第13話

「嘘を吐いててごめんなさい。人間じゃなくって、ごめんなさい。好きになって、ごめんなさい」

 震える声で言葉を紡ぐ深礼に、言葉はなかなか出てこなかった。

 知っていた。彼女が嘘を吐いていたこと。手も足も瞳も人間ではない生き物であるということ。己のことを好いていること。

「やはり、違う」


 昨日のことである。

 これは深礼ではないな、と相対して思うのは、何もかも手際が悪いからだ。箸を持つ手つきさえも覚束ないからだ。短くぷっくりとした指の血色があまりにも良いからだ。頬には未だ涙の痕を残しながらも、必死に必死に明るい話題を投げかけてくれているからだ。

「今日買い物に行ったらね、その帰りに白いちっちゃい猫がいてね、ちょうど魚肉ソーセージがあったから、あげようと思って一本抜いたら大袋のほうを取られちゃって、ソーセージ一本だけ構えてるふうになっちゃって凄く間抜けだった」

 ああ、うん、と下らぬ話に頷きながら、鷹臣は彼女の視線の先があまりにも定まらないのを見ていた。次の話、次の話へと手を伸ばしているさまを観察する。辛そうだった。途中で話題も尽きた。殆ど一方的に深礼が喋っているだけだった。頑張った。ああ、こいつは頑張ったなぁ、と思った。

 夕餉が終わると、深礼は洗い物にと立ち上がった。

「おれがやるよ」

 と言って、無理矢理に仕事を奪う。食器を洗いながら、いままで碌々家事を手伝わなかったな、と思う。だから不安なのか、でなければ居間にある離婚届とひとりきりで向かい合いたくないのか、深礼は鷹臣の傍で己が手をぎゅうと握り締めていた。

「どうしても、駄目なんですか」

 深礼が問う。言ってやる。ああ、駄目だ。駄目だ。もう駄目だ、と。


 その実、鷹臣には余裕がないではなかった。

 殺せ、殺せという妖精の言葉が五月蝿くて、もう駄目だと深礼に話したことは、一部は本当だったが、嘘も混じっていた。鷹臣の耳に聞こえる小さな妖精の言葉は、以前ほどしつこくなくなっていた。どころか、半ば諦めたような色が混じり始めていた。

「なんで諦めるんだよ。こいつを殺せば、あんたの奥さんは戻って来るんだぞ」

 泣きそうな声で呟く妖精の表情を見ていれば、こちらも余裕が出てくるというものだ。何せ相手は、可愛らしい少年の姿をした小さな妖精なのだ。鷹臣は微笑む余裕さえあった。

 ああ、おれはもうこの小さな生き物の言う通りにして美礼を殺すことはないだろう。それだけの余裕がある。

 だがややもすると、深礼を傷つけることはあるかもしれない。以前のように、鉄で縛り上げ、火で痛めつけるくらいのことはするかもしれない。だからやはり、離婚はしなくてはならないのだ。 

「見ただろ! ねぇ、爪も、足も、牙も、人間のものじゃあないだろう」

 妖精の言うとおりである。深礼が眠っている間に示唆された場所を調べてみれば、一部は黒く、一部は鋭く、一部は毛に覆われ、硬くなっていた。

 だがそれを見てもなお、鷹臣の想いは揺らがなかった。


「きみたちはなぜ深礼を攫ったんだ? 本物の美礼を……」

 と問えば、返って来るのは殆ど予想していた通りの答えである。

「人間の女が欲しいからだよ」

 そうだろう。身代金を要求するでなし、取引を行うでなし、ならば奪ったそのものを欲しているのだろう。妖精どもは、人間の女に恋したのかもしれない。それは、ああ、理解できる。

「きみたちはなぜ、この子を置いていったんだ?」

 鷹臣の言葉に、妖精はぐぅと言葉を詰まらせた。言いたくないのだ。正直に言えば、ただでさえ協力を拒んでいる鷹臣が、間違いなく頑なになると、もはや一切の協力をしないと、そう思っているからだ。だが彼が何も言わずとも、鷹臣にはその理由が推測できた。

 妖精たちが鷹臣の妻を攫った理由が、人間の女が欲しいから、というのならば、妖精の女がやって来た理由は、その逆だろう。

 やはりそれは、人間の男が欲しいからではないだろうか。


「きっと馬鹿なんだろう」

 それは日頃の行動を見ていればそれと判る。朝は鷹臣よりも遥かに早くに起きて食事の支度をし、昼のために弁当を作り、夜になれば毎日毎日彩り異なる夕餉を作る。今日、帰宅したときのことを思い出した。深礼は玄関のところで正座をして、鷹臣を待っていた。鷹臣の顔を見た瞬間に、ぱぁと顔が明るくなったのは、鷹臣のことが不安だったのだろう。帰ってくるかどうか心配だったのだろう

 べつだん、ああしてただひたすらに夫を待つのが妻の勤めだ、などと思っているわけではない。ただ、ただ、ああ。

「この子はおれを愛してくれているのだなぁ」

 あれだけ痛めつけられてもなお、鷹臣を愛そうとしてくれた。

 ただただ、鷹臣を信じきっていた。

 何が良いのか判らぬのに、ただ、ただ盲目的に信じてくれていた。

 だから、馬鹿なのだ。

 ああ、ああ。

 おれはきっと酷い人間なのだ、と鷹臣は思った。

 己が妻が、妖精に攫われたのだという。代わりに残されたのが、身代わりの妖精なのだという。その妖精を殺せば、妻が戻ってくるのだという。

 だというのに、だというのに、この甲斐甲斐しく働く小さな偽者を傷つけたくないと思ってしまった。愛してしまったのだ。

「何処にも行かないでくれ」

 そう言いたいのは、おれのほうだ。

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