第三章、狼の冬

第10話

「痛っ」

 虎丸剣一は思わず声をあげた。


 痛みには比較的強い部類だという自負がある。痛みに強い、というのは、ショック死しない閾値が大きいという意味ではなく、痛いと感じても顔を歪めず、声をあげず、ただただ耐えることができる範囲が広いという意味だ。痛みや怪我を覚えたとて、それを表に出さないほうが格好良いものだという想いがあったから、そうなったのだろう。

 それでも声をあげてしまったのは、その鋭い痛みを伴う行為が急で、唐突なものだったからだ。


「虎くん」

 小泉深礼の小さな口から子どものような丸い歯が覗く。ごめんなさい、と彼女は言った。その桃色の唇を、虎丸の人差し指の小さな傷から生じた赤い血で濡らしながら。彼女の頬にぽっと赤味がさしたのは、羞恥のためか、興奮のためか、はたまた口内から侵入した虎丸の血がその白い肌を染め上げたのか。丸い歯の中、犬歯だけが鋭い。

「痛かった?」

 と囁くような声調で深礼は言う。それもそのはず、場所は小泉家の庭の生垣の影で、敷地内に入ればすぐに見える場所だ。しかもふたりの状態を見れば、深礼が虎丸に跨っているようにしか見えないだろう。

 虎丸が深礼に出くわしたのは、小泉家のすぐ前で、だった。いや、出くわしたというのは正確ではない。虎丸は彼女を待ち伏せていた。どうしても話がしたかった。確かめたかった。家を直接訪ねても居留守を使われては敵わないとばかりに、刑事の御技で待ち伏せていたのだ。幸い、その日は休日当直のあとだったため、平日ながら代休日だった。待ち伏せにはうってつけの日だ。


 獲物たる、買い物に行こうとしているらしい深礼を捕らえたのは昼過ぎのことである。

「暴力を受けているんだろう」

 虎丸は単刀直入に切り出した。

 果たして相対する深礼はといえば、泣きそうな顔で震えるだけ。初めて出会ったときと同じだ。弱さを自覚している彼女は黙って耐えることしか危機を乗り越える方法を知らない。

「見せてみろ」

 虎丸が一歩近づけば、深礼は兎のように逃げ出した。安全な野薔薇の中へとばかりに、家の中へと戻ろうとした。二歩と進まぬうちに、虎丸は彼女の身体を持ち上げて庭に押し倒した。

 無理矢理服を引ん剥こうとすれば、短い手足を振り回して抵抗するのだ。「やめて、やめて、大声をあげるよ」などと言うのだ。その声が小声なのだから、笑ってしまう。


 これで裸にまで剥くことができれば最高なのだが、いちおうの名目は夫婦間での虐待の痕跡があるかどうかを確かめることである。腕になければ脚、脚になければ腹、背中、腰と続いていけるわけだが、残念ながら傷跡はすぐに見付かった。既に腫れは引き、薄っすらとしか残っていないが、叩かれた痕らしい痣や火傷痕が腕に走っていた。明らかなる証拠を見られては、深礼も両の手で顔を覆うしかなかった。

「もう大丈夫だ。おれに任せろ」

 彼女の夫、鷹臣による暴力の証拠を掴んだ虎丸は、そう言ってやった。深礼はいやいやするように首を振った。

「なぜだ」

 何度も何度も嗚咽を震えながら、言葉にならぬ言葉を解読するところでは、夫のことを嫌っているわけではなく、彼のことは愛していて、警察沙汰にしたくはない、ということだった。

(なんて面倒くさい女だ)

 己が恋焦がれていた女だということは忘れ、そんなことを思わずにはいられない。


「ああ、じゃあ勝手にしろ」

 おまえが夫から暴力を振るわれようが、離縁を突きつけられようが、知ったことか。そんなふうに言えたらどんなにか楽だと思うが、そうした言葉が有効になるのは、その言葉に反応し、ごめんなさいと、わたしが悪かったです、と相手が言ってくれる場合だけだ。いま虎丸が深礼を突き放せば、返って来るのはただただすすり泣く声だけだろう。

 考えあぐねていると、ふと指先の痛みに気付いた。草で切ったか、深礼の爪が当たったのか、虎丸の右の手の人差し指の先から血が流れていた。


 虎丸が傷に気付いた瞬間のことである。組み伏せていたはずの虎丸が倒されて、逆に深礼が覆いかぶさり、指に吸い付いていたというわけだ。

「ごめんなさい」

 申し訳なさそうな深礼を見ながら、ふと気付く。彼女の薄手の手袋の先は破れていて、そこから黒い爪が覗いていた。いや、爪だけではない。指の先が鋭く変形していた。暴れたときに靴が片方脱げていたが、靴下越しの足先もなんだか四角かった。靴下を脱がせてみれば、出てきたのは鹿のような蹄だった。

 虐待の傷跡どころではない、深礼の身体に起きた身体の異常について問い質す気も起きなかったが、深礼自身が嗚咽を堪えながら説明してくれた。いつの間にかこうなっていたこと。夫曰く、深礼は人間ではないこと。まだ夫にこの身体の異常は気付かれていないこと。気付かれたくないこと。そして、血が欲しいのだということ。


「だからおれの血を見て、目の色を変えたのか」

 あっさりと、虎丸は目の前の事実を受け入れた。否、事実を受け入れたというのは少し違う。とりあえず深礼の言うことを納得してやったふりをしてやった、だ。

 確かにいまの彼女の手は、足は、人間離れしている。

 だが人体は神秘の宝庫だろう。爪が鋭く黒くなる病くらいあるだろう。皮膚が蹄のように硬くなってしまう病もあるだろう。血が吸いたくなる衝動というのもあるかもしれない。だから、これくらいのことで、人間じゃない、妖精だ、はないだろうと苦笑のひとつもしたくなる。吸血鬼のほうが近いだろうに。しかし美礼の容姿を鑑みれば、妖精のほうが適当か。


「レバーもちゃんと食べてるし、ほうれん草とか、トマトとか、苺は時期じゃないけど、でも血を作るものは食べてるのに」

 でも、血が欲しいんだもん。彼女はそう言う。男の血が欲しい。彼女は言う。

 血が止まってしまった指とは別の指を傷つけて血を流してみせると、深礼はすぐさま目の色を変えて中腰になった。

「ほら」

 と言って指を差し出してやると、深礼は大人しく指を吸った。あまりにも簡単に虎丸に従った。これなら、口から血を流せば吸い付いてくるぐらいのことは簡単にするだろう。

(そういえば、死んだ犬も雄だったな)

 改めて血を吸わせてやりながら、虎丸はそんなことを思った。

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