第5話 慈悲の神業



 突然、目の前に眩しい光が飛び込んできた。

「うっ……!」

 思わず目元を手で覆う。

「あなた、もうお昼よ」

 寝室のカーテンを開け、外の空気を入れながら公子が呆れ顔で微笑んでいた。

「公子!」

 一気に意識が覚醒し、飛び起きる。真っ白に洗われたレースのカーテンが風に揺れている。

「なあに? どうしたの?」

 気がつくと公子を抱き締めていた。

「ふふ、久し振りのお休みだったから寝すぎて悪い夢でも見たのね」

 子供を抱きしめる様に優しく包み込む公子の手は、まるで母の様だった。以前と変わらぬ公子は何事もなかったように優しく、私は安堵の溜め息と共に涙が出そうになるのを必死でこらえた。

「お願いだ、もう何処へも行かないでくれ……!」

「あらあら、どうしちゃったのかしら。よほどの怖い夢だったのね」

 公子はそう言うとそれきり何も言わず、私の髪の毛を手櫛で梳かし続けた。私はそれが何とも心地よく、公子の膝の上でうとうとと、至福の時に身を委ねていた。

 するとリビングに置いてある公子の携帯電話が鳴り響いてきた。

「あら、誰かしら?」

 私は嫌な予感がした。

「ちょっとごめんなさいね」

 公子はそう言うと、私の頭を優しく動かしてベッドから立ち上がり、リビングの方へと向かった。

「もしもし?」

 私は聞き耳を立てた。何故か手に汗を握る。

「あら、久子さんこんにちは。お元気?」

 ギクッとした。まさか……。

「まあ、嬉しい。だけど今日はこれから主人と買い物に行くところなの」

 あの時と同じ電話のやり取り、全く同じセリフ。手が震え、顔から血の気が引いて行くのが分かる。

「そうなの。珍しいでしょ?」

 時間がさかのぼっている? 心臓がバクバクと高鳴り始めた。今なら間に合うのか? 分からない。だが確実に時間が遡っている。何処まで遡っているのか……! 居ても立っても居られず、寝室から飛び出す。

「ええ、ごめんなさいね。せっかくだったのに。どうもありがとう」

 公子はそう言うと電話を切った。

「どうしたんだい?」

 リビングの入り口に突っ立ったまま恐る恐る聞いてみる。

「久子さんがね、シンガポールのお土産のチョコレートがあるからお茶しに来ませんかって。でも今日は あなたと買い物に行くからと言ってお断りしたわ」

「そうか。すまない」

 あの時と状況が変わった……!

 心臓の鼓動はまだ激しく打ち続けているものの、私はホッと胸をなでおろし、この不思議な現象に感謝すると、何度も心の中で繰り返していた。あの忌まわしい出来事のやり直しができているのだと悟ったからだ。こんな非現実的な事が実際に起こり得るのかどうかなど、この後に及んでどうでも良かった。

 するとまた公子の携帯電話が鳴る。

「また久子さんだわ。どうしたのかしら?」

 そう呟いて公子は再度電話をとった。

「もしもし? ええ、いいのよ。どうかした?」

 身体中の全神経が公子と久子の会話に集中していた。呼吸が浅くなっていく。

「えっ? ちょっと聞いてみるわね」

 携帯電話を耳から離し、公子がこちらを振り向く。

「良かったらご主人も一緒にいかがですかって。あなたどうする?」

 私は激しくかぶりを振った。そして久子に聞こえるように声高らかに言った。

「今日は久し振りの休みだから、ゆっくりと二人のデートを楽しみたいんだ。悪いけどお断りしてくれないか」

 公子は困った様に笑いを呑み込んだ。

「本当に子供みたいなんだから。」

 携帯電話を手で押さえ、声をひそめて優しく言った。

「あ、もしもし、久子さん? あのね、え? ふふ、ごめんなさいね。ええ、ありがとう。それじゃ、またね」

 そう言うと公子は電話を切り、くるりと振り向いて言った。

「あなたったら、久子さん聞こえてたわよ。ごちそうさまって言ってたわ。本当に困った人ね」

 そして私たちは、ゆっくりと二人の時間を楽しんだ。まるで何年も迂回したかの様だった。結局、自分の欲望に自分が翻弄されただけの話だったのだと、己の愚かさを心底憎んだ。

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