第2話 姿の見えない声の主
「人間というものは
「例えば?」
「交感神経が
「何だか小難しいね」
「頑張り過ぎても良くない、のんびりし過ぎても良くない」
「言い過ぎても良くない、言わな過ぎても良くない」
「睡眠過多も良くない、睡眠不足も良くない」
「過食も良くない、拒食も良くない……」
「……聞いた私が悪かった。で、結論は?」
「すまない。時間を共有しているのについ突っ走ってしまった。しかし今に限らずだが、こういう時にも中庸を強いられる様な気持ちになる。まるで中庸とは、腹八分にも似た様な、何となくフラストレーションが溜まる様な。中庸であるべく自分で自分を監視し、コントロールするのはなかなか高度だ」
「ぷぷ……。ストイック」
「人は言いたい事を一気に、そして全てを言いたがる生き物だ。できれば気の済むまでね。だから中庸であるという事は、言うなればストレスと手を繋いでいる様なものだ。仮にそのストレスから解放されたいが為に中庸であろうとする事を怠ったなら、周りの人間にストレスを強いる様なものだ」
誰だ……?
「で、何を言いたいのかと言うと、この男、今の幸福にあぐらをかいて中庸である事を怠ったから、家庭崩壊の危機に陥ったんだ」
私の事を言っているのか……?
「おや?気がついたみたいだよ」
「ちょうどいい。己の
何なんだこの声は? 誰なんだ!
次第に開かなかった瞼は突然見開かれ、色鮮やかなまだら模様の渦巻きが私の視界を埋め尽くしていった……。
「それじゃあ、今日は会議だからね。その後皆で食事に行くから夕食は要らないよ。先に休んでていいからね」
「ええ。気を付けて行ってらっしゃい」
朝、いつもの時間に家を出て、駅まで散歩がてら15分の道のりを徒歩で向かう。そしていつもの時間の電車に乗る。
「社長は何故、車で出社しないんですか?」
人によくそう質問される。こればかりは性分で、若い頃から電車に慣れているから、と言ってはいるが、実は電車が好きなのだ。ただそれだけだ。それなのに周りは勝手にイメージを作り立てて行く。さすがだ、親しみやすく、人物だ、と。
もちろん車も大好きで、愛車は家のガレージにひっそりと眠っている。
子供がいない私たちにとって休日のドライブは娯楽の一つだ。真っ黒なジャガーの助手席に艶やかな黒髪の公子はよく似合っていて、私はいつもやけに鼻高々になる。それでも私は、その助手席に時々別の女性を乗せたりもする。これこそ性分で、公子を心から愛しているのについつい悪い虫が出てきてしまう。
こんな具合で今回もまた会議と偽り『別の女性』と会う。
「先ずはこのケースから行くとするか」
「お手柔らかにね」
何だ? 記憶が交錯する。過去の記憶から私だけが剥がされ、今の私にワープする様だ。
「おい、お前」
誰かが私に話しかけているのか?
パーン! という炸裂音と共に左頬に痛みが走る。
「うわっ!何だよ!何をするっ!」
とっさに大声を出す。一気に意識が覚醒された。
「この時の事を公子は知っていたと思うか?」
この現実を受け入れて話をしなければ一歩間違えれば発狂だ。何せ声の相手はどんなに目を凝らしても全く存在しない。視界に映るのは色鮮やかなまだら模様の渦巻きと、過去の私の行動のヴィジョンの一部だけなのだから。
「そんな事いきなり言われても……」
「お前はいつもそうだ。自分に都合の悪い事を質問されたら、あたかも、いきなり、突然に、質問する方が悪いのだと言わんばかりにはぐらかす。そんなもの時間稼ぎにすらならないがな」
『姿の見えない声の主』は容赦なく核心を突いてくる。私と公子の事をよく知っている様だ。
一体誰なんだ? 何が起きているんだ? 深く掘り下げて行こうとすればするほど頭がおかしくなりそうだった。
次の言葉が出てこない。
「まあいい。お前は心はあまり強くない様だから、ひとまず今のこの状況を簡単に説明してやろう」
すると異次元にいる様な感覚がすっと引き、視界にはいつものリビングの風景が鳥のさえずりと共に広がっていた。
「……とうとうお前はこの寛大な公子の
相変わらず声の主の姿は見えない。私は自分の家ながら落ち着かずリビングのど真ん中に突っ立ったままだ。
「お前は公子の純粋さにつけ込み、これまでは彼女の
「まあ、そういきり立たないで」
もう一人の声の主の姿も、もちろん見えない。白いレースのカーテンを揺らす風がリビングを通り抜けて行く。
「今見せたヴィジョンはお前の愚行のほんの一コマでしかないのは承知だな?」
「……ああ」
私は誰とも分からない相手に相槌を打つ。冷や汗が額に滲んでくるのが分かる。
「これまで何事もなく好き勝手してこれていたのに今回ばかりはなぜ、と思い始めていただろう?」
その通りだった。これまでに何度か窮地に立たされた事はあっても、気付いていないのか、気付いていないフリをしているのか、公子は何も言わずいつもクールに微笑んでいた。なのに今回は違う。焦る気持ちが込み上げて来た。
そして思考が巡り始めた頃、 またしても過去のヴィジョンの続きが現れてきた……。
「ねえ、今度はハワイへ行きたいわ」
『別の女性』の中の一人、加代子。会議と偽り出かけたのは、『広尾の隠れ家』と呼び合う行きつけのバーだ。私はいつものコニャックに口をつけながら加代子の真っ赤な唇を眺めていた。
「そうだね。今の仕事が一段落したら計画を立てよう」
「わあ、嬉しい!絶対よ約束!」
そう言って加代子は私の左腕にしがみついてきた。
ああ、加代子か。いたな、そう言えば。4年ほど前だったか。3ヶ月くらい付き合ったっけ。私より30ほど若い綺麗な女だった。当時はまだ20歳そこそこで、とにかく元気で若さが弾けていた。
その頃の私はその若さが新鮮でちょっとばかり溺れた。だが次第に公子と比較する様になって行った。加代子は若いだけで、要らぬ気を使わなければならない女だとすぐに気付いたからだ。その割に、鼻の下を伸ばし逢瀬を重ね続けた事は、私の貪欲さを物語っているに他ならないのだが。
「その時のお前の顔はこれだ」
突然、目の前に当時の自分の姿が現れた。まるで鏡を覗き込んでいくように自分の顔が近づいてくる。目はギラつき、真っ赤に興奮した顔は脂ぎり、思わず目を背けたくなる程の、これまで見たこともない醜い己の姿だった。
私はこの時期、いつもこんな顔をして家に帰っていたのか。公子が気付かない筈がない。正直さほど気に留めていなかった。
そうだ……。全てが手に入ると思っていた。先代から受け継いできた家業を時代のニーズに適合させ、会社をここまで急成長させた。おまけに遊びもしっかり学んでいたからとにかくモテた。目が合う全ての女性が、自分に気があると思い込んでいた。
刺激がどんどん麻痺して行く様で……。だからあんな事までしてしまったんだ。公子の包容力に甘んじて調子に乗ってしまったんだ。
「自分がしでかした事と、それにより訪れた結果、即ち現状を、少しは把握できたか?」
何だ、何だ、と思ってはいるものの、つい主導権を
「お前は最初は自分の女遊びを上手く隠していた様だが、妻を持つ身でありながらも自由気ままに生きられる日常をあたりまえだと思う様になってしまった、そこが愚かな落とし穴だったな。隠すという努力を欠いた」
ギクッとした。図星だった。顔がひきつって行くのが分かる。
「結果、一生懸命に隠すというせめてもの思いやりを欠き、公子をないがしろにしだした。要するに自分が妻を持つ身でありながらそれを忘れ、欲に溺れ、自分の意識を中庸に保つ努力を怠ったのだ」
「そんな事はない! 私はいつもあの手この手で言い訳をこしらえ、嘘をついてまで私たち夫婦の事を一番に考えて来た!」
「威張っていう事じゃないだろ。お前の女遊びは
『姿の見えない声の主』は
「じゃあ言い方を変えよう。ないがしろではなく、おざなりにする様になったのは何故だと思う?どっちも大差ないがね」
私はまたしても黙り込んでしまった。この『姿の見えない声の主』には何故か、かなわない。
「普通ならば愛欲に溺れて盲目になったから、と思うだろうな。それは確かに正解だ。だがそれだけじゃないだろう? 実の所、もっと深い部分があるだろう?」
「何が言いたいんだっ!」
つい激昂してしまう。
「お前はポーカーフェイスの公子の表情が歪む様を見て優越感を覚えてしまったんだ。妙なエクスタシーを感じてしまったんだよ。一種の変質者だ」
「やめろ! それ以上言わないでくれ!」
私の声は半分裏返っていた。
「お前は公子の言動に狼狽し、己の愚かさに自己嫌悪を覚えるフリをしているが、心の奥の奥にはサディストとマゾヒストが同時に顔を出すモンスターが潜んでいる。違うか?」
こんな事を言われたのは初めてだ。またしても体の力が抜けていく。そして視界にあの色鮮やかなまだら模様が溢れ、満たされていった……。
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