第9話
寝息を立てて寝ている夫は不思議なほどに小さく見えた。寄りかかるようにして寝ている彼を寝台の上に乗せようとしたが、体格差がありすぎて持ち上がらない。長雨が続いているとはいえ、夏に近づきつつ漂う暖かさがある。毛布一枚被せて、自分も隣に潜り込む。
隣で瞳を閉じつつも、小泉深礼は眠れなかった。夫の言葉を、行動を、これから先の未来を何度も何度も頭に廻らせてしまう。悩み、考え、己の肩を抱き、それでも明日はやってくる。窓から朝陽が射し込んできいていた。
夫を起こさぬように、そっと毛布から這い出し、深礼は厚手のカーテンを閉めて陽を遮る。まだ起きるには早いし、でなくても今日は土曜日だ。何より、鷹臣は疲れている。
装いを整えて、朝餉の支度をする。一息ついたところで鷹臣の様子を見に行くが、まだ眠っていた。深礼は自分のために茶を淹れて、居間に腰を下ろした。
「金も、家も、土地も譲る」
だから離婚しよう。それが昨夜の鷹臣の訴えだった。
彼の言葉は、深礼に愛想が尽きたがゆえに出たというわけではなかった。彼は、自分はおかしくなってしまった、と言っていた。自分には妖精が見えて、それが深礼が妖精と入れ替わっていると言っているのだ、と。本物の深礼を取り戻すためには、いまの深礼を殺さなくてはいけないと言っているのだ、と。殺せ、と。殺せ、と。殺せ、と。
最近の鷹臣は、確かに異常だった。だが夜な夜な繰り広げられる虐待行為も、彼にしか見えないその幻想がゆえと思えば、合点がいく。
「だから、だから」
もう別れよう。財産も、慰謝料も、今後のことも、何もかもきみの思うようにして良い。
そう言われれば言われるほどに、深礼の瞳には涙が溢れた。鷹臣が深礼を愛してくれていることが解ったからだ。深礼にこれ以上危害を加えたくないがための行動だったからだ。深礼のためならば、全てを捨てる覚悟が見えたからだ。
「そんなこと、言わないでください」
わたしは大丈夫です。ええ、大丈夫です。そう言って鷹臣を宥めたのは、もちろん情愛もあった。鷹臣はやはり優しかった。優しくて、だから好きになった。
だが鷹臣の申し出を跳ね除けた最も大きな理由は、申し訳なさだった。
(なんで?)
深礼は室内でさえ着けていた薄手の白い手袋を外した。現れた手は、九割九分は何の変哲もない、桃色がかった小さい手だ。短くて太い指だ。だがその先にある爪は、赤黒く、血が固まったような色で、しかも先が鋭く尖っている。
(どうして?)
靴下を脱げば、その爪先は黒々とした毛で覆われ、まるで馬の蹄のように皮膚は醜く、硬くなっていた。足幅こそ変わらないから、靴や靴下を履くのに不如意はないが、指に力が入れにくいのでときどきバランスを崩すこともある。
この手だ。この足だ。
まるで悪魔だ。いや、鷹臣にいわせれば妖精か。
結局、鷹臣の言うことが正しいのだ。深礼は、深礼は、人間ではなかった。ああ、そうだ。いつの間にか、こんな爪に、こんな指に変わってしまった。
身体だけではなく、心も。
犬が死んだとき、ああ、それは確かに深礼のせいではなかった。家に帰ると、死んだ犬がいた。それは本当だ。夫に知られたくないと思ったのも、誰かのせいにできたらどんなにか楽だろうと思ったことも、すべて本当だ。だが語らなかった事実もある。
自分は飼い犬の腹が何処に行ってしまったのか、覚えていなかった。なぜあんなに残虐に犬の死体を破壊したのかも、己のこと解らなかった。だが、この指を、この爪を見て思い出した。肉を食って、血を啜ったのだ。血が、温かい血が欲しかった。
「人間じゃないんだ」
ぽろぽろと涙が毀れ、膝の上のエプロン生地に染みを作った。いつこんな身体に変わってしまったのか、いつこんな心が宿ってしまったのか、何もかもが判らなかった。ただ言えるのは、鷹臣を唆す妖精というのが、まさしく真実を言い当てているということだけだ。深礼には、己が偽者であるということが理解できた。人間ではないということが理解できた。だから悲しかった。人間が良かった。化け物じゃなければ良かった。そんな、そんな人間ではない、偽者の深礼のために鷹臣がすべてを投げ出そうとしているというのは、だから申し訳なかった。
深礼は泣きながら爪を切った。薄桃色のマニキュアを塗った。蹄の毛を剃った。
「人間じゃないんだ………」
それでもなお、深礼は鷹臣と一緒にいたかった。自分が偽者だと知っても。好きだから。
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