第12話

 深礼は本当に変わった。

 指から血を吸うさまなど妖艶そのもので、傷の痛みも忘れるほどだ。

「ごめんね」

 と深礼は言う。

「献血に行ってると思えば、軽い」

 と虎丸は返す。嘘ではない。深礼が口に含む血の量といえば、献血の四〇〇ミリリットルと比べればほんの少量である。血が飲みたいなどというのは、実は嘘なのではないかと邪推してしまうほどに。


 今日は深礼に呼び出されて、小泉家まで来ていた。深礼が虎丸を家の中に上げたくないのか、以前と同じように庭先で、用向きは勿論、血液の要求である。正直なところ、暇も余裕もなかったが、それでも深礼の呼び出しとあれば虎丸は迅速に要求に応じた。忙しい理由も、元はといえば深礼が原因なのだ。彼女が原因でこれ以上忙しくなっても、いまさらという気がする。

 虎丸はここ数日、小泉鷹臣のDVを刑事告訴するための書類と証拠集めを行っていた。深礼を別れさせるためだ。己が物にするためだ。

 進行具合は上々である。深礼の身体に、間違いなく暴力によるものであると判断できる痕があるのが良かった。写真までは撮れなかったものの、虎丸は実際にその傷を見ていたし、深礼自身も目立つ傷だという自覚があったためか、できるだけ肌の露出が少ない格好をしていた。五月以前には腕だの脚だのを出した格好をしていたことがあったのに、夏が近づくにつれて逆に露出が減っていくとなれば、しぜん人の記憶に留まっていたらしい。彼女がパートとして勤めるスーパーの従業員など、暑い日でも彼女が一時期から長袖しか着なくなったり、手袋をしているときがあることなどを証言してくれた。深礼から直接DVの相談を受けた、などという人間はいなかったが、こうした状況証拠と深礼自身の証言があれば、一先ず強制的に離婚させるところまでは漕ぎ着けられるだろう。深礼が火傷や殴打痕の撮影に同意してくれれば、刑事罰まで強制できるかもしれない。

「もうすぐだ」

 ああ、もうすぐだぞ、深礼。

 そんなふうに心が躍っていれば、ぶん殴られたことさえ気付かなかった。


 右頬から地面に打ち倒された。身体には武道の受身が染み付いているはずなのに、両の腕の何所にも力が入らない。

「鷹臣さん」

 震える声で、いまのいままで虎丸の指にしゃぶりついていた深礼が呟く。

 小泉鷹臣という男は、一言でいえば頼りなく見える男だ。上背こそ虎丸よりは高いものの、デスクワークばかりの仕事だからだろう、腕の太さなど比べるまでもない。そんな男が、鷹臣の肩を背後から掴み、振り返らせ、殴り倒したのだ。

 平日でまだ陽も落ちていないというのに、珍しく帰りが早い。体調でも悪かったのか。

「いいや」

 おそらくはこの男も、妻の異常に気付いたのだろう。であれば、右の仕事も左の誘いも振りきって帰ってきたのだろう。

 だがもう遅い。

 鷹臣の視線は、深礼の身体に釘付けになっていた。まだ夫は帰ってこぬものと思って無防備にしてあったその指に、爪に、蹄に。

「ああ、そうだ。こいつはおまえの女じゃないぞ。別物だ。偽者だ」

 虎丸は言い放った。おまえと結婚した女じゃない。まったく別の人間だ。いいや、人間でさえない。ずっと知らなかっただろう。何も知らずに、おまえは何をした。いったい、何を。


 鷹臣は虎丸の言葉を無視しているように見えた。いや、無視しているというよりは、耳に、脳に、心に届いていないかのようだ。その視線は、ただただ深礼に向いていた。そんなに彼女が異形の存在になったことに衝撃を受けたのか。嫌悪感でも抱いたのか。打ち捨てる用意ができたのか。

 ぽろぽろと涙を零しながら、こちらもただ夫だけを見つめて深礼が言った。

「嘘を吐いてて、ごめんなさい」

 そうだ。その女はおまえに嘘を吐いていた。死んだ犬の肉を喰らった。血を吸った。その罪を架空の存在に押し付けようとした。血の渇望を抑えるために、虎丸と密会してその血を吸った。

「人間じゃなくって、ごめんなさい」

 ああ、そうだ。その女は人間じゃない。人間のふりをしていただけだ。見ろ、その指を。その爪を。その爪先を……、瞳を。もはや人間のそれではない。人間のふりをしていた、小さな生き物がそこにいるだけだ。

「好きになって、ごめんなさい」

 ああ、ああ。

 そうだ。この女は、そう。おまえのことが好きなのだ。

 全身から力が抜けていくのを感じる。


 虎丸は、妖精の妻を娶るために、己に欠けているものが何であるかを悟った。

 鷹臣は虎丸を無視し、深礼の身体を抱き上げる。深礼は震えていた。彼は何も言わずに、妻を抱えて家に入っていった。

 二度とは出てこなかった。

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