第7話 結婚記念日


 朝露が光を浴び、庭木の草花を爽やかに煌めかせていた。私は窓を開けると両手を天井に向け、思い切り深呼吸した。

「なんて気持ちのいい朝だ」

 二人の記念日に相応しく、空は快晴だった。おまけに今日は日曜日で、一日中祝い事に浸れる。何もかもが祝福されている様だった。

「おはよう。今日はお休みなのに早起きね」

 公子がキッチンから笑顔でやってきた。

「だって今日は特別の日だろう? 早起きしなきゃもったいないよ」

「うふふ、遠足に行く子供みたい」

 それから私たちは朝からシャンパンを飲み、少し酔いを覚ましてから食事に出掛けた。朝の空気は新鮮で、初夏の風は少しひんやりと心地よかった。私たちは若い恋人同士の様に手を繋いで歩きながら店が開くのを待った。

 軽い朝食を近くのカフェで摂りながら、コーヒーカップを口元に運ぶ公子の顔に私は暫し見とれていた。

「なあに?」

「綺麗だよ」

「やだ、照れくさいわ」

 そう言うと公子は、はにかんだ様な笑顔を見せた。私とそう変わらない年齢なのに、時々公子は少女の様なあどけなさを感じさせる時がある。すぐ身近にこんな幸せがあった。それなのに私はその事に気づきもせず、隣の芝生は青いとばかりに刺激を求め続け、しまいには我が身を麻痺させ破滅させようとしていた。

「どうしちゃったの? ここのところのあなた、別人みたい」

「改心したんだよ」

 冗談めかして私は言った。

「そうなのね」

 公子は相変わらずクールではあるものの、目を細め微笑むとそれ以上何も聞かなかった。

「それじゃあ、これからどこへ行く?」

「そうね、何だか歩きたいからウィンドウショッピングでもする?」

「いいや、ショッピングに行こう!」

 即座に公子の手を取ると席を立った。公子は手を引っ張られながらクスクスと笑っていた。こんなによく笑う、笑顔の似合う女性だったんだ。私は公子から笑顔を奪い去ってしまうところだった。そう思っていると、涙がこみ上げてきそうになった。

 まさに行き当たりばったりのデートになった。時間を待たず、気の向くまま、体の向かうままに電車に飛び乗り、子供の様にはしゃいだ。

 電車を降り表参道を歩いていると、洒落た佇まいの店が目に留まる。

「ちょっとここへ入ってみよう」

 宝石店のショーケースに、煌びやかなジュエリーがディスプレイされていた。何気なく選んだ店に、足の向くまま入る。25年前のあの日もそうやって公子と出会った。四半世紀も経った今、私はかけがえのない人生の伴侶と共に二人、足並みを揃えてここにいる。

「これ、君にぴったりだよ」

 上品なダイヤモンドをあしらったプラチナのネックレスを手に取ってみる。

「本当? 素敵!」

 全てがスムーズに運んでいるから、楽しんでも楽しんでも時間が止まっているかの様な錯覚を起こしていた。そんな不思議な感覚に陥る度に、姿の見えない声の主の事が頭をよぎっていった。

「さあ、一旦帰って着替えよう。予約に遅れない様にしないと」

 そう言うと私はまた、公子の手を取り、今度はタクシーに乗った。

「こんなに歩き回って、夜になって疲れちゃったら困るからね」

 公子は目をキラキラさせながら私を見つめていた。私はすっかり王子様気分だった。愛する女性が喜ぶ様を見て、幸せな思いに浸れない男はいないだろう。

「あなた、本当にありがとう」

 公子の目に涙が光った。

「まだまだお祝いはこれからだよ」

 そう言って公子を胸に抱き寄せた。そして私と公子は、幸せを噛みしめる様に静かに目を閉じた。



「こちらでよろしいですか?」

 しばらくするとタクシーの運転手が声をかけてきた。ハッと目を開ける。少しの間、眠っていたようだ。

「あ、ああ。ありがとう」

「寝ちゃってたみたい」

 公子の声に安堵する。あれ以来、目が覚める度に公子を探す癖がついてしまった。

「さあ、少し休んで着替えよう。丁度いい時間だ」

 公子はお気に入りのシックなブルーブラックのワンピースに、今日買ったダイヤのネックレスを着けた。

 初めて会った時から25年経った今でも、クールビューティと呼ぶに相応しい公子の雰囲気は色褪せておらず、とても美しかった。

 記念日や祝い事の度に訪れるいつものレストランへ行くと、オーナーが私たち二人にと、ブルゴーニュのちょっとした年代物の赤ワインを用意してくれていた。公子の顔の大きさほどもあるワイングラスをカチンと合わせ、互いに、

「乾杯」

 とだけ言った。特別な言葉などいらなかった。それから後は、二人の幼い頃の話や出会った頃の事など、かつてないほどに深夜まで語り合った。そして心から今の幸せに感謝し、もう二度と公子を悲しませないと強く心に誓った。


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