第4話 快楽の爪の跡



 あれから2年の時が過ぎた。あんなに熱かった久子に対する思いはどことなく色褪せ、会う機会もめっきり減っていた。

 あの日……。私は姿の見えない声の主に追い詰められ、茫然自失ぼうぜんじしつの状態でリビングの絨毯の上にしゃがみ込んでいた。すると何処からともなく公子が現れ、慌てた様子で私を支え上げ寝室へと運んだ。私はそれまでの経過を話す気力もなく、ただひたすらに眠った。

 目が覚めた時、体力の回復を感じ、同時に怒りのようなものが込み上げてきた。公子は献身的に私の世話をしていたが、全くあの日の事に触れず、私はイライラを抑えることができなかった。

 そして私は、それまで公子に対して与えていた優しさを一つずつ取り去る事で、いじめにも似た些細な嫌がらせを与えるようになって行った。

「今日はもう大丈夫だから会社へ行くよ」

 私はそう言っていつものように家を出て、その夜、家に帰らなかった。

 数日が経って家に戻った時、公子は荷物をまとめて姿を消した後だった。



「社長、今日の会食、何時ごろお迎えに上がったら宜しいでしょう?」

 オフィスの窓の外をぼんやり眺めていると、心配そうに社員が声をかけてきた。

「ああ、タクシーで行くからいいよ。ありがとう」

 実家にも帰っていない。数少ない友人にも連絡をとっていない。もちろん、久子の所へ行くはずはない。一体公子は何処へ行ったのか……。どうしようもなくなり捜索願いまで出した。だが一向に手がかりは無い。子供じみた自分の未熟さに、後悔だけが襲いかかっていた。



「あなたが邪険にするからよ」

 公子の事を知った久子は、勝ち誇った様に自信に満ち、そう言い放った。

「全て私のせいだと?」

 まだ空にはうっすらと夕映えが残る中、街には街灯が点り始めている。助手席の窓の外へ視線を移すと久子は、髪をかきあげながら苛立たしげにタバコを揉み消した。

「やめて、そういうの。面倒はごめんなの。私の言い方が悪かったなら謝るわ。あっ、いけない。今日は主人とパーティにお呼ばれしてるの。先方がどうしてもご夫婦でって聞かないらしくて。また連絡するわね」

 そう言って久子は車のドアを閉めた。それ以来、久子はあまり連絡をして来なくなり、私も久子を追わなくなった。そしてまた、私は姿の見えない声の主の言ったことを思い出していた。

『お前も彼女も、単に愛欲に溺れ盲目になっている、というだけでは無いからだ』

 抗おうと思っても言い当てられたという感覚が拭えない。事実、久子と二人、あんなに熱く燃え上がった炎は、公子の失踪と共に消し去られたかの様だったからだ。

『二人の関係を公子に気付かせれば気付かせるほど、分からせれば分からせるほど、お前たちはその時の公子の反応が面白くて面白くて仕方がなかったんだ。あざとい女と傍若無人な男に挟まれ、確たる証拠も無いままに、公子は黙ってずっと耐えていたんだ。』

 またしても姿の見えない声の主の言葉が蘇ってくる。愛欲の熱が冷め、己の姿や久子の人間性が次々に浮き彫りになってくると、途端に我が身を恥じる様になって行った。



「そろそろ支度をしに一旦家に戻るよ」

 そう社員に告げると、足早に会社を後にした。電車の窓から遠く外を眺めながら、深くため息をつく。なんという脱力感だろう。明日が来れば事がどうにかなる、という道筋など全く見えない。 暗闇の中をふらふらと歩いている様だった。

 自分の選択が誤りだったという事を今になって悟り、己に対する怒りが一層自暴自棄じぼうじきに、そして自信喪失へと落とし込んでいた。

 家に着くと、また大きなため息をついてしまう。ドアを開けても公子がいないだけで全く別の家に来た様な気分になる。

 リビングに入り、込み上げてくる虚しさを抑え窓を開けた。初夏の日差しが差し込む空間に心地よい風が吹き抜け、サラサラとレースのカーテンを揺らした。このレースのカーテンは公子のお気に入りで、いつも真っ白に洗われ風が吹くといい匂いがした。今ではタバコのヤニで茶色く変色している。

 滅入る気持ちを落ち着かせ、ネクタイを緩めた後いつものクラブチェアに身を沈めた。その時だった。目の前にまた、あの時のまだら模様が、ぐるぐると渦を巻きながら現れてきた。そして私はそのまま意識を失った……。



「結局、やりたい、したい、歯止めが効かない、と突っ走った挙句がこのザマだな。あれほど忠告したのに」

 ……頭が重たい……。誰だ……。

「俺だ」

 ハッ! と我に帰る。姿の見えない声の主だった。

「私はずっとお前を待っていたんだ! 公子を何処へやった?」

 私は思わず立ち上がり、姿の見えない相手に向かって大声を張り上げていた。

「人聞きの悪い事を言わないでくれ。公子を追い出したのはお前とあの女だ」

 反論しようとしたが、ぐっと抑えた。結果が物語っていたからだ。

「お前、まだポーズをとってるな」

「どういう意味だ!」

「ただ身の回りの世話をしてくれる公子がいなくなった不便さと、持ち物を奪われた様な喪失感に戸惑っているだけで、お前はまたすぐにあの女の手のひらで転がされるのさ」

「何だと……!」

 怒りと屈辱と、そして期待がまたしても入り混じる。

「ほらな。言ったろ? お前の心の奥の奥にはサディストとマゾヒストが同時に顔を出すモンスターが潜んでいると。そのまんざらでもないといった顔を見れば一目瞭然だ」

 心の中を見透かされ、顔が熱くなっていくのが分かる。

「だが久子とはもう会っていないじゃないか!」

 声を荒げ威圧しようが、そんな事などものともせず、姿の見えない声の主は鼻で笑い、続けた。

「もう会わない、もう終わった、と言わないのは何故なんだ?」

 私はぐっと言葉に詰まった。

「お前たちが連絡を取り合わなくなり逢い引きしなくなったのは、公子が消えてコソコソできなくなった事と、公子の歪んだ顔を拝めなくなったからだろ? 要するに、興奮度が足りなくなった、ただそれだけの事だからだ。自分たちの変態プレイを楽しむのに第三者を巻き込むのは、強欲で貪欲以外の何者でもない」

 姿の見えない声の主の切り込みは一段と鋭く、そして的を射ていた。

「それに加え、あの女は自分の使命を半分は果たしているから、ひとまず高みの見物だ。お前が心の何処かで期待している様に、お前をおちょくるチャンスを虎視眈々こしたんたんと狙っているのさ」

「久子の使命って何なんだ!」

「……お前、まだ分かってないのか……?」

 姿の見えない声の主は呆れ果てたといった様子で呟いた。

「仕事はできるのかもしれないが今は試練の時なのかもしれないな。お前の欲は今までは仕事に好影響を及ぼした事も多々あったろう。だが今はお前自身を破滅させる毒になっている。最後にもう一度だけチャンスをやる。これでダメならもう二度と公子はお前の前に姿を現さない事になる」

「ちょっと待ってくれ! どうすればいいんだ! おい!」

 激しい風が巻き起こるとまだら模様が物凄いスピードで渦巻き、私の意識を呑み込んでいった……。

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