第8話 最終話



「じゃあ行ってくるね」

 結婚記念日から早くも1週間が過ぎていた。公子はクールでありながらも以前より朗らかになった。あれ以来私は、毎日姿の見えない声の主たちに心の中で手を合わせている。

「行ってらっしゃい」

 いつもの様に駅まで15分、散歩がてら徒歩で向かう。いつもの電車に乗り、外を眺める。

 つい先日、こんな噂を聞いた。久子の事だが、訴訟を起こされそうになって大変だったそうだ。久子は夫の仕事仲間や友人、そして私の時と同様、友人の夫やらと関係を持っていたらしい。中には久子に入れあげた末に会社の金に手をつけ解雇になった者や、会社が倒産したといった悲惨な人間もいたとか。

 ただ、妻子持ちも多く泣き寝入り同然の人間がほとんどだったのだが、一人の独身の男が結婚詐欺だと喚き立てて久子の家に怒鳴り込んで行き、事が発覚したそうだ。

 理解に苦しむのだが、久子の夫はそれらをほぼ黙認し……と言うよりも、二人して獲物を見つけては相手を翻弄し、それをゲームの様に楽しむ、いわばそうした趣味趣向の持ち主だったらしい。恥ずかしながら私もいい様に弄ばれた、といったところだろう。

 姿の見えない声の主が、口に含んだ様に言っていたのはこの事だったのか。はっきり言ってくれれば良かったのに、と思うところだが、自分で気づかなければ意味が無かったのだろうと今なら納得できる。

 そういった訳で、彼ら夫婦間の亀裂については心配無用だった訳だが、夫の手回しで何とか示談にこぎつけた所を見ると、かなりの額が動いたのではないだろうか。

 しかしよくある事だが、この騒ぎに乗じて、関係を持っていない者の中にもあれこれと言い出すものが現れ、尾びれせびれはとどまるところを知らなかった。

 どうにも収拾がつかない為、久子夫妻は居を移すことになった。

 私はこの話を聞いた時、身の毛がよだつ思いがした。もう少しで家庭は崩壊し、自分が被害者の一人に名を連ねるところだったのだから。姿の見えない声の主の言った通りだったのだと何度も思い返す。いや、これからは偉大なるご先祖様と呼ばなければならない。そして公子の慈愛の深さ、心の強さ、温かな優しさに感謝しなければならない。

 久子夫妻とはもう会う事はないが、この先は、平穏無事に、幸せに、と願う。

 この事があったからこそ、私は今の自分に出会えた。一番大事な人を敬い、思いやれる自分に。彼らには心からありがとうと言える。

 もう、隣の芝生の青さに見とれていた自分とはおさらばだ。

 これまでの一連の出来事は、記憶として私の中だけに留められているのだろう。記憶は戒めとしてされた、という事だ。ご先祖様の手厳しさに、苦笑する。

 ついでという訳では決してないが、ここで1つ懺悔をしたい。心のどこかで、あの『ご先祖様二人』の正体をはっきりさせたい、という願望が拭えずにいた事だ。

「本当に先祖なのだろうか」

現代病とでも言いたくなる様な先入観が猜疑心を呼び起こし、一瞬ではあるが、この様な疑問が頭をよぎってしまったのだ。だが考えてもみればすぐにわかる事だった。仮にそれが嘘だったとしたら? どうなる? それこそ一体誰なんだ? 

 横文字を組み込んで流暢りゅうちょうに話していたあの様子は、今なら小気味よく思える。どちらかというと尊敬の念だ。だからもう、そんな事はどうでもいい。摩訶不思議という事だ。神のみぞ知る、と締めくくってもいい。

 泡沫うたかたの夢に身を踊らせた、といえば聞こえはいいが、そんな我が身を振り返り、同時に訪れた不思議な現象は紛れもなく現実だったのだと、身に染みて感じていた。久子に翻弄され仕事でミスを犯した傷跡が、ペナルティという形で色濃く残っているのがいい証拠だ。 これから、出来る限りの早い信用回復が当座の課題だ。

 そんな思いを巡らせていたその時、電車のドアが開いた。すかさず柔らかな風が私の体を、まるで円を描く様にして通り過ぎて行った。私は間違いなくご先祖様だと確信した。そして息を深く吸い込み、心から二人のご先祖様に感謝した。

「今日は公子に花を買って帰ろう」

 一歩を踏み出しホームに降り立った時、急に思いついた。帰ったら食事より先にまずシャンパンだ。向かい合わせたクラブチェアに包まれ、公子が好きなヴーヴクリコをシャンパングラスに注ぐ……。

 私は空想に浸りながら一人勝手に王子様気分を盛り立て、足早に改札口へと向かった。



                              (完)





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