第8話 明治十四年の政変と教育の変化

 7月30日。明治天皇が東北から北海道巡幸に出かけ、大隈重信おおくましげのぶはそれに同行する。

 

 大隈が東京をあけている間にも『郵便報知新聞』などの民権派の新聞がしきりに『北海道官物払下げ事件』を使い、薩長藩閥を攻撃した。


 民権派はそれによって反藩閥政治を盛り上げ、日本の政治を変えていようとし、逆に薩長藩閥はそれをさせまいと結束していった。

 

 伊藤は井上馨に「大隈問題に関しては自分が『皇室之城壁』となって犠牲になる」と強い決意を示し、三条太政大臣も新聞による藩閥攻撃が大隈・福沢の陰謀であり、政変の始まりであると恐れ、持病の頭痛のため京都で静養していた岩倉に長州の山田顕義を送っている。


 山田は岩倉に大隈が腹心の矢野を抜擢したり、5月になって統計院を作ったのは、大隈が国会開設について調べるためであると話して、その裏に福沢がいることを強調した。


 8月以降になると、井上毅は表立った動きを見せていないが、夏に毅が蒔いた福沢・大隈に対する不信の種は、民権派新聞による藩閥攻撃という肥料によって、すくすくと育っていったのである。


 この毅の動きを察知していた者がいた。

 大隈の親友であり、参謀の小野梓である。


 小野は明治天皇が10月に東京に戻るのに合わせて『政治を改良』しようとしていた。

 藩閥政治に反対だった小野は、薩長藩閥を攻撃する計画を練っていたのだ。


 明治14年の頃、小野は会計検査院で検査官だった。

 つまり政府のお金の流れを検査出来る立場にいたのである。

 

 小野はその立場を使い、検査関連書で『北海道官物払下げ事件』がいかに問題であるかを公にし、政治を変えようとした。


 小野の案は、天皇を輔弼ほひつする優れた人物による独裁政治を行い、様々に蔓延はびこる問題を急速に矯正きょうせいしようと考えていた。


 まさしく政変である。


 だが、それを起こすのは天皇が東京に戻る直前だ。

 それまでは秘密裏に計画を進めなくてはならない。


 その陰謀を進めるため、政治情報を集めていた小野はあることに気づき、9月に大隈に手紙を送っている。


「伊藤さんとあなたを離間りかんさせようとする人物がいる」

 

 それが誰かまではつかめていなかったが、小野は何かを感じていた。


 福沢諭吉も同じく10月初めに大隈に忠告を送っているが、福沢も小野も大隈包囲網が固まっていることまでは気づいていなかった。


 10月11日。明治天皇が皇居に戻ると、大隈を除いた大臣と七参議が憲法制定、国会開設、大隈免官を上奏した。


 大隈を退け、自分たちの手で憲法制定と国会開設をして、政権の主導権を薩長藩閥が確実に握ろうとしたのである。


 この時、七参議が連名で出した『憲法意見書』の起草者が井上毅である。

 毅は6月に岩倉に依頼されて作った憲法案『岩倉大綱領』を元に、この意見書を作った。


 この政変で毅は憲法制定者としての地位を手に入れたのである。


 天皇が大臣・参議の上奏を受け入れ、大隈重信が辞表を出した。


 それに合わせて、矢野文雄ら慶応義塾出身の大隈の部下たちが辞任。小野梓も続き、辞任せずに残っていた福沢門下、大隈派の官僚たちも理由をつけられて一掃された。

 

 下野した大隈は人材育成の必要性を感じ、後の早稲田大学となる『東京専門学校』を創設し、官界への道を閉ざされた慶応義塾出身者たちはその後、財界などで活躍することになる。


 毅は政治思想や公的教育から、福沢諭吉という存在を追い出すことに成功した。


 明治十四年の政変で、岩倉具視と七参議合同の憲法意見書を起草した井上毅の地位は一気に高まる。

 

 大隈、福沢の陰謀を一早く気付き、伊藤らに注意を促し、藩閥政治を守ったからである。


 毅は政変直後『人心教導意見』で福沢の教育影響力排除を説き、明治十五年以降、公教育は国学的、儒学的な面を帯びていく。


 明治十四年の政変をきっかけに、明治日本は自由で開明的な教育から、国学儒教重視の教育に方向転換する。


 この政変はただの勢力争いではなく、日本の教育という根幹を変える転換点となった。

 

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明治十四年の政変と井上毅 井上みなと @inoueminato

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