終
町の黒犬
ブルートニク pluthnik というのはplbtb 「肉体」に由来し、「再び肉を備えた者」ほどの意味だが、もし「吸血鬼」が六ヶ月間始末されずにいると、骨を備え、ふつうの人間のようになる。しかし爪はなく、骨は軟骨のようである。別の土地に行って暮らし(肉屋か床屋になることが多い)、妻をめとり子をなすこともあるが、その子は長じると vampirdzii になる。ブルートニクは犬や狼、その他の動物に変身でき、自分の妻を襲う。
(平賀英一郎『吸血鬼伝承―「生ける死体」の民俗学』(2000)中公新書 より)
***
***
暑いだけあって、犬が舌を出している。
見舞いついでの散歩の途中なのだろうか、入り口の自動ドア前の柱に繋がれて、日陰に犬が寝そべっている。近づくと片目だけ開いて接近者を認めたものの、相手に敵意が無いとわかるや、すぐに目を閉じてしまう。気楽なものだ。緊張感が無い。近寄って耳の裏を掻いてやる。
入ってすぐのところにある受付を見回す。もちろんのこと、病院には用件があってきたわけだが、彼の用件は、ほかの大勢の客とは異なる。服装こそ身なりに気を遣わぬ会社員といったようなスーツ姿ではあるが、彼は白瀬署の刑事課強行犯係の刑事だ。今日病院にやってきたのもその職務と無関係ではないが、半ばは私用のようなものだ。
ひとまず看護師にでも尋ねようかと思っていたのだが、どうやら院内は賑わっているらしく、空いている受付が見当たらない。ナースセンターにでも行って途中で適当な人間を捕まえてみるか、などと思ってたところで声をかけられる。
「犬上さん」
声を聞いた時点で、誰が声をかけてきたのかを理解した犬上は、はじめそれを無視しようとした。
だが背後から、犬上さん、聞こえていないんですか、ねぇ、耳が遠くなったのなら医者に診てもらったほうが良いんじゃないですか、でなければ頭のほうですか、まだ若いんだから、ねぇ、などと言われれば、周囲の視線も手伝って立ち止まらぬわけにはいかなかった。
振り返ってみれば、立っていたのは予想通りに白衣を着た男、この病院の診療内科医である
「聞こえています」
と犬上は短く応じた。
「ああ、やっぱりそうじゃないかと思ったんですよ」
柔和な笑顔から、犬上は敵意を感じ取る。
相手が地元の医者であれば、しぜんと刑事としては意見を聞く機会がある。特に心療内科という方面は、法医学ではカバーしきれないところが大きい。だからというわけではないが、上木とは知り合いだ。顔見知り、程度ではない。彼是十年近くにはなろうか。とはいえ深い付き合いではなく、単に犬上の妻が上木の知人だというだけである。端整な面立ちと清潔感のある服装が手伝って、二十代にも見えるが、犬上とは歳はふたつみっつと変わらない。
歳も近く、顔を合わせる機会も多い上木のことが、犬上は嫌いだ。いや、好きではないだけか。なぜか、といわれれば、なんとなく虫が好かないだとか、いけすかないだとか、感情的な理由はあるが、根本的なものを挙げろといわれれば、相手が嫌っているから、になるだろう。もっとも、相手も同じようなことを言うかもしれないが。
「なんですか、珍しく病気ですか」
と問いかけてくるのは、犬上に気を遣って、というわけではなかろう。単に興味があるからか、でなければ犬上を攻撃する蔓を捜しているといったところか。
白衣の看護師が忙しく行き交い、松葉杖だの点滴だのを携えた入院患者がゆっくりと歩く廊下で上木と相対しながら、犬上は彼に、己の用件について尋ねようかどうかと考えていた。
「人を捜しているんですが」
と犬上が正直に切り出したのは、単にほかの職員を捕まえるより、この場で尋ねてしまったほうが楽だ、という理由からだけではなかった。上木はいけすかない、厭なやつだが、基本的には信用できる。基本的には、というのは、犬上に害を為すことをできる場合は除いて、ということだ。
「ああ、でもおれも忙しいので、適当な看護師でも捕まえて訊いてください。まぁ犬上さんが話を訊こうとしても、怖がられて逃げられそうな気がしますが」
そう言って早々に背を向けようとするのだから、この男の言動はまったく子ども染みている。声をかけてきたのも、もともとこうして嘲るつもりだったのだろう。
「小泉鷹臣という男なんだが」
と犬上は丁寧語を使うのが面倒になって、その背に言葉をぶん投げる。すると上木のその身体が一瞬強張ったように感じられた。
「あんたの患者か」
かまをかけてみれば、上木はくると振り返る。「ええ、まぁ」
「話が聞きたい」
「いや、守秘義務があるので」
そういうのがなければ助けになるのは吝かではないんですが、患者の事情を知りたいのでしたら相応の手続きを踏んでください、と上木は微笑む。
「あんたのところに通院しているはずだったのに、最近来ていないはずだ」
「そういう言い方はやめていただけますか? 悪人面で詰問されると、明日には医師がヤクザと癒着していたとか、そういう噂になりそうなんで」
ちらと視線を走らせてみれば、確かに視線は感じないでもない。上木がこうして無視をせずに相対しているということは、つまりは密談ができる場所に行こうと、そういうことだろう。腹を割ってくれるかどうかはともかく、一応の話はしてくれるというわけだ。犬上相手に協力してくれるというわけではなかろう。上木自身、患者が急に消えたことを懸念していたに違いない。
研究室兼診察室だという、上木の居室に向かう。日当りの良い部屋の壁も机も本棚も真っ白で、ただ本棚の本やファイルは背表紙の色合いで赤から紫へとグラデーションを描いている。新しい本が入ったら、本をいちいち入れ替えるのだろうか。きっとそうなのだろう。医者のくせに、異常者のような感性だ。この部屋に入ったのは初めてではないが、生活感のない部屋だ、と毎度思う。ここは彼の家ではないので当たり前だが、しかし上木の場合は自宅もこのような具合なのではないかと思えてしまう。
「仰るとおり、小泉鷹臣さんは三ヶ月まえから担当していました」
と上木は椅子に腰掛けて言った。
べつに勧められたわけではなかったが、犬上も椅子を引き寄せて座る。「最後に来たのは?」
「ひと月ほど前ですね。それまではほぼ毎週診察に来ていたのですが、急にぱったりと。急に来なくなるのは珍しいことでもないんですが、彼の場合はいろいろと不安なことがあったので気になっていました」
「不安なこと?」
「彼のカルテです」
と上木が寄越したのは、おそらく英語か独逸語であろう文書が記されたタブレットで、犬上はすぐ返した。まるきり嫌がらせである。
「説明を」
「文法からやります?」
「説明を」
「その前に、犬上さんがなぜ彼を捜しているのか聞いても良いですか? まさか………」
「まさか?」
「何か警察の世話になるようなことでも仕出かしましたか?」
上木の目が笑っていないということは、彼は小泉鷹臣を診察する中で、刑事犯罪を起こしそうな匂いを感じたということだろう。
「というよりは、うちの部下の知人だ」
「じゃあ単純な失踪人ですか? 警察じゃあ、失踪しただけじゃあ捜索してくれないんじゃ?」
「いちおう、DVの可能性がある。ただ被害届が出されていない」
「出されてないのに、警察が捜査するんですか?」
「夫婦丸ごと消えたんだ」
「夜逃げでは」
「そうかもしれない」
上木の言うとおりで、だから警察は失踪人を積極的に捜したりしない。家出なり、夜逃げなりは珍しくないからだ。だが犬上はあの夫婦に、通常の失踪とは違う色を感じていた。
いちおうの納得をしたのか、上木は小泉鷹臣の病状について噛み砕いて説明してくれた。妖精のような、翅のついた小さな人間が見えていた小泉鷹臣のこと。その妖精が、妻である小泉深礼を殺せと鷹臣に要求していたこと。その言葉が薦めるがままに、何度か暴力を振るってしまったということがあったということ。鷹臣には不思議と、妖精の言うことが本当で、深礼が以前とはまるきり違う生き物に見えたということ。
「おれが思ったのは、妖精というのは、死んだ赤子ではないかな、と。たぶん堕胎したんだと思いますけど」
しばらく小泉鷹臣に関する説明を反芻していた犬上に、上木は急なる言葉を浴びせかけてきた。
「死んだ赤子っていうのは……、つまりは水子か?」
「水子とはちょっと違うとは思いますが……、まぁそれに近いんじゃないですかね」
「なんだ、つまり、あんたは、あれか、死んだ赤子の霊があの夫妻を呪っていたと、つまりはそういうことが言いたいのか」
「まさか」と上木は大袈裟に肩を竦める。「頭、大丈夫ですか?」
犬上は無言で先を促す。
「ようは、罪悪感です。おれは彼に見える妖精というものが見えませんでしたし、当たり前ですがそれは幻覚だと思っています。でもそういうものが見えるだとか、それが何かを言うとすれば、相応の理由があるとも思っています」と上木は語る。「妖精は奥さんを殺すように仕向けていたといいます。だからおれは、最初は奥さんの不貞行為を知りながら認めたくない小泉鷹臣さんの潜在意識のようなものではないかと思いました。ですが彼はそれを否定しました。診察を続けていくうちに思い出したのは、彼に写真を見せてもらったのですが、彼の奥さんがこの病院に来ているのをおれが見たことがあったということです」
「夫婦が病院に来ると怪しむくらいに流行ってないのか、ここは」
「派手な容姿ではありませんが、可愛らしいので目立つ容姿ですし、覚えていました」と上木は犬上の皮肉に丁寧に応じる。「奥さんが診察を受けていたのは、どうやら産婦人科のようでした」
「だから堕胎か。そうは限らんだろう。というか、ふつうに妊娠しただとか、不妊治療だとか、そういう人のほうが多いだろうに」
「そうですよ。ただ、おれにはなんとなくそう感じた、というだけのことです。確かめるには、彼女を診察した先生に訊くしかないです。ただ、おれが彼の奥さんを見たときには、けして明るい感じではなかったと思います。どういう状況だったのかは知りません。子どもが欲しくないと思ったのか、検査で何か問題が見つかったのか。ふたりで相談して決断したのか、奥さんのほうだけで秘密裏に行ったのか。おれは後者だと思いますが」
「妻のほうは旦那に秘密で堕ろしに行ったが、旦那に気取られていたと、それで妻を殺そうと示唆する妖精が見えるようになったと、そういうことをあんたは言いたいのか」
「まぁ、そうですね。べつに堕胎が駄目って言ってるわけじゃあないですよ。基督教徒じゃないですからね、おれは」と、自分は、というところに強調して上木は言う。「おれが言いたいのは、あのふたりは負い目に感じてたんだろうな、ってことです。ふたりは、っていうのは、奥さんのほうも、小泉さんのほうもってことです。奥さんはいわずもがなですが、旦那さんのほうにしても、何かしら自分の行為に責任があって、妻に堕胎をさせる結果になったんだろうとでも思っていた、ということですね。だから妖精は、旦那に奥さんを殺させようとしたんじゃあないかと」
「そんなにその妖精だとかの言葉が信用できるのか?」
「あんたは阿呆ですか」そんなわけないでしょう、と上木は大袈裟に溜め息を吐く。「妖精なんてもんは妄想なんですから、信用するもないでしょうに」
「あんたがそういうことを言ってるんだろうが」
「おれが言っているのは、少なくとも小泉鷹臣さんが語った言葉自体は信用できるってことです。それがまるきり嘘だとしてもね」
「嘘だとしても?」
「たとえ彼には、本当は妖精なんてものが見えていなかったとしても、己のDVに対する言い訳だとしても、それでも、彼がそうした言い訳をする源泉にはなっていただろうってことですよ」
ふむん、と犬上は頷く。言葉にするのは難しいが、いちおうは上木の言葉は理解できる。
だがやはり堕胎があった、というのはあくまで上木の想像に過ぎないという気がする。
「そうですね」と上木は事も無げに頷く。「実際にどうなのかは、彼女を診察した先生に聞くしかありませんね。ただ、犬上さんはべつにそれを知りたいわけじゃあないでしょう? 小泉鷹臣さんが何処へ行ったかを知りたいんでは?」
「いや」
犬上が発した否定の言葉は、嘘ではない。失踪人の捜索は刑事としての仕事ではないのだから、これは刑事としての職務ではない。
それなのに犬上がふたりの行方を気にしていたのは、ひとつは部下が気にかけていた相手だったから。もうひとつの理由は。
「夫婦が一緒に失踪して、それで………」
犬上のその言葉の先は続かなかった。
病院から署へと戻り、事務仕事をこなす。帰宅すれば、いつもの通りに妻と幼い娘が出迎えた。
「何かあったんですか?」
夕餉の時間、麦酒をグラスに注ぎながら、二十年来の付き合いである妻が目敏くそんなことを言った。
「うん」
短く応じて酒に口をつける。
「おれは幸せだ」
実際にそんな言葉を口に出せば、ええ、そうでしょう、そうでしょう、こんなに可愛い奥さんと娘さんに囲まれているんですから、ええ、幸せ以外に何もあるはずがないでしょう、いまさら確認することでもないのに、まったく、いったい何を、などと妻は言い出すだろう。いや、珍しい言葉に驚くほうが先かもしれない。だが間違いなく、それは犬上の心の底からの本心だった。
「だが」
あのふたりは、どうなのだろう。犬上の口から、病院で上木医師と交わしたときの言葉の続きが漏れ出た。
「いまは幸せに暮らしているんだろうか」
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