。
橘さんには田舎の実家に、私と同じ年の妹がいるそうだ。
「和花ちゃんを見てると、なんとなく妹のことを思い出すんだ」
「よかったですね。もうすぐ会えるじゃないですか」
「別に。俺が帰っても、きっとウザがられるだけだよ。和花ちゃんみたいに素直な子だったら、喜んでくれるかもしれないけど」
橘さんにとって私は、会えない妹さんの代わりなんだ。
「そろそろ帰らなきゃ」
壁の時計を見上げて橘さんが言った。
「片づけるよ」
「あ、大丈夫です。このままで」
そう言って私は立ち上がる。
「今日は付き合ってもらって、ありがとうございました」
「いや、こちらこそ。楽しかった」
楽しかった――その言葉が胸に沁みこむ。
「あの……」
立ち上がった橘さんに向かって私はつぶやく。
「実は今日、誕生日だったんです」
「え?」
「それでひとり鍋は、さすがにちょっと寂しくて……」
冗談っぽく言ったつもりだったのに、橘さんは顔をしかめた。
「彼、一緒にいてくれないの?」
「記念日とかそういうの、全然気にしない人なので」
そうだ。勇人はそういう人だ。それをわかっていて、私は付き合っている。
ドアを出て行く橘さんを見送った。出て行く時、彼は一言私に「誕生日おめでとう」と言ってくれた。
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