第8話
「良い感じだね。順調に弱ってきてる。もう少しだよ。ほんとはもう一気にやっちゃっても良いんだけど」
きゃっきゃと矯正をあげて、妖精が嬉しそうに言う。これが場所が花畑で、花輪でも作っている最中であれば、幻想的にも見えるだろう。だが場所は自宅の便所で、鷹臣は便器に向かって喘いでいるところだった。
人を傷つけるのは苦手だ。喧嘩などは、肉体的なものであれ、口喧嘩のような肉体の痛みを伴わぬものであれ、ほとんど経験がない。情けないといわれて然るべきだろう。そうだ、情けない男だ。女の腐ったような男だ。
それがいま、無抵抗な妻に鞭を振るっている。それを自覚すると、胸がむかついてくる。唾液が口内に溢れ、腹の底が突き上げられるように痛む。そして嘔吐する。
妻を打ち据えたあとは、いつもこうだ。
だが妖精は、さらに恐ろしい行為を鷹臣に要求するのだ。
「殺すんだ」
殺せ、殺すのだ、と妖精は言う。その可愛らしい顔で。
だがそんなことができるはずがない。人を殺すなどということは、できない。ましてや相手は妻だ。愛した女だ。
「おれにはできない」
「前にも言ったでしょ。あれは、あんたの奥さんの大きい人じゃないんだよ。小さい人が入れ替わってるだけ。ほんとのあんたの奥さんは、ほかの小さい人に連れ去られた。それを取り返すためには、まずあんたの奥さんに成り代わっている小さい人を殺さないといけない」
そうなのだ。妖精は、まるで鷹臣の逃げ道を塞ぐかのように、こう言うのだ。あいつは、おまえの愛した深礼ではないのだ、と、そうやって誘惑するのだ。
医者が真剣に治療の努力をしてくれているのは伝わってきていたが、効果を為すことはなかった。この声から逃れることはできない。どんなに足掻いてもの。自分自身のことだけ、鷹臣にはそれがわかった。
「あんたの犬を殺したのも、この女だってことは知ってるでしょ? 殺して、腹を捌いて、食ったんだ。血を吸って生きる化け物だ。おまえの妻に成り代わっているんだ。だから殺すべきなんだ」
もしこの妖精が言っていることが正しいのならば、そう、確かに鷹臣が深礼を殺す理由はある。本物の深礼が妖精たちに連れ去られ、代わりにと置いていかれたのが目の前の存在ならば、ああ、確かに目の前のそれを殺し、本物を取り返さなければならない。
ああ、だが。
「そんなことがありえるものか」
そう声高に叫ぼうとする常識だけが、鷹臣に残された最後の命綱だった。ああ、ああ、ありえるはずがない。何が小さい人だ。妖精だ。血を吸う化け物なら、むしろ吸血鬼だろうに。なんにしても、ありえない。
だが、だが、鷹臣には、どんなにか妖精の言葉が真実に聞こえた。深礼は、彼が知っていた女とは全く異なっているように感じられたのだ。だから鷹臣には、彼女を殺さなければ本物の深礼が帰ってこないというそのことが、まるきり真実に聞こえるのだ。
(簡単なことだ)
真夜中である。すやすやと寝息を立てる深礼に、鷹臣は近づいた。今日は珍しく虐待行為がなかったから、その表情も穏やかだ。
「そうだ、殺しちゃえ」
と声がする。妖精だ。この妖精は、なぜ己の手助けをしようとするのだろう、と鷹臣は疑問に感じる。いまさら思いついたというわけではなく、常々疑問に思っていたことだ。彼は、自身ら妖精を「小さい人」と呼んでいた。深礼に成り代わったのも、その「小さい人」の一種なのだと。同族だろう。血族だろう。ならばそれを裏切って、鷹臣に力を貸すはずがないではないか。この妖精こそが、鷹臣を騙しているのだ。
そんな考えは、いつでも思いついた。魅力的な考えだった。ただ、ただこの胡散臭い妖精だけを無視すれば良いのだから。
だが己の感覚は裏切れない。幾ら妖精を無視したところで、深礼と相対すれば、その不自然さに気付くのだ。これは深礼ではないと。
スリップから伸びる細い首に手をかけても、深礼は小さく唸っただけで目を覚まさなかった。この細い首を折るのは、どんなに簡単なことか。
鷹臣を最後に引き留めたのは、深礼への愛情などではなかった。むしろ愛情があればこそ、目の前の偽者を殺し、本物を取り返さねばならないのだ。ならば、愛などでその手を染めることを防ぐことはできはしない。
目に映ったのは、深礼の姿をした生き物の、可愛らしい寝顔だった。悲しい夢でも見ているのか、頬に一筋の涙を流す愛らしい姿だった。
「鷹臣さん………?」
その生き物が愛らしい瞳を開いてこちらを見ていた。
ごめん、ごめん。きょとんとしている深礼を前に、鷹臣はただただ謝罪をした。
「おれはもう駄目なんだ」
鷹臣は全てを語った。己に妖精が見えること。その妖精が、深礼が人間ではないと言うこと。本物の深礼を取り戻すために、いまの深礼を殺せと言うこと。その言葉を聞いて、いままで深礼を打ち据えてきたこと。
最初からこうすれば良かった。こうすれば傷つけなかった。
もし目の前の存在が深礼ではないとしても、それでも愛らしい、か弱い女には違いなかった。手をかけることなどできるはずがなかったのだ。
「もうできない」
だからもうやめる。こんな暴力的な行為を。
だからもうやめる。妖精の言うことを聞くことを。
だから、もうやめよう。この結婚を。このままでは、目の前の存在が、妻なのかよくわからない、得体の知れない、しかしただただ鷹臣を心配し、労わってくれる存在が不幸になるだけだから。
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