夜更け
小泉鷹臣と深礼は失踪してから、三年が経った。
今日も仕事で遅くなった。刑事というと、事件現場に駆けつけて肉体労働ばかりというイメージがあるらしいが、実際のところは事務仕事が中心だ。そして事件があればあるほど、その事後処理が増える。
今日も事件が多く、だいぶん遅くなってしまった。報告書をようやく書き上げたときには日付が変わる直前である。虎丸剣一は白瀬署を出たところで、己の携帯電話を見た。連絡を入れるかどうか、迷う。
結局そのままにして、車で家に帰る。明かりはまだ点いていた。
「おかえりなさい」
家に帰ると、深礼が出迎えた。いまや小泉深礼ではない、虎丸の姓を持つようになった深礼だ。
三年前、鷹臣と深礼が目の前で失踪して以来、虎丸は八方手尽くしてふたりを捜しまわった。いや、深礼を、だ。
数日ほどして、虎丸は小泉深礼を発見した。桃色の爪も丸い、本当の彼女に。小さな白い爪先をした、人間の彼女に。
彼女は夫との間にあった出来事を殆ど覚えていなかった。ぼんやりとした様子で、彼女の中では己が夫の暴力に耐えかねて家出をしたということになっていた。
いや、いや、覚えていなかったというのとは違うだろう。彼女は、あの深礼ではないのだ。
台所で食事の支度のための甲斐甲斐しく働く彼女の後姿を見ながら思う。
「おれが愛したのは、あの女だった」
本当に、心の底から救ってやりたいと思ったのは、自分は人間ではないと馬鹿なことを言っていたあの小泉深礼だった。その彼女はもはやいない。偽者の彼女は、まさしく妖精だった。本物を取り返した以上は、彼女が消えるのは道理だった。
深礼を見つけ出してから、虎丸は必死で努力をした。DVの事実と鷹臣が失踪しているという現状から、深礼と鷹臣の離婚を本人不在のままで裁判所に認めさせた。そして己が深礼と結婚した。
夜も更けているというのに、深礼は嫌な顔ひとつせずに食事の支度をして待っていてくれた。だがその指は細く、鑞のように白い。あのときの、ぷっくりとした、桃色の指先ではない。
その指先を見るたびに、思い出す。三年前の、あの妖精の女を。
彼女は本当に、夫のことが好きだったのだ。
ならば、それで良い。虎丸はそう思った。
何処か、遠い場所で、もしかすると妖精の国だとかで、夫と仲良くやっているのかもしれない。そう思うと、嫉妬心を抱きつつも、心が不思議と安らぐのを感じる。
妖精の女を娶るために必要なのは、愛ではない。愛だけがあっても、触れる指だけがあっても、想う瞳だけがあっても、駄目だ。必要なのは、情だ。
小泉鷹臣と、あのぷっくりとした指先の深礼との間にあったのが、まさしくその情だった。鷹臣は本物の深礼を取り戻すために、偽者の深礼に暴力を振るっていた。偽者の深礼は、己が本物と入れ替わっていたという事実を隠し、夫の愛犬の血肉を啜り、虎丸と関係を持った。愛はなかった。
だがそれでも、ふたりは夫婦として一緒に暮らしていた。だからいつの間にやら、情が生まれたのだろう。見捨てたくないと、嫌いになりたくないと、離れ離れになりたくないと、そんな情愛が。
「おれも同じだ」
妖精の指を持った、あの偽者の深礼に関してではない。目の前にいる、本物の深礼に関してのことだ。
深礼を見つけてすぐに、虎丸は彼女が以前とまるきり別物になってしまっていることに気付いた。いや、元通りになった、というべきか。小さく、華奢で、ただそれだけの女だった。白い指で、小さな爪先で、血の渇望などに突き動かされない、それだけの女だったのだ。
それに気付いても、しかし深礼を見捨てることはできなかった。彼女は虎丸のために、甲斐甲斐しく働いてくれた。傍にいてくれた。そうなれば、しぜんと情が移った。
情が移ったといえば、深礼のほうでもそれは同じだろう。夫の家庭内暴力に耐えかねて家を出たと言っていたが、それだけで夫婦愛が完全に冷めるような女ではないのだ。鷹臣に対する愛情は残っていたに違いない。
だが深礼を見つけ出してから、急に女ひとりと犬一匹だけの暮らしになってしまった彼女の世話を、虎丸は必死で焼いてやった。そんな様子を見ていれば、彼女にも虎丸の想いは伝わったのだろう。打算があっただろう。惰性があっただろう。だが情愛もあったに違いない。だから結婚してくれた。
遅い夕餉を運ぶために、深礼が台所からやって来る。
「愛しているよ」
口に出してみれば、どうにも胡散臭い、そんな言葉を受けて、しかし深礼は顔を真っ赤に赤らめた。うん、うん、と頷いて、わたしもだよ、と指を絡めてくる。愛だけではない、情だけでもない、情愛があった。
こうしていても、ときおり、あのぷっくりとした指先を思い出さずにはいられない。まぁ、僅かな時間だ。きっと妻も許してくれるだろう。なにせ、相手は人間ではない。妖精だ。恋をするために産まれた、そんな妖精だった。
(了)
妖精剣ユングヴィ 山田恭 @burikino
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