第3話 禁断の果実



 或る冬の昼下がり、携帯電話の着信音がリビングに響いた。

「もしもし」

 公子が髪を掻き分けながら電話を取った。

「あ、公子さん? 私。久子です」

 彼女は公子の学生時代の後輩で、数少ない友人の一人だ。

「あら久子さん、こんにちは。お元気?」

「ええ、おかげさまで。実は昨日、シンガポールから帰って来た友達がチョコレートを買って来てくれて。良かったらお茶しに来ません?」

「まあ嬉しい。だけど今日はこれから主人と買い物に行くところなの」

「あら、今日はご主人ご在宅?」

「そうなの。珍しいでしょ?」

「どうしたんだい?」

 二人の会話に割り込んでみる。

「久子さんがね、シンガポールのお土産のチョコレートがあるからお茶しに来ませんかって」

「あっ、お時間があったらご主人も一緒にいかがです?」

 私にも聞こえる程の大きな声で久子は電話越しに自宅訪問を促してきた。そしていそいそと、私は妻と二人、友人宅を訪問した訳だ。

 車でおよそ1時間くらいの場所に久子の家はある。来客用の駐車場に車を停めると、久子が玄関の扉を開き手を振っていた。

「何だか無理やり来させたみたいになってごめんなさい。どうぞ」

 リビングのソファへと促される。洒落たロイヤルコペンハーゲンのティーカップに紅茶を注ぎ、久子は照れ臭そうにチョコレートをテーブルの上へ置いた。

「いいんですよ。今日は終日オフにしてますから。買い物は少し時間が下がっても大丈夫だね、公子」

「本当よ。久子さんに会うのも久し振りだものね」

 他人行儀を装ってはいるが、すでに私と久子は只ならぬ仲になりつつあった。

 この半年ほど前、今日と同様、私たち夫婦共に招かれた日があった。以前から執拗しつようなくらいの久子の、誘う様な、食い入る程に見つめる視線に気付かない訳がない。その日、公子がトイレに立った隙に、私はここぞとばかりに久子を抱きしめ、耳元で好きだ、と囁いた。

 私は知っていた。女がこの様なドラマチックな出来事を好むという事を。しかし逆に、好意を持っている相手でなければ、激しく嫌悪感を持って抵抗するというのが女というものでもあるから、一概には言えない。ともかく、誰もがそう簡単にドラマの主人公の座につけるなどとは思わない方が賢明な、ある種危険な行為に打って出た、という訳だ。

 据え膳食わぬは男の恥とばかり、考えもなしに大胆な行動に出ただけの話だと言われてしまえばそれまでだが、伊達に百戦錬磨を豪語している訳ではない。

 案の定、久子は抗うこともせず、まるで次の行為でも待っているかの様に私の腕の中に身を預けていた。

 程なくして公子が戻って来たので、二人してドラマさながらに平静を装い、公子を挟んでこっそりと目配せをした。

 それから特にアクションも起こさなかったので、久子とは会うこともなかった。気にはなっていたものの、私は他にも『別の女性』がいたから、変な話、事足りていた。

 半年が過ぎ、久し振りに会う久子は少し若くなっていた。そして、以前にも増して私への挑発はエスカレートしていた。

 この日は珍しく膝上のスカートを履いていた久子は、幾度も目の前で足を組み直す仕草を見せ、何度か下着が見えた。まるで私の手中にいるかの様に思わせるその仕草は小気味よかったが、公子の存在を全く無視しているその態度には、欲情しながらも少々不信感を覚えた。

 厄介な女を勘違いさせてしまったかと思ったのも束の間、年の割に魅力のある久子にまたしてもペースを握られ、とんでもない失敗を犯してしまう事になる……。

「やっとここまで思い出したか。この事こそが、公子とお前の今回の騒動の発端だ」

「私は彼女とは何もしていない!」

「なるほど。その何もしていない、という思いがお前の愚行をエスカレートさせたんだな。しかし一体どこまでがそのボーダーラインなんだ?」

 そうだ。もう既に私の頭の中は色々な妄想が駆け巡り始めていた。

 久子のあられもない姿を想像しては興奮し、いつ、どこで、どの様にして最後の一線を越えようかと、そればかりを考えるようになっていた。

「しまいには彼女の旦那の前でも言葉遊びよろしく、あからさまに気持ちを打ち明けたり、公子を挟んで見つめ合ったりと、それはもう傍若無人ぼうじゃくぶじんはなはだしい。グロテスクだ」

 言葉の槍がグサっと胸に刺さる。思わず本音が溢れそうになる。あの女の誘いに乗ったばかりに、と。それと同時に、自分の責任を人になすりつけるという最も許せない思考を持った己を忌み嫌い、自己嫌悪に襲われる。

「お前は今は後悔の念に駆られているだろうが、またすぐに彼女の掌で転がされる様になるんだよ」

「私が? 女ごときに手玉を取られるというのか? はっ! 冗談じゃない! 貴様、さっきから好き勝手ほざいているが、私の何が分かるというんだ!」

「お前も彼女も、単に愛欲に溺れ盲目になっている、というだけではないからだ」

「何だと?」

「2人の関係を公子に気付かせれば気付かせるほど、分からせれば分からせるほど、お前たちはその時の公子の反応が面白くて面白くて仕方がなかったんだ。あざとい女と傍若無人な男に挟まれ、確たる証拠もないままに、ずっと公子は黙って耐えていたんだ」

 またしても図星だった。

 私は気付いていた。公子がある時期から久子のところへ行きたがらなくなっていた事を。そうなればなるほど、私は意地になって久子の元へ行く様になった。公子の友人だという手前、私1人で行くわけにもいかない。ただそれだけの理由で、嫌がる公子を引っ張っていった。

 私はなりふり構わなくなっていた。休日にやっておかなくてはならない仕事も後回しに、とにかく久子に会うため、足繁く通った。

 そしてとうとうあの日、私らしくもないあんなミスを犯してしまったのだ……。



 私たちは毎週末と言っていい程の頻度で久子の家を訪問する様になっていた。

「それじゃあ公子、そろそろおいとましようか。久ちゃん、また来るね」

 そう言って席を立ち、三人で玄関へと向かった。公子は玄関先に座りロングブーツを履く。私は公子の斜め後ろに立ち、公子の黒髪をぼんやりと眺めていた。すると突然、久子が後ろから抱きつく様にして私の体に腕を回し、手に指を絡ませてきた。半年前の情景が蘇ってくる。胸の鼓動が激しい。この刺激はたまらないが、この状況は危険極まりない。顔を赤らめながらも『ダメだよ……!』と声を殺して手を解こうとしたその時だった。

「あなた、忘れ物ない?」

 突然振り向いた公子に、その劇的瞬間を見られてしまった。私は反射的に、不自然すぎるほどのオーバーアクションで久子から離れた。

「これまで、スレスレの所まで分からせておいて、絶対に証拠は掴ませない、というのがお前の得意技だっただろうが、どうやらヤキが回った様だな」

「うるさい……!」

 この時もやはり公子は何も言わなかった。確実に見られていた筈なのに、公子は至ってクールだった。私はそれに味をしめ、また何事もなかったかのように休日の度に久子に会いに出向いた。

 ただ、公子は口数がどんどん少なくなり、同時に久子と私は二人きりになるチャンスを失って行った。なかなか私との接点が持てない久子は、イライラを募らせていた様だった。私との関係を隠すどころか、匂わせる様な態度をとる様になっていったのだ。

「それじゃあ、また来てね。大事な大事な、だーい好きな公子さんを乗せてるんだから、運転気をつけてね」

 まるでヤキモチを妬く彼女の様な仕草であからさまにイヤミを言う様になっていった。私は冷や冷やしながらも、まんざらでもないという態度を隠せなかった。

「……完全に中毒者だな。挑発という刺激で麻痺させられ、思考は狭められ、周りは何も見えなくなり、すべき事の優先順位もつけられなくなってしまっている事に気付かず、そして今度は仕事でミスを犯した。お前、そんなにバカだったか?」

 その通りだった。連休間近のあの日、重要な取引先のアポイントメントをすっぽかしてしまったんだ。先方に渡すため、手土産で用意していた箱菓子を持ったまま、またしても久子に会いに行ってしまった。そしてもちろん契約は破棄となった。普段、仕事の事に口を出さない公子もさすがに何度も忠告していたのに。

「大丈夫、大丈夫。君は仕事の事は心配しなくていいから」

 この通り、聞く耳を持たなかった私は愚か者だ。どうかしていたというだけで済まされない事はわかっている。

「お前のバカの極め付けは、胃潰瘍を患った時だ。とにかくゆっくり休めと医者からも言われているのに、公子の制止を払いのける様にしてまで久子の元へ行った。特段話すこともせず、ソファに埋もれる形で久子の姿に釘付けになっていたろ?鼻の下を伸ばし、ぽかーんと口を半開きにして。別の意味で病気だな」

 どんどん自尊心が損なわれて行くのが分かる。

「それだけじゃない。お前の言う別の女性は別の女性で、お前にほったらかしにされているもんだから、とうとう家の周りをうろつき始めた」

 そうだ。一つの歯車が噛み合わなくなったが為に全てが狂い始めていた。久子の出現が私の足元を少しずつ狂わせていたと言うのか。

「無理をする事と欲を張る事はよく似ているな」

 私は、心の中に土足で踏み込まれる様な不快さに声を荒げた。

「そうは言うが、何事もリスクをある程度負わなければステップアップなど望めないだろう?」

「ふん、綺麗ごと並べるのはいっちょまえだな。今回の事の一体どこがステップアップだと言うんだ? それどころか下落だろう? 事実、ビジネスチャンスを逃し、信用まで失墜させた。お前、まだ分からないのか? かなり重症だな」

 また胃が痛んで来た。

「ところで男のお前に聞くが、例えば自分の妻があからさまに他人の旦那を誘惑しているさまを目の当たりにした場合、ヘラヘラと笑いながら黙っていられるか?」

「どういう意味だ?」

 思わず素頓狂すっとんきょうな声をだす。

「ふう……。本当にお前はバカなのかピュアなのか分からない」

 深いため息と共に『姿の見えない声の主』は呟いた。

 考えもしなかった事だ。久子の夫……。時々在宅していて、一緒に会話を楽しんでいたものだ。いつも温厚で、笑顔が絶えず人当たりの良い人間なので、あまり気に留めていなかった。いくら久子が傍若無人な態度をとろうが、変わらず傍らでニコニコしていた。正直私は彼の事など眼中になく、久子の一挙手一投足に全神経を傾けていたから、今始めて彼の事を考え始めた、といった具合だ。

「もういい。人間の複雑さはよく知っていると思っていたがな。とにかく公子は我慢に我慢を重ね、らちのあかない現状にほとほと嫌気がさしたんだ」

「どうすればいいんだ……」

 私は頭を抱えた。

「簡単な事だろう? お前のその薄汚い欲望にお前自身が打ち勝てばいいだけじゃないか。だが、そうやって頭を抱えるところをみると、どうしても最後の一線だけは越えなければ気が済まない、といったところだろうな」

 自分の欲望に打ち勝つ? ここまで来て久子を袖にするという事なのか? そんな事、これまでの人生でした事がない。絶対に欲しいと思ったものを手に入れなかった事がないのだ。ましてや相手は、今すぐにでも奪って欲しいと言わんばかりに痺れを切らしている状況だ。

「あれも欲しい、これも欲しい、もっと欲しい、は結構だが、そんなにあれもこれもパーフェクトにこなせていると思っていたのか? 冗談だろ? 何故ここまで教えてもまだそんな事を言う? お前はもう手遅れだと言わせたいのか?」

 血の気が引いて行くのが分かる。これまで味わった事のない不安が身体中を支配して行く。

悪癖あくへきは失敗しなければ治らない。いくら第三者が注意しても、自分で気付かなければ分からない。お前は自分の欲望のおもむくままに気の済むまで、納得の行くまで泥にまみれればいいさ。だが俺たちは、お前の泥沼愛欲劇場を客席に座って傍観している時間などない」

 恐怖と期待が交錯して行く……。

「今、公子はお前の愛を失ったと思い込んでいる」

 そう言い放つと、姿の見えない声の主はそのまま気配を消した。

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