第11話
冷たい水で米を研ぎながらも、昼間の出来事を思い出すたびに、かぁと顔が赤くなるのが止められない。
「やっぱり、おかしくなっちゃった」
結婚を期に買い替えた冷蔵庫の薄い染みも、その上の瓶詰めのコーヒー豆も、塗装が剥げた換気扇の蓋も、すべてがいつも通りなのに違和感を感じるのは、自身こそが異物だからだ。声に出すほどに、顔の赤みは引いていく。肩が震えだす。嗚咽を堪えきれなくなる。
血だ。
いよいよ身体が人間離れしてきたのか、爪や指が変形するにつれて、血の渇望が生じてきた。
いや、いいや、血肉への渇望は前々からあった。ただ、それが抑えきれなくなってきただけだ。以前ならば、血でなくとも、体液なら何でも良かったものだが、その抑えも効かなくなってきた。
最近では血の代用品も飲む機会がなく、また一般の食事では、如何に血の滴るような生に近い肉であっても、喉を潤すことができない。自分の血を自分で飲めば、とマッチを擦ってからポンプで水を汲み上げるがごとき発想に達したこともあって、実際に試してみたが、これも駄目だった。血など、飲めたものではない。他人のものならどうなのかといえば、医療用の輸血用血液を前にしたところで、これを口に含むなど、考えるだけで身の毛がよだった。そもそも赤い血を目の当たりにするだけで、駄目だ。学生時代に、保健の授業でビデオを見たおり、赤い色水を血に見立てた映像があったが、それを見ただけで貧血になってしまったことさえあるのだ。
それでも試してみなければ、どうにかしてこの血の渇望を押さえ込まなくては、すぐにでも鷹臣の喉笛に飛びついてしまいそうだった。
試しにと炭酸水と葡萄ジュースで割ってみた。血の割合が薄ければ、問題なく飲める。というか、血が入っていることさえ判らない。だがそんな薄い血では喉は潤わない。血の割合を強めれば、それだけで吐き出しそうになるくらい生臭く、舌を這われるような味がする。それでも我慢して飲み込めば、どうだ。何も変わらない。
結局、駄目だ。自分の血液では、駄目だ。あるいは男の血液ではないから駄目なのかもしれない。
だから、虎丸の指先から流れる血をちゅうちゅうと吸えば、それで収まった。いまもいちおうは、落ち着いている。身体の落ち着きの代わりに失ったのは、心の平穏だった。
「虎くんに、知られちゃった………」
いや、いや、考えようによってはありがたいことだ。なにせ、彼は数少ない、というか、深礼にとっては唯一の男友だちだ。これが通りすがりの見知らぬ男性だったら危なかった。
虎丸は、当たり前だが、深礼の爪や脚を見て、驚いていた。それでも深く追求せずに、大人しく血を飲ませてくれたのだから、優しい。深礼の身体と心の状態に関しても、秘密にしてくれると約束してくれた。おまけに、血が飲みたいならいつでも呼べとも言ってくれた。
良かった、ああ良かった、と深礼は息を吐く。
「鷹臣さんには言えないもの………」
ああ、ああ、言えるものか。
彼は深礼を大事にはしてくれる。妻だからだ。愛しているからだ。愛している妻だと思えばこそなのだ。血を飲ませてほしいなどと言えば、偽りが剥がれてしまう。
鷹臣は自分を愛してくれているわけではない。
妻を、己の妻を愛しているのだ。いま、ここにいる深礼ではない。
(そういえば、わたしも思っていたなあ)
ぼんやりと思い出したのは、夫からの暴力を受け始めたときのことであった。鉄の針金でベッドに縛り付けられたとき、夫は変わってしまったと、全く別の存在になってしまったと、そんなふうに感じたものだ。あのとき自分は、それでも夫を愛そう、などと思っただろうか。いや、ただ、ただ怖かった。それでも愛しい人だからと添い遂げる気があったのは、平素は変わらぬ優しい人だったからだ。昼間は以前と同じ鷹臣だったからだ。
深礼は、違う。朝も夜も、上から下まで、べつの生き物だ。
そのべつの生き物が、飯の用意をして夫を待つ。靴下の形がおかしくなっていないか確かめ、米を研ぐためにいったん落とした爪のマニキュアを塗りなおす。自分を偽るさもしい作業ではあるが、旦那を綺麗な姿で迎えるためにお化粧をしているのだと思えば、不思議と楽しい気持ちになってくる。まるで明治期の良い奥さんのようではないか。なんとなく気分も乗って、玄関の前廊下まで行って、正座をしてみたりする。三つ指ついて出迎えれば完璧だな、などと思っていたところで玄関が開いて鷹臣が帰ってきた。
正直なところを言えば、鷹臣が帰ってきてくれるかどうか不安だったのだ。鷹臣の昨日の様子は、深礼が離婚に承諾しなければ、己から警察に駆け込んで逮捕してもらおうとするほどだった。だから、深礼は嬉しかった。
「あっ………」
驚いてバランスを崩しかけ、正座の脚の痺れのために足に力を入れることもできず、そのまま土間に落ちそうになった深礼を、鷹臣が支えてくれた。
ありがとうございます、と言うのが精一杯だった。恥ずかしくて。
鷹臣は軽々と深礼の身体を持ち上げて、立たせた。「ただいま」と言った。深礼は思わず笑顔になるのを隠せなかった。鷹臣がいつもどおりに見えたからだ。もうやめようと、別れようと、そんなふうに泣いていた鷹臣とはまるきり別物に見えたからだ。きっと考え直してくれたのだと、そう信じることができたからだ。
夕餉を盛り付けていたときに、「ちょっと来てくれ」と言われて居間に戻ってみれば、卓の上に乗っていたのは緑色の枠線が引かれた離婚届であった。
「書いてくれ」
既に記入は済ませてあった。深礼の欄を除いて。捺印も。
「厭です」
殆ど呼吸ができないくらいの息苦しさを感じながらも、深礼は言葉を返した。厭です、厭です、ぜったいに、厭です、と。
「昨日も言ったけど、なんでも、きみの言うとおりにする。なんでも」
「何処にも行かないでください」
深礼の声に、鷹臣は溜め息を吐いて応じた。彼らしからぬ、わざとらしい仕草だった。立ち上がり台所へ向かうと、煮立っていた味噌汁の火を止めた。
「なぁ、本当のことを言えば、きみのためじゃあないんだ」と鷹臣は台所から、姿を見せずに言った。「殺せ殺せと五月蝿いんだ。もう我慢できない。本当に、もう、きみとは一緒に居たくない」
それなら、それならその通りにすれば良いではないか。殺せば良いではないか。なのに、そうしないではないか。
鷹臣の言葉は嘘偽りだ。深礼を傷つけたくないがために言っているのだ。ああ、ああ。そのことがどんなに嬉しいか。どんなに悔しいか。
自分でなくて良いのだ。
頑張れば、努力すれば、生きていれば、自分が好きな人が振り向いてくれるなんていうのは嘘だ。なぜなら世の中には、自分よりずっと奇麗な人がいる。素敵な人がいる。優しい人がいる。爪も揃っていて、脚には蹄もない人がいる。
誰だって知っている。偽物より、本物のほうが良い。
深礼は、それが鷹臣の助けになるというのなら、自分の胸を刃で刺し貫いても良かった。怖くて痛いだろうが、それも鷹臣のためだと思えば耐えられる気がした。
耐えられないと思ったのは、そのあとのことだ。いまの深礼が死ねば、偽者の彼の妻が死ねば、本物が戻ってくるだろう。何も知らぬ、鋭い爪も馬のような蹄もない、人間の深礼が。
「きっと忘れてしまう」
本物が戻れば、わたしのことなんて。
深礼はただそれだけが悔しかった。
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