はなびらの中の楽園

七沢ゆきの@11月新刊発売

第1話 はなびらの中の楽園

 私は醜い。

 だから仮面をつけ、屋敷から一歩も出ずに暮らしている。


 慌てないでほしい。これは妄想ではない。私の精神はこの上もなく正常だ。往診した医師もそう断じた。


 ときおりいっそ狂いたいと思うことはあるが、できない。悲しいことに私は狂気からも見放されているらしい。


 けれど、だからこそ、私はこれほど冷静に言うことができる。

 私は醜いと。


 このつやけしのアルミニウムの冷ややかな仮面ですら私よりは美しい。

 いや、この世にあるどんなものも私よりは美しいのだ。


 もちろん、仮面をつけずにどうかして人と接しようとしたこともある。

 顔を見ずにすむように屋敷中の鏡を取り外し、窓という窓を磨りガラスに変えてもらったこともあった。私が顔のことを意識するのをやめれば、もしかしたら、皆も私を普通の人間として扱ってくれるかと思ったからだ。


 けれど駄目だった。

 家庭教師は次々と変わり、父と母は私から顔を背けた。


 今考えれば当たり前のことだ。見慣れているはずの自分ですら吐き気を催すのだ。他人から見れば、私の顔はなおさら醜悪でおぞましいものだろう。


 私はそれからは、父と母に言われなくても自分から仮面をつけるようになった。窓も鏡も元に戻してもらった。眠る前に必ず自分の醜い顔を見て、仮面をつけずにいたいなどと思い上がったことを考えないための習慣もつけた。


 それでも父と母が存命だったころは一緒に外へ出ることもあった。もちろん仮面をつけてだが、後ろ指を指され薄気味悪がられるより、仮面のせいで奇異の目で見られた方がまだましだ。


 皆が笑っているのは、仮面であって私の顔ではないのだから。



                   ※※※



 私が二十歳になったとき、父と母が車の事故で死んだ。私は本当にひとりになり、残ったのは、広い屋敷と人の一生を支えて余りある財産だけだった。


 私は業者を呼んで庭に薔薇園をあつらえ、外に出なくてもくらしがたちいくように、通いの家政婦を雇い入れた。


 もう外に出ようとは思わない。外には私の欲しいものは何もない。

 私はこうして静かに、薔薇の手入れをして毎日くらせればそれでいい。

 あでやかに開く薔薇だけが、私の生きるこの場所での美しいもの。



                   ※※※




 いつものように庭の雑草を引き抜く私に猫がじゃれついた。


 白くふかふかと毛足の長い、少し高慢そうな青い瞳の猫。

 突然のことで驚いた私の手にその子は顔を擦り付けて、喉をごろごろと鳴らす。


 ならば草むしりは後にして、猫にミルクでもあげようと立ち上がったとき、彼は私の前に現れた。


 なんということ。


 私の住む屋敷は古くからの大きな屋敷が立ち並ぶ一帯の更に奥にあり、人が入ってくることなどほとんどなかった。だからこの奇異な仮面をつけた私でも安心して庭に出られたのに。


「すみません、猫が逃げちゃって……。そちらの庭に入って行くのが見えたんですが、中にいませんか?」


 庭と道路を隔てる柵越しに立つ……美しい人!


 はしばみ色の大きく華やかな瞳と形のいい唇。まるで上等の練り絹のような肌。首筋から肩への優雅な曲線は、彫りの深い顔立ちと相俟って計算しつくされた彫像のよう。それはまるで、石像だったはずが命を授かり生ける美妃となったガラテアのように、なにか完璧な『美』というものが形を得て、命を与えられたような美しさ。醜い私など、目が合うだけで塵になってしまいそうだ。


「……この子のことかしら」


 足元の猫を指し示して私が答えると、彼は軽くうなずいた。


「はい。すみませんけど、こっちに渡してくれますか」

「ええ」


 猫を抱き上げて、柵越しに手を伸ばしている彼の手に渡す。飼い主の腕の中に収まった猫は、甘えるようににゃあと鳴いた。


「ありがとう。あと、あの……そこの薔薇、一輪いただけませんか」

「え?」

「そんなきれいな赤い薔薇、見たことないんで。できたら、ですけど」


 別に断る理由もない。だから、良さそうな枝を一本切って、彼に渡した。


「ありがとう」


 彼がまた笑った。目尻が少し下がる、優しい笑い方。


 それから、彼が小さく礼をして、くるりと身を翻して歩きだしても、私はそこから動くことはできなかった。心臓を射抜かれた気がした。


 真っ白な猫と、真っ赤な薔薇と、彼。

 あんなにきれいな景色は、見たことが、ない。



                    ※※※



 どうして私はこんなに醜いのだろう。


 薔薇の苗のカタログの上を、視線が滑っていく。

 いつもなら時間を忘れるほど夢中になるそれに、けれど今日は集中できない。


 私はすべてを受け入れたはずだった。

 醜さを、ここから出ないことを、私にふりかかるなにもかもを。


「人間の美醜など皮一枚。それを剥げば、容貌に大差はないのですよ」


 昔、私の顔を診た医者がそう言った。その医者なら、事故で無残なほど砕かれた顔さえも元どおりに治せると聞いて、父と母が手配してくれたのだそうだ


 ならばその医者にさえ治療を施されずに、その一言だけを告げられた私はなんなのだ。私の顔はそれほどまでに救いようのないものなのだろうか。


 私は絶望した。


 そのころの私はまだ、希望をもっていた。手術をすればきれいになれる。きれいになるのは無理でも人並みの顔になれるのだ、と。


 しかしそれすら粉々に打ち砕かれ、自死が最後の幸福であると思い詰めたとき、私は、居間で母が父に話すのを聞いた。


「あれではまるで、聖女リドヴィナです。なぜあの子ばかりがあんな目に遭わなくてはならないの?」


 聖女リドヴィナ。

 すぐに、それは誰でどんな目に遭った人なのか、母に問いただそうと思ったが、私が二人の会話を聞いていたことに気づいたらしい母は、私が居間に入るとことさらの快活さで今年の桜のことを話し始めたので、それきり聞く機会を失ってしまった。


 恐らく、聞かせれば私が傷つくと思ったのだろう。母は優しい人だった。


 それでも知りたかった私は、母の書棚には宗教関係の書籍があることを幸いに、自分で調べてみた。


 それによれば、リドヴィナは容貌も心も美しい少女だったそうだ。

 しかし、十五才のとき病に倒れ、以来、体中が腫れ上がり膿み崩れ、三十八年もの長きに渡り、床に伏すことを余儀なくされる。


 人生の最も美しい時を剥奪され、死後に聖女として祀りあげられた少女。

 

 リドヴィナは修道女のように神に人生を捧げることを誓ったわけではあるまい。

 ならばなぜ神は彼女を選びたもうたのだ?美しく、優しく、非の打ち所のない少女を。


 書は綴る。


 それが神であると。そこにはなんの意図もなく、ただ神が無作為に振られた杖の先が、彼女に触れてしまっただけだと。


 神は狂っている。

 狂っている。

 狂っている。

 狂っている。


 針の飛んだレコードのように、私の頭の中を短い言葉が埋め尽くす。

 白くなる目の前。救済とその不在は暦の始まったときから決められていたことだった。


 狂っている。


 けれど。


 私はそのとき、何もかもやっとわかった気がした。


 私が背負う醜さ。それが私の報いなのだとしたら、生まれたことさえもが罪なのだろうか、幼いころ、そう思いもした。


 だが、狂った神が造った世界なら、罪のない報いがあったとしても不思議はない。

 ならば私もまた、神が見境なく振り回す杖の先に当たってしまっただけのことだ。

 それは降り始めの雨粒に当たってしまう不運のようなものと同じだ。


 業などではあるものか。



                       ※※※




 そうして長い間かけて静めた感情が、ゆらゆらと動き出す。


 水面に小石が落ちたようにひそやかに、けれど、どこまでも波紋は広がり、無理に止めようとすれば、その動きからまた新しい波紋が生まれてしまう。


 小石はあの日猫を抱いていた彼。


 なぜあんなに美しいのだろう。仮面をつけた私を、妙な女だと思っただろうか。また、ここを通らないだろうか。


 できることなら、もう一度。


「痛ッ……」


 埒もない繰りごとを考えていたせいで、薔薇の棘を刺してしまった。たちまち、人差し指の腹に、ぷくりと赤い珠が盛り上がる。私の体の中で唯一きれいなもの。

 ハンカチで傷口を押さえ、頃合いを見てはずし、私は薔薇の苗を植える作業を続ける。


 そのとき、ふと、かがみこむ私の上の日が陰った。それと同時に降ってくる声。


「こんにちは」


 猫の入った鉄の籠を抱いた、彼……だった。前と変わらず、とても美しい。薔薇よりきれいな人間もいたのだと、私は思わず妙なことを考えた。


「……こんにちは」

「がんばってますね」

「ええ。……新種なの」


 素っ気ない返答だと思われてしまったかもしれない。うまく言葉が出ないのだ。彼とどのくらい距離を取ればいいのかわからない。


「ふぅん……。ねえ、中にいれてくれませんか?」


柵に腕をもたせかけて、彼が小首をかしげて私を見た。


「え?」

「この前もらった花が散っちゃったから、また来たんです。あれじゃない薔薇も見たいし。だめですか?」

「え、いいえ……どうぞ……ええと……」

「ハルです。俺の名前。春夏秋冬の、春。あなたは?」

「優美……」


 ゆみ。


 やさしくて、美しい。いい名前だと思う。でも私はこの名前が大嫌いだった。この顔にそんな名前が付いていても物笑いの種になるだけだ。


「どんな字を書くの?」

「優しいに……美術館の美」


 うつくしい、とはどうしても言えなかった。

 彼はどんな顔をするだろう。思わず身構える。


「へえ。素敵な名前だね」


 けれど彼は、呆れもからかいもせず、ただいたずらっぽい微笑みを浮かべて、お世辞だろうがそんなことまで言ってくれた。


 嬉しかった。


 彼が柵を乗り越え、私の薔薇園へと入ってくる。その様子をじっと見ていた私と目が合い、彼ははにかんだように笑った。


 私は初めて、幸せとはどういうものかを知った。



                     ※※※



 それから、薔薇が好きな彼は、ちょくちょく私の庭を訪れるようになった。


 季節は春。弾ける色、舞う花びら。薔薇園の一年で一番美しい季節。


「きれいだ」


 いつのまにか堅い敬語が取れた彼が、猫のシロコの入った籠を抱いて、あたりをぐるりと見回した。


「そうね。薔薇はきれいだわ。だから私、好きなの」

「……優美、この薔薇をくれる?」


 薔薇のためにしつらえた庭園の門に絡み付く、柔らかな白のアイスバーグを指差し、彼が笑みを浮かべた。


「ええ、どうぞ」

「ありがとう」


 彼の長い指が薔薇の茎に鋏を入れる。どうするのだろうと見ていると、彼は不意にそれを、私へと差し出した。


「優美の服と同じ色。よく似合うよ。―――優美は白が好き?」

「……どうして?」

「いつも白い服を着てるから。白が好きなのかなって思ってた」


 違う。それは、少しでも自分の醜さが目立たなくなるようにという、私なりの配慮だ。どんな色にでも染まる白ならば、私の顔に纏わり付く醜さも少しは受け入れてくれる気がするだけで、格別、私には、色の好き嫌いはない。


 ……いや……違う……確かに好きな色はある。ただ、それを身につけたいとは思わないだけだ。醜悪な私に許されるのは無彩色の世界だけなのだから。


 だから私は薔薇を育てる。それだけでも美しい薔薇は、鮮やかに色づいてなおいっそう美しくなる。まるで私とは正反対に。


 そんなことを思い、返事をしかねていた私を見て、彼が首をかしげた。


「ごめん。白は嫌いだった?」

「嫌いだったら育てないわ」


  私の返答に、彼は吹き出した。


「それもそうだ」

「ごめんなさい。生意気言って」


 彼の差し出してくれた薔薇を受け取ってから、私はそう言った。


「いや、生意気じゃないよ。ちゃんと筋が通ってる。だからかな。俺、優美と話してると、すごく楽しい」


 彼が柔らかく微笑む。


 そのとき、さあっと風が吹き、彼のブルーのジャケットがふわりとはためいた。

 見上げれば、きらきらと日に透ける、淡いブラウンの彼の髪。


 私は目を細めた。

 もちろん、仮面の下にはわずかにしか光は入って来ない。それでも、私にとって彼はまぶしかったのだ。なまなかな光などより、ずっと。


 彼がここにいてくれる。それはなんという僥倖だろう。


「でも、真実は棘だわ。家庭教師の先生がいつかそうおっしゃっていたの」

「じゃ、嘘は?」

「蜜……だそうよ」

「なら俺は、瓶に入った蜜の中で溺れてる蟻だな。いい匂いにつられて入り込んだのはいいけど、二度と出られやしない」

「どういう意味……?」

「ここはきれいだ。俺の世界とは違う」


  私の質問には答えず、彼はぐるりと薔薇園を見回した。


「あなたの世界はどんなところ?」

「汚いところ。ごみためみたいな。俺はそこでもがいてるんだ。出せ!ここから出せ!ってね」


 彼が、自嘲としか思えない笑みを浮かべた。その双眸に浮かぶ光は、まぎれもない憎しみだった。

 不思議だった。美貌と、均整の取れた体と、こうして話している限りでは教養さえも兼ね添えている彼が、なぜこうもあからさまに世界を憎悪するのだろう。彼ほど恵まれた人ならば、どんな素晴らしい人生を手に入れることもできるだろうに。


 私が決して得ることのできないそれを。


「あ、優美、ごめん。愚痴を言うつもりなんかなかったんだけど。あなたはなんだかすごく話しやすいから。本当にごめん。もう言わないよ」

「愚痴くらいいくらでもどうぞ。それで少しは気が晴れるのなら」

「ううん。もう言わない。―――ここが汚れるから」


 最後の彼の言葉はかすかにしか聞こえなかった。

 けれど私は、それ以上は聞こうとしなかった。彼も恐らく、そんなことは望んでいまい。


 私たちはガラスの床の上に立っている。そしてそれは、互いのことを何も聞かないうちはひびひとつ入らないだろう。けれど、もし、知ろうとすれば……きっと床は砕けてしまう。後には何も残さず、粉々に。

 だから私も、仮面の下に隠してある自分の醜さを打ち明けない。彼のことを聞かない代わりに、私のことを言いもしない。それが彼と少しでも長くいるために私ができる精一杯のこと。


 それに、これ以上、何が必要だというのだろう。

 彼は無彩色の私の世界に、薔薇より鮮やかに色を与えてくれたというのに。



                  ※※※



 薔薇が散っていく。

 鉄柵にからんだ名残の蔓薔薇だけが生き生きと咲き、ほかの地植えの薔薇はみな、色とりどりの花の代わりに緑の葉を茂らせた。


 くすんで土に溶けていく花びら。そのかわりに濃くなっていく刺の、赤い腫れ物めいた色。


 いつしか、雨がちな梅雨は去り、夏の足音が聞こえ始めていた。


 彼がこの庭を訪れなくなって、もう一カ月近い。

 

 彼の身に何かあったのだろうか。始めはそんなことばかりを考えて、日々の薔薇の水やりもなおざりになるほどだった。


 けれど、ある日気づいてしまったのだ。

 ほんの偶然でこの庭を訪れた彼。ならば同じような気まぐれで、この庭を訪れなくなっても不思議はない。

 だから、彼はもう来ないかもしれない。


「来ないかもしれない」


 つぶやいた言葉は、想像していたよりずっと深く心に食い込んだ。


 来ないかもしれない。

 いや、きっともう来ない。

 こんな仮面をつけた妙な女のところに彼が来てくれていたことの方がおかしかった。

 彼には広く美しい世界があり、私の世界はここだけだ。

 それでも私は彼に会いたかった。

 無理な望みなのはわかっている。なぜ望む?そう尋ねる声が自分の中から湧き上がってくるのも感じている。

 けれどこれだけはどうにもできない。自分が愚かだと理解はしても。

 

 彼だけが、私をまっすぐ見てくれた。

 彼だけが、私から目をそらさなかった。


 だからどうか。来て。ここへ。


「ハル―――お願い―――ハル」


 私は初めて彼の名を呼んだ。


 頬をつたう、これは涙だ。

 

 愚かな私の、流す涙だ。



                        ※※※



 その日は熱雷の音が聞こえていた。


 熱帯のスコールのように降りつける雨。ほんの少し前までブルーの絵の具を塗ったようだった空も、濃い灰色の雲にべったりと覆われてしまった。


 時分は暑い盛り。急に降られて私は薔薇園の一角の温室の中へと逃げ込む。ガラスの壁に吹きつける雨音を聞いていた私は、朝のうちに薔薇に水をやらなくて本当によかったと思っていた。せっかく大きく育てたかわいい薔薇たちに、水のやりすぎで根腐れを起こされてはたまらない。

 すこし濡れた髪をタオルで拭って一息つくと、コツコツとガラスを叩く、雨音とは明らかに違う音が聞こえてきた。


「優美───」


 そして、私を呼ぶ優しい声。


「ハル?」

 

 期待してはいけない、そう自分に言い聞かせながら振り向いた私の視界に入って来たのは、濡れそぼった薄茶の髪。それから、胸に抱え込んだ鉄の籠。

 

 そして……神の奇跡のような……美貌……。


「ハル!」


 そこにいたのは、空っぽの籠を抱いた彼だった。


「何をしてるの?風邪を引くわ。さあ、中に入って」


 温室の扉を開け、彼を中へと招き入れた。

 彼は素直にそれに応じて……けれど、うつむいたまま、顔を上げようとしない。

 彼は雨宿りなどしなかったのか、頭から爪先でずぶ濡れだった。服からも、髪からも、ポタポタと雨の滴がしたたっていた。


「とにかく髪だけでもふいた方がいいわ。夏の風邪はたちが悪いから」


 そう言って、タオルを彼へと差し出したとき、不意に顔を上げた彼が、口を開いた。


「逃げたんだ」


 中に誰もいない籠を抱きかかえたまま、彼は繰り返す。


「逃げたんだ」

「シロコが?」

「そう。ちょっとした拍子に籠の扉が開いて……そうしたら。俺のことを振り返りもしなかった」

「そんな……」

「でもこれでよかったのかもしれない。この中は牢獄だったけれど、きっと外だって牢獄だってことに、いつかシロコも気づく」

「何を言っているの……?」

「優美、ここはきれいだね。……世界には、こんなきれいな場所もあったのに、いつだって俺は遅すぎるんだ」


 彼が籠を床に降ろしてつぶやく。その眼差しはとても遠くて、まるで、ここではないどこかへ思いを馳せているようだった。


「……優美、聞いてくれる?」


 彼にそう聞かれて、私はうなずくことで肯定の意を示す。

 彼は、少しの間ためらうように目を伏せて、それからゆっくりと口を開いた。


「俺は病気なんだ。もう助からない」

「なっ……」


 あまりにも現実感のないその告白に、何故?と問おうとした私を、彼は静かに押しとどめる。


「それで入院してたから、しばらくここにこれなかった。でも、いやになったんだ。あんな薬の匂いのする場所にはいたくない。優美には迷惑かもしれないけど……俺はここが好きなんだ。薔薇が咲いていて、優美がいて、俺においしいお菓子とお茶と、優しい声を聞かせてくれる。庭のテーブルであなたと話してると、外の世界なんか嘘みたいに思えてくるんだよ。

 一度しか会ったことのない俺を、あなたはすぐに薔薇園に入れてくれたよね。あれからずっと俺は、どうすればここに長くいられるのかってことばかり考えていた」

「そんな……」

「黙っててごめん。あなたには知られたくなかった」


 彼が痛々しく微笑んだ。不思議なことに、それはとても美しかった。少なくとも、私にはそう見えた。


「俺は何もできないくせに、金ばっかり欲しがってた馬鹿な子供だったんだ。金が欲しくて、でもこの顔しか取り柄がないから体を売って、そのせいで病気になって、それで今、死にかけてる。ねえ、優美、あなたはきっと笑うだろ?そんなもののために、どうしてって笑うだろ?

 俺は汚い。なのに俺はそんなのも気づかなかった。俺の世界はごみためで、本当にきれいなものなんか見たことなかった。何もかもここに来て初めて知ったんだ!」


 そう、吐き捨てるように言う彼に歩みよって、私は彼の頭を、ごしごしとタオルで拭いた。


「優美……?」


「笑ったりなんか―――しないわ。

 それに、あなたは汚なくない。確かに今まであなたがしてきたことは、あんまり誇らしいことじゃないかもしれない。でも、それでも、あなたはとてもきれい」

「優美」

「だから早く雨をふいて。風邪をひくから」

「……ありがとう」

「拭き終わったら、中でお茶をいただきましょう。体をあたためなくちゃ」

「じゃあ、お願いがひとつ」

「どうぞ」

「あれが食べたいな。アイスに熱いカプチーノをかけたやつ」

「いいわ。すぐ用意してさしあげる。さあ、行きましょう」

「それからもうひとつ」


 そう言って、彼がようやっといつもの笑顔を浮かべてくれた。咲き誇る薔薇よりずっと美しい、華やかな笑顔。

 そして、ほっそりとした指が私の腕をつかむ。想像していたのよりずっと強い力で。


「俺をここで死なせてほしい」


「ハル……」


 私に何が言えただろうか。


 『最後まで頑張って』?

 『死ぬなんて駄目よ』?


 嫌だ。そんな当たり前の言葉が何の役に立つものか。嘘ばかりだ。

 私たちは、どうあがこうとどうしようもないことがあるのを知っていた。

 私にとってのそれは醜さであり、彼にとってのそれは死だった。

 そして彼は、そのどうしようもない死に勝つために自らを屠ろうとしているのに。


 だから私はうなずいた。


「いいわ。ここで死んで、いいわ」


 それを聞くと、彼はたとえようもなく幸せそうに微笑んだ。


「ありがとう、優美」


 それから私たちは、屋敷のサンルームで、二人だけのお茶会をした。

 濃いヴァニラアイスに熱いカプチーノをかけた、彼お気に入りのデザートと、とっておきのシャンペン。父が集めていたものの一つ、古い当たり年のグラン・コルドン・ロゼ。

 それと一緒に彼が口に運ぶのは、たくさんの小さな白い錠剤。


「じゃ、優美、俺の体は薔薇の下に埋めてほしい」

「わかったわ。どの薔薇がいい?」

「そうだね……。俺が初めてあなたに貰った、あの真っ赤な薔薇の下に」

「そうね。そうしましょう」

「ちゃんと、薔薇……咲くかな……」


  少しずつ彼の言葉の語尾がくぐもっていく。


「咲くわ。絶対に」


 私がきっぱりとそう言うと、彼は安心したようにテーブルの上に突っ伏した。


「優美……最後に……仮面を取って……?」

 

 それだけは聞けないと私は思った。

 彼が最後に見るものが、こんな醜い私だなんてこと、あってはならない。


 けれど。


「取って……優美……」


 力無く伸ばされた彼の指が、私の仮面に触れる。仮面に隔てられて、じかに感じるはずのない彼の温かさが、私の頬にまで染みとおるような気がした。


 私は仮面に手をかけた。

 

 私は醜い。仮面は外したくない。それが彼の前ならなおさら。


 けれど、もしそれが彼の願いなら、私はなんであれ叶えたいのだ。たとえ今まで隠してきた私の醜さが、彼の目の前に晒されてしまうとしても。


 怖いような静寂の中、私がテーブルに仮面を置く音だけがかすかに響く。

 彼は仮面のない私の頬に触れて、感触を確かめるようにその上で指を滑らせたあと、ふわりと微笑んだ。


「よかった……仮面……外してくれたんだね……」

「ハル?」

「ずっと見たかった……あなたの顔……きっとすごくきれいなんだろうな……そんなので隠しちゃうの……もったいないよ……」

「もう、見えないの?」

「う……ん……ざんねんだ……な……でも……わかる……よ……あなたがみていて……くれること……やさ……しい……ゆみ……ずっと……みてい……て……ずっ……と……」


 そこまでゆっくりと言ってから、彼は静かに目を閉じた。

 そして、一息すうっと吸い込んで、それきり二度と、息をしようとはしなかった


「ハル」


 私は彼の名を呼ぶ。

 それは私にできる唯一のこと。


 恋人なら、最後のくちづけをしたかもしれない。母親なら、泣いて、それでも彼は新しい始まりを手に入れたのだと、無理にでも笑おうとしただろう。


 でも、わたしは彼の愛した薔薇園の管理人だから。

 くちづけも泣くことも笑うこともできない。


 私は、彼の髪にそっと触れた。

 それから、管理人にも言える言葉があったことを思い出す。


「さよなら」




                       ※※※




 私は、彼の体をその願いどおりに薔薇の下に埋葬した。

 彼は、花が咲くかどうかを心配していたが、それは杞憂だった。

 彼の愛した紅色の薔薇は、前の年よりもずっと華やかに咲き誇った。

 私は、家政婦とときおり話し、笑うようになった。


 私は―――仮面を捨てた。


 そして、そのままの顔で外にも出るようになった。

 もちろん、すれ違うたいていの人は振り返る。


 本人は聞こえないつもりで言っているような陰口も、聞こえよがしの声も、どちらもよく聞こえる。気味悪がられることもあるし、目を背けられることもある。

 それでも私は胸を張れるようになった。醜さも、何もかもひっくるめて、私は私だと思えるようになった。


 何も恥じることはない。

 いや、むしろ、恥じてはいけないのだ。

 自分を恥じてしまったら、私は私の誇りまで失ってしまう。

 そんなことはしたくない。

 

 彼が知っている私は、醜さにおののき、みずからの顔を切り刻みたい欲望と毎日戦っている私ではないのだから。


 背筋を伸ばし、薔薇の苗を植え、爛漫と煙る色彩を身に纏おう。彼の薔薇の前で言おう。私は本当は、その紅色が一番好きだったと。


 私が死んで、彼と同じく薔薇園の底に沈むそのときに、仮面のないこの顔をためらわずに彼に晒せるように。


 まっすぐに、彼を見つめられるように。

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