クラブチェア

樹部るじん

第1話 晴天の霹靂



「そんなにバカなフリしてまで私に嫌われようとしているのは二つの理由があるわね」

 突然、公子は切り出して来た。厳しい寒さを越えつつある3月の小春日和。つい先日に訪れた春雷を思わす猛々しい波動が、私の体を揺さぶった。温和な彼女がそんな鋭い言葉を放つのは、結婚以来初めての事だからだ。

「そこに座って」

 公子は静かに言った。もともとポーカーフェイスの彼女は、負の感情などあらわにはしない。美しい真っ黒な瞳の奥は完全なる無表情で、氷の様な静けさだ。だが彼女は怒っている。私には分かる。その証拠に彼女は、言葉と言う名の武器を従え、今まさに私に詰め寄ろうとしていた。

「何だ? 唐突に……」

 私は平静を装いながら、我が家の家具の中でもお気に入りのクラブチェアに素直に身を沈めた。

 公子は出来た女で、私の我がままや女性遍歴などその殆ど全てに対して寛容で、今まで通常の夫婦が一度は通るであろう言い争いの様な類のものは一切ない。

「一つ目の理由は、私から離婚を切り出して欲しいと思っている。もう一つ目は、私達二人のことはハナからどうでもいい」

 私は焦った。この優しく穏やかな我が最愛の妻は元来口数が少なく、物事を伝える時は理路整然と分かり易く手短に済ませる性分だった。この局面は数カ月にも及ぶ事柄を冷静に客観視した末の事だろう。堪忍袋の尾が切れた! などと、我慢を美化しながらヒステリーに翻弄される、井戸端会議が趣味の近所の奥様連中とは公子は違う。冷静にこの時を待っていたのだ。

「どうしたんだよ、一体?」

 私は公子が何故この様な事を言い出したのかおおよそ見当はついていた。だが、どこまで粘れるかはともかく、しらを切ろうともがいた。

「質問に答えて」

 公子は私の下手くそな芝居にちっとも反応しない。

「何の事なのかちゃんと説明してくれなくちゃ分からないよ……!」

 公子は相変わらずの無表情で無言のまま私を見据えていた。たいがいの女ならそのまま激情し、ヒステリックにまくし立てて、あらゆる全ての不満を吐き出す所だろうが、公子は違う。

 ゆっくりときびすを返し、公子はキッチンへと向かった。ケトルに水を入れ湯を沸かし、一方でコーヒーミルに豆を入れる。ガリガリと手動ならではの音を立て始めると、コーヒー豆の香りがほんのりと私の所まで届いてくる。いつもの手順だ。オープンキッチンに立つ公子の顔は、私のいるリビングからよく見える。いつもの光景だ。

 私はホッとした様な、だが緊張の糸は張り詰めたままの、何とも言えない精神状態で端正な彼女の顔を見つめた。公子は一向に目を上げない。私はこの沈黙に耐えきれず口火を切った。

「い、いい香りだね。今日の豆はレッドマウンテンかい?」

 取り乱している心を悟られまいとするあまり声は裏返る。公子はチラリと顔を上げた。

「サントスよ」

 ……さい先はあまり良くないようだ。

 そう、優しく穏やかなこの女性、我が最愛の公子。実は人間嫌いで、あまり人と接するのは好きじゃない。付き合う人間は限られており、友達もさほど多くはない。結婚退職するまでは、この様な性格で会社勤めができるのかと心配になった事もあった。だが、いざ仕事となるときっちりと割り切れるらしく、嫌いな相手でも得意のポーカーフェイスで難なくこなしていた様だ。ところがプライベートでは、一度嫌いになった人間とは目も合わせない。話しもしない。間近で話しかけられても平気で無視できる。もちろんポーカーフェイスで。

 温かさと冷たさの両方をはっきりと併せ持っている公子。そんな彼女の性質を思いながら、このまま私ももしかして嫌われてしまうのか……? と、これまでになかった感情が込み上げて来ていた。

「何がどう分からないの?」

 淹れたての熱いコーヒーを運びながら公子は静かに言った。

「えっ、何がどうって……」

 明らかに狼狽した上でのおうむ返しだ。私は公子から手渡されたマグカップを丁寧に受け取った。一方で、もう一脚のクラブチェアに腰を下ろす彼女の動向に目を凝らす。公子はゆっくりとカップに口をつけると同時に目を上げた。そして目が合い、私は体を強張らせた。

 馬鹿なフリってどう言う事なんだ? と、聞くべき流れなのだろうが、それを言ってしまえば、これまで私がしてきた事を具体的に露呈させるだけだ。それに何しろ、愚行があまりにも多いが為に墓穴を掘ってしまう恐れもある。ただ、直近というのであれば、引き金になり得るであろう事に、おおよその見当はついていた。それでもあれこれ考え、挙動不審になった上に私は、馬鹿げた質問をしてしまう。

「君は私と別れたいと言いたいのか?」

 窮鼠きゅうそねこむ、とまでも及ばない。

「私が質問しているの」

 あっさり一蹴いっしゅうされてしまう。焦る気持ちを抑え、冒頭の質問に対しての最善とおぼしき答えを模索する。

「君に嫌われようとするなんて! そんな事、する訳ないじゃないか!」

 すかさず公子は言う。

「それじゃあ、馬鹿なフリしたのではなく、馬鹿になってたって事なのね?」

 私は言葉に詰まった。

「結局、盲目になったってことなのね?」

 公子の瞳にかげりが見えた。

「……という事は詰まる所、私たちの事はどうでも良かったって事なのね?」

 どこからともなく冷たい風が私の頰をかすめた気がした。

 公子は苦しんでいる。早くこの事象にピリオドを打ちたいと思っているのだろう。だが私は認めるわけにはいかない。この過ちを。絶対に二人の関係は壊したくないのだ。

 ずるいのは分かっている。そんな思いを巡らせながら、無言のまま数分が経過した。

 一体どちらが具体的に切り出すのだろう。人ごとの様に考えながら思いがまとまらず、すがる様に公子を見た。

 時計の秒針だけが虚しく響く。それに合わせるかの様に、公子の長く美しい黒髪が、ゆらゆらと天井めがけて踊り始めた。

「…………!」

 私は思わず立ち上がり、一歩二歩と後ずさりした。あまりの光景に声が出ない。

 悲しい表情のままの公子の髪は、まるで生き物の様にうごめいていた。怒髪天どはつてんく、という言葉は単なることわざではないのか? いつしか人としての尊厳を失いつつあった公子に神が宿り私を追い詰めているのか?

 理解不能な事柄に無理やり決着をつけようと、私の頭の中はパニックに陥っていった。

 何が起こっているんだ! どうすればいいんだ! 誰か……! 声にならない叫びが頭を支配する。

 足の力が抜け腰を抜かしそうになったその時、突然激しいめまいに襲われ、私はクラブチェアの背もたれにしがみつく様にして絨毯の上に座り込んだ。そして霞んでいく視界の中に公子の姿を捉えて離さなかった……。

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