第6話 心の絆
ある日家に帰ると、私たちがいつも座るクラブチェアのカバーが変わっていた。
「あれ? チェアカバー変えたのかい?」
普通にそう言ったものの、あまりに見事なチェアカバーに、一瞬たじろいだ。
「ええ。いつもの恒例行事じゃない。どう? いいでしょ? この柄も」
いつもの恒例行事? 何のことだ……? 私は
「あ、ああ、そうだね」
思わず取って付けた様な返事をしてしまった。
「あなた、また忘れてるんじゃない? 明日は結婚記念日よ?」
勘の鋭い公子の言葉に顔は青ざめる。忘れていた事が大バレである。公子はいつもの事に慣れている様子で、ふてくされたように口を尖らせて見せた。
「ごめん! この前、取引先の会食をキャンセルしてしまって、詫びに行ったり仕事の整理で追われていたりで、つい……。明日の予約、すぐにするよ。すまない」
私は受話器を掴むと、慌てていつものレストランに予約の電話を入れた。その一方で思いを巡らせた。
そうだった……。そう言えば毎年、私たちの結婚記念日に合わせて、二人それぞれのクラブチェアのカバーを新しくしていたのだった。どうしてそんな重要な事が思い出せなかったのだろうか、と不安な気持ちが込み上げてくる。
「凄く素敵な柄だね」
私らしくないかもしれないが、この素晴らしいチェアカバーに心洗われ、感嘆のため息と共に自然と言葉が滑り落ちた。
「加賀友禅なの」
公子は嬉しそうに言った。
それは目を見張る様な、華やかな色合いの、素晴らしい染め物だった。
「結婚20年の記念すべき年だから、今年はこれで作ろうと決めていたの。着物をリメイクしたのよ。もちろん私の手作り」
心細やかな女性らしさを公子は持っているのだ。
「こんな素敵なお着物をチェアカバーに仕立て直すなんて、ご先祖様に叱られるかもしれないけど、私は背が高すぎて着ることができないし、だからと言って手放すことも出来ない。タンスの肥やしになるだけなんて事したくなかったの。それならせめて私たちの絆を深める宝物として息を吹き返して欲しかったのよ」
以前聞いたことがあった。公子の祖母は、公子を目に入れても痛くないほど可愛がっていたそうだ。
公子の実家は老舗の呉服問屋だったのだが、戦時中に焼失した物や、時代の混沌の中、やむを得ず手放した事などから、高価な着物は全てと言っていいほど喪失したと言う。公子の祖母が、これだけは我が孫にと、命懸けで守り通した着物の話は、以前聞いた事があった。それがこの加賀友禅だったのか。よほどの思い入れがある品なのだろう。
「本当に素晴らしいね。一生忘れられない記念日になるよ」
私は公子を力一杯抱きしめた。
「ちょっと座ってみてもいいかい?」
「もちろんよ」
私はゆっくりと深くクラブチェアに身を沈めた。静かに目を閉じてみる。瞼の奥に公子と出会った時の光景が広がっていった。
25年も前になるだろうか…。私はまだ若く、早く一人前の男になりたいと、仕事に躍起になっていた。そんな時、仕事の合間に通りかかった店のショールームが目に留まった。家具の専門店らしいその店はとても落ち着いた雰囲気で、自然と足が向いた。
中へ入ると、そこには接客している公子の姿があった。クールビューティと言う言葉がぴったりな公子の姿に、私の目は釘付けになった。
仕事にがんじがらめで頭打ちになっていた私の生活に、一陣の風が吹き抜けた。
衝動買い、と言ってもいいだろうか。その時目についたのが、今私が座っているクラブチェアだ。
「この一人掛けのソファ、とてもくつろげそうですね」
そう言って目一杯格好をつけ、さりげなさを装い公子に声をかけた。
「こちらはイギリス製のクラブチェアです。名前の由来は、上流階級の紳士の社交場でもあった、『ジェントルマンズクラブ』から来ているようです。そこで使われていたのが、このタイプのソファだったんですね。お客様の雰囲気にとても合っていらっしゃいますよ」
気取り屋の私とした事が、こんな大事な場面で無知をひけらかした様で、思わず顔を赤らめてしまった。そんな私の心を見透かしたのか、公子は優しい眼差しを私に向けた。その美しい顔は、慈悲深いマリア様を彷彿させた。公子は口元に僅かながら笑みを浮かべ、そのままそっと右手を低く差し出した。
「どうぞ、お掛けになってください」
それからというもの私は、親に、親戚に、友人に、などと口実を作っては家具を購入していった。
程なくして私たちの交際が始まり、出会ってから5年が経った冬の日、改めて公子を家に招いた。私の家はいつしか、公子の店から購入した家具一式で埋め尽くされていた。
公子をエスコートしたリビングの中央には、私のクラブチェアに加え、もう一脚のクラブチェアを用意し、それらを向かい合わせて用意しておいた。もちろん、今でも愛用している代物だ。
「この席は君の席だよ。結婚してほしい」
そう言って公子を新しいクラブチェアに座らせ、そっと手を取り、ダイヤのエンゲージリングを薬指にはめた。それがプロポーズだった。我ながらロマンチックだったと、今思えばやけに照れくさい。
もうあれから20年も経つのか。その間色々な事があった。公子には頭が下がる思いだ。
あれこれと思いを巡らせていたその時、目の前にまた、まだら模様の渦巻きがジワジワと現れてきた。まただ……! 私はそれから逃れるように慌てて体を起こし、立ち上がろうとした。だがもう既に私の視界はまだら模様で埋め尽くされ、手を伸ばしても伸ばしても、公子を捕まえることはできないでいた。
「やめてくれ! もう公子を奪わないでくれ!」
思い切り、姿の見えない声の主に向かって叫んだ。
「ほら、こんなに怯えてる。かわいそうだよ」
もう一人の姿の見えない声の主が先に口を開いてきた。
「甘やかすんじゃない!」
いつもの姿の見えない声の主が厳しい口調で
「俺たちは、お前はもう救われないと踏んでいたんだ。欲にまみれ歯止めが効かず、どん底まで落ちてしまうと半ば諦めていた。だが意外だったよ。お前が欲に打ち勝つとはな。それもこれも公子の強い愛がお前を救ったに過ぎないが。公子の深い慈愛が俺たちを呼び覚ましたようにな。」
「呼び覚ました?」
すかさず私は、姿の見えない声の主の言葉に食らいついた。少しの間沈黙があり、低く落ち着いた口調でゆっくりと返してきたのは驚くべき言葉だった。
「俺は、お前の先祖、とでも言っておこう。」
「さしずめ僕は公子の先祖というところか。すまないが、それ以上は聞かないでほしい」
私は愕然とした。
「なんだって……?」
予想もしない展開にうろたえ、頭の中はパニックになる寸前だ。こういうのを何と言ったか。近頃では霊感、だとか言うのか。これまでの人生、そんなものとは全く無縁の私だが、もう完全にこの超常現象を認め、信じていた。畏怖にも似た驚愕が私の胸を揺さぶる。やっと正体が判明した、という爽快感の様なものだけが、私の心を正常に保たせているようだった。
「結婚記念日の度に、まるで新しい衣を着せ替えるように大事に扱われるそのクラブチェアとやらに、神が宿ったんだ。そしてある日、お前の愚行に耐えかねた公子が、お前のその専用席の上に涙をこぼした。その日から俺たちはこの世に遣わされたんだよ」
「そういう事」
優しくもう一人の姿の見えない声の主が相づちを打つ。
「そして20年目の結婚記念日を目前にして、お前たちの関係に大きな亀裂が入ろうとしていた。何事も、あともう少し、もう一歩、これが節目という大事な時に、災いじみた足元を
私はあまりの事の大きさに、ただ黙って全神経を聴覚に集中させ、聞き入った。そしてもう一人の姿の見えない声の主が、優しい穏やかな声で続けた。
「公子は消失してしまった祖先の魂を重んじる様に大事に、息吹まで与えてくれた。そんな優しい心の持ち主へと成長してくれた。それは君の一助もあったからだ。心から礼を言う」
すかさず、いつもの姿の見えない声の主が釘をさす。
「お前が改心しなければ、今日のこの時、行き場を失う筈だった加賀友禅を公子に
「えっ? ちょっと待ってくれ!」
激しい風が巻き起こった。私の髪を、頰を、払う様に、清める様に、吹き抜けて行った。
同時にまだら模様の渦巻きは私の体を包み込み、意識を呑み込んで行った……。
「……あなた、風邪ひくわよ?」
クスクスと公子が笑っている。
「困った人ね」
どうやらあのまま眠り込んでしまった様だ。
膝の上にはブランケットがかけられている。
「全然起きないんだもの。心配したわ。疲れてたのね」
「あ、ああ、すまない。君と出会った時の事を思い出してたんだ。そうしたらそのまま寝てしまった様だ」
いつものリビングの光景が広がっている。そしてそこには、加賀友禅の美しい色合いが室内を華やかに彩っていた。
ああ、良かった……。公子もちゃんと居る。
しかし、姿の見えない声の主たちは本当にもう現れないつもりなのか……などと回想していると、公子の携帯電話が鳴り響いてきた。静かに公子が着信の表示を見る。公子は電話に出ようともせず、バッグの中から何やら古びた写真立てを取り出しながら言った。
「もう久子さんの電話には出ないわ」
相変わらずのポーカーフェイスではあるが、伏せ目がちの、少し悲しげな表情で、公子は呟いた。
私はつい癖で思わず動揺してしまう。
「どうしたの? 大丈夫なのかい?」
何もしていない、何も怖くない、と自分に言い聞かせながら聞いてみる。
「大丈夫よ、これがあるから」
そう言って公子は私に写真立てを向けた。それはとても古い写真だった。
その写真の中には、加賀友禅を粋に着こなす女性の姿があった。 それを見た瞬間、私はクラブチェアから跳ねる様に立ち上がり、2、3歩後ずさりした。
「こ、これは誰……?」
写真の中の女性は髪を結っておらず、長く美しい髪は強風に
「なあに? そんなに驚いて。あ、写真は見せた事なかったわね。私の祖母よ」
そう言いながら公子は、その写真立てを鳴り響く携帯電話の上に伏せた。すると携帯電話の呼び出し音は止まった。
「魔除けに、っておばあちゃんがくれたの。悪い冗談ねってその時は笑ってたんだけど。この加賀友禅を出すときに一緒に出てきたの。不思議ね」
私はもう、何が何だか分からなくなっていた。だからと言って何故、今それを魔除けとして公子は使ったのか。公子がこの様な行動に出るという事は、あの忌まわしい出来事が記憶にあるという事なのか。あれが事実として残っているのなら公子はどこまで認識しているのか。時間が遡ったからといって、罪が消えたという訳ではなかったのか……?
もう何も考えられない。私は結局、怖くて尋ねる事ができなかった。
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